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新月の宴

『星映しの陣』の番外編一話目。本編未読でも世界観を何となく頭に入れていただければ楽しめるかと思います。

クラールハイト編、スコアリーズ編を読破した後に読むともっと楽しめると思います。


※神話時代のクラールハイトのお話です。

 神話時代、其れは悠久の遥か昔の記憶。神話戦争が幕降ろし、世界から一色褪せた後の噺。


『俺も見てみたいな。透明な街を』

「在りますとも。ええ。スコアリーズの同胞と共に見ていてください。十六夜が皆様を透明な街(クラールハイト)へお連れします」


 敗北を期した霊族は渡り人と成りて、水平線へ消えた。星の民は星の大地に残り、戦火の焼跡に祈りを込めた。

 スコアリーズ出身、リーズ一族の十六夜には夢があった。空想的な御伽噺、獣人が住むと云われるクラールハイトを見つけ出す。幼き頃より在ると信じて夢見てきた。


「十六夜ちゃん何処行くのー?」

「何時もの、郊外の調査です。夜明けまでには帰ってきます」


 喧騒混じりの囃子に一頻り耳を預けた十六夜は未の刻、スコアリーズを旅立った。郊外の調査としつつ専ら向かう先は人里離れた未開の地。忙しい毎日に時間を作っては街を抜ける。今日もまた駄目だったと肩を落として帰る。繰り返した時が、終わり告げたのは酉の刻。



「だいぶ奥まで来てしまった。…それに今日は寄りにも寄って八雲。明かりが効いている内に帰ろう……、今…何か音が聞こえたような」

『〜〜…、…!』

「聞こえる」

『…?ーー!、……』

「聞こえる!」

『………〜♪』

「これは人の声、唄声…!この近くに在るのはきっと、ずっと待ち望んだクラールハイト!!」


 茜焼けの八雲が十六夜に帰郷を促す。帰れ帰れと追い払う。幾ら冒険好きの十六夜とて未開の地で野宿は出来まい。加えて月明かりにだって今日は恵まれない。

 書きかけの地図を折り込んで、いざ帰ろうと言う時に限って予想だにしない出来事が舞い込む。

 

 けれども十六夜にとって心の底から待ち望んだ序奏の唄声だろう。歌詠みを嗜む十六夜には他方の音粒が自然由来か人工由来かの判別など朝飯前だ。

 序奏は確かに人が奏でるものだ。然し本当に人だろうか?迎えた宵の月に十六夜は駆け出した。

______________________

 辿り着いた其処は、まほろばであった。


(街がある……地図に載っていない場所に、世界がある…!在ったんだ、本当に。獣の国…)


 静謐な宵に分不相応な街があった。酔が回る宴会は、街を飲み込み一つの形となっていた。陰ながらに見える人間は獣の特徴を持ち合わせ笑っていた。とうとう遂に辿り着いたクラールハイト、実在した街。十六夜の心は飛び跳ねて喜んだ。獣人に見つかれば追い返されてしまう為、声を出せないのが少しばかり寂しい。


「お、見えてきたぞ」

「我らが主様のお出ましだ」

「何時見ても御美しい方々ね」


(長…?ココからじゃよく見えないなぁ…流石獣人、目は良いのね。…んん〜?もう少しで良い感じの位置取り…)

「あ」

『人間……?』

「に、人間だと!?!」

(しまった…前に出過ぎた。追い返される…)


 先程まで盃を飲み比べていた獣人等が一切の音を止め、物々しい面を付け始めた。酒のお陰で人間の匂いを感じ取れぬ獣人の話を盗み聞きし、手前からの影法師はクラールハイトの主様だと分かったが如何せん視界が悪い。

 影法師が幾つもの尻尾を映し出した。非常に気になるではないか。主様の正体、一目見たい一心で四つん這い状態から叢を抜け、前へ前へ上体を捻らせ……小石に躓きあれよあれよの間に主様の正面に躍り出てしまった。


 刹那、主様と呼ばれる者の異質さに囚われる。純白の長髪に耽美な切れ長の瞳、恐らく狐由来と思しき獣耳と尻尾。毛先に宿るは瞳と同色の月色。雄々しい声帯が十六夜の意識を現実へ縫い付けた。


「御狐様」

『如何にも』

「主様!こやつは人間です。迷い人です!関わる必要も無ければ口を利く訳も有りません」

『ふぅー…夜行一行の往来に立ち入るとは』

「夜行一行……?…ん!捕まっ!?待って!」

「待たん!此処に人間の居場所など無い」

「可愛らしいお嬢さんじゃないの。優しくね」

(凄い……本当に本当に狐だ、それに烏と狼と……後後…!)


 クラールハイトの主様とは白狐だった。しかも尾の数は九つ、物怪の類である九尾の狐だ。白狐が告げた夜行一行とは如何様な祭事だろうか、先頭の主様と隣の狐以外が面形で顔を隠す理由は何なのだろう、好奇心は満たされるどころか渇きに渇き喉を鳴らした。

 だが、幕引きを決めるのは舞台役者だ。所詮、十六夜は乱入した観客に過ぎない。


 猫なで声で主様に引っ付く狐は玉の様な色艶で迷い人を歓迎した。見たところ主様の番らしい。では夜行一行とは婚約の儀か。与えられた情報のみでは満足出来やしない。羽交い締めされても十六夜は目元をキラキラとさせた。


『迷い人』

「私の事、でしょうか?そうてしょう…!」

『フッ。酔いを回してやろうかと思うたが詰まらぬ色無しか』

「ウッフフ。そんなこと言ったらダメよ」

(色無し?……色無しって何だ??…!!!)

