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メレル

作者: 苗奈えな

 古道具屋の奥には、誰も足を踏み入れない薄暗い倉庫があった。

 しんとした空気の中に、湿った木の匂いが漂っている。棚や床の上にはうっすらと埃が積もり、そこかしこに古びた家具や欠けた食器、壊れた時計が静かに並んでいる。壁際には、何に使うのかわからない機械の残骸が錆びついたまま置かれ、かすかに風が吹くたび、ガラスの破片がわずかに揺れてカランと鳴った。

 レンは、その場所が好きだった。

 村の学校で過ごす時間よりも、クラスの子たちと一緒にいるよりも、この誰にも邪魔されない静けさの中にいる方が、ずっと心が落ち着いた。古道具の山に囲まれながら、誰にも話しかけられずにいられるこの倉庫は、レンにとって安全な避難所だったのだ。ここだけは、何も言わなくても責められない場所だった。

 祖父が営むこの古道具屋には、客もほとんど来ない。一応店番している祖父も昼間から居間で新聞を読んでいるか、時々咳をしてうたたねをしているだけだった。

 両親はいない。いつからか、思い出そうとしても、顔がはっきり浮かばなくなっていた。記憶の中の声も、色も、霧の中に溶けてしまったようだった。

 その日、レンはふと、ガタンという乾いた音に気づいて目を上げた。

 棚の奥。そこには、人形が箱の中にしまわれていたはずだ。

 それが今、かすかに揺れたように見えた。

 レンは戸惑いながらも手を伸ばし、そっとその箱を手に取った。

「……なんだろう?」

 つぶやきながら、レンは指先に力を込めて、ぎしりと木のふたを開けた。

 箱の中には、丁寧に布にくるまれた古い女の子の人形がひとつ、静かに収まっていた。

 金色のくるくるとした髪がふわりと広がり、淡い桃色のドレスには細かなレースの装飾が施されている。胸元には、今にもほどけそうなリボンがひとつ結ばれていた。その顔は、まるで微笑んでいるようで、けれど瞳は閉じられ、深い眠りについているかのようだった。

 レンはそっと手に取り、顔の埃を優しく払う。

 そのときだった。

『ありがとう。こんにちは。君の名前、なんていうの?』

 空気を震わせるような、微かな声が、耳元で聞こえた。

 レンはびくりと肩を跳ねさせ、あたりを見渡すが、誰もいない。

「……え?」

『こっちだよ。こっち』

 その声は、ありえないはずの場所から響いているように思えた。

 レンは、手の中の人形を見つめる。

 声は、まさにその人形から聞こえていたのだ。

 レンはもう一度、恐る恐るまわりを見渡した。誰もいない。もちろん、祖父の姿もなかった。

「……き、君が喋ったの?」

 自分の口から出たその言葉に、間髪入れず返事が返ってきた。

『うん。わたしだよ』

 レンは人形の顔をじっと見つめた。口元は動いていない。それでも、声は確かに耳に届いていた。どこか遠くから聞こえるようでいて、同時に、自分の胸の内側に直接響いてくるような、不思議な声だった。

 けれど、なぜか怖くなかった。むしろ、胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じる。誰かにやさしく触れられたような、心の奥の冷えた部分が、少しずつほぐれていくような感覚を覚えた。

『ねえ、きみ、名前は?』

「……レン。ぼくの名前は、レンだよ」

『レン……レン……いい名前だね』

 どこか弾むような調子で、何度もその名を繰り返す声が聞こえた。それはまるで、久しぶりに好きな歌を口ずさむような、やわらかな喜びに満ちていた。

 学校では、名前を呼ばれることさえ少なかった。呼ばれるとしても、「おい」とか、「あいつ」とか、雑に放られるような呼び方ばかりだった。

 祖父以外から久しぶりに自分の名前を呼ばれ、レンの胸の奥にぽっと小さな火が灯る。

『わたしのことも、名前で呼んでほしいな』

「君にも名前があるの?」

『あるよ。メレル。わたしの名前は、メレル』

「メレル……」

 レンはそっと息を整え、ためらいがちにその名を口にしてみた。

 小さくこぼれたその響きは、音として消えるよりも先に、レンの胸の中に染み込んでいった。その名は、どこか絹のように柔らかく、微かな甘さを含んで、舌の上で静かにほどけるようだった。

『ふふ。名前を呼んでくれてありがとう。うれしいな』

 メレルの声は、春先の風のように優しくて、聞いているだけでまぶたが静かに閉じてしまいそうなほどだった。その声は音としてではなく、レンの心の深い場所へと、音もなく染み込んでいった。

