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うらら・のら

うらら・のら 閑話~まろうど~

[まろうど 壱]

 これは、もうひとりの撫子がうららとして生きたあとのお話――――。



 町だ。


 うららは、額に流れる汗を拭って、一息ついた。

 山なりの坂を登り切って少し下った頃、それまで立ちこめていた霧がようやく晴れてくる。

 立ち止まった背中が日差しに温められ、死んだ体にも汗が滲む。

「やれやれ」

 声に出して呟いてから、さらにぼやいた。

「やっぱり……拾ったチケットなんて使うもんじゃないな」

 それはあわいの道を巡回する、あやかしバスの周遊券だった。

 撫子たちの暮らすみどり町二丁目公園の地蔵堂の裏が、その停留所になっていることを以前から知っていたのだが、つい最近、夏祭りでもないのに実家に帰ってみようと出来心を起こした際、公園のはたで拾ったのだ。

 出来心、そう出来心。

 それにしても、チケットにあやかし用とニンゲン用があるなんて知らなかったと、うららは思った。

『次は身の(たけ)に合ったチケットで乗んな、嬢ちゃん』

 赤ら顔のキツネ帽をかぶった車掌に不正乗車を咎められ、一駅向こうの停留所で、強制的に下ろされたのだ。

 だが

 ――――身の丈って言われても。

 自分の身の丈とは、はたして。

 ニンゲンなのかあやかしなのか。

 うららはさらに独りごちる。

 孫の体で死んでからこっち、なんだか愚痴っぽくなった。

「身の丈なんて、そんな哲学、自分自身わからないって言ってやればよかったわ」

 然り、ひとはなぜ生きるのか。

「……死んだあとに考えても仕方ないわよ」

 坂の上に、ぷうとなま温かい風が吹いてくる。

 赤ら顔のキツネ帽の下で、やたらと舌なめずりする車掌いわく、

『チケットは沿線の町に売ってるよ。光る目玉の看板のついた店を探しな』

 だとか。

 そのままあやかしの餌になるのも嫌なので、慌ててバスを降り、それからずっと、セイタカアワダチソウの咲く野っ原の一本道を歩いてる。

 ようやく見えてきた町まで、あと数(キロメートル)といったところか。

「まだまだ、遠いな――――」

 坂の下に広がる町並みを見下ろしながら、うららはまた歩き出した。

 取り敢えず、行きますか。






 門番のいない外壁を通り抜け、浅瀬の川にかかった石造りの太鼓橋を渡ると、そこは絵本の挿絵のような西洋風の町だった。

 ひらさか門前町と外壁に標識があったので、てっきり和風の町を想像していたのだが、坂の上から覗いたイメージとはずいぶん違う。

 行き交うのは、ひととはどこか異なる者ばかり。

 むくむくしたもの、つるつるしたもの、獣の耳をつけたもの、細長いもの、幅広いもの、横歩きのもの。

 ひとしきり感心しつつ商店を探す。

 車掌が教えてくれた『光る目玉の看板』を掲げた店はなかなか見つからない。

 試食販売のワゴンを店先に出していた肉屋で、その旨を尋ねてみる。

「大通りをこのまままっすぐ行くと、交差点があるから、それを渡ればすぐに何軒か見えてくるよ」

 赤い角をつけたエプロン姿のおねえさんが教えてくれた。ついでに牛すじコロッケを勧めてくれる。

 うららは大喜びで頷いた。おねえさんも微笑む。

「はい、もうひとつおまけね――――熱いから気をつけて」

 こどもの姿をしていると、怖い目にも遭うが、こういうお得にもありつける。

 うららは丁寧に礼を言い、歩き出した。はふはふと揚げたてのコロッケにかぶりつく。

 うんま、うまま。

 二つのコロッケはあっという間に胃袋に収まった。

 おねえさんの言う通りまっすぐ進み、交差点の手前で立ち止まる。

 ――――あれは何かしら?

 信号は赤。

 その待ち時間に、目に飛び込んできたおかしな光景だった。



 ボヨヨン。

 ボヨヨン。

 ボヨヨン。

 ボヨヨン。



 なにかが、店の前におりた縦縞の日よけの下で跳ねている。

 その跳躍があまりに素晴らしいのか、緑と白の縦縞の日よけ幕が、まるでゴム風船のように膨らんだり萎んだり、また膨らんだり萎んだりをくり返し、その勢いで、日よけのついた出窓の枠までが、伸びたり縮んだり奇妙なことになっているようだ。

 ――――あーここだきっと。

 心の声を棒読みしつつ店の看板を見たら、彫金の立派な『流星堂魔術用具店』の脇に、色あせた目玉のシールが貼られていた。

 とりあえず聞いてみよう。

「すみませーん」

 うららは扉の前でおとないを告げた。

 鍵はかかっていないようだが、店内の灯りが消えているし、営業中の札もない。

「すみ……すみませーん!」

 今度はもっと声を張った。

 誰も居ないのか。さらに、

「……すみ……!」

「聞こえてますよ」

 傍らではずんでいた日よけの下から、真っ黒なローブを着たハリネズミが這いだして着た。

「何かご用?」

 尊大な様子で、鼻眼鏡をかけ直し肩で息をしている。

「ええと、あわいの道の巡回バスに乗りたいので、わたしの身の丈に合わせて」

「手短に。取り込み中ですのよ」

 ぴしゃりと小さなハリネズミはうららの言葉を遮った。

 十歳児のうららの、さらにお臍のあたりまでしかない小さな体から、あふれんばかりの威厳を放ち、ついでに大きく「ふんっ」と鼻を鳴らして見せる。

 うわあ、とうららは思った。

 これは別の店を探した方が良いかもしれない、だが。

 色あせた目玉シールを指差して言えば伝わるかと思い直す。

「……その、看板を見て来たんです」

 ハリネズミのつぶらな瞳がまん丸く見開いた。

「看板ですって!――――そうだったわ」

 背中の針を一斉に逆立ててローブから覗かせ、慌てて日よけの下に潜り込もうとする。

 わわ!

 その迫力にいったん後ずさったうららだったが、何故かハリネズミまで硬直する。そして通りのむこうを指差しながら、とてつもない大声で叫び出した。

「ああああああっ!」

 うわあああ……!

 釣られてうららも口元を押さえる。

 ハリネズミは鬼の形相で、そんなうららを振り返った。

「あなた……あなた、ちょっとなんてことをしてくれたの! すみませんなんて、よくもわたしを呼びつけたこと。その隙に看板が変わっちゃったじゃないの! 九〇分の努力が水の泡よ!」

 なんのことかと目を丸くするうららに、ハリネズミは通り向こうを指差した。

「今日が借地契約期限の九〇日! そして悩みに悩んだ店の看板が九〇分ごとの入れ替わりを忘れたら、あの建物は取り壊されてしまうのよ!」

「なんですって!」いきなり掴みかからんばかりの勢いでまくし立てられ、うららは、つい相手の勢いに合わせた。

 もちろんなんとなく、だ。

「借地契約期限の九〇年に悩んだ店の看板が九〇秒ごとに入れ替わって、建物が取り壊されてしまうんですね!」

 ちがうわよ。

 ハリネズミはしれっとした目で、うららを睨み上げた。

「契約では、今日までに新しく開業した店を起動に乗せるか、まだ開業計画を諦めない証拠に看板をとっかえひっかえして、やる気をアピールするしかないの。それから借地契約は九〇年じゃなくて九〇日、看板は九〇分に一枚よ」

 あ、そうなんですか。

 真顔に戻ったうららに、ハリネズミはそうよと頷いた。

「今どき大変なんですね、個人事業主も」

 看板を九〇分ごとに新しくするって、塗り替え用のペンキがいったい何缶いるんだろう。

 うららが通りの向こうを見やった時、ふたりの頭上にひゅーんと音を立てて何かが飛んできた。

 うわっ!

 咄嗟にうららが跳んで逃げると、そのすぐ目の前で向かいの商店の看板が『和風おしるこ十八番』にかけ変わり、べしゃりと何か液体めいたものがふりかかるような音がした。

 あっつーい!