「色気のこと…!?た、確かに」

(同年の子に比べたらあって欲しいものが無いけども…!でも、けども、そんなハッキリ)

『然し……』

「纏様?」

『いや……純朴な声で鳴かれても詰まらぬか。烏天狗、人の子に夜明けを』

「御意」

「待ってください!!私、クラールハイトが大好きなんです!!此処に居させて……!」


 九尾狐の主様の真名は(まとい)。月夜にギラリと光る犬歯が十六夜を詰まらぬと言った。出逢って間もない美男子に色気が足りないなどと言われ流石の十六夜も言い返そうかと思案したが、隣の狐の女性と比べたら自分など月とスッポンだ。急速に冷えた熱が十六夜の怒りを何処かへ飛ばし、後に残ったのは惨めな叫声だった。


『知りもしないものを求めた所で何も浮かばれん』


    ―――一幕 新月の宴―――

______________________

 詩が聞こえる。聞こえない。音が聞こえる。聞こえない。酔われて廻る微睡みの中で月夜烏が黒羽を拾い忘れた。


「夢……?私ってば何時の間に眠ってしまっていたのだろう……今は、もう夕刻か」

(夢の中で夢のまほろばクラールハイトを見付けて嬉しかったのに、目覚めなければずっと向こうで暮らせたのに……ちょっぴり残念)


 覚醒し切っていない脳は夢現を飛び跳ねる。"夢の中でクラールハイトを見付けた。"嬉々として視界に広がる情景を焼き付けた。此処へはもう二度と踏み入る事は出来ないから。

 そんな事をぼんやり茜色の空に預けていると、不意に鼻孔を擽る香りが漂ってきた。香りの出処を探り、それが羽織だと気付くのに時間は掛からなかった。


(これはお酒の匂い?何処のだろう…最後に酒に酔われたのは)

「ーっクラールハイト!夢では無かった、あの場所に夢の光景に辿り着いたのは現実の私だ……!」


 甘い吟醸香に憶えはなかった。スコアリーズの酒気は専ら酸味が強く、爽やかな香りである。眠っていた自分が吟醸香を纏う隙間は無い、無いのに、矢鱈に惹かれる強烈な香りが十六夜の頬を染め上げた。

 酔うには充分な時間だった。嗅覚が十六夜に忘れられない記憶を呼び覚まし、心を染め上げた。


「転寝してる場合じゃあないじゃない!!」


 クラールハイトは其処に存在した。忘れかけた己を恥じて意志を改めた十六夜がスラスラと帯を緩めた。圧迫感から解放され呼吸を整え直す。鮮やかな花模様が目を引く羽織りに似合う着物は幾らか。

______________________


「げぇっ」

「ふふん」


 思い立ったら即行動。化粧直しもままならない状態で乱れ髪を押さえた十六夜は烏の羽を有する獣人と再会した。彼は先日、十六夜に夜明けを齎した男であり素顔を晒したのは初めてだ。


「何故此処に、幻覚が効かなかったのか!?それとも無理矢理思い出した……のか?」

「後者と思われます」

「と言うか此処には結界が張ってあってだな…普通の人間は見えないんだよ。先日は兎も角今日は絶対完璧な結界だっ!」

「私は地図に記された通りに歩いたまでです。それにですね、地図がなくとも好きな場所には目を瞑ってでも辿り着けます」


 心底、心底嫌味な表情で烏の彼は十六夜の一言一言に唇を噛み締めた。そもそも人間自体好かないのだろうと予想に足るが此処で身を引く訳にもいかない。

 宵の口に十六夜は降り立つ。幽玄の地を手放す道理はなく心は固く。


「それで今日は御狐様居ないんですか?」

「何と言う無礼者…!色無しのくせに」

「く…それは傷付きますって!」

「色無し迷い人が来る所ではない。帰れ」

「帰りません」

「帰れ」

「帰りません」

(くそ…人間を一度成らず二度までもクラールハイトに入れてしまったとあらば、僕の首が飛びかねない。何とか穏便に返す方法は……)


 烏の青年は歯軋りしながら十六夜を睨み付けた。頑固者の人間を適当に追い返せば数時間後には何事も無いように戻ってくるだろう。非常に面倒な人間にクラールハイトが見付かってしまった。十六夜の気が強く、終わりのない問答にどうしたものかと唸っていると、暗がりに第三の影が伸びた。


「騒がしい声がすると思えば、そういう事ですか」

「大天狗様!?すみません!!僕の不注意です。すぐに人間を追い出します」

「貴方も烏ぽい感じですね」

「ああーお前!また無礼だぞ!!この御方は主様の側近、大天狗 金鳥様だ!序でに僕は大天狗に次ぐ烏天狗の殼傘。本来は人間如きが口を利ける身分ではないのだぞ」

「ソレって……」

「漸く理解したか」

「ソレってクラールハイトの文化、ですよね!?もっと詳しく尋ねても良いですか!?獣人の事、全部知りたいです!!」

「な、…」

「仕方無いですね」


 ゆったりとした声音と共に現れたのは翁面を被った老人だった。彼もまた烏の羽を有し人ならざる姿で十六夜と相対する。烏族の中でも一際地位の高い大天狗 金鳥(きんう)と烏天狗 殻傘(からかさ)は只では十六夜をクラールハイトに踏み入らせない。