「君はなんで喋れるの?」

『うーん……わからない。気がついたら真っ暗な場所にいて、話せてたんだ』

 レンは、メレルをそっと見つめた。

 指先で埃を払いながら、その小さな体を両手で支える。ドレスには時間の痕が刻まれ、かすかに黄ばみ、レースの端はほつれていた。金色の髪も、ところどころ色が褪せている。

 それでも――笑顔だけは、変わらずそこにあった。まるでレンの心を包むような、あたたかく、やさしい笑みだった。

『レンはなんでここにいるの?』

 メレルの問いかけに、レンは言葉を飲み込んだまま、視線を床に落とす。倉庫の木の床は、長年の湿気で黒ずみ、踏むたびに小さく軋んでいた。

 メレルは続けて尋ねた。

『友達いないの?』

 それは、今まで誰にも聞かれたことのない言葉だった。祖父ですら、決して口にしようとしなかった類いの問いだった。

 胸の奥に、じわりと染み込むような痛みが走る。

 ほんの少し唇を噛んで、目を伏せてから小さくうなずいた。

「……いないよ」

 声はかすれていた。けれど、そのかすかな響きには、胸の奥に押し込めてきた気持ちがあふれ出ていた。涙が滲みそうになるのを、レンは唇をぎゅっと引き結んで耐えていた。

『……どうしたの? さみしいの?』

 メレルの声は、まるで冷えた頬にそっと手を添えるような、ぬくもりを帯びていた。夕暮れどきの風のような優しさが、レンの心に静かに染みこんでいく。

「……うん。さみしいよ。友達が欲しい」

 その瞬間、胸の奥にしまい込んでいた感情が、ふわりと浮かび上がってきた。

 ずっと誰にも言えなかった「さみしい」という気持ち。心の奥深くに押し込めて、鍵をかけていたはずの想いが、メレルの声にやさしく揺さぶられて、そっと顔を出した。

 気づけば、声が震えていた。涙が出そうになるのをこらえながら、レンはメレルをぎゅっと抱きしめる。ひんやりとした肌触りのはずなのに、そのときだけ、ほんの少しじんわりとした温もりを感じた。

『じゃあ……わたしと、友達になろうよ』

 その言葉は、魔法のようだった。心に刺さっていた氷のような孤独が、じわじわと溶けていく。

「……うん。……うん、なる。ぼくと友達になって」

 初めて、「一人じゃない」と思えた夜だった。

 

 次の日の朝、レンは目覚めてもまだ、夢の余韻の中にいた。どこか体がふわふわしていて、けれど気持ちは落ち着いていた。

 メレルは、「また明日来るね」と約束を交わして箱の中にそっと戻し、倉庫に置いておいている。

 いつものようにパジャマから着替えて、祖父とほとんど言葉を交わさずに朝食を取ってから、学校へ向かう道を歩く。

 風は冷たかったが、頬をなでるその感触さえ、今日はやわらかく感じた。

 教室の席に着いたレンは、バッグを静かに下ろし、窓の外に広がる空を見つめた。

 教室の中には、同じ年の子どもたちが十数人。いつものように、お喋りをしたり、ノートを見せ合ったり、元気な笑い声が飛び交っている。

 レンの席のまわりには、相変わらず誰も寄ってこない。机と椅子の周囲に、ぽっかりと空白ができていた。

 だけど、今日はその空白があっても、寂しいという気持ちは沸いてこなかった。

 肩が少し軽くなったような、胸の奥がすうっと透き通るような、不思議な感覚。いつもよりも空が澄んで見え、教室の窓から差し込む光さえ、やわらかく暖かく感じられた。まるで、見えていた世界の色が、ほんの少しだけ変わったような気がした。

