思った以上にとんでもなかった(前編)
レイリは完全に硬直していた。
(……な)
声にならない言葉が込み上げ、ごくりとそれを飲み下す。
(な……な……な)
目の前には光る眼と、夥しい獣の気配。
それは唸り声とともに、じわりと円を狭めてくる。
フッフッと吐く息が燃えるように熱い。
狼によく似た、けれどはるかに恐ろしい獣。
(なにこれええええぇぇぇ――――っ!?)
レイリは魔獣の群れに取り囲まれていた。
***
話は少し前に遡る。
騎士団をクビになったレイリは、騎士の青年に連れられて、魔獣の出る森を目指していた。
道すがら簡単に自己紹介したところ、彼の名前はルーク。今は二十一歳で、王家直属の第六騎士団に所属しているという事だった。
今回の討伐は、団長直々の命令だそうだ。
「ひとりで?」と聞いたレイリに、彼は事もなげに頷いた。
「思ったよりも数が多そうだったので。安全のため、早い方がいいだろうと」
完全な駆除ではなく、数を減らす事が目的だそうだ。
討伐目標はおよそ五十。ある程度駆除できれば、地元の人間でも対処できるだろうとの事だ。まとまった数が減らせれば、確かにかなり楽になる。
それにしても、たったひとりで魔獣の討伐を任されるくらいだ。それなりに腕は立つのだろう。見かけは普通の青年だが、思ったよりもすごいのかもしれない。
だがそれを言うと、彼は軽く首を振った。
「そうでもない。団長も副団長も、私よりもはるかに強い。私は上から数えて百九十三番目くらいだそうだ」
「そ、そうなんですか」
「ちなみに、第六騎士団には二百人前後が所属している」
「…………」
大丈夫かな? とレイリは思った。
(どうしよう、急に不安になってきた……)
レイリの表情を察したらしく、ルークは「心配ない」と真顔で言った。
「私は若輩者だが、君のことは守る。安心していい」
「は、はい」
「ところで、先に確認しておきたいのだが――遠くからと近くから、どちらがいい?」
「…………は?」
「遠くからと近くから、どちらがいい?」
同じ単語を繰り返されて、レイリは首をかしげた。
「それは……どういう意味ですか?」
「遠くから安全に見学した方がいいか、それとも近くで子細に見るか。当然だが、後者の方がやや怖い」
慣れていなければなおさらだ、と付け加える。
レイリは少し考えた。
前者は安全だろうが、どれくらい離れているかによる。後者の方が役立ちそうだが、レイリは足手まといになる可能性が高い。先ほどの発言を聞けばなおさらだ。
(でも、せっかくだから)
「こ――」
後者で、と言いかけた声が止まる。
「ちなみに、後者は私が抱きかかえ、密着したまま討伐する」
「前者でお願いします」
レイリは即答した。
***
レイリに用意されたのは、大きな岩の上だった。
大きさは人間の背丈よりも少し高く、ごつごつした岩肌がむき出しになっている。ここにいれば、確かに襲われにくそうだ。
そこにレイリを立たせ、彼は小袋を取り出した。
「【遮断】の刺繍だ。ここにいる限り、君は限りなく影が薄く、見えにくくなる。特に魔獣に効果があるが、声を出すと解ける。気をつけるように」
「な、なるほど……」
こちらも本物を見るのは初めてだ。思わずまじまじと見入ってしまう。
渡されたのはお守りサイズの皮袋だった。その表面に刺繍があり、中に硬いものが入っている。「これは?」と聞くと、彼はああと頷いた。
「中にあるのは魔石だ。付与の効果を高めるもので、王都ではよく使われる。こちらでは珍しいか」
「そうですね」
中を開けてもいいかと尋ねたレイリに、ルークは小さく頷いた。
小袋を開けると、オレンジ色の小石が入っていた。
丸みを帯びた、半透明の石だ。宝石とは違う輝きで、とろりとした色合いが美しい。大きさは親指の先ほどだろうか。中に小さな炎を宿し、淡い光に揺らめいていた。
魔石は魔力を保有しており、付与の効果を高めるらしい。この刺繍自体、今のレイリでは刺せないほどの精密さだ。こんなものをぽんと渡してくるあたり、さすが王都の騎士だと感心する。
「ここで声を出さず、静かにしていれば問題ない。討伐が終わったら下ろしに来る」
「今さらですが、私、ご迷惑では?」
「それはない」
そう言った後で、少し考える。
「ひとりの方が動きやすいのは確かだが、君が望むなら構わない。そちらの方が、よほど有益だ」
「有益? なぜ?」
「有能な付与師は、騎士団ならどこでも喉から手が出るほど欲している」
そのための機会があるなら、積極的に協力すべきだと言われているらしい。