 諦めの欠片もない十六夜に呆れた様子の金鳥は殻傘に縄を渡し指示を出した。


「殻傘、迷い人を縛って主様の元へ」

「追い出さないのですか!?」

「追い出したところで、自力で来そうです。主様の判断を仰ぎましょう」

「御狐様に会えるんですね!楽しみだな……」

「お前!!状況分かって言ってるのか!?」

「勿論ですよ。絶体絶命の大ピンチって事くらい分かります。けど現状を嘆いたって詰まらないでしょう?だったら私は大ピンチを楽しみます」

「……くれぐれも無礼な口を開くんじゃないぞ。人間のくせに、どうせ冷やかしに来ただけのくせに」

「私はそんなつもりじゃ」

「迷い人、此処には人を毛嫌いするだけの理由が多過ぎるのです。どうか解ってやってください」


 縛られても尚、月夜の様に光を灯し続ける十六夜に対して殻傘は不満げに唇を尖らせた。言葉に棘を仕込んでも嫌だ嫌だと突き放しても、光を降り撒く十六夜には効かない。

 故に殻傘は十六夜が大嫌いになった。初対面ながら二度と会話したくないと思うほどに彼女の存在が人間に対する疑心を募らせた。


「主様、如何なされましょう」

『迷い人。私の問いに答えよ。何故クラールハイトを求める』

「私の夢だからです。私にとって、いいえ外の世界の人達にとってもクラールハイトは空想上のお伽噺でした。だからこそ追い求めて止まないのです」

「人間と言うのはつくづく身勝手な生き物だ。僕たちの世界を面白可笑しく言いふらす」

「そんなつもりは無いです!」

『迷い人の語るクラールハイトの良さとは何だ。昨日今日で何が分かる訳もあるまい』

「私、この世界が窮屈で堪らない。先の戦争で多くの同胞を失ってもっと手狭に感じるんです。世界は広いんだって証明をしたい。クラールハイトは夢の可能性の秘めた素晴らしい所です。なので全部好きです」


 躊躇いはなく、十六夜は纏に答えた。それが纏の望む答えか否かは彼女にとって二の次だ。ゆらり揺れた尾が十六夜を見定めるよう逆立つ。如何なる結論が待ち受けるとは露知らず彼女は月影をひっくるめて正座し直した。


『迷い人、此処で暮らすと良い。住処を与えよう』

「えっ?」

「主様!?」

『但し、私の許可なく外へ出る事を禁ずる』

「成程。迷い人を幽閉しようとは。クラールハイトの存在が流れ出る事もありませんな」

『窮屈な夢の居所で、飽くまで外の広さを眺めておれ』

「鯔の詰まり、御狐様の許可があれば良いと言う事ですね。度胸だけなら誰にも負けない。近いうちにメトロジアの地図にクラールハイトを載せてみせます」

「身勝手!身勝手極まりない!!」

『烏天狗、案ずるな。有り様もない未来よ』


 追放ではなく幽閉。自由を求め人生を謳歌していた十六夜をクラールハイトの名を冠する監獄に閉じ込める。酷い仕打ちだと人間は思う筈だ、然しながら彼女は正反対の反応を示した。スッと息を吸い込んで一呼吸分の台詞を回し月夜を仰いだ。

 なるほど。度胸だけは光るらしい。


    ―――二幕 酔醒まし―――

______________________


「カリンです」

「マリンですっ」

「ファリンです!」

「「「お世話係でーす!」」」


 十六夜の縄を解いたのは狐族の三人娘だった。右から順にお姉さんタイプのカリン、人懐っこい妹タイプのマリン、大人しめの一人っ子タイプのファリン。彼女達は纏の嫁であり、カリンは先日の夜行一行の先頭を歩いていた。


「それにしても纏様が自らご意思を示しになるなんて私、初めて見ちゃった」

「えっ?そうなんですか?長っぽいと思ったのに」

「あちきも驚いて惚れ直した!」

「纏様はああ見えて(まつりごと)には疎くてねぇ。意思が弱いのか興味が無いのか、誰も分からないのよ」

「意外、ですね」

「嫁選びだって適当に頷いて増えてるし…」

「あ〜あ纏様に手を出されたいわぁ」

(大変なんだな……よーし!この調子で色んな文化訊きまくるぞ!!)


 嫁狐三名は纏に対して、不満を抱いているようだった。幾ら見合いとは言え、愛も欠片もない新婚生活に飽き旦那の胸中を図りかねていた。愚痴を聞かされた十六夜は寧ろ、燃え上がって纏を含めたクラールハイトの全てを知ろうと立ち上がった。