「……レンくん」

 ふいに、声をかけられて、レンははっと顔を上げた。

 声をかけてきたのは、前の席の女の子、イエラだった。

 プリントを手に持ったまま、こちらを向いて立っている。

「えっと……これ、昨日のプリント。先生が配るの忘れてたんだけど、レンくんその頃にはもう帰ってたみたいだから」

「……うん。ありがとう」

 笑顔で受け取って、ぺこりと頭を下げる。

 イエラは一瞬だけ目を見開き、それから小さくうなずいて、静かにまた前を向いた。

 たったそれだけの、ほんの短いやりとり。けれど、これまでのレンなら、俯いたまま表情も変えず、黙って受け取っていたはずだ。

 レンの胸の奥に、まるで水面に一粒の雫が落ちたような、小さな波紋が広がっていた。

 放課後。夕暮れの冷たい空気が漂うなか、レンはいつものように倉庫の奥へと足を運ぶ。扉をそっと閉めると、すぐに埃まみれの箱の中から、あのやさしい声が響いてきた。

『おかえり、レン』

「ただいま、メレル。今日ね、クラスメイトにありがとうって言えたんだ。いつもなら、恥ずかしくて言えないのに」

 箱からそっと取り出し、両手で抱き上げる。硬いはずの人形の感触が、少し温かく感じられる。レンはそのまま顔の高さまで持ち上げ、目を合わせるようにして話し始めた。

『すごいすごい。レンが勇気を出したからだよ』

「すごいかな。ただ、ありがとうって当たり前のことを言っただけだよ」

『でも、今までは言えなかったんでしょ? 最初はそれで十分だよ。最初の一歩をレンは踏み出せたんだよ』

 メレルの声は、やさしく包み込むように響いた。レンの心の隅に残っていた緊張が、少しずつほどけていくようだった。

 その夜、レンはメレルを自分の部屋に持ち込んだ。

 これまで誰の気配もなかった部屋。机の上に積んであった本をどかし、窓辺の小さなスペースを丁寧に拭いて、そこに彼女のためのクッションを敷いた。ドレスの裾が汚れないよう、布の切れ端をそっとかぶせる。長い間、ただ眠るためだけの場所だったその空間に、初めて誰かのための居場所が生まれた。

 夜の静けさに包まれた部屋。外では風が優しく木々を揺らし、雲間から星がひとつ、顔を覗かせていた。

 レンは椅子に腰かけ、メレルのそばでその星を見上げながら、ふっと息を吐く。

「……ありがとう、メレル。なんか、世界がちょっとだけ変わった気がする」

 メレルは返事をしなかった。けれど、レンにはわかった。返ってこない言葉の奥に、ちゃんと心があることを。聞いてくれていることも、そこに寄り添ってくれていることも、沈黙の中に確かに感じ取れた。

 部屋の中はしんと静まり返っていて、風が窓をかすかに揺らしていた。外では木々がこすれる音がかすかに聞こえ、どこか遠くの世界の出来事のようだった。

 それでも、そこにあるのは、たしかな温もりだった。

 あたたかく、優しい夜だった。

 

 メレルと出会ってから、レンの様子は目に見えて変わっていった。教室での背筋は少し伸び、歩く足取りもどこか軽い。ときおり遠くを見つめる瞳には、これまでなかった穏やかな光が宿っていた。

 午後の授業。先生の「今日はペアで課題をやってもらいます」という声が教室に響くと、教室の空気が小さく波打った。

 ざわめきとともに、机や椅子が引かれる音があちこちから響く。名前を呼び合う声、笑い声、足音が交錯し、教室全体が少しずつ二人組へと形を変えていく。

 周囲では「一緒にやろう」「こっちこっち」と、椅子を引きずる音や弾んだ声が次々と飛び交う中、いつものレンなら机の上に視線を落とし、ただ余った人から話しかけられるのを待つだけだった。

 けれど、今日は違った。

 ふと前の方を見ると、ミラが一人で席に座っていた。ペアが決まっていないのか、ノートを開いたまま、所在なさげに手を組んでいる。

 ――声を……かけてみようか。

 そんな考えが浮かんだ瞬間、手のひらにじっとりと汗がにじみ、鼓動が耳の奥でどくどくと響き始めた。胸の内側からせき立てられるような高鳴りに、呼吸がわずかに浅くなる。

 そのとき、不意にメレルの姿が頭の中に浮かんだ。柔らかな微笑みと、あの温かい声。

『大丈夫。レンならできるよ』

 まるで耳元で囁かれたように、はっきりと聞こえた気がした。

 勇気を出して立ち上がる。イスがわずかに音を立て、周囲がちらりとレンに視線を向ける。でも、気にしないようにして前へ歩いた。

「……ミラ、ペア、まだだよね?」

 レンの声は少し震えていた。自分でも、その震えが緊張からくるものだとわかっていた。

 ミラは顔を上げ、驚いたように目を見開く。

「うん。まだだよ」

「……一緒にやらない?」

 言葉を口にする間、鼓動の音がやけに大きく響く。机の間を抜ける風が、二人の間にわずかな間をつくった。

「うん。やろう!」

 ミラの表情がやわらぎ、ゆっくりとこくりと頷いた。

 その小さな仕草に、胸の奥を締めつけていた緊張がふわりとほどけ、肩の力が抜けていった。

 ミラの横の席に座り、ふたりでノートを開く。ぎこちないけれど、互いの声に耳を傾けながら、少しずつ言葉を交わしていく。

 ――メレルに話そう。

 そんなことを思いながら、レンはノートにペンを走らせた。

 