 背後のハリネズミが飛び上がる。

 甘い匂いに振り返ると、ハリネズミの立派な黒いローブが、よく煮込まれた大納言あずきと白玉だんごにまみれて、ほかほか湯気を立てていた。

「いや、いや、いやあああ!」

 ――――なんと。

 うららは、驚きただ立ちすくむ。

 そこへ、またひゅーんと宙を切るような音がしたので、慌てて日よけの下に飛び込み、まだ熱い熱いと飛び回っているハリネズミの小さな手を引いた。

 と、間もなく透ける縦縞の日よけ幕の上にビシャリと白い液体がぶちまけられる。

「……今度は何!」

 ハリネズミが目と歯を剥いた。

 日よけの下から目を覗かせ、うららは向かいの看板を読んだ。

「ゴキゲンイカガ牛乳集配所」

「おしるこの次が牛乳! 掃除洗濯する者の身になって!」

 ハリネズミが叫ぶ。

 確かに、その通りだなとうららは思った。掃除なんて掃除機に、洗濯なんて洗濯機にまかせればいいじゃんなんて思うなら、バチがあたるというものだ。

 ところが、すぐにまたひゅーんと音がしたので、日よけを深く被り直す。

 こちらの声が聞こえたのか、次にザバッと降ってきたのは『松ノ湯』のいい湯だった。

 これで、あとの掃除が少しラクに……いやそうじゃない。

 ――――九〇分間隔じゃなく、どう考えても九〇秒。

「なんかムキになってない?」

 うららは通り向こうの看板を睨む。

 またぞろ何かが空高く打ち上がったが、看板はまだ掛け替えられていない。

「今のうちに、この窓から店の中に入りましょう。もし液体じゃないものが飛んできたら危険です」

 そうねとハリネズミも同意し、ふたりは鍵のかかっていなかった出窓から、店の中へと飛び込んだ。

 最初にうららが入り、つぎにハリネズミの手を引っ張り上げて誘導する。

 黒いブーツの足が天地を返し、ばたつきながら着地すると同時に、日よけ幕にバウンドした大きな中華鍋が一つ、派手な音を立て地面にひっくり返る。

「……あ……ぶ、なかった」

「ついに殺しにかかってきたわね」

 思わず溜め息を漏らしながら、うららは胸を撫で下ろす。

 それにしたって。

「とんでもない契約ですね」と、うららは言った。

「あなたがさっき日よけの中で向こうの気を引いていたのも、看板作りに嫌気が差して職人さんがヒステリーを起こさないように、鼓舞してたんですか」

 は?

 まだベトベトする黒いローブの上の大納言小豆を、ひとつひとつ小さな指で剥がしながら、ハリネズミが顔を歪める。

 ちがうわよ。

 え?

「鼓舞なんかするもんですか。あんなオンボロ建物さっさと取り壊されたらいいんだわ。今さら何やったって無駄よ。だから、ざまあご覧遊ばせ、ばーかばーかって、からかってやっただけですけど、なにか?」

 あーだめだ。

 なんかこっちへ色々飛んできた理由がわかったような気がすると、うららは思った。

「それで――――」

 とりあえず、カウンターの上に置いたウェットティッシュを数枚引いて、ごしごしとローブにぶちまかれたおしるこを拭きながら、ハリネズミは言った。

「あなたのご用はなんでしたっけ? 身の丈がどうとか」

 ああ、そうそう。うららは改めて店主らしきハリネズミに向き合う。

「あわいの道の巡回バスチケットを買いたいんです」

 ああ、そういう。ハリネズミはぬいぐるみのようにつぶらな黒い瞳を意地悪く細め、つっけんどんに返す。

「よござんす。それで、どんなチケットがお入り用なのかしら。うちにあるのは本人専用の周遊券(パス)です。誰かとの使い回しはできませんよ。種類はざっと――――ニンゲン用、あやかし用、精霊用、精霊の眷属用、魔物用、獣人用、付喪神用、元付喪神用、憑きもの用、腫れもの用、やおよろずの……」

「ちょっと待って、待って」

 今度はうららが言葉を遮る。

 ハリネズミは、また大きく鼻を鳴らした。

「……ええと、だからわたしの身の丈に合ったものをご存知でしたら」

「あなたの身の丈なんて、わたくしがご存知なわけないでしょう」

「そうなんです、そうなんですけど」

 やっぱり、ほかの店に行くべきかと思ったが、ハリネズミが顔を突き出して、くんくんとうららの匂いを嗅いでくる。ハリネズミからはおしるこの甘い匂いに混じって、微かに漢方薬を煎じたような香りがする。

「……なるほど」

 と、さんざんうららの匂いを確かめてハリネズミは言った。

「事情はわかりました。何様用のチケットを購入すべきか、あなたの場合まずそこからなのでしょう。でもね、いくら第一級魔法を習得した魔法使いのわたくしでも、わからない領域があるの。それは、個人の身の上です」

「身の丈ではなく身の上?」

 うららは小首を傾げた。

「然り――――」

 ハリネズミは懐から没薬(ミルラ)の匂いのする若い小枝を取り出し、うららの鼻先へ突き付ける。

「あなたが何者であるかは、どこに生まれ、如何に育ち、如何に生きそして死んだか、ではなくて?」

「ええまあ……」

 何かの術でもかけられるのかと、うららは後ずさった。

「でも、あなたの場合とても複雑そうだわ。いえ結構――――ここでそんな話をされても迷惑よ。そういうことは、専門に、なりわいとする者に聞いて貰うのが筋でしょ」

「……ええでも」

「そこでチケットを売っているか? いいえ売っていません。この町で今、バスのチケットパスを売っているのはうちだけよ。ですから」

 ハリネズミはカウンターの上の銀の小皿に積まれた美しいすみれ色のカードを一枚とり、さらさらと、うららには読めない不思議な文字を書き記した。

 そして、それを差し出す。

「もうすぐ日が暮れるわ。そうしたら外に出ても大丈夫――――それで、この裏通りのなかほどに怪しい黒猫八卦見が水晶占いの席を出すでしょうから、そこでこの名刺を見せて、あなたの知りたいことをお聞きなさい。詳細がわかれば、うちで見合ったチケットを売ってさしあげてよ」

 なるほど。

 うららは無礼だが親切な魔法使いに礼を述べて『流星堂魔術用品店』を出た。

 魔法使いの言う通り、町は日が暮れ始めている。

 せわしなく看板を掛け替えるべくペンキまみれになって居た向かいの建物は、いつの間にか取り壊され、すっかり更地になっていた。





 たそがれ小路。

 アールデコ風の曲線を描く街灯が、つぎつぎとほの白い明かりをともし始める。

 つるべ落しのごとく、角をひとつ曲がるうちに空はとっぷりと暮れていた。

 行き交うのは仕事帰りの人々だろうか。

 スーツの袖や裾から爪や尻尾が覗いたり、宙にふわふわ漂っていたりするのは、もう見慣れた。

 うららも八卦見の姿を探しながら、道を急ぐ。

 八卦見が席をもうけるのは、カフェの向かいか、ダンスホールの裏口付近と無礼で親切な魔法使いが教えてくれたので、まずはその二点がよく見えるあたりで待機する。

 だが、時間が早すぎたのか、八卦見を見つける前に、ダンスホールの裏口には豚骨ラーメンの屋台が、カフェの向かいには似顔絵のイーゼルが立ってしまう。

 そのどちらでもない場合は――――うららは小路のはずれのえんぴつのように細長い建物を目指す。

 かなりや古書店。

 半円形に張出した入り口をくぐると、棚に寄りかかるように本を舐めている黒猫の姿を見つけた。

 スリットの入った細身の黒いドレスに、黒いショール、赤いチョーカー。

 魔法使いから聞いた八卦見に間違いない。うららは歩み寄る。

「八卦見さんですか」

 黒猫は視線も上げずにボソリと言い返す。

「占い師よ」

「あの……今日ははっけ、占いのブースを出さないんですか」

 いきなりの言葉に、黒猫は耳をぴくりとさせたが、ブースと言う言葉が気になったのか、二、三度繰り返して、うららを見下ろす。

「そうね――――でも、お嬢さんのご用なら出してもいいわ」

 見た目のイメージより随分と張りのあるバリトンで黒猫は言った。

 うららはワンピースのポケットから、すみれ色の名刺を取り出す。

「巡回バスのチケットを買うために身の丈を知りたくて、身の上を見て頂きたいんですが」

 はい、そこまで。

 黒猫は片手に持った料理本をぱたんと閉じて、うららを見つめ名刺を受け取った。

「ここからは有料よ、お嬢さん」

 ああ、そうですねと頷いてから、ふとうららは思った。

 この町の通貨ってなんだっけ。

 そういえば、通りすがりのコロッケは試食販売だったし、町についてすぐに橋のたもとで自販機の水を買おうと思ったら、全部ランプが点滅してて押し放題になっていた。

 もちろん、たくさんあっても手が塞がるから押しまくりはせず、ほしいミネラルウォーターのペットを一本だけ頂戴したわけだが。

 うららが悩んでるうちに、黒猫は名刺に書かれた魔法使いからのメッセージらしきものに目を通した。

「……ふうん」

 そして、小さく肩をすくめると足元のキャリーケースを引き、古書店をあとにする。

「いいわ、ついてらっしゃい」




 黒猫が店開きに向かったのは、古書店からも少し離れた横丁の入り口だった。

 怪しげなネオンサインや雑多な看板のひしめく感じは、人の世の飲み屋街に似ている。だが、看板に書かれた文字の半分以上はうららには読み取れず、文字化けのように意味をなさない綴りであったり、うねうねと始終動き回っているのだ。