______________________

 在る時は、

「おっっも、コレ何処に運ぶんでしたっけ」

「向かいの倉庫。そこそこ」

「運び終わったら教えて下さいね、猫又族の一日……きゃぁ!?」

「やれやれ」

 猫又族のシャム猫シャムシャンの引っ越しを手伝ったり、


 在る時は、

「やっぱりお肉は生派ですか!?」

「生でも調理でも美味いぜ!」

「では少しだけ生を……うっ」

「医者ー」

 狼族のお食事会に参加してあわや一大事になりかけたり、


 在る時は、

「人の子ってスベスベでカワイイ〜」

「夜兎族の皆さんも触り心地最高です」

「化粧台になってくれて感謝するよん」

「くしゅんっ…これも交換条件ですから。約束ですよ?夜兎族の秘密を教えるって!…くしゅんっ粉、強」

 夜兎族の飲み会に潜入して化粧の実験台にされたり、


 在る時は、

「何処まで付いてくる気だ!」

「烏天狗さんのお仕事教えてくれるまで離れませんよ。見せてください色々!」

「番でもないのに近寄るな〜!」

「烏天狗さんは番には側に居てほしい、と」

 烏天狗 殻傘の仕事風景を追いかけて追い出されてを繰り返したり、


 実に様々な時を刻んだ。太陽と月が替わり番こで世界を回している頃、十六夜は充実した毎日を過ごしていた。閉じ籠もるどころか積極的に獣人と関わり気付けば街中に人間の噂が立ち、良くも悪くも目立った。


「ネェ、キミ」

「おや?貴方は初めましてですよね」

「ウン。初めまして。鼬族のマユチリ」

「私に会いに来たと言う事は色々教えてくれる、の解釈で合ってますか!?」

「ウン…少し違う」

「えっ」

「キミ、ちょこまかして面白いから」

「えっっ」

「食べよう思って」

「えっっっ」


 不意に声を掛けてきたのは鼬族のマユチリ。様相は服を着た二足歩行の鼬なので十六夜は不用意に近付いてしまった。後ろ足でじっと立って底の見えない漆黒の瞳で十六夜を見やるマユチリは、徐ろに後ろ手を前にやり彼女の素肌を掴んだ。

 ずんと化けの皮が剥がれたマユチリは可愛らしい鼬顔から一転、鬼のように恐ろしい獣姿へと変化した。体格も二回り上がり、マユチリを見上げる形となった十六夜はようやっと危険を察する。


 危機管理能力が乏しい自覚はあったが、対処を怠った罰だ。剥き出しの獣の本能を浴びた十六夜が目を瞑った時、何者かが彼女を抱き寄せた。


『いけない子だ』

「ん……御狐様、…?」

「主様、イイトコ」

『私は今、機嫌が悪い。刺激してくれるな』

「人間に感化されたとか言わないでくださいよ」

『あぁ。言うはずもないだろう』

「珍味が手に入ったと思ったのになー」


 十六夜を抱き止めたのはクラールハイトの主様である纏だった。ふわふわとした九尾の毛先に捕らわれ戸惑う十六夜を一瞥もせず、纏は強引に連れ去った。

 さりとて貴方は尾を揺らして、玉響。



「あのー…御狐様?」

『……』

「何方に向かわれているのですか?」

『……』

「怒ってます…?何か気に触るような事でも」

『色無し迷い人、特別に私室へ招待しよう』

「本当ですか!?」

『……』

「あれ、やっぱり怒ってます………ね」


 普段の威厳ある雰囲気とは少し違うピリ付いた空気感に十六夜は恐る恐る纏の顔を覗いて見た。嗚呼、恐ろしい。三日月の様に釣り上がった眉に一文字に噤んだ唇、不機嫌をこれほどまでに態度で表し何処へ連れ込むものぞ。

______________________

 宣言通り纏の私室へと連れ込まれた十六夜だったが、


「御狐様…これは一体どのような状況で?」

『お前が余りにも目障りでな……』


 十六夜はクッションのようなベッドに組み敷かれていた。然程力を入れていないのにも関わらず纏の拘束から逃れられず、成すがままの()()()()()()姿を曝された。身動ぎ一つ出来ず、嫌でも美形な顔面が視界を埋め頬に紅がかかる。

 線の細い唇から漏れ出た獣の本性は十六夜を(こう)()い獲物と見定めた。


『これで解っただろう。クラールハイトと言えど所詮我等はケダモノの成り代わり。お前の思う理想とは似ても似つかん』

「私は理想を立ててはいないですよ。目の前の姿のままを知りたいから」

『何故だ。何故、そうして笑える。我等は人以下の醜き逸れ者。何をされたらお前の糸は切れる?私が酷く鳴かせば、或いは獣人の牙で爪先で裂けばしおらしくなるか』

「そんなの違います…。人間だって善悪に振り回されて争います。私の尊敬する人も同胞も先の戦で亡くなりました。そこに人間と獣の違いはありません。……ーッ…いっ」

『痛むか』


 吐息のかかる距離で組み敷かれても尚、十六夜は気丈に振る舞う。先程の鼬族のマユチリと現在の狐族の九尾、纏は何方も獣の本性を攻めた。然し何故だろう、纏からはザラザラとした苦味を感じない。不思議な胸臆は十六夜に台詞(本心)を吐かせた。

 それがどうにも気に入らない纏は獣の牙を十六夜の首筋に突き立て朱殷を啜った。


「…っ、本性がどうとかは私が確かめます。だから自分達の心に怯えないで」

『怯える?私がか?』

「少なくとも私にはそう見えました。伝承のクラールハイトは何時から在るのか、世捨て人から何時分かたれたのか、きっと貴方達も分からなくて怖いのでしょう?そうした心の欠けが人間を拒絶する……」