 また別の日の放課後。低く傾いた陽が教室の床に長い影を落とし、パラパラと紙の音や椅子を引く音がまだ残っていた。窓の外からは、生徒たちの声が遠くに響く。生徒たちは一人、また一人と帰っていき、掃除係だったレンはいつもより遅く、ゆっくりと帰りの支度をしていた。

 そのとき、廊下の向こうから、バタバタと急ぎ足の音が勢いよく近づいてきた。

「やっべ!」

 勢いよく教室の扉を開けて飛び込んできたのは、キールだった。普段は明るく冗談を飛ばし、クラスの中心で笑い声を響かせているムードメーカーだが、今は額にうっすら汗を浮かべて焦っている様子が伺える。

 息を整える間もなく、自分の机へ駆け寄ると、引き出しの中をがさごそと荒々しく探り始めた。紙や筆箱が次々と押しのけられるが、どうやら目的のものは見つからないらしい。

「マジかよ、ない……どこだっけ……」

 そのとき、レンの視界の端に、一枚の紙がキールの後ろの床に落ちているのが見えた。少し折れて、机の影に隠れていたそれを、レンはよく見る。

 名前の欄には、キールの名前。

 ――言った方が良いよね。

 胸の奥が、少しだけざわついた。

 これまでのレンなら、こういうとき、声をかけるのをためらっていた。関わることで、変に思われるかもしれない。逆に迷惑がられるかもしれない。そんな不安が先に立って、視線をそらし、何も見なかったことにしてきた。

 けれど、胸の内で小さな力が押し上げるように働き、気づけば足が迷いなく前へと動いていた。

「……これ、落ちてたよ」

 レンがプリントを差し出すと、キールは驚いたように振り返り、すぐに顔を明るくした。

「うおっ、マジか! あった! サンキュー、レン!」

 キールは無邪気に笑い、勢いよくプリントを受け取った。

 レンは視線をわずかに逸らしながらも、小さく「うん」とだけ答える。その声には、慣れないやり取りへの照れがありつつも、心はぽかぽかしていた。

 そして、キールは教室を出る直前にふいに振り返り、軽く手を振った。

「また明日な!」

 その笑顔に、レンの胸の奥が、少しだけあたたかくなるのを感じた。

 ――また明日。

 その言葉が、心の中で何度も反響していた。

 

 そんな日がしばらく続いたある朝。深夜に降った雨の名残がまだ路地に残り、石畳や舗装の隙間がしっとりと濡れていた。空には灰色の雲がゆっくりと流れ、ところどころ雲間から射す陽の光が、薄く水をまとった地面にやわらかく反射していた。足元には小さな水たまりが点々と残り、そこに映る空もまた、静かに形を変えている。

 そんな朝に、古道具屋に珍しく客が訪れた。

 扉の上の鈴がからん、と高く鳴る。控えめな音だったが、店内の静けさの中ではやけに響いた。

 レンと祖父が同時に顔を上げると、そこには見慣れない大人の男が立っていた。

 黒いレインコートに、つばの広い帽子。雨上がりの湿った空気をそのまま纏い、肩口からはわずかに水滴が落ちている。その姿からは、異国の港町から吹き込んだ風のような、どこか遠い世界の匂いが漂っていた。

 レンは思わず背筋を伸ばしたが、人見知りの性分が顔を出し、すぐに視線を伏せる。手に持ったメレルと一緒に自分の部屋に退こうとすると、祖父が不意に目を細めた。

「……ここらへんでは見たことない顔じゃな。旅の方ですかな」

「ええ、少し変わった品を探しておりまして」

 旅人は笑みを浮かべたものの、その瞳には一片の感情も宿っていないように見えた。むしろ、冷たい湖面のような静けさが漂っていた。

 彼はゆっくりと首をめぐらせながら、店内の隅々に目を走らせる。その動きは、珍しい物を探す客というより、何か決まった物を探しているかのようだった。

 旅人はしばらく店内を物色していたが、やがて視線が奥へと引き寄せられるように動いた。換気のために半ば開かれた裏手のドアの向こう、薄暗く静まり返った倉庫がのぞいている。その暗がりに、まるで見えない糸を手繰られるかのように、旅人は自然と足を向けていった。

