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女主人達の異世界グルメ

雪解けのクルーフ村

作者: 百鬼清風

 朝、薪のはぜる音で目が覚めた。  石壁の宿屋の一室はまだ冷えきっていて、ストーブの火が頼りなかった。布団から首だけを出すと、わたしは鼻をすんと鳴らし、静かに伸びをした。


「…今日は、焼けるかな」


 宿の厨房を任されてから、初めて迎える春だった。ここはクルーフ村、山と川に囲まれた静かな村で、わたしラティナは、旅の途中で辿り着き、なんとなく居ついてしまった。


 元々は、城下の菓子屋で働いていたのだ。けれど、甘い香りに囲まれて毎日を繰り返すうちに、ふと何かが足りないと思った。気がつけば包丁を置き、リュック一つでこの村にやってきた。


 今では、村外れの小さな宿「川辺の灯」に身を置き、日々、パンを焼いたり、簡単な食事をこしらえたりしている。


 今日焼くのは、村の子どもたちが摘んできた木苺を練り込んだ、ほんのり赤いパンだ。


「…よし、起きよう」


 立ち上がり、エプロンをかけ、厨房へ降りていく。まだ誰も起きていない。だが、この時間が好きだった。夜と朝のあいだ、眠りと目覚めの境目にある、静かな時間。


 粉を量り、発酵を待ち、生地をこねる。無心に作業をしていると、いつの間にか戸口のベルが鳴った。


「おや?」


 こんな早朝に誰が? そう思って顔を上げると、扉の隙間から冷たい風とともに、ひとりの旅人が立っていた。


「…開いていたから、つい」


 男は申し訳なさそうに笑いながら、フードを外した。栗毛の髪、すっと通った鼻筋、旅装束の隙間からのぞく日焼けした肌。見覚えは、ない。


「旅の方ですか? まだ支度中ですが、よければ中でお待ちを」


「ありがとう。焚き火の匂いに、どうにも足が向いてしまってね」


 彼はそのまま静かに椅子に腰を下ろした。朝日が差し込むなかで、彼はじっとパンをこねるわたしの手元を見つめていた。


 やがて、焼き上がった木苺パンの香りが厨房いっぱいに広がった。


「…それは?」


「今日の朝食に、と思って」


 言いながら一つ取り分け、彼の前に置いた。彼は驚いたようにまばたきをし、それから、噛みしめるように一口。


「…これは、美味しい。外の空気と、果実の甘みと、焼きたての熱。全部が詰まってる」


 不思議な人だ、と思った。言葉は穏やかで、目元には旅の疲れがにじんでいるけれど、その食べ方には、どこか誠実さがあった。


「名前、聞いても?」


「アーセル。…名乗るほどの者でもないが」


「私はラティナ。この宿の手伝いをしてます。良ければ、今日はゆっくりしていってください」


 彼は、ふっと笑った。その笑みが少しだけ寂しそうだったのを、私はまだ知らなかった。


 春のはじまり。パンの香りとともに、ひとつの出会いが、そっと宿の中に芽吹いた。





 翌朝も、村は静かだった。春の兆しを感じさせる陽光が村全体を包み込んでいるけれど、その冷たさはまだ残っていて、木々の間には薄い霧が漂っている。


 アーセルは昨日の朝食後も、宿に泊まることを決めた。そのまま部屋で過ごし、夕食時に顔を出すと言ったきり、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。