「……看板に興味があるの?」

 黒猫に囁かれ、うららは、はっと我に返った。いつのまにかすっかり準備の整った円卓やその上の水晶玉や、『うらなひくろねこ』の文字のきらめく花灯籠の置き看板に気を取られる。

「まあ、おすわりなさいな」

 黒猫は手元にタロットのようなカードを重ね、うららに促す。

「それにしてもあんた、よくあのイカレ魔法使いにメッセージなんて書かせたわね。驚いたわ」 

「なんて書いてあったんです?」

 と、うららは問う。

「こいつを喰ったら、一生呪う」

 うららは目をパチクリさせ、黒猫は薄ら笑いを浮かべる。

「冗談よ……でも知らない方がいいと思うわ。あの魔法使いはオカシイから。夏の終わりに長く連れ添っていた向かいの店主が自分を置いて出立したもので、頭のネジが二、三本ぶっ飛んじゃったんだわ」

「しょっちゅう看板が換わってた、あの向かいの店のことですか」

 うららが返すと、あらと黒猫は目の虹彩を丸くした。

「もうそんなことになってるのね――――時が経つのは早いわ。まあ仕方ない。あなた、それでさっきも看板を見てたのね。なかなかいい勘をしてるじゃない。店にとって看板は顔よ」

 なるほど。

「読める看板と読めない看板があるのもわけがありそうですね」

「そうだけど、あなた看板の話をしにわざわざここへ来たの?」

 ちがいます。

 うららが返すと、黒猫は今度は虹彩を糸のように細くした。べっこう飴のような金色の大きな目だ。

「じゃ、聞きたいことをお話しなさいな。お代は一〇分で星ひとつ戴くわ」

 星?

 どういう意味かとうららが返すと、ここまでの雑談ですでに星一つ分を消費しているが構わないのかと、黒猫占い師に切り返され、慌てて本題にはいることにした。


 ふうむ。

 ふうむ。

 ふうむ。


 つるつると大きな水晶玉を撫でながら黒猫が唸る。

 唸るたびに毛先のちぢれた白い髭がそよぎ、そこから小さな銀色の星が散っていく。

「あんたは……そうね……餡子のぬけた金鍔(きんつば)焼き……さもなくば鳴らない目覚まし時計のようなものかしら」

 役立たずってこと?

 少しムッとしながら、うららは眉間に皺を寄せる。

 とはいえ、孫と体を取り替えて死んでからこっち、記憶はまだらだし、自分の体の中にいるはずの孫との関係性も薄ぼんやりとしている。

 そんなわけで、自分は本当に死んだのだろうかとすら思いながら、毎年律儀に盆帰りしていたのだが、それも人間界に突如ふってわいたパンデミック騒ぎで三途の川渡しが渋滞し、のぼりどころかくだりも通行規制の真っ最中。

 関係なく行き来できる自分も、なんとなく戻りづらくなっている。

「まあ時が来れば解決するとは思うけれど、未来の自分にあまり負荷はかけないことだわね」

 うーむとうららは腕組みした。

 黒猫はにっこり微笑み、こんなものねと占いを終える。

「ええと……お代は」

「いただきました。きっかり三〇分よ」

 黒い肉球の上に、きらきら輝く虹色の星が三つ鎮座しているのを見て、うららは黒猫に尋ねた。

「それでバスチケットは買えるの? 餡子のぬけた金鍔焼きか、鳴らない目覚まし時計で」

 さあ――――と、黒猫は返す。

「でも、なんど聞いたところで答えは同じよ。わたしの占いはおみくじじゃないもの。引き直しはナシ」

 まいどありと送り出され、うららはしぶしぶ席を立つ。

 餡子のぬけた金鍔焼き。

 鳴らない目覚まし時計。

 小首を傾げながら、小路から表通りへ戻ると角の『流星堂魔術用品店』には明かりがついていた。

 うららが扉に手を掛けると、ちょうど買い物客が出て来て、入れ違いに中へと入る。

「おかえりなさい。思ったより早かったわね」

 と、ハリネズミの魔法使いは言った。おしるこで汚れたローブはもう着替えている。

「それで、身の丈はわかって?」

 そう尋ねられ、うららが『餡子のぬけた金鍔焼き』か『鳴らない目覚まし時計』と答えると、魔法使いはしばらく目を閉じ、すぐにカウンターのうしろの抽斗(ひきだし)をあけて引っかき回した。

「……ああ、あったあった」

「あるんだ。びっくりだわ」

 ええ。魔法使いは頷く。

「さすがに餡子のぬけた金鍔焼きなんてものはないけれど、鳴らない目覚まし時計用のバス周遊券ならございましてよ」

 その違いは何?

 うららの問いに今度は答えず、魔法使いは数枚綴りになったカードの束を差し出して微笑んだ。

「三十六万円です」

「円! 三十六万!」

 そうですよと魔法使いは返す。

「これは使うものの慣れ親しんだ価値基準で販売されるものですもの……あら、ちょっと」

 あなた。

 いきなりカウンターから大きく身を乗り出され、うららは顔を引く。そこをぐいっと掴むと、ハリネズミの魔法使いは、最初にやったのと同じようにくんくんとしつこくうららの匂いを嗅いだ。

 今度は魔法使いからおしるこの匂いはしない。その代わり、薬草ともお香ともつかない、なにやら難しそうな匂いだけがした。

「ずいぶんぼったくられてきたじゃない。渡したカードは見せたんでしょうね。半時間ほどの相談でいったい八卦見に、いくら払ったの」

 ええとお。

 なんだかまずいような気がして、うららは口ごもる。

「星……みっつ、です」

 ま!

 魔法使いは目をまん丸くした。

「その星が、自身の徳を形にしたものだということはご存じ?」

 い、いいえ。うららは首を横に振った。

 魔法使いは、深く嘆息した。

 そして、この町の価値基準である『徳』が魂の研鑽で得られるものであること、うららが払った星は最も大きな徳の単位で、うららのわかる貨幣価値になおせば、ひとつが一般的なサラリーマンの平均年収に相当することを説明され、へたりこんだ。

「わ……わたし、何も知らずに。黒猫さんに返して貰ってきます」

 お待ちなさい。魔法使いは言った。

「あなたは黒猫から身の丈の情報を聞き出したのだから、クーリングオフするなら星三つを取り返す代わり、記憶を差し出さなければならないわ」

 記憶――――を?

「三〇分の記憶だけを八卦見ごときがうまく取り出せるとお思い?」

 わかりません。

 またしても首を振るうららに、魔法使いはギリギリと歯を鳴らした。

「……虚仮(こけ)にされたのは、紹介人のわたくしも同じよ」

 そう言うと、なにやらああでもないこうでもないと早口に呟いていたが、やがてぽんと小さく手を打った。

 よござんす。

「わたくしがなんとか致しましょう。支払いすぎた分を取り戻してくるから、あなたはここでしばらくお待ちなさい。どうせチケットを買うお金もないのでしょう? 店番でも手伝ってくれるなら、住み込みでアルバイトとして雇わなくもないわ」


 ――――女神さま!