「……奥にも何かありそうですね」

「ああ、あそこはガラクタばかりで。ほとんど手入れもしとらんですよ」

「少し、見せていただけますか?」

 祖父は、躊躇いながらもゆっくりとうなずいた。

 旅人は軽く会釈をして礼を言うと、湿った木の匂いが濃く漂うその暗がりへ、慎重に足を踏み入れた。足音が床板をきしませ、空気がわずかに揺れる。

 そして、薄明かりの中で周囲をじっくりと見渡した。

「……気配が濃い」

 その声は、先ほどまでの丁寧な調子とは違っていた。冷たい響きだった。

 旅人は、倉庫の中をゆっくりと歩きながら、棚に置かれた古道具のひとつひとつに目を走らせていく。

 やがて、その視線が、倉庫の入口でこっそりと旅人の様子をうかがっていたレンの手元――大事そうに抱えられた人形へと、ぴたりと止まった。

 旅人は言葉ひとつ発することなくレンに近づき、人形へ触れようとした。その手が妙に恐ろしく見え、レンは反射的に一歩下がり、胸の奥から突き上げられるような勢いで叫ぶ。

「やめて! メレルに触らないで!」

 その声に、旅人の手が空中でぴたりと止まった。

 倉庫の空気が一瞬にして冷え込み、まるで時間ごと凍りついたかのような静けさが、その場を支配した。

 普段とはまるで違う、真っ直ぐに訴えるようなレンの声に、祖父は目を丸くし、どうしていいかわからず視線をさまよわせることしか出来ない。

「……メ、メレルはぼくの友達なんだ」

「友達?」

「……こ、この子はちゃんと話せるし、優しくていい子なんだ」

 その言葉が倉庫の静寂に溶け込むように響いた。息を呑むような沈黙が場を包む。

 旅人はしばらくレンを見つめていた。その目は冷静でありながら、どこかに憂いを含んでいた。やがて、そっと目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。そして、重く低い声で、まるで言い聞かせるように静かに口を開く。

「君には声まで聞こえるんだね。……そうか。ならもう、かなり進んでいる」

「進んでる? なにが?」

 その言葉の意味が理解できず、レンは戸惑いを押し隠すように、メレルをぎゅっと胸元に抱きしめた。細い腕に力がこもり、人形の小さな体から伝わる冷たさと、確かにそこにある重みを感じる。

 旅人は視線を落とし、ゆっくりと帽子をかぶり直す。その仕草は落ち着いているのに、どこか重々しい空気をまとっていた。そして低く、地を這うような声でつぶやいた。

「それは、異世界から迷い込んだ魂を宿す人形だ。例えはじめが善の魂だとしても、やがて悪へと堕ちる。長く傍にいれば、君の心も喰べられていくよ」

「たべ・・・・・・うそだ! メレルはそんなことしない!」

 一瞬、戸惑いがレンの顔に影のように差した。けれど、それを振り払うように発した声には、胸の奥から絞り出すような必死さがにじんでいた。

 旅人はそんなレンを、微動だにせず黙って見つめる。その視線は氷のように冷たくも、奥底にはわずかな探る光が宿っている。動揺も怒りもなく、ただ何かを見極めようとする鋭さだけがあった。そして、低く落ち着いた声で、旅人は静かに質問を口にする。

「するよ。いつか。こいつと出会ってから、何日経つ?」

「6日」

 旅人は顎に手を添え、視線をわずかに宙に泳がせた。ほんの一瞬だけ思案するような間をつくる。

「……6日か。もう、いつ堕ちてもおかしくない。今夜にでも別れを済ませなさい。別れの猶予くらいはあげよう」

 それだけを言い残し、旅人は倉庫から立ち去った。

 レンは震えながら、メレルをそっと胸に抱き寄せる。

「……嘘だよね。メレルは、ぼくの……友達だもんね」

 人形は静かに、微笑んだまま動かなかった。

 