『迷い人……詰まらぬ声で鳴くな』

「御月様だってそう。代わる代わるの移ろいが心とそっくり。ふと見上げると違った姿を見せる」

『それでは月は欠けたままではないか』


 言葉と言葉の応酬が暗夜の帳に映える。じわりと広がる朱殷の痛みを噛み締め、眼前に迫る満月に笑いかける。

 貴方は満月、美しく映えるけれども此処は暗がり。新月が似合いの暗がり。


『まるで月とスッポンだ。お前の心はクラールハイトの暗闇によく映える月だ』

「何方かと言えば御狐様の方が月だと思われ…」

『お前を籠絡しとうなった。覚悟せい』

「……、断っても?」

『拒否権はない』


 侵食する痛覚が狐の声音に反応し、胸元へと案内する。滴る紅の一滴でも舌に這わせば絆された烈情は突起した。

 手繰る糸、後悔は後の跡。

______________________


「んん……御狐様?」


 翌朝、クッションベッドに纏の姿は無かった。ふかふかのクッションに身を沈めていると昨夜の尾の弄りが蘇るようで、気恥ずかしくなった十六夜は纏を探して戸を手をかけた。

 一糸纏わぬ姿で。


「主様〜!おっはようござー…………。……?」

「あ、烏天狗さん……」

「おおおお…、お前……」

「こ、れは、その違うんです!いや違わないけど、あぁあとでもでも違いま…!いや合ってるけど…、…」


 無論、裸体で練り歩くような痴女でもなく顔だけ覗き見て引っ込める程度だった訳だが偶々偶然、殻傘の朝の挨拶に遭遇。纏に会えるとばかり思っていた殻傘は満面の笑みから一転、呂律の回らない舌で十六夜を罵倒しようとするも嫌味な息しか漏れない。

 十六夜も十六夜で、顔色は青から赤へと転々し最後には二人して石化した。


「迷い人さん、せめて服を羽織ってください」

「大天狗さん…一体何処から」

『何をしている』

「ひゃ」

「主様、一つお尋ねしても良いですかな」


 背後へ倒れ込む殻傘を支えたのは何処からともなく現れたのは金鳥。例え翁面を被っていようが他人に裸体を晒すのは憚った十六夜が戸を閉めかけた時、彼女の身体は九尾に埋もれた。

 羽織り一枚を十六夜に渡そうと脱ぎかけた金鳥は纏に余りにも不機嫌に睨まれ、やれやれと溜息を付いた。


「人の子と目合(まぐわ)るとは、一夜の過ちでは済まされない重罪です。主様のお身体に万が一があってはなりませぬ」

『罪、か。ならば私を追放するか。九尾狐の私を』

「御狐様は多分悪くないと思います…!だから、と言うか追放されるべきは私です!!」

「貴方は追放されても来ましたよ」

「うっ、そうですね」

『これは私が決断した。大天狗とて侵す事は出来まい』

「……厄介に運びましたね」

「……すみません」


 仄かな熱を持つ尾が十六夜を揺する度、彼女の頬は忽ち夜に立ち戻る。動物の尾は感情を表すと度々見聞きするが、九尾狐は一体何方だろう。

______________________

 幾月過ぎれど、迷い人の拘束が解ける事も御狐様の機嫌が目に見えて治る事もなく。


 在る時は、

「わん」

「わん!」

『ワン』

「…御狐様」

 狛犬族の挨拶に参加し何故か引っ付いてくる纏も犬のように鳴いたり、


 在る時は、

「結界が揺らいでる…不吉の前兆か」

「私には変わらないように見えますけど、どういう感じで揺らいでいるんですか!?」

「不吉に語る口は無い」

『詳しく話せ』

 法の番人 梟族のコノハとミミの会話を立ち聞き尚も引っ付いてくる纏の存在感が増したり、


 十六夜は相も変わらず時を刻んだ。只一つ以前と違うところがあるとするならば、異彩を放つ纏の存在だろう。一夜の逢瀬から纏は何処へ行くも十六夜の側を離れようせず尻尾で肌を撫でていた。毅然とした主様はあらぬ方向へ飛んでしまったと皆は反応に困っていた。


「特別な話してあげよっか」

「えっ特別って!?」

「絶対食い付くと思ったぁ」

「まだ何も話してないよー」

「だから」

「纏様は」

「「「離れてください」」」

『なにっ』


 次に十六夜が向かったのは三人娘の嫁狐だ。クラールハイトの特別な何かが聴けると黒目を輝かせる十六夜の背後に当然のように居座る纏を逞しい狐嫁は追い出し、同性のみの空間を奪還した。


「も〜体調悪いなら寝てれば良いのに」

「え?体調悪かったんですか御狐様!」

「そうそう。体調崩れる時、誰彼構わず引っ付く癖があるのよ。小さな頃からの悪癖」

「纏様に引っ付かれるのは悪くないけどね」

(初めて触れた時からずっと熱かったからてっきりそう言う体温なのかと……なるほど、御狐様は体調不良だとひっつき虫になる、と)


「それよりど〜したの?この首の傷」

「うぅ…御狐様に噛まれました」

「噛まれたら噛み返せばイイのに」

「けど私には魅力的で尖い牙はありません」

「それが生えてくる……としたら?」

「……ーっうぇ」

「特別な話、解ったみたい」


 傍迷惑な悪癖を持つ纏の心配をしつつ、十六夜は御伽噺の気配を察知し首を長くした。もう随分癒えた傷跡は未だに微熱を放つが、好奇心旺盛な彼女にとっては気にする暇もないほど小さな後腐れに過ぎない。