 思わず拝んだうららの前で、ハリネズミの魔法使いは反っくり返る。

「もっと崇めてくださってもよくってよ」

 オホホホホホホ。

 おほほほほほほ。

 うららも真似をして反っくり返って見た。

 どうにも、このひとの調子にはついつい引っ張られてしまうようだ。





[まろうど 弐]

 十日間。

 魔法使いがうららに指定した期限はそれだけだった。

「その間に、あなたはうちでしっかりお働きなさい。もちろんその働きが三十六万円のチケットに見合うとは到底思えないけど、鋭意専心と努めれば大目に見てあげます」

 ありがとうございます。

 うららは何度も頭を下げた。

「そのくらいになさい。あなたの気持ちはもう十分よ。変な風習だこと。今に頭に血が上ってしまうんじゃなくて」

 魔法使いは呆れ顔で、うららを見やる。

 そして、うららの奉公の間に、自分は黒猫の行方を捜して締め上げてやると意気込んだ。

「――――まあお任せなさいな。アテはあるのよ。一度に星三つ分もの稼ぎがあれば、あのぐうたらは、しばらく働きもせずどこかへしけ込むに違いないから」

 そういうと腕まくりをして黒い手袋を脱ぎ、カウンターの内側に立ったうららにぽんと放ってみせた。

「ぽっと出のあなたに出来る事なんてさほど期待してませんから、心配なさらず――――」

 さらに、懐から黒いマスクを取り出し、手袋の上に重ねる。

「お店のことは、その手袋とマスクが全部心得てます。身につけなさい」

 うららが、手袋とマスクを装着すると、魔法使いは満足げに微笑んだ。

「結構――――じゃ、解呪薬はおいくら?」

 魔法使いの問いに、マスクが鳥のさえずりのようにピヨピヨと答える。

「SMLとございます、マダム」

 Lがいいと魔法使いが返すと、またマスクが勝手にピヨピヨ答えた。

「金平糖八つとなっております」

 おお、とうららは感心した。そして、手袋をつけた手に引っ張られ、うしろの薬棚から大きめの茶色い薬瓶を選び、いそいそと梱包材でそれを包み始める。

「あ、ラッピングは結構」

 魔法使いがそう言って商品を受け取ると、ぴょーんと飛び出してきたレジスターのトレイにキラキラと輝く小さな小さな金平糖が八つ、宙を舞って収まる。

「これがこの町の決まり、システムです。何かを得るには徳で支払い、誰かの役に立てば徳を積める。それは自分の店の商品であっても、ほかの誰かのものであっても変わりません」

 おおおおお……!

 さらにうららが驚きの声をあげていると、魔法使いは解呪薬の瓶を懐に、ローブのフードを深く被って出て行った。

「明け方には店を閉めて頂戴。わたくしもその頃までに戻ります」




 店はほどよく繁盛していたが、魔法の手袋とマスクのおかげで、うららが接客に困ることはなかった。

 それ以外にも店番としてやることは、たくさんある。

 真夜中を迎える前に、空っぽになった満腹クッキーのジャーを補充し、ぎんぎんドリンクのよく冷えたのを冷蔵ケースに移し、おつかれさまエッセンスを手前取りに並べ替える。

 魔雑誌コーナーでずっと立ち読みしていた長居の客のそばでは見張り役の自動箒が徘徊していたが、その穂先を客が踏んづけて嫌がらせをしたので、丁寧に咳払いをして追い返した。

 どうやら魔術用品店というのは、この町のコンビニエンスストアのようなものらしい。

 店番の合間に、カウンターの隙間に立てかけてあった『月刊魔術』という雑誌を読んでみると、それらしきことが書いてある。

 いわく。

 魔術とは、誰でもどんな時でも何処でも使うことが出来る(あるいは使われる)もの。

 魔法とは、研鑽を積んだ魔法使いがなんらかの条件を以て発動するもの(あるいは発動されたもの)、であるらしい。

 つまり、選ばれたものが魂をかけて無から有を生みだすのが魔法であり、魔術とはことわりに沿って何かと何かを変換することで、その差は天と地ほども大きい。

 ハリネズミの魔法使いがやたらと反っくり返るのは、血の滲むような努力をしてきただけの自信と自負があるからなのだろう。

 しかし、その魔法使いをもってしても、黒猫占い師の行方は杳として知れなかった。

 明け方近く、そろそろ店じまいかとうららがカーテンを下ろしていると、疲れ切った様子で魔法使いは戻ってきた。

「――――おかえりなさい」

 そう声をかけたうららに、力なくただいまを返し

「ごめんなさい。今夜は捕まえられなかったわ」

 と、カウンターの傍らに腰を下ろす。

 ずいぶんとくたびれている。

 町中を探し回ってくれたのだろうか。

 さっき仕事帰りの常連客が、レストランの残り物のスープを差し入れてくれたとうららが言うと、やっと顔をあげて微笑んだ。

「ああ……ニコラね」

 確かに、そう名乗っていたとうららは返す。

「奥のキッチンにあった小鍋に入れてあります」

 まあ気が利くこと。

 魔法使いは嬉しそうに言って、重い体を持ち上げた。

「扉に錠をおろしたら、あなたも休むといいわ。お腹は空かない? お夜食にしましょう」

 そう歩きながら、ひゅんひゅんと指先でいくつかの魔法を飛ばしたので、うららが奥の台所に行ったときには、もうテーブルには温め直され湯気をたてるきのこのスープと、皮のパリッと香ばしいクロワッサン、それにクリームチーズとブラックペッパーで和えたカボチャのサラダ、フルーツゼリーが並んでいた。

「骨付きソーセージはお好き?」

 もちろんとうららが答えると、冷蔵庫から飛んできたソーセージは、自分でくるくると皮を脱ぎ、着いたばかりの暖炉の火の上でじゅんじゅん炙られ始めた。

「焼けるまで、先にスープをいただきましょう」

 うららのお腹がぐうと鳴ったのを笑いながら、魔法使いも席に着いた。

「――――そう言えば、あなたのお名前を聞いてなかったわね」

 改めて問われて、うららは名乗る。

「ハルネうららです。うららと呼んでください」

 魔法使いは、小首を傾げたが、ごく小さな声で「鳴らない目覚まし時計よりはマシね」と呟いた。

「わたくしはプリムよ。正しくはあなたが発音できないでしょうから、プリムで結構――――さあ、いただきましょう」

 皿の上のパンとサラダ、そして小鍋の中のスープは、食べて、またよそっても尽きることがなかった。

 暖炉の火でこんがりと焼けたソーセージも、火の前で順番待ちをしたがるので、途中でプリムが「今日はここまで」と指で線を引かねば、どれも冷蔵庫の中へ帰るのを嫌がって困ったほどだ。

 かぼちゃのサラダは、途中でくるみ入りのほうれん草の白和えを呼んで来た。

 クロワッサンは林檎のパイを連れてきた。

 そんなわけで、夜が白々と明ける頃には、うららもプリムもお腹がぽっこり膨らむほどに満足したので、プリムがテーブルを指で叩き「ご馳走様」を告げる。

 ダイニングとキッチンは一瞬できれいに片付いた。

「すごい!」うららは歓声を上げる。

「世のすべての食いしん坊が知りたい魔法です」

 そうでしょうねとプリムは返し、大きなあくびをする。

「お風呂は、キッチンを出た左よ。好きに使って。わたくしは起きてからシャワーで済ますことにします」

 ありがとうございますと、またうららが頭を下げると、プリムはふわふわと片手を動かした。

 リビングの大きなソファの上に、厚手の毛布とクッション、それに四角く畳まれた大判のバスタオルがセットされ、少し遅れて洗いざらしの木綿のパジャマも飛んでくる。

「じゃあ……おやすみ」

 家中の窓の遮光カーテンが閉じられ、魔法使いは寝室へと消える。

 うららがバスタオルとパジャマを抱えて風呂場に行くと、良い案配に張られたお湯が、ふわふわと浴槽から湯気を立ちのぼらせていた。




 次の日も、また次の日も、そのまた次の日も同じように過ぎていく。

 魔法使いプリムは、時に腹が立つほど不遜で高慢な言葉を発するが、その行動はおおむね親切で優しい。

 初めの夜は、町中の出入り口に感知の魔法をかけたらしく、その日この町を出入りしたのは、うららと朝一番の生鮮食品運搬車だけだから、黒猫の占い師は間違いなく、まだ町の中のどこかにいるはずだと言う。