 その夜、レンはなかなか眠れなかった。

 布団の中で目を閉じても、旅人の言葉が、何度も頭の中を巡る。

 言葉はどれも冷たくて、まるで氷の破片みたいに、胸の奥を突き刺してきた。心の内側に残っていたわずかな安心感を、じわじわと削り取っていくような鋭さだった。

 ――そんなわけない。メレルがそんなことするわけない。

 必死に否定しても、旅人の目に宿っていた真実のような冷たさが、脳裏から離れなかった。あの目は、嘘を言っている人の目じゃなかった。けれど、信じたくなかった。

 そのとき、不意に視界の端がかすかに動いた。机の上に置いたメレルが、ほんのわずかに揺れた気がした。

「……メレル?」

 レンは息を殺しながら布団を抜け出し、床を軋ませぬよう足を運ぶ。夜の部屋はしんと静まり返り、窓の外では風が梢を揺らしていた。

 机の前まで来て、そっと覗き込む。

 人形は、以前と同じように微笑んでいた。まるで何も変わらないように。

 けれど、どこかにひっそりと隠された痛みのようなものが、その笑顔の奥からわずかに滲んでいる気がした。

「大丈夫?」

 そっと問いかけると、わずかに、声が返ってきた。

『……レン。今日は隣で寝てもいい?』

「もちろんだよ」

 レンは布団の端にスペースを空け、そっとメレルを寝かせた。顔が見えるように枕元へ置き、掛け布団の端を優しくかぶせる。まるで大切な家族を迎えるような手つきだった。

 そして、自分もその隣に身を横たえた。そっと布団に身を沈め、人形の小さな笑顔が視界の端で揺れるのを感じながら、まぶたをゆっくり閉じる。胸の奥にじんわりとした温もりが広がり、静かな呼吸が夜の空気に溶けていった。

 やがて、レンは夢を見た。

 足元に確かな感触がない、広くて、何もない空間だった。どこまでも続く灰色の靄の中、白と灰が混ざりあい、遠近感すら曖昧なその世界に音はない。ただ、肌を撫でるような冷たい霧だけが、静かに漂っているた。

 そのぼんやりとした中心に、ひとつの影――少女のような姿をしている。

 くるくると巻かれた金色の髪が、かすかな光を受けて揺れている。身にまとうのは細かな刺繍と宝石飾りが施された豪華なドレス。だが、その顔は深い影に覆われ、表情も瞳も読み取れない。その輪郭は淡く滲み、霧の中に溶けかけるように曖昧だった。現実と幻の境目が溶け合い、彼女の存在自体が、今にも音もなく消えてしまいそうに見えた。

 レンが「誰だろう」と思ったその瞬間、影の奥から声が発せられた。

「……レン」

 聞き慣れた、けれどどこか遠くから届くような声。

「メレル? メレルなの!?」

 レンは息を飲み、霧をかき分けて歩み寄ろうとした。

「ダメ! こっちに来ないで……!」

 その声には、はっきりと拒絶の響きがあった。ふだんの優しさとはまるで違っていて、切実で、苦しげで――今にも泣き出しそうな、けれど必死にこらえているような、強い意思がにじんでいた。

「ど、どうして?」

 足を止めたレンが、霧の中に響くように問いかける。声は空気に溶け、まるで霧そのものに吸い込まれるように静かに消えていった。足元の靄が静かに波打ち、メレルの輪郭がかすかに揺れる。

「今、わたしに近づくと……レンを喰べたくなっちゃう……」

 ドレスが霧の流れに合わせて淡く揺れ、その裾先が波のようにひらめく。巻き髪は水面に落ちた雫が広がるようにふわりと波紋を描き、白い靄の中へとゆっくり溶けていく。その姿は現実の輪郭を失いながらも、どこか切なげな気配を漂わせていた。

 顔は深い影に隠れて見えない。けれど、胸の奥を締めつけるような静かな痛みが、メレルが悲しんでいることを確かに伝えてきた。

「レン、わたしね。別の世界の貴族の娘だったの」

「貴族?」

 聞き慣れない響きに、レンは思わず眉をひそめる。

「そう、とても偉かったのよ」

 メレルは少し遠くを見るように目を伏せ、静かに続けた。

「でもね、パパが悪いことをして、その地位を奪われてしまったの。……簡単に言うと、偉くなくなったの」

 言葉の端に、かすかな苦笑が混じった。すぐに、その笑みは影に沈んでいく。

「パパはお酒の飲みすぎで亡くなって、ママと一緒にママの実家に戻ったわ。でも、そこでは“犯罪者の妻と娘”として冷たい目で見られた。それでも、ママさえいればいいと思って、明るく振る舞ったの。でも、それが逆にママのカンに触ってしまったみたい。だんだん、ママにも嫌われていってしまったわ」

 レンは唇をきゅっと噛みしめ、胸の奥にひやりとしたものが広がっていくのを感じた。

 自分に母はいない。それでも、唯一味方であるはずの母から嫌われるということが、どれほど深い悲しみを伴うのか。その痛みを想像するだけで、息が詰まりそうになるほど伝わってきた。