「私達の街には昔々からとある言い伝えがあるの」

「"人間が獣に化ける時、獣が人間に化生する時、重々の結界が新月に失せる"…素敵なお誘いじゃない?」

「ソレって、つまり、私が獣になれる可能性があるって事です…………よね」

「うっふふ。お目々キラキラ」

「同時にクラールハイトには特別な製法で造られた紅があるのだけれど、人に試したら…どうなるでしょう」

「その話もっと詳しく、詳しく!!!」


 化生の者に紅化粧を施しても無意味。狐につままれたような伝え話だが、そもそもクラールハイトだって伝承上の空想世界だった。今更、現実に戻る訳もなく単純で純粋な人間は喜んで狐につままれた。

______________________

 恐らく、クラールハイトの獣属が人間を本能的に毛嫌いするのは結界が人によって破壊されると理解しているからだろう。


「と、言う訳だ。不吉の象徴であるお前は此処には居られない」

「え、えっ!?待っ」

「待たない。結界は日に日に弱まっている。主様の体調も優れない。全てはお前が迷い込んだ宵闇から始まった事だ」

「そんな……そうかも」

「さぁ自らの足で立ち去れ」

「最後に、御狐様に会わせてくださいっ!」

「馴れ馴れしいぞ。却下だ。ほら歩け去れ」


 先日は夜明けまで嫁狐達と語らい、昼時まで眠りこけていた。目覚めた時には遅く、結界の見張り人である梟族に捕らわれ外に連れ出された。嫁狐達も体調が急激に悪化した纏も居らず寂しい出立となったが奥奥には烏天狗が事の成行きを見張っているのが見え、少しばかり滅入っていた気が落ち着いた。


 追放理由に心当たりしかない十六夜だが、この機を逃せば二度と纏には会えないような気がして、心が跳ねた。


「また此処に来ますから」

「それは無理だ。何故なら不安定な結界を強固に張り直すからだ。迷い人よ迷うなかれ」

「それでも―――!!?」


 背を押され一歩前に出た。梟族の彼に言ったのではない。小さな街の心に宣言したのだ。私はまだ諦めちゃいないと。……決断したのはだいぶ昔だ。振り返って宵の街を見届けようとしたが、


「消えた。クラールハイトが、見えない……、もう会えない……?」


 クラールハイトは綺麗さっぱり消失した。十六夜の目から見て消失したが、実際は透かし降りた簾のように透明で視認出来ないだけだが、彼女の心を握り潰すにはお釣りが来る。

 触れた焦燥 軈て絶遠。憂う心根が掌に余る。


    ―――第三幕 可惜夜―――

______________________

 渋々スコアリーズへ戻った十六夜はそれはもう大層心配されていた。無理もない、三廻りほど消息不明で尚且つ復興途中なのだ。

 真実を話したところで同胞が信じてくれるとも思えず曖昧に微笑んで場を凌いだ。


 時の流れとは早いもので、消えたクラールハイトを置いてけぼりにする勢いで一廻り経過したある日の日和。


「……今、何と?」

「だから何度も言わせないで。貴方に縁談が来ているの」

「…………今、ナンテ?」

「貴方の放浪癖を心配しての事よ。お相手だって素敵な方。ここらで落ち着くのも良いと思う」

「………、それは…」

(それはそうだけど、縁談……か。私にとっての縁は…人とではないのに)


 まだ一族の縛りが厳しかった時代、妙齢の女性が一人婚約一つせず放浪するのを惜しまれる時代、十六夜は巧く言い包められ縁談を受けてしまった。

 スコアリーズは好きだ。同胞も好きだ。だからこそ縁談話を最後の最後に決断したのは自分だ。それでも、十六夜の心は憔悴していった。



「"十六夜の月 雲隠れて私ばかり欠けてゆく

貴方 何時の宵に纏衣 薄らぐでしょう

私 いざようままに微睡み まるで文忘れた花"」


 円窓に寄り掛かり、十六夜は宵の口待てずに運命を憂いた。移ろいゆく鏡面が映すのは何時だって欠けた我が身。

 囁くような吟詠に引き寄せられた一羽烏は十六夜の手を避けようとせず、素直に撫でられた。そんな日和が幾つも続いた。

______________________

 場所はスコアリーズから遠く離れて、クラールハイトの主様の御屋敷。急転直下で病状が悪化した纏は常に熱に浮かされていた。


「主様、服薬なさってください。お身体が持ちませぬ」

『いらぬ』

「只今戻りました」

『烏天狗…彼女の様子は?』

「……迷い人は故郷で式を挙げるそうです」

『ハッ。狐憑きが』

「……主様、僕は主様が命ずるならこれからも迷い人の監視は続けます。ですが、僕は人間が嫌いです。体調を崩されても結界を揺らがされても、それでもまだ執着する理由が解りません」

「殻傘。…」


 咽返らぬよう上体を起こし再三、服薬を催促するが纏は子供じみた反応を見せるばかりで一向に熱は下がらなかった。一方で一羽烏の振りをして十六夜の動向を探った殻傘は、彼女の纏を想う心を伝えずに挙式について口をついた。