 ただ、あの時の彼の表情が、どこか心に引っかかっていた。優しげな笑みの裏に隠されたものが、見えた気がしてならない。


 その日の昼、私は厨房で次の焼き上げの準備をしていた。季節の野菜を使ったスープをこしらえ、パンも何種類か焼いて、今晩のお客に出せるようにしておく。


 そんな中、宿の入り口に、またひとつの足音が響いた。


「…今日は?」


 振り向くと、アーセルが玄関に立っていた。いつもとは少し違う様子だった。普段は穏やかな目をしているのに、その目に少し鋭さが感じられる。


「…ちょうど良いところに来たみたいだ。手伝おうか?」


 私は驚いたが、すぐに笑顔で応じた。


「大丈夫よ。けれど、もしお手伝いしてくれるなら、これを切ってもらえる?」


 そう言って、私は大きなカボチャを渡す。アーセルは手際よく包丁を取り、黙々とカボチャを切り始めた。


「手先が器用だね」


 私が言うと、アーセルは軽く肩をすくめる。


「それが生きる術だからな」


 そう答えて、彼はまた包丁を進める。彼の手つきには、どこか精悍さがあった。普通の旅人が持つような印象ではない。彼は、何かを隠しているように見える。


 その時、宿のドアが開く音がした。今度は村の若い女性たちが顔を出した。彼女たちは食事の用意ができているかと尋ねてきたので、私は微笑んで答えた。


「まだ準備が整っていないけれど、すぐにでもできるから、少し待っていてね」


 アーセルは黙って手を動かしていたが、その顔には何も言わずとも不安がにじんでいるように見えた。私に気づいて、少し目を逸らす。その目に何かあるのは、感じていた。


 その後、彼は静かに手を止め、カボチャを切り終えると、立ち上がった。


「ありがとう、今日はお前に礼を言うべきかもしれない」


 その言葉に、私は少し驚く。


「どうして?」


 アーセルはその場で一瞬黙って考え込み、それから答えるように言った。


「…俺は、ずっと、迷っていた。どこに行けばいいのか。何を求めているのか。それを。」


「それがどうして私と関係が?」


 私は少しだけ驚きながら問い返す。アーセルはしばらく黙っていたが、再び口を開く。


「…分からない。ただ、ここに来て、少しだけ、心が落ち着いた。あのパンの香り、君の作る食事。こんなに平穏な気持ちで過ごすことが、実はずっと、忘れていたものだった」


 その言葉に、私は何も言えなくなった。目の前の彼が、ただの旅人でなく、何かしら大きな悩みや過去を背負っていることを、なんとなく理解できた気がした。


「お客様が来る前に、少し休んでいたら?」


 私はアーセルにそう提案した。彼は微笑んで頷き、軽く肩をすくめる。


「…休む場所があるなら、そうさせてもらうよ」


 その後、私は部屋を片付け、少しだけ落ち着いた時間を持つことができた。アーセルはどこか遠くを見つめるように座っていて、目を閉じたままで、心の中で何かを考えているようだった。


 夜が来て、食事の準備が整うと、アーセルも手伝ってくれた。外からは、ほんのりと温かな香りが漂ってきて、村の人々も集まり始めた。


 そのとき、私はふと気づく。彼の存在が、どんどんと私の心に寄り添っていることを。




 村の夜は静かで、星々が空を彩る。食事を終えた村人たちが、ゆっくりと宿を出て行き、宿に残るのは数人の常連客と私たちだけだった。アーセルは食事を終えると、いつの間にかソファに腰を下ろし、深くため息をついていた。


「今日も手伝ってくれてありがとう、アーセル。」


 私はカウンターの奥から声をかけながら、洗い物をしていた。アーセルは少しだけ目を閉じて、しばらく黙った後、ゆっくりと答えた。


「いや、俺の方が助けられている気がする。」


 その言葉には、やはりどこか哀しげな響きがあった。彼はどうして、こんなにも心の内を隠すのだろうか。顔には笑みを浮かべているが、その笑顔が本当に心からのものなのかはわからない。


「…気にしなくていい。あなたがここに来たことで、私はむしろ助かっているのよ。」


 私が答えると、アーセルはふっと微笑んで、静かに首を振った。


「いや、それでも。お前がいなければ、俺はきっと何もできなかっただろう。」


 そう言って、アーセルは空を見上げた。その目線は遠くを見つめ、何かを探しているようだった。私は無意識に彼の背中を見つめながら、どうしてこんなに彼に引き寄せられるのかを考えていた。


 そのとき、アーセルがふと立ち上がった。


「すまない、少し外に出てくる。」


 言い残して、彼は宿を出て行った。その姿は、夜の暗闇の中に溶け込んでいくように、あっという間に見えなくなった。


 私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。彼の背中に感じたもの、それはまるで深い孤独が内包されているような、そんな感覚だった。


 しばらくしてから、私は思い切って外に出ることにした。夜風が肌を撫で、足元には草の香りが漂っている。村の広場に出ると、アーセルの姿が遠くに見えた。


 彼は広場の中央に立ち、空を見上げていた。私はその姿に少し近づき、足音を立てないように歩み寄る。


「アーセル。」


 私は声をかけた。彼は振り返らず、ただ静かに答える。


「…来ると思っていた。」


 その一言に、私は胸を締めつけられるような気持ちになった。彼がどれだけ深く孤独を感じているのか、その言葉に隠された感情を、何となく理解したような気がした。


「…どうして、そんなに自分を追い込むの?」


 私は少しだけ恐る恐る聞いてみた。アーセルは再び空を見上げ、少し黙った後に答える。


「俺には、やらなければならないことがある。それがどうしても、俺を離してくれないんだ。」


 その言葉には、強い決意が感じられた。しかし、同時に彼の目にはわずかな痛みが見え隠れしていた。私は彼の肩に手を置こうとしたが、すぐにその手を止めた。今は、何も言わずに見守るしかない。