 それから、店のお客の相手をするうちに、少しずつ、うららにも町の成り立ちがわかってきた。

 この町の住人は、ある特定の条件を満たさねば、勝手にほかの町や沿線道路などを行き来することはない。

 魂の積み上げた『徳』が通貨代わりにやり取りされているのも、そのせいで、黒猫が前に言っていた『プリムの連れ合いで先に出立した向かいの店主』というのも、そういう事情で店ごと旅立ったらしい。

 噂では、プリムの徳を盗んで、少し水増しして逃げたとも聞く。

 そう知れれば、誰も居なくなった店に向かって精一杯の嫌がらせをしていたプリムが、かわいそうにも思えた。

 明け方帰ったプリムは昼すぎまで眠り、用意を調えて夕刻には出かけて行く。

 うららも、夕刻には店をあけて明け方まで店の番をし、戻ったプリムと食事をして眠りについた。

「じゃ、行ってくるわ。今日はレジの締め日だから、早めに営業を終えていいわよ」

 五日目の夕刻、そう言い残してプリムは出て行った。

 昨日、うららが手洗いで汚れたローブや下着をすべて洗濯したので、今日のプリムは少しパリッとしている。

 掃除や洗濯、アイロンがけにゴミ出しまでは生前の世界と変わらないので、うららが手際よく済ませている。

 魔法も使わず、ちゃっちゃと働くうららのことをプリムは気に入り、

「たとえ目覚ましとして使えなくても、時間がわかれば、時計として充分だわ」

 と褒めてくれた。

 それでも魔術や魔法のことなどはさっぱりなので、お店に立つときは魔法の手袋とマスクは欠かせない。

 昨日、プリムに耳付きカチューシャを借りたので、店の中で交わされるひそひそ話や、声の小さな客の言葉も善く聞こえるようになった。

 中には突然現れた店番に興味を示し、ひとしきり話をしたがる常連客も少なくないからだ。

 ここに来る前に試食販売のワゴンから揚げたてのコロッケをくれた赤い角のおねえさんも、そのひとりだった。

 小鬼だというそのおねえさんは、ニーナと名乗った。初日スープの差し入れをしてくれた、碧い目のニコラの妹だと言う。

 星三つを失ってピンピンしているうららに感心しきりだ。

「すごいねーうららちゃん。えらいお坊様か、聖人様みたいだよ」

 それはプリムにも言われた。

 いったいあなたは、どういう人生を送ったのかしら、と。

 さらにニーナは、毎日プリムが黒猫占い師の行方を探していると聞いて、心配そうに顔を曇らせた。

「あの占い師は海千山千だし、たそがれ小路の奥のうすれ横丁や、ドヤ街にも出入りしてるっていうから」

 うららは奇妙にうねうねと看板が蠢く、飲み屋街を思い出す。

「……そんなに恐ろしい場所だったなんて知らなかったな」

 ニーナは驚いた様子だった。

「まさか、行ったことがあるんじゃないでしょうね」

 うーん。言葉を濁すうららに

「近寄るのもダメよ。真っ昼間でも、野良の術士やら冒険者崩れが徘徊するって噂なんだから」

 と語気を荒らげる。

 そんな輩に絡まれたら星三つでは済まないと言われ、うららは返す。

「野良の術士って不良なの? 野良だから?」

「そう言う意味ではないけれど」

 ニーナは言う。

 団体にはそれぞれ規約があると、彼女は説明した。

 そこに所属しないということは自由な分、敵に回すと恐ろしいのではないか。

「それに、なかには所属したくてもできないような輩もいるでしょう。自由人と輩を、ぱっと見分けるのは難しいよ」

 そう説明されて、うららは納得した。

「……言われてみれば、確かに」

 ニーナは優しく微笑んで、プリムさんが星を取り戻してくれるまで頑張ってねと、帰っていった。

 ニーナと入れ替わりに、帰宅途中の客が増え始め、それから一時間ほど、うららと魔法の手袋とマスクはてんてこ舞いになる。

 夜半をすぎれば客層が変わり、忙しさも収まった。

 前にプリムの手を引いて飛び込んだ大きな出窓から、青白く月の光が差し込んでくる。

 ――――今夜は満月かあ。

 うららは店の外へ出て、大きく伸びをした。

 夕刻に降った雨で、まだ空気がしっとりしている。

 今のうちにと、手に提げたクロスでガラス扉と窓を拭き、ついでに脚立を持ってきて立派な看板も磨きはじめた。

 流星堂魔術用品店。

 黒猫占い師にはぼったくられたけど、言っていることは間違ってなかったようだから、看板は店の顔という言葉もうららは気にしている。

 向かいの店も看板ありきだったし、大暴れしていたのも、取り壊される前の建物はそんなものだとニーナに聞き、なんとなく同情した。

『誰だって、バラバラになんかされたくないもの。少しは騒ぐでしょ』

 ニーナはわりと正論を言う。

 プリムさんのことだから、きっと慰めるつもりで踊ってたんじゃないかなと彼女は言った。

 向かいのパン屋の主人とは、何もない野っ原だったこの町にやってきて、一から町を興し、ともに盛り上げてきた仲間だったらしい。

 プリムさんは町のレジェンドなんだよ、とニーナは微笑んだ。

 うららが看板を拭き終わり、脚立から降りようと視線を下げたとき、石畳の歩道に長い影が射し、プリムが戻ってきた。

「お帰りなさい! 今夜は早かったですね」

 プリムはちょっと右手を挙げて見せた。

 珍しく返事がない。大抵は悪態だが、それもない。

 うららは急いで脚立を降り、それを片付けていると店の前で、プリムがゴロリと転がるのが見えた。

 ――――大変だ!

 慌てて窓から外へ出た。月明かりに照らされたプリムの背中は、まだ棘がなかば立ち上がり、何本かは根元からバキバキに折れて血が滲んでいる。

「店長!」

 それを避けて抱き起こすと、プリムは腫れ上がった瞼を半分開け、

「お師匠様と……呼びなさい」

 とようやく呟き、意識を失った。

 うららは焦ったが、まだ魔法の手袋を持っていることを思い出して両手にはめると、むくむく力が湧いてくる。

 意識を失ったことでプリムの棘もおさまったので、うららは彼女の体を抱え上げ、寝室へと運んだ。

 それから店に戻り、手袋の指示する通りにいくつかの薬を手に取って、どれも自分のツケにして支払った。

 寝室へ戻るとプリムは意識を取り戻し、つらそうに体を起こしている。

 うららの抱えている薬や手当の準備を一瞥し、ふんと小さく鼻を鳴らす。

「……見習いにしては、的確だわ」

 そう言って手招きしたので、うららはそれをプリムの前に並べた。

「いったい何があったんです」

「見りゃわかるでしょ……大立ち回りよ。でも勝ったわ、当然よ。安心なさい」

 プリムの指示でうららの手からするりと手袋が脱げ、てきぱきとプリムの手当を始める。

 その間にも魔法薬がとろとろとプリムの全身を包み込み、みるみるうちにプリムは回復していった。

 うららはハラハラしながら、ただそれを見守っていたが、折悪しく店の方から客の呼び声がする。

「行って。お客様をお待たせしちゃ駄目でしょ」

 プリムに言われ、慌ててうららは店へ戻る。手袋を付け忘れたが問題なく対応して客を送り出し、そろそろ夜明けも近いので店を閉めた。


 よくやったわね、弟子。


 奥へ戻ると、プリムが暖炉に火をくべていた。

「わたしがやります」

 とうららが駆け寄ると、もう大丈夫よと笑ってみせる。

 たしかに腫れ上がっていた顔の傷も、痛々しかった背中の棘もピカピカになって、すっかり元通りだ。

「あなたの手に取った薬が間違いなかったと、手袋が褒めてたわ」

 いえ、そんな。とうららは照れた。

 そこで手を出せと言われ、首を傾げながら出すと、プリムはそこに虹色に輝く星を三つ並べた。

「ついに取り返せたんですね!」

「だから勝ったと言ったでしょ」

 でも――――うららは考え込む。

「貰った情報は間違ってなかったので、いくらかはお支払いするべきかと思うのですが、それはどうやって……」

 プリムはにやりと口の端を持ち上げる。

「そんなの、何も知らないあなたを騙してぼったくった罪で相殺よ」

 うわあ、悪い顔。うららも笑い出す。

「まあ、そこは心配しなさんな。わたくしが旨くやっておいたわ。ただね……あなたに伝えたいこともあるの」

 おかけなさいと言われ、うららは暖炉前の長椅子に腰を下ろす。

 プリムもその横に腰を下ろした。

 気を利かせた魔法の手袋が、あたたかいココアを入れてふたりに給仕する。

 そのマグカップで冷えた手を温めるようにして、プリムはうららに尋ねた。

「さっきの星たちは、もうあなたの中へ戻った?」

 うららはポケットの中を探る。

 まだコロコロとした感触が三つそこにあった。

「いえ――――まだ」

 でしょうね、とプリムは頷いた。

「黒猫に指摘されるまでもなく、わたしも気づいていたのだけど、あなたはふたり分の徳を持ってるみたいね。その三つは、もうひとりのあなたが積んだものだと思うわ」

 もうひとりの――――撫子の?