 人間が嫌いだ、愛する主様も人間を嫌いになってほしい、地位にそぐわない殻傘の身勝手な胸中を金鳥は咎める事が出来なんだ。


『私は欠けた月が嫌いだった。美しき真円が欠けるなど詰まらぬではないか。然し、あの者に移ろう月模様の()き事を仰いだ。欠け月は移ろう世界なのだ。欠けて歪んで、真円に到達する。まるで宴の宵に結界を歪ませる我らの様』

「先代から纏様を託され、幾月過ぎましたが矢張り貴方様はクラールハイトの稀代の主です。偏食家で悪癖の愚かしくも美しい欠け月…」

「知りませんよ。この先の未来」

『案ずるな。私に反対する者は一思いに逝かせてやろう〈――― 千夜一夜〉』

「主様!?ーーーっ」


 十六夜に出遭い、言葉を交わし、熱は上がり続ける。発声さえも息苦しく喉を押さえた状態で纏は自身の思考の変化を説いた。欠け月を覆う程の光が十六夜だった。彼女は傍らより去りて、消えてなくなった。

 暗れ惑う纏は金鳥の制止の手を振り払い立ち上がった。芽生えた激情は、刀の切っ先の様に鋭く夜を切り裂く。


 突き刺した刃の如き眼光は覚醒を伴い、暴挙を選ばした。

 白狐の激しく荒れ狂う独白は千夜一夜。

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 時は再び加速を始め、夕刻を指した。


「浮かない顔ですね」

「すみません」


 善は急げと言うけれど、用意の良過ぎる白無垢に袖を通し真っ赤な唇を上下に動かした。芳しい香りに釣られて伴侶になる人物を見上げれば彼は心配そうに自分を見つめていた。


「本当は言うべきか迷っていましたが、ケジメとして話します」

「?」

「貴方には忘れられない想い人がいると、最初から気付いていました」

「え、…」

「久方振りに帰ってきた貴方は見間違えるほど優美な雰囲気でありました。きっと好い逢瀬を楽しまれたのだろうとそう確信したのは貴方の姿が次第に弱っていった最中です。月に詠う姿は、当に玲瓏でした。貴方が望むのなら、ほら八咫烏が導きをくれる」

「烏天狗さん…!どうして……」


 雨露の様な声音が十六夜の生気を呼び覚ます。月が廻るとツキが回るらしい。突き伸ばした指先を辿った先には面を斜めに掛ける烏天狗の殻傘が不機嫌に出迎えていた。

 十六夜の視線はこの時より、伴侶から獣へと移された。


「どうして……あ、怪我してるの?」

「お前の所為だ。全て、お前の所為でクラールハイトの結界が狂い、主様がご乱心なさった」

「ーっ……私をクラールハイトへ連れて行って」

「覚悟があるのだな」

「でなければ最初から居座らないよ。うわっ」

「彼女の番は諦めろ」

「諦めは済ませました。…………さようなら」


 よくよく見ると殻傘は切り傷を作っており不安に思い声を張ったが、彼には必要なかったらしい。詳細な状況も分からぬまま本能的に思考を回す十六夜は決意を新たに半歩前に出た。

 殻傘も十六夜の出す答えが分かっていたのか、流れる手付きで彼女の身体を抱き寄せるとふんわり黒翼を羽撃かせた。


 徐々に離れゆく心と身体を振り絞って見送る。故郷の皆が心配なのだろう。自分を一瞥したのは皆の代表だからに過ぎない。濡れ露のような瞳を向けられたのは、決して恋由来ではない。間もなく十六夜と八咫烏は八雲に消えた。



「諦めは済ませた……か。あのような瞳を見てしまったら、振られた自分は手を伸ばしてしまうよ」


 相手の幸せを願う余り、相手が手の届かない世界に飛んでいってしまった。等しく恋煩いだ。ノイズ代わりの風が雨露を撫で回した。


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 疾きこと風の如く。十六夜を抱えた殻傘は濡れ露の黒翼を目的地へ向ける。


「烏天狗さん」

「殻傘で良い」

「殻傘、クラールハイトで何があったの?」

「先の通りだ。お前が何度も何度も主様の側に居座るものだから結界は歪んだ。主様は安静にしなければならないのに皆に切っ先を向けている」

「私が紅化粧で狐に成り、結界を透明にすれば良いのね。それが御狐様の熱冷ましに繋がる」

「あぁ……お前さえ来なければクラールハイトの結界は正常だった。……けど」

「けど?」

「狐でなくとも、…烏でも良いのだぞ……」

「ふふ」

「何を笑う必要がある!?」

「ううん。ごめん、ありがとう」


 振り翳した扇の様にふわり舞った風を受け遠くの街へ駆け抜ける。世界が一頻りの茜を隠す頃、殻傘の頬は僅かな熱を帯びた。見初めの張本人の視線から外れるようにそっぽ向いて黙りこくった殻傘は直後の笑い声に顔を沸騰させた。

 人間は嫌いだ、然し鈴の音のような声音で詠う彼女は悪くない。



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 クラールハイトに到着する頃にはすっかり夜になっていた。かつてのような静謐な夜、有象無象の宴とは打って変わって異形の空間が途切れ途切れに侵食していた。