「アーセル、何かあったら、私は聞くからね。」


 その時、彼がゆっくりと振り返り、私を見つめた。その目には、どこか安心したような表情が浮かんでいた。


「ありがとう。けれど、俺にはまだ言えない。」


 その言葉に、私はただ頷くしかなかった。彼が抱えるものがあまりにも大きくて、私にはそのすべてを受け止める準備ができていない気がした。それでも、彼のそばにいることが、少しでも支えになるのなら


 「私は、アーセルのことを支えたいと思っている。」


 心の中でそんな言葉が響いた。私はそれを口に出さなかったけれど、確かにそう感じていた。


 その後、二人で宿に戻り、少し静かな時間を過ごした。夜が更けると、私はそっとアーセルに言った。


「今日はもう休んで。明日また、何かできることがあれば言ってね。」


 彼は微笑んでうなずき、私に背を向けて寝室に向かっていった。その背中を見送りながら、私は今日の出来事を胸に刻み込んだ。




 翌朝、日の光が窓から差し込むと、私は目を覚ました。アーセルはいつの間にか早く起きて、外に出ているようだった。朝食を準備しながら、私は彼が昨晩のことをどう感じているのか、ふと考えた。昨日の言葉が、彼の心に少しでも届いたのだろうか。


 私は食事の準備を終え、カウンターに向かって歩きながら、一つの決心を固めていた。アーセルが抱える重荷を少しでも軽くできるように、私にできることは何かを考えよう。そう心に誓った。


 そのとき、宿の扉が開く音が聞こえ、アーセルが姿を現した。顔には昨日の暗さはなく、どこか清々しさが感じられた。


「おはよう、アーセル。」


 私は笑顔で声をかけた。アーセルは少し驚いたように私を見つめ、その後、照れくさそうに笑った。


「おはよう、リリィ。今日はいい天気だな。」


 その一言が、私にはとても嬉しかった。昨晩の言葉から少しずつでも前に進んでいるのを感じることができたからだ。


「うん、いい天気だね。今日も頑張ろう。」


 私は軽くうなずきながら、朝食をテーブルに並べた。アーセルは席に座り、静かに食事を始める。私は彼の様子を見ながら、ふとあることを思いついた。


「アーセル、今日はちょっと特別な料理を作ろうと思っているんだけど、手伝ってくれない?」


 その提案に、アーセルは少し驚いた顔をしてから、にっこりと笑った。


「手伝うって、どんな料理だ?」


「うーん、これは私の秘密のレシピなの。今まであまり誰にも教えたことがないんだけど、君には特別に。」


 私はにっこりと笑いながら言った。アーセルは少し首をかしげた後、興味深そうに目を輝かせた。


「よし、じゃあ手伝うよ。秘密のレシピか。楽しみにしている。」


 彼の言葉に、私は心の中でほっと一息ついた。彼が少しずつ心を開いてくれているのを感じたからだ。


 その後、二人で台所に立ち、私はアーセルに手順を教えながら、特別な料理を作り始めた。アーセルは何度か手伝うことをためらっていたが、徐々にその手が慣れてきた。料理を通して、私たちの間に無言の信頼が芽生えていくような気がした。


 料理が完成すると、私たちはテーブルに座り、静かな朝食を楽しんだ。アーセルは、最初はあまり食べることに集中していなかったが、次第に目を輝かせて食べ始め、最後には満足そうに頷いた。


「これは、本当に美味しい。お前、こんなに料理が上手だったのか。」


 アーセルの言葉に、私は照れくさく笑った。


「ありがとう。実は、これを作るのは私の一番の得意料理なんだ。」


 その後、二人で少しだけ余韻を楽しみながら、静かな時間を過ごした。そして、朝の準備が整った後、私はアーセルに言った。


「今日は少し出かけようか。村の周りを歩いて、景色を見たり、のんびり過ごすのもいいかもしれない。」


 アーセルは少し考えた後、頷いた。


「いいな、リリィ。俺も、少しだけ外の空気を吸いたかった。」


 二人で外に出ると、陽気な風が吹き、村の空気が清々しく感じられた。アーセルと並んで歩きながら、私は心の中で確信していた。彼が少しずつ、私のことを信頼してくれるようになっている。それがとても嬉しくて、心の中で彼に伝えたい言葉があふれた。


「アーセル、ありがとう。」


 私は思わず口にした。アーセルは少し驚いたように私を見つめたが、すぐに微笑んで言った。


「何を、急に?」


「君がいてくれること、毎日一緒に過ごせることが、本当に嬉しいって。」


 その言葉に、アーセルは少しだけ表情を崩してから、照れくさそうに笑った。


「俺もだよ、リリィ。」


 その笑顔が、私の心を温かく包み込んでいった。そして、私たちは並んで歩き続けた。静かな時間が流れ、二人の距離が少しずつ縮まっていくのを感じながら。




おしまい

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