 うららは手の中で輝く虹色の星たちを、愛おしい想いで見つめる。

「だからそのまま持ってなさいな。いずれ、もうひとりが受け取るでしょう。どのタイミングで、どういう風に受け取るかはわからないけれど、なるようになると思うわ」


 ――――なるように、なる。


 うららは心の中で繰り返す。

 そういうことだったのかと思った。

 むしろ、そのほうがいいとプリムも言った。たぷたぷの徳を光らせてあわいの道あたりをフラフラするのは、まるであやかしに「わたしを食べて」と吹聴するようなものだからと。

「そんな、危なっかしいことになってたんですか」

「そう、とても危なっかしいことになっていたの」

 大事にならぬうち、知れてよかったとうららは思った。

「実は……わたし」

 うららは自分が、自分の生と死についてどんどん忘れていくことや、孫と体を交換したらしいことをプリムに話し始める。

 プリムは珍しく口を挟まずに、ただうんうんと聞いてくれたが、忘れていくことにも意味がある、ただ忘れたことは忘れるなと、噛んで含めるようにうららに言う。

 暖炉の火が照らすプリムの横顔は、とても穏やかで優しい。

 イカレタ魔法使いでも、厳しいレジェンドでもなく、ふらりとやってきた旅のうららを親身に世話してくれる温かいひとだ。

 うららは心から、その身を張って自分と撫子のために大切な徳を取り戻してくれたプリムに感謝する。

 プリムは、ただうららの手を握って微笑んでいた。

 静かな夜に暖炉の火が燃え、窓の外の月光はただ輝く。

 そうして、その夜はしんみりと明けていったのだった。


 プリムのけたたましい叫び声で叩き起こされるまでは――――。

 






[まろうど 参]


 なんてことでしょう!

 なんてことでしょう!


 わたくしとしたことが!

 わたくしとしたことが!



 魔法使いの叫びで飛び起きたうららが慌てて寝室へ飛び込むと、プリムは目を血走らせ、激しくミルラの枝をふるっていた。

 部屋中のものが全て、彼女の頭上で舞い踊る。

 吠えまくる魔導書が一般書籍の尻に噛みつき、何着もの黒いローブは絡み合い、薬研に精密秤、大鍋に小鍋、箒とはたきが追いかけっこ。

 それを操るプリムの姿は針を逆立て、情熱的な交響曲を奏でる楽団の指揮者のようだ。

 はう、はうう!

 はう、はうう!

 急がなくては!

 急がなくては!

 このままでは!

 このままでは!

 勝手に飛ばされてしまう!

 勝手に飛ばされてしまう!

 激しい二拍子のリズムを奏でるプリムに、うららが一体どうしたのかと声をかけると

「あら――――うらら」

 タクトが停止し、宙を舞っていたものが、足元でパクパク口を開いているトランクに吸い込まれて行く。

 最後に自らも吸い込まれそうになったプリムは、慌てて体勢を立て直した。

 おっと、

 おっと、

 おっと、

 いけない。

 いけない。

 いけない。

 再び杖で宙をかき回す。

 今度は三拍子だ。

 トランクから漏れたものが、優雅に舞い上がった。

 服は袖を内側にふんわりと畳まれ、本は大きなものから順に積まれてベルトでまとめられ、瓶にはいった化粧水や櫛、小物たちはそれぞれ巾着袋やファスナー付きのポーチへと整理されていく。

 うららは首を傾げた。

「一体どうしたんですか?」

 プリムは小さく鼻を鳴らすと、さらに高く杖を振りかざす。

「悪いけどうらら、あなたの質問に答えている時間はもうないの。今すぐ立たなくては、わたしの徳が溢れて、望まぬどこかへ飛ばされてしまう。わたしには、もう先より行きたい場所があるのよ。このお店はあなたにあげます」

「さっぱり意味がわかりません」

 そううららが返すと、プリムは杖をふるったまま、口の端をちょっと持ち上げて見せた。

「そんなの今までずっとでしょ」

「確かにそうです、そうですけど。今日は一段とわかりません。行きたい場所ってどこです? わたしにお店をあげるっていきなり言われても困ります!」

 うららは叫んだ。

「――――よごさんす」

 部屋を舞っていた最後の荷物がトランクに吸い込まれると、プリムはようやく杖を懐にしまい、代わりに文庫本くらいの黒い手帳をうららに差し出す。

「あなたの言葉はもっともよ。これを差し上げます――――よく読んで、そして徳をお積みなさい。そうすればあなたの欲しがってたバスのチケット分くらい、わけもなく溜まるでしょう。そこからはあなたの好きにするといいわ。バスに乗ってこの町を出るなり、もう少しここを楽しむなり……」

 手帳を差し出す手が、ほんのり透けてきたことにうららは気づき、はっと息を飲む。

「――――店長」

「お師匠様と呼びなさいと言ったでしょ――――何か困ったことがあったら、ニコラとニーナの姉妹に相談するといいわ。あの子達は本当に真っ当で、親切で……優し……イイコ」

 ぱさりと手帳が床に落ちた。

 プリムの姿と、パンパンになったトランクが同時に消えた。

 うららは目を擦りあげる。

 つい今しがたまでプリムの立っていた床を、ゆうべまで質素なベッドのあった窓ぎわを、一緒にごはんを食べたダイニングを、小さな体がふんぞり返っていたお店のカウンターを――――

「店長……どこです? またふざけてるんですか!」

 そうして、店の棚の隙間や、天井裏、表の日よけ幕の下、風呂場や物干し場までを、一回、二回、合計三回ずつ覗き込んでプリムの姿を探し求めたが、もう彼女の気配は部屋のどこにも残っていなかった。

 うららはがっくりと肩を落とす。

「……お師匠……」

 ほんの一週間ほどの、短い師弟関係だったけど。

 床に落ちている黒い革表紙の手帳を拾い上げる。

 魔法の心得(世界を理解するための)

