7.刺繍をあなたに
「話し合いの最中にすまないが、刺繍を頼みたい。付与師がここにいると聞いたのだが」
そこにいたのは、昼間会った青年だった。
第三者の登場に、急激に場の空気が冷やされる。それと同時に、レイリの頭も冷静になった。
(よかった)
これ以上頭に血が上ったら、もっとひどい事を言ってしまいそうだった。
彼の美貌に、ララがぽかんと見とれている。
周囲を見回した青年は、レイリに気づいて目を留めた。
「君は付与師だったな。頼めるか」
「え? ええ……」
「小さなものでいい。【火】と【獣寄せ】を、これに」
差し出されたのは手袋だった。それを受け取り、「……獣寄せ?」と聞く。
「獣除けを反転して使おうと思ったが、今ひとつだった。もうひとつ別の刺繍が要る」
「ああ……」
よく分からないが、依頼の意図は理解した。
用途は不明だが、【火】も【獣寄せ】も知っている。互いに効果を打ち消し合うので、別々に刺すのが基本だ。彼もそれを分かっているのか、左右両方の手袋をそろえてある。
でも、とレイリは首をかしげた。
「それくらいでよかったら、片方でやれますけど」
「……。何?」
「右と左、どっちにします? あと、他の付与はつけますか?」
目を見張った青年が、すぐにてきぱきと回答する。
「では右に。可能なら、獣寄せは大きめにして、できるだけ強い付与が欲しい。左も獣寄せを。あとは水と風と土、どれでもいいから――」
「全部できます。左は四種で構いませんか?」
その答えに、彼はふたたび目を見張った。
「可能なら。……できるのか?」
「できます」
そう言うと、レイリは刺繍道具に手を伸ばした。
手近な椅子を引き、慣れた姿勢で座る。近くにいた騎士達が、思わずといったように体を引いた。
(付与は右二つ、左に四つ)
【獣寄せ】は、猟師が使う刺繍のひとつだ。効果はそれほど高くなく、多少獲物が集まる程度だ。だがこの青年は、魔獣討伐に来たのだという。だとすれば、使用目的はひとつ。
――魔獣をおびき寄せるため。
それならば、生半可なものを仕上げるわけにはいかない。
針を手に取り、レイリは一度深呼吸した。
さあ――刺繍の時間だ。
その瞬間、空気が変わった。
周囲の雑音が遠ざかる。ララの涙も、彼らの罵声も、もはや気にならなくなっていた。
(いつもより集中して、できるだけ強い付与を)
まずは【火】。目をつぶっていても刺せる模様だ。できるだけ素早く、けれど丁寧に。
それに【獣寄せ】を重ねる。獣は火を怖がるが、熱はなくてはならないものだ。だから、炎の熱さを糸で囲う。それだけで付与しやすくなる。
強く強く、できるだけ強く。火を絶やさず、獣を近くに引き寄せるように。
続いて左。こちらにも【獣寄せ】だ。
右の付与に合わせて、効果を増幅させる付与を施す。複雑なのはほんのわずか、だが、一刺しでも間違えると失敗する。
【水】と【風】は簡単だ。四大属性の中でも、そう相性は悪くない。ただそれが、三種以上になると難易度が跳ね上がる。理屈は分からないが、昔からそうだ。
互いに否定してはならない。魔力の巡りに気をつけて、獣寄せを邪魔せずに。
そうできる「隙間」が必ずある。細い細い針の穴に糸を通すような、ほんのわずかな流れ。それをつかむ。一刺しも違えずに。
一針ごとに、魔力の光が増していく。
いつの間にか、室内は静まり返っていた。
誰もがレイリの手から目を離さない。いや、離せなくなっているのだ。
それは息を呑むほど美しい光景だった。
細い指先がなめらかに動き、迷いなく針を刺していく。
驚くほど大胆に、そして繊細に。
レイリの手が動くたび、新たな模様が紡ぎ出される。魔力に染まった糸が、複雑な模様を描き出していく。それはまるで目の前で花が咲くようだった。
――あなたのために、この刺繍を。
レイリの体を薄く覆う魔力が、柔らかな波紋を広げていく。
ごくたまに、刺繍を施す時に起こるものだ。
魔力のかけらがこぼれ、込めた思いが周囲に伝わる。
祈り、願う。その無事を、安全を、幸福を。
ずっと続けてきたそれが、今、彼らの元に届いている。
彼らの目が見開き、食い入るようにレイリを見つめる。だがレイリは気づかなかった。
「――できた」
やがて、どれだけ時間が経ったのか。
最後の糸を切ると、レイリはそれを青年に渡した。