『迷い人』

「御狐様」

「連れてきました」

「連れて来られました」

『覚悟を見せてみよ』

「はい」


 異形の主たる存在、九尾狐の纏は壮麗な面形に似つかわしくない朱殷が花を咲かせていた。様相さえも纏が恐れたケダモノに喰われ、見る者全てを恐れ慄かせる本能を供えた。人間の器に入り切らぬ物の怪の姿は、正しくクラールハイトの真夜中そのものだ。


 己の唾で喉を潤し、纏の獣の本性ごと射抜いた眼光が次に映したのは行灯に照り返された薄暗い室内だった。控えめに、けれども確実に歪み出した月夜は夜が開けるのを待ち望んだ。


「〈超覚醒法術 影結の綾なし〉」


 浅葱色の袖をたくしあげ、大勢のギャラリーが見守る中で一筆の紅が意志を持って十六夜に接吻した。まるで十六夜の御月様の欠けどころを埋めるように影を結った。

 チリチリと痛み始めた紅化粧は十六夜に何を齎すのか、誰しもが目を離せないでいた。


「―――ッッ!!!」

(流れていく、……私の中に、紅のように紅く塗りたくった液体が、……私と云う名の盃に注いでは溺死させようと濃度を高めていく……)


「―――っうぁっっ、はぁっ!!!」

『好い恰好だ』

「あ、れ…生き延びた……?わぁ!?これが狐の毛皮…もふもふだぁ。少しは御狐様に近付けた、かな。……っと感傷に浸ってる場合ではない!御狐様!!行きましょう!」

『!』


 失敗すれば死に至る超覚醒法術 影結の綾なし。発動後はアルコール度数の高い酒を直接体内に送られたような感覚に見舞われ十六夜の身体は全身で酔いを回した。此処で盃がヒビ割れようものなら器は崩壊し大敗を期す事になる。川に溺れかけたかと思いきや、結われた十六夜の月が満ち潮を変幻させ岸辺へ辿り着く。

 全身に架けられた負荷が次第に落ち着きを取り戻し、意識を改め隙間の月を仰いだ。サララと流れこそばゆい疼きを与えたのは纏の純白の長髪だ。


 浮世離れした纏が浮世を繋ぐ。覚醒済みの意識は急速に悶え、パッと顔を覆った。されど望んだ毛先は逆立ち祈った毛皮は人間の皮膚を覆い隠した。生き延びた十六夜は獣属、狐族の群れの一端となり一尾を揺らした。


 ゆらゆら揺れる影法師は何方様、絡み付く尾は何方から。纏う物の怪は優美に、惑った心は囃し逸され。

 感傷的になるには夜は短過ぎると十六夜は早速、纏の手を引いて駆け出した。辺りの斑星が何を語ろうが今だけは聞こえない振りをして。


(御狐様の手、熱い……まだ何も解決してない)

「着いた。御狐様、参りましょう。この先の世界は貴方を怯えさせるものではありません。世界の色を纏うだけです」

『迷い人、私を受け入れたようだ……。ならば私も享受せねば。お前をこれからも愛でる為に。恐ろしく思うものは何も無い。人の子の覚悟に、とうに魅入られた』

「クラールハイトは此処から一歩前に渡ります。御狐様が前へ出ると言う事は背後の皆も付き従う事になります。そして私はこうして手を引きます」


 初めて出逢った逢瀬の間、月明かりの美しき往来地。纏と十六夜は立ち止まり向かい合った。酔が回るほどに熱く、熱く、熱に揺らぐ。獣人と人の子は柔らかな月光を浴びて互いの体温を一頻り借りて、声音を揃えた。


『「超覚醒法術 解除」』



 在る朔の晩頃 隔て降りた幕は 新月と代わり

失せた。透かして重ねて、重ねて透かして。

 新たに構築された世界はまるで舞台上の演目。透かした明は幕上がりの合図、闇夜を奏でるは番狐の遠吠え。


『然し、其の姿……ただ剥ぐのも節操が無い』

「そう言えば何も考えずに飛び出してしまったので随分汚れてしまいましたね白無垢……」

「主様」

『大天狗、準備は整っているな』

「仰せのままに」

「一体何を?」

『決まっているだろう。新月の宴だ』

「ー!」


 今、クラールハイトの歴史が変わった。此処から綴られるのは悠久の月光。決して覆る事の無い何層にも絡み合った結界は透明となり、光の雫となり降り注いだ。

 その内に白無垢が汚れてしまった事に気付いた十六夜は少々名残惜しそうに笑っていたが、纏は数奇な運命を手繰り寄せた番にゾットするような耽美の微笑を見せた。

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 光の雫も醒めやらぬ内に皆々は宴に酔う。各々が外の理想を掲げ、恐れ慄く者は十六夜自ら心に寄り添う。きっと主様はこの先の未来で、スコアリーズの者達と交流するだろう。盟約の証が交わされるやも知れない。其処に自分は同席出来ぬ、その覚悟で此処まで駆け抜けて来た。

 後悔は無い。己の信念に従い、運命の至すところを廻したのだから。見えぬ闇すらも貴方の手の中で、見えぬ光さえも貴方の手の中で。踊り足踏み、宴へ誘う。


 宴の最後を飾るのは夜行一行。荘厳な雰囲気に包まれ、高官共が並び連なる。彼等は歩き始めた者に服従するのみ。

 先頭は絶世の美男と月夜の黒狐。連れ添う姿に今宵も浮世が酔う。



『――クラールハイトは揺るがない』


    ―――終幕 酔いどれ月柱―――

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