サラリーマンの帰り道
山下浩二は、いつもの時間に「日暮食堂」の暖簾をくぐった。仕事帰り、まだ明るさが残る夕方5時。スーツ姿で背筋は少し曲がり、目元には疲れが滲んでいる。今日は取引先でトラブルがあり、いつもより少し遅くなってしまった。だが、この店だけは逃したくない。夕方4時から8時までという短い営業時間の間に、必ず立ち寄ることが山下の日課になっていた。
「いらっしゃいませ。」
店主の佐藤麻美が明るい声で出迎える。30代の彼女は、かつてIT企業で働いていたとは思えないほど、手際よく調理場に立ち、温かい料理を作り出している。山下はいつものようにカウンター席に腰を下ろし、迷わず言った。
「肉じゃが定食、いつもの。」
「かしこまりました。」
麻美は笑顔で返事をし、肉じゃがの鍋に手を伸ばす。ほくほくとしたじゃがいもと、柔らかく煮込まれた牛肉の香りが店内に漂う。山下がこの食堂に通う理由は、何よりこの「肉じゃが」にある。自分では作ることもなく、家に帰っても誰も待っていない独り身の山下にとって、この一皿はまるで家族のぬくもりを感じさせるものだった。
「今日も、肉じゃがなんですね。」
「うん、これが一番落ち着くんだよ。昔、母がよく作ってくれたのを思い出すんだ。」
山下はカウンター越しに麻美を見つめながら、少しだけ柔らかい表情を見せた。彼の母親は数年前に亡くなり、それ以来、自分で料理をすることもなくなっていた。会社とアパートの往復の日々。淡々と流れる時間の中で、この「日暮食堂」の料理だけが、彼を現実から解放してくれる。
麻美は、そんな山下の心の内を察しているのか、あえて何も言わず、静かに料理を仕上げる。
「お待たせしました、肉じゃが定食です。」
山下の前に置かれた湯気の立つ定食。彼は箸を手に取り、まず一口、じゃがいもを口に運んだ。ほくほくとした食感が舌の上でほぐれ、口いっぱいに優しい味が広がる。
「……やっぱり、ここの肉じゃがが一番だな。」
山下は一言呟き、箸を進める。麻美は洗い物をしながら微笑みを浮かべた。この店で出す料理は、特別なレシピではないが、誰かの心を少しでも温かくできるなら、それで十分だと思っている。
「佐藤さん、毎日こんなに美味しいもの作って、大変じゃないのか?」
ふと山下が尋ねた。麻美は手を止め、ふんわりとした笑顔で答える。
「大変ですけど、楽しいんです。料理を作っているときは、何もかも忘れられますから。」
「そうか……」
山下はその言葉に頷き、また一口肉じゃがを食べる。この店で過ごす時間が、彼にとって一日の終わりを締めくくる、ささやかな癒しのひとときだった。
「最近、仕事がうまくいかなくてな……」
山下浩二は、箸を持つ手を止め、ぽつりと呟いた。肉じゃがを口に運びながらも、その表情はどこか暗い。麻美は洗い物の手を止め、彼の顔をちらりと見た。
「今日も、またクライアントとのトラブルがあってさ。上司はプレッシャーをかけてくるし、部下は指示通り動かないし……もう何が何だか分からなくなる時があるんだよ。」
山下はそう言って、大きくため息をついた。その疲れた顔に、麻美は自分のかつての姿を重ねた。IT系企業に勤めていた頃、彼女も同じように悩んでいた。日々の仕事に追われ、無限に湧いてくるタスクとミス、厳しい納期、上司の叱責。気がつけば、毎日が戦場のようだった。
「そんなに頑張ってどうするんだろう、って何度も思いましたよ。」
麻美は自分でも驚くほど自然にそう口にした。山下が驚いたように顔を上げる。
「佐藤さんも、そんなふうに?」
麻美は少しだけ笑って頷いた。彼女の頭の中には、かつての自分が忙しさに追われていた日々の記憶が浮かんでくる。深夜までの残業、パソコンの画面とにらめっこしながらのエラー修正、家に帰っても寝るだけの日々。やりがいはあったはずなのに、心は次第に疲れていった。
「会社勤めの頃、私も毎日がそんな感じでした。なんとかしなきゃって思っても、仕事に押しつぶされそうで……」
麻美は手を止め、遠い目をした。脱サラを決意したのは、そんな日々に耐えきれなくなった時だった。何のために働いているのか分からなくなり、ふと、祖母が営んでいたこの食堂のことを思い出したのだ。
「でも、ある日突然、祖母のことを思い出したんです。祖母が作ってくれた料理や、食卓でみんなが笑ってた時間。そういう温かい場所をもう一度作りたいって思ったんです。」
山下はしばらく黙って聞いていたが、静かに頷いた。
「だから、会社を辞めてこの食堂を?」
「ええ。最初は勇気がいりましたけどね。でも、料理を作っているうちに、少しずつ気持ちが軽くなったんです。自分のペースで、好きなことができる。それがどれだけ大切なことか、気づかされた感じです。」
麻美の言葉に、山下は何かを考え込むように肉じゃがを見つめた。食堂の静かな空気の中で、彼もまた、仕事に追われる日々を振り返っているようだった。
「焦らなくても、今できることを少しずつやっていけばいいと思いますよ。そうすれば、きっと答えは見つかります。」
麻美のその言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。山下はその言葉に救われたのか、ふっと笑って頷いた。
「そうだな……もう少し肩の力を抜いてみるよ。」
再び箸を手に取った山下の姿を見て、麻美は静かに微笑んだ。この食堂が、少しでも彼の心の支えになれたのなら、それで十分だった。