 表紙をめくると右肩上がりの美しいペン文字で、そう書かれていた。

「あとは……読めないよ」

 文字を拾い上げることはできても、書いてあることが理解できなければ、読み進めることはできない。

 几帳面に並んだ字は、時折跳ねたり変なところで傾いたりして、なんだかそれがプリムらしい気がする。

 うららは頬を擦った。

 魔法の心得。

「……世界を理解するため……」

 もっと徳を積んだら、すこしはわかるようになるだろうか。

 自分は魔法使いじゃないけれど、プリムは弟子だと呼んでくれたし。

「これをちゃんと読めるようになるまで、頑張るしかないかな」

 うららは涙のにじむ目を瞬かせ、手帳をワンピースのポケットにしまい込む。

 奥の寝室にあったプリムのものはすべてなくなってしまったが、お店にあった大半の商品はまだ残っている。

 夕刻には、いつもの客たちも顔を出すだろう。

 うららは顔を洗い、身支度を調えて開店準備をすることにした。







 それから、半月ばかりが過ぎた。

 店の中にあった商品のあらかたを売り切ったうららは、わずかに残った薬や羽ペン、羊皮紙などを木箱に詰め、カウンター奥の薬棚の下へ片付ける。

 店の前には『本日棚卸しのためお休みします』の貼り紙を出し、せっせと店内の掃除をした。

 お昼過ぎには台所に残っていたアップルパイと紅茶で腹ごしらえ、そのあとは窓と看板の跡を丁寧に磨く。

 流星堂魔術用品店の立派な看板は、プリムが旅立った時に一緒に出かけたらしく、今は日に灼けた大きな四角い跡だけがレンガの壁に残る。

 ニコラとニーナが言うには、うららが自分の店を出すと決め、店がそれを了承してくれれば、きっとそこに新しい看板がかかるんじゃないかと。

 でも、自分の店なんてそんな大それたこと。

「明日から……どうしたものかな」

 うららは独りごつ。

 バスチケットを買うには、まだ徳もお金も足りない。

 だらだらとこの町をふらつくことも想像するが、それよりは何かをしなければいけない気もする。

 考えるだけ考えてみよう

 埃をはらい、すっきりとした玄関を見上げた。

「少なくとも、わたしに本格的な魔法や魔術用品店なんて無理ね」

 でも

「そうね――――駄菓子屋とか」

 おもちゃ屋とかなら、やってみたい気もする。

「駄菓子屋かあ」

 うららは台所にあった蒲鉾板に『駄菓子屋ハルネ』とマジックで書いてみた。

 ちょっと良い感じに書けたので、しばらくそれを翳して眺めてみる。

 いいかも知れない。

 ふと、そう思った。

 魔法の水薬や丸薬は扱えないけど、よく冷えたラムネやサクサク美味い塩バター煎餅なら、いくらでも売れる気がする。

 カラフルな飴玉やらニッキ棒やたこ煎餅、スナック菓子を並べて。

 もんじゃ焼きもやってみたいなあ。

 昔ながらのスターベビーラーメン入りオンリーで。



 それいい!



 うららは店の前に飛び出した。

 ドンと新しい看板のかかった店構えに、顔を輝かせる。

「……駄菓子屋ハルネだ!」

 店は、うららのアイディアを受け入れてくれたらしい。

 赤地に白のレトロな看板が日焼けしたレンガに映える。もちろん光る目玉のステッカーつきで。

 日よけ幕の下にはガチャポンのマシンが三台。食品サンプルとスーパーボールとマジックアイテムのミニチュアに、隠しアイテム入りのポップが踊る。

 店内へ戻ると、陳列平台がすでに設置されていた。

 そこへ酸っぱいイカゲソやビッグカツやカレー煎餅の大瓶に、紙箱いっぱいのおみくじ飴、粉ジュース、サイコロキャンディ、笛ラムネが並ぶ。

 冷蔵庫にはマジックドリンクの代わりにニッキ水とラムネが。

 天井からはおみくじ飴のカラフルなリボンが。

 風にそよぎ、きらきらと輝き、訪れるひとの目と心を楽しませること請け合いだ。

「……わあ、すごい!」

 最初の客はニーナだった。

 表の看板を見てきたと、声を弾ませて扉を開く。

「うららん、やっと自分の店を持つ気になったんだね!」

 そう目を輝かせる彼女に、うららは大きく頷いて見せ、表の『棚卸し』の貼り紙を破り取って、カレンダーの裏側にマジックでデカデカと『本日開店』と書きとばし、貼り直した。

「達筆だねえ」

 ニーナが感心していると、商店街の買い物客たちも、つぎつぎ様子を覗きにやってくる。

「いらっしゃいませ!」

 うららが呼びかけニーナも声を合わせた。



「本日開店、駄菓子屋ハルネです!」







 うららは、ひとりで店を切り盛りし、すっかりその仕事にも慣れた。

 薄利多売の駄菓子屋のレジスターにも小さな金平糖ほどの徳がコツコツ溜まっていき、仕入れや必要経費を差引いた純利益も、僅かずつだが右肩上がりに増えて行く。

「塵も積もればなんとやらね」

 駄菓子屋ハルネは、ひらさか門前町ガイドにも載る人気店となった。

 朝から店じまいまで客足が続く。

 懐かしさも手伝って、町の住民ばかりか、立ち寄った旅人たちの口コミも広がったようだ。

 うららの店長としての給金も増えて、完全な黒字の軌道に乗せた頃には、バスの周遊券を余裕で買えるほどの蓄えもできた。

「そろそろ、お店番のアルバイトさんでも雇おうかしら……もんじゃ焼きもやってみたいし」



 そんな昼下がり、しとしとと春の雨が降る軒先に、雨宿りしてきた男がいた――――。



 店番をするうららと窓越しに目を合わせた彼は、黒いハットをちょっと下げて見せる。

 うららも目礼を返したが、先刻降りだした雨が止む気配はなさそうだと、ビニール傘を片手に表へ出た。

「こんにちは――――よく降りますね」

 男は小さなうららに驚いた様子で、短くひと言「ええ」と返す。

 うららは傘を差しだした。

 どうぞと言われた男は、さらに怪訝そうに切り返す。

「このあたりに、流星堂という魔術用品店があったはずなんだが」

 お嬢ちゃん、知らんかね。

 渋いカーキー色のトレンチコートを着た男は、そう問いかけながら何度も咳払いをした。その顔はうららと同じニンゲンのもので、獣の耳や牙もついていない。

「わたしが、この店を受け継ぐ前は確かに。ここが流星堂でしたよ」

 そう返すと、男ははっとしたように縦縞の日よけ幕や、黒い窓枠、それに真鍮のドアノブのついた重厚な扉などを振り返り、さらに大きな溜め息をついた。

「――――そうだったか……」

 落胆したその肩が小刻みに震えている様に思えて、うららは男の大きな手や、それがおさえている脇腹や、その足元にうすく広がっている紫色の水溜まりに目を止める。

 そして息を飲んだ。

 お師匠がひどい怪我をしたときにも、こんな風に手足がひどく震え、いやな色付きの脂汗が滴っていたのを思い出した。

 ――――呪いか、強い毒?

 魔法の手袋が指示を出し、薬をいくつも並べて見せたことも。

「……大丈夫ですか」

 傘を放り出し、うららは男の手を取った。冷たく強ばっている。

「どこが痛みますか」

 男の脇にくっきりとした獣の歯形を見つけた。紫色に腫れ上がり膿が滴っている。

「――――大変!」

 どこかに流星堂の薬の残りを片付けたはず。役に立つものが、まだあるかも知れない。

 魔法の手袋はもう手元にないけれど、思い出せる範囲のことなら。

 うららは窓から店内を覗き込む。

 そうだ!

「……ちょっと待ってください。残った薬を今、持ってきます」

 それから急いで店に戻って、カウンターの裏の棚の下を探った。中身の殆どは羊皮紙だったが、木箱の底までよく確かめると一本だけ、高価な万能治療薬の大瓶が残っている。

 それを片手に戻り、男に声を掛けた。

「ありましたよ」

 翡翠色の大瓶を見た瞬間、男の顔が和らいだ。

「……それをわたしに」

「もちろんです」

 ぐらりと傾く男の大きな体を支えて、うららは店の中へ案内する。入り口には休憩中と札をだし、ベンチに男を座らせて、奥から綺麗な水をたくさん汲んできた。

 それから救急箱の中のガーゼ、サラシ、ラップと絆創膏。

 毒にやられた傷口はひどく痛々しいものだったが、幸い、治癒力までは奪われていないようだ。汚れを洗ってラップをし、薬を経口で与えると、冷たくなっていた指先にまで少しずつ血が通ってくる。