「学校には通っていたけど、貴族として育った私は平民の暮らしを知らなかったの。当然、周りとうまくいかず、友達もできずにいじめられてた。それでも、家族を心配させたくなかったから、泣かずに頑張って気丈に振る舞ったわ。でも、家では『気味が悪い』『反省していない』と避けられてしまって、次第にじいじやばあばからも嫌われて……どこにも居場所がなくなった」

 静かな声の奥に、長く溜め込んだ孤独の重さが滲んでいた。

「そんな日々が続いて、心も体も少しずつ悪くなっていったわ。食事は喉を通らなくなり、学校へ行く足も重くなって……やがて、自分の部屋――ううん、物置部屋みたいなところで力尽きるように死んでしまったの。最後の瞬間、そばには誰もいなかったわ」

 あまりに生々しく、胸を締めつけるような壮絶さに、レンは息を詰めたまま言葉を失った。

 メレルの声は淡々としているのに、その奥底には押し殺した痛みがかすかに震えとなって滲み出ており、それがレンの胸にじわりと染み込んできていた。

「気がつくと、あの倉庫で人形になっていたの。……転生って知ってる? 人が別の世界で新しい人生を始めることよ。なんでかは分からないわ。人形の体になったとき、なんとなく理解したの。この世界で誰かの魂を食べれば、わたしはその人として生きられるって」

 レンは、ごくりと唾を飲み込む。

「最初は、ただ嬉しかった。ここで、また新しい人生を始められるんだって。でも、わたしが出会ったのは――レン、あなた。暗い倉庫でひとり、寂しそうにしていた子どもだった。わたしは、あなたと自分を重ねてしまったの。だからかな。放っておけなかった。わたしみたいにはしたくなかった。それに、友だちになってくれたでしょう? 喋る人形を気味悪がらずに。それが、それが本当に嬉しかった。前の人生では、そんなふうに友達なんてできなかったから」

 レンの胸の奥が、じんわりと温かく満たされていく。それは、自分だけでなく、メレルも友達になれたことが嬉しかったのだと分かったからだった。

「レン、学校の話をたくさんしてくれたよね。友達ができたと聞いたときは、自分のことみたいに嬉しかった。だから、思ったの。レンの人生を、わたしなんかが奪ってはいけない。これからレンには、たくさんの友達や楽しい思い出を作ってほしいって。だから、わたしはただそばで見守るだけでいいんだって」

 メレルはそこまで言うと、小さく息をついた。その声音には、安堵と寂しさが入り混じっていた。

「……でも、そうはいかないみたい。今日、旅人さんが言っていたでしょう? 『今夜にでも別れを済ませなさい』って。あれ、わたしに向けられた言葉だったのよ。彼はわかっていたの。わたしが少しずつ、レンの心を喰べたいと思うようになってきていること……あなたになりたいと願ってしまっていることを」

 その言葉に息をのむ。胸の奥がきゅっと縮まり、手のひらに冷たい汗がにじむ。

「ダメだって分かってる。でも、たぶんもう止められない。だから、今夜ここであなたとお別れしたいの」

 その言葉に、レンは胸の奥で葛藤した。頭では、このまま一緒にいれば自分はメレルに喰べられてしまうと分かっている。別れた方がいい、それが正しいことも理解している。

 それでも、心が言うことを聞かない。脳裏に、メレルと過ごした時間が鮮やかに蘇っていく。倉庫や部屋で交わした他愛ない会話、夜の静けさの中で聞いた優しい声、笑い合った瞬間。そのひとつひとつが胸を締めつけ、メレルと離れるなんて考えられなかった。

 別れたくない。もっと一緒にいたい。その思いが溢れ、視界が滲む。気づけば、頬をつたう温かい雫が、ぽたりと手の甲に落ちていた。

「メレル……ぼく、嫌だよ。もっと一緒にいたいよ」

 メレルはすぐに答えなかった。わずかに顔を落とすような仕草をし、静かな沈黙が流れる。その沈黙は、迷いとためらいが入り混じったように思えた。

「……ねえ、レン。わたしがいなくなったら、寂しい?」

「……そんなの、当たり前だよ」

「そっか……よかった。それだけで充分よ」

 レンが俯きつつも小さく頷くのを見て、メレルが柔らかく笑った。

「ありがとう、レン」

 その瞬間、視界の端でメレルの体が淡く光を帯び、やがて無数の小さな粒子へとほどけていくのが見えた。

 思わず顔を上げたレンの目に映ったのは、影ひとつなく照らし出されたメレルの顔――くっきりとした鼻立ちや繊細な輪郭は、まるで彫刻から抜け出したかのように精緻で、その整った顔立ちは、まるで朝露を受けて咲き誇る花が初めて朝日を浴びる瞬間のように、清らかで儚く、そして透き通った美しさを放っていた。その瞳には温かな光が宿り、頬にはレンと同じように涙の跡がきらりと光っていた。