確かに、村でも付与できる人間は少なかったし、ララもそれほど得意ではなかった。
人の多い町に行けば、それなりに刺繍のできる人間はいるだろう。ただし、付与できるかは話が別だ。
「君の付与は素晴らしかった。ゆえに、願いを叶えることは問題ない」
「そ、そうですか……」
混じりけのない賛辞に、レイリは照れた。
「ところで、魔獣のおびき寄せ方だが。今までに【獣寄せ】を使ったことは?」
「ありません」
「では、それ以外は?」
「お守りとしては何度か。騎士団で使うようなものは全然……。四大属性くらいでしょうか」
普段の生活で【攻撃力】は必要ないし、【炎耐性】や【毒耐性】も、主に魔獣と戦う事を想定したものだ。普通の村人であるレイリには必要なかった。
「十分だ」
ひとつ頷き、ルークは右手を持ち上げた。
そちらには【獣寄せ】と【火】の刺繍が施されている。
「まずは【火】を使い、熱を生み出す。動物と違い、火のある所に人間はいる。魔獣はそれを知っている」
そう言うと、彼は刺繍に自らの魔力を注いだ。
【火】の模様に光が走り、次いで、ぼうっと輝く。
辺りに火の気配が立ち込める。
「普通の獣ならば逆効果だが、魔獣には効かない。それどころか、奴らはそれをめがけてやってくる」
本物の火ではなく、魔力を使った火だ。だからこそ、魔獣はより惹かれるという。
「通常ならここで【獣寄せ】を行うが、他に四大属性があるならそれも使う。今回は君の付与があるため、全種類で行える」
そう言うと、次々に【水】・【風】・【土】の気配を生み出す。辺りに自然の香りが満ちて、魔力濃度がぐっと増す。あまりの強さに、頭の芯がくらくらした。
「四大属性の魔力を魔獣は好む。なければ【火】だけでも構わないが、種類が多ければ多いほど、魔獣を引き寄せる力が強まる」
あるに越したことはない、と付け加える。
「なるほど……」
「この状態で、【獣寄せ】を行う」
そう言うと、ルークは岩から飛び降りた。
「危ないので、残りは離れて行う。終わるまで声は出さないように」
「は、はい」
彼が飛び降りた時、刺繍の光も一緒に流れた。すうっと尾を引く、ほのかなきらめき。まるで流れ星のようだと思い、レイリは束の間見とれてしまった。
(……って、そんな場合じゃない)
慌ててレイリは気を引きしめた。
今から始まるのは魔獣の討伐なのだ。物見遊山ではないのだから、ぼうっとしている余裕はない。
下を見ると、彼はすでに準備を始めていた。
岩から数歩の距離を取ったルークは、位置を確かめるように周囲を見た。
剣を抜き、慣れた動作で一振りする。
先ほど確認した通り、討伐目標はおよそ五十。今夜すべて現れるとは限らないけれど、彼は自信がありそうだった。
本当だろうか。レイリの刺繍に、それほどの力があるとは思えないけれど――……。
その時、ルークが右手を掲げた。
「わ……」
――うわぁ。
(すごい)
それが最初の感想だった。
片方は【火】と【獣寄せ】。
もう片方は【獣寄せ】に加え、【水】と【風】と【土】。
剣を持った右手は空に、左手は胸の上に。
まるで儀式のように、その手から光がこぼれ落ちる。
それは美しい光景だった。
太陽の光とも、月の光とも違う。魔力による四種の光と、それとは違う萌黄色の光。あれは獣寄せだろうか。それが薄く広がっていき、森全体を覆っていく。
北方の国で見られるという女神のカーテン。その輝きにも似た魔力が、森の先まで覆い尽くす。
それは先ほどレイリが起こした現象にも似ていたが、もっと別のものだった。
言葉もなく見とれていたレイリだが、彼が無言で振り向いたのを見てきょとんとする。
「まずいな」
「え?」
「思った以上によく効いた」
その言葉の意味が分かったのはすぐだった。
「ウウー……」
低い唸り声とともに、草を踏む音がした。
ぎょっとして身を固くすると、ルークが身振りで「静かに」と示す。慌ててレイリは頷いた。
(何……)
いつの間にか、眼下に影が現れていた。
その数、およそ百。
思わず息を呑み、レイリは魔石の入った袋を握りしめた。
それは狼によく似ていた。
夜の森よりもさらに濃く、どろりと濁ったような色。爪の先まで黒ずんで、獲物を引き裂いて喰らおうとする。
その、鋭い牙。ピリピリと感じる魔力の気配。
姿は狼に似ているが、明らかに違う。
――魔獣。
それがルークを取り囲むように、ぐるりと周囲を取り巻いていた。
お読みいただきありがとうございます。
本編あとがき「多少」の伏線を回収しにまいりました。