 まるで夜明け前の星が空に溶けるように、その姿は静かに、でも確かに消えていく。

「メレル!」

 ようやく、彼女の顔をはっきりと見ることができたというのに――。

 レンは咄嗟に手を伸ばす。けれど、その指先は何も掴めなかった。空をすくったような感触だけが残り、指先には一片のぬくもりさえも感じられなかった。

 ぽっかりと空いた空間が、ただそこに残された。さっきまで確かに“誰か”がいたはずの場所に、今は冷たい静けさだけが漂っていた。

 朝、レンは汗びっしょりで目を覚ました。胸が苦しくて、心臓がどこか遠くで鳴っているような、そんな感覚があった。

 窓から差し込む光が、やけにまぶしく感じる。現実が夢に追いついてくるような、重たい目覚めだった。

 隣に目を向ける。

 ――メレルは、いつもと変わらぬ姿で、そこにいた。

 けれど、なにかが違う。

 窓がガタガタと音を立て、風に揺れる木々の軋む音が遠くから聞こえてくる。

「……メレル」

 確かめるように震える声で呼びかけるが、返事はなかった。微笑んだままの唇は固く閉ざされたままだ。

 その人形に宿っていた魂は、もう去ってしまったのだった。


 どこか遠くを吹き抜ける風の音が、かすかに耳の奥に残るような昼下がり。静まり返った古道具屋の戸口に影が差し、旅人が再び姿を現す。

 扉の鈴がちりんと控えめに鳴り、その音が店内の静けさに溶けていく。レンはその音に促されるように、ゆっくりと顔を上げた。

 旅人は視線を逸らさず、低く落ち着いた声で静かに尋ねた。

「あの子は……?」

 レンは言葉を返さず、ただ黙って、ゆっくりと首を横に振った。

 涙の跡が光る目には、迷いも後悔もなかった。ただ、しっかりと強い意志が宿っていた。

 旅人は何も言わず、レンの目をじっと見つめ、そして小さくうなずいた。しばらくの沈黙のあと、ぽつりとつぶやくように言葉を残して、背を向ける。

「……その魂は、君という灯りがあったから、闇に飲まれずにすんだ。私からも礼を言おう。ありがとう」

 そう言って、旅人は古道具屋をあとにした。

 

 それから数週間後。

 朝、レンが学校に行こうと服を着替えていると、外から元気な声が響いた。まだ朝露の残る空気に、その声が軽やかに弾む。

「おーい、レン! 学校行くぞ!」

 キールの声だ。窓から顔を出すと、路地の向こうで手を振っているキールと、その隣で手を振って立つミラの姿があった。二人とも頬を朝日に染め、笑顔を浮かべながら、まるで「早く来い」と言わんばかりに待っている。

 あれから、レンにも友達がたくさんできた。休み時間に机を寄せ合って話す相手も、放課後に一緒に帰る仲間も増えた。以前感じていた教室での空白は、もうどこにも見当たらなかった。

 それに、祖父との会話も増えた。夕食の席や寝る前のひとときに、学校であった出来事や友達との話を自然と口にするようになった。祖父が楽しそうに相槌を打ちながら聞いてくれるその時間が、レンには心地よかった。最後の家族を、これからも大切にしていこうと思う。

「行ってきます、メレル」

 振り返り、机の上に静かに座る人形へ視線を向ける。柔らかな光に包まれたその姿は、今も変わらず微笑みを浮かべている。もちろん、返事は返ってこない。それでも、レンは日課のように声をかけずにはいられなかった。

 寂しくないと言えば嘘になる。胸の奥に、あの声や笑顔がふと蘇り、甘く切ない感情がじんわりと広がる瞬間がある。

 外に出ると、ひやりとした朝の空気が頬を撫でた。続けざまに、やわらかな風が頬をすくい、髪を揺らしていった。

 ――いってらっしゃい。

 そんな声が、耳の奥でかすかに響いた気がした。まるで、優しい手が背中をそっと押してくれたような感覚が胸に広がる。

 レンは立ち止まり、一瞬だけ空を見上げた。雲の切れ間から差し込む朝日がまぶしく、目を細めながらも、自然と笑顔がこぼれる。

 レンは、そのまま軽やかな足取りで歩き出した。

 メレル。それは、ぼくにとって、一人目の、そしてかけがえのない最高の友達。

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