 この町へ来る途中で、毒を持った大型の野犬に襲われたのだと男は言った。

「……ところで」

 体内の毒出しのために、瓶に残った薬を売ってくれと男に乞われ、うららは治療薬に貼られたラベルを読む。

「とても、お高い薬ですよ」

 一回分はお試し可能と書いてあるので、その通りに出したのだが、残りを丸ごととなると話が違う。

 喩え自分がいいと言っても、店がお代を戴くだろう。それがこの町のシステムだとうららが言うと、男は静かに頷いた。

「わかった。おいくらだね」

 星三つになる。

 うららの言葉に、男は呆気にとられたように瓶を見つめた。

「いや――――いくらなんでも」

 確かにとんでもない値段だ。だが

「この薬は原因不明の流行病もステージ4の癌もすべて治せるそうなので、こんなに法外な価格なのです」

 ああ――――男は項垂れた。

「放蕩がすぎた……今のわたしには、もう星三つ分の徳など残ってない……自業自得か」

 うつむいた首筋にまた脂汗が浮かび、ぽたぽたと指先から垂れた汗が紫色のシミを作る。

「さっき洗い流したはずなのに、また……」

 体に残った毒が回っているのかもしれないとうららは思った。

 わかりました。

「わたしが立て替えましょう」

 そう言って、ワンピースのポケットからコロコロと虹色の星を取り出す。

 驚く男の目の前で、うららがもう一度大きく頷くと、三つの星はすうっと宙に浮き、そのまま店のレジスターの中にチン!と音を立てて入っていった。

「――――あんた……いいのかね!」

 男は驚き、思わず立ち上がる。

「もう精算されちゃいましたし」

 うららは、彼に治療薬の瓶を差し出した。

「いや……しかし、星を三つも……三つも立て替えるとは」

 慌てふためく男は、さらに大きく目を見開く。

 そうして、うららを指差した。

「大変だ……あんた消えかかってるよ!」

 うららは慌てて、自分の両手、そしてワンピースの裾を持ち上げる。

「まあ――――」

 指は先端から、ワンピースは綿レースのフリルの裾から、足も半透明になりかけている。

「……あああ……」

 うららはプリムが同じようにして、旅立ったことを思い出す。

 どうやら男を助けたことで、うららもまた、徳が溜まりきってしまったらしい。

 どうしよう。

 プリムは、行きたいところがあると言っていた。

 勝手にどこかへ飛ばされたくないとも叫んでた。

 うららも同じだ。

 だが、あのときのことを思い出すと、もたもたしている暇はなさそうだった。

 急いでカウンターに駆け寄り、抽斗(ひきだし)の中からプリムに貰った黒い手帳と、自分のために取り分けていたバスの周遊券(パス)を掴む。

 チンとレジスターが三十六万円分の代金を受け取ると同時に、すうっとうららの両腕が消えた。

 痛みはない。さっぱりとして気持ちがいいくらい。

 腕の次は足が、続いて髪が。

 でも、どこに行くんだろう。

 ――――どうせなら。

 ニーナにお別れを言いたかった。

 プリムのいるところを訪ねたい。

 男が何かを叫んでいる。

 ありがとうをくり返し、この恩は忘れない。立て替えて貰った徳は、必ず後で返すと言っている。

 ――――どうやって?

 うららは、微笑んだ。

「どんなことをしても返す!」

 男は力んで叫ぶ。

 ――――まあ、いい。

 あのときのプリムも、こんな気分だったのか。

 勝手に星を使ってしまって、撫子にはごめんなさいだと思う。

 そうして全身が消えてしまう寸前。

 ――――あ、そうだ。

 うららは、男に言い残した大事なことを思い出した。




 この店はあなたにあげます!







 空高く打ち上げられたうららは、途中で方向転換し、どこか、遠くへと飛んで行く。

 ハリウッドのスーパーヒーローか。

 それとも空気の抜けていく風船か。

 伸びたおかっぱ頭とワンピースが風に翻り、はためいた。

 途中でくつが片方脱げた。

 もう片方も脱ぎ落とし、靴下も脱いだ。

 それでもプリムの手帳とチケットが飛ばされないよう、ワンピースのポケットをしっかり押さえる。

 空は広く、どこまでも続く。

 そうして、きらきらと輝く星空や眩しい太陽、群をなす鳥たちを横目に、風を切り、時を数え、いくつもの地平や水平を越えて行った。

 見知った山や川、そして町の風景がくり返し、左から右、そして前から後ろへと流れていく。

 うららはそこに、懐かしい思い出を見た。

 年老いた自分がいる。撫子と呼ばれていた頃の自分が、家を訪ねてきた幼い自分に驚いている。

 これが今の撫子、のちにうららと名付けられ孫としてハルネ家で育てられるようになった、もう一人の自分だ。

 ――――どうして、こんなことになったんだっけ?

 うららは記憶を手繰る。

『……迷子になったの』

 そう、小さな自分はそう言って、泥だらけの裸足のまま玄関で泣きじゃくったのだった。

 ――――迷子に……ああ……迷子に……。

 泣きじゃくる自分に慰める自分。

 夕焼け雲に絡まりながら、うららはさらに思い出す。

 足元には、登下校の帰り道、友達に干からびたカエルを押し付けられ泣いているうららの姿がある。

 撫子は困った顔をして、泣きじゃくるうららの頭を撫でている。

 なんだか不思議な感じがした。

 どちらの感触も覚えている。どちらの視点も記憶にあるのは、なぜだろう。

 ――――それから夏休み。

 夏休みが終わらなければいいと、うららは言い、撫子が入れ替わってみようかとおかしな提案をする。

 夢見の力。

 ふさぎこむ孫を励ますために、祖母がついた都合のいい嘘だった。

 ――――だけど、その嘘は真実にすり替わる。

 きゅっとするような、心の痛み。

 ――――あの記憶。

 夕凪がゆるやかな風にかわり、茜色の雲の切れ目から墨のような夜がしみ出してくる。

 うららはゆっくりとスピードを落としながら、黄昏の空を飛び続けた。

 眼下に祭り囃子が聞こえ始める。

 神社の参道を、血の気のない顔を歪め、スリッパのままかけていく撫子の姿。

 本殿の裏側。ブルーシートのかかった赤土の崖が崩れたその中に、赤い金魚模様の浴衣の袂が見えた。

 ――――あれはわたし。

 わたしだ。

 わたしだったはず。

 じゃあ、どうして撫子は「うらら、うらら」と自分の名を呼び続け泣き叫んでいるのか。

 ――――わたしたちは、本当に入れ替わった?

 いったいいつ?

 くだらないごっこ遊びで?



 うらら……うらら……!

 うらら……うらら……!



 違う。自分はただ死んだのだ。



 ――――あいて、ててて……。

 着地するときバランスを崩し、どこかでぶつけたらしい左の肘がズキズキする。 

 雨露に濡れた、ふかふかの土と青草の混じり合った匂いが鼻腔をくすぐる。

 くしゃみをして、うららは目を開けた。

 夕日の名残が、濡れた草原をうすぼんやりと照らしている。

 ワンピースの背中もしっとりと濡れて、うららは小さく身震いしながら起き上がった。

 飛んでいる間に脱げた靴と靴下が、きちんと草の上に並んでいる。

 それを身につけていると、

「おそようございます」

 ずいぶんと懐かしい言葉を聞いた気がした。

 辺りを見渡すと、すぐそばを流れる小川のなかほどにある平べったい岩の上から、一匹の河童がうららの様子を見つめているのだった。

「あ、ああ……おそようございます?」

 け、け。と、河童は笑った。

「わたし、どれくらい眠っていましたか?」

「さて。小一時間、あるいは半日、ほんの一瞬かも」

 禅問答かな、とうららは思った。

「……はあ。ここはどこでしょうか」

 今度は、はぐらかさずに河童は水かきの付いた手で、すぐ傍らのバス停留所を指す。

 のはらかわなか。

 錆の浮いた丸い金属プレートの文字が、夕闇に読み取れる。見覚えのあるキツネの横顔に12番の数字も入っていた。

「ということは、ここもあわいの道巡回バスの停留所なんですね」

 そうだよお嬢さん、と河童は頷いた。

「だけど、もう日暮れだ。今日のバスはもう来ないだろうね」 

 あたりをきょろきょろ見回していると、また河童が話しかけてくる。

「あんた、どこへ行く気だね、お嬢さん」

 そう問われて、うららは顔をあげた。

「どこって、言われても……そうね」

 そこで、自分はひらさか門前町から飛ばされてきた。どこへ行くかはまだ決めていないのだと説明すると、河童は、ああと納得したような顔をして自分の腹回りを探る。

「あんた、煙草を持ってないかね」

 ――――十歳児に聞かないでよ。

 いいえ、とうららが返すと、今度は肩と背中を探るようになで回す。

「じゃあ、何か口にいれるものは」

 乞われ、もう片方のポケットを探ると、休憩中に食べようと思っていたミニ煎餅の残骸があった。

「これくらいしかないけど……落ちた衝撃で粉々。でも袋入りだし味は変わらないと思う。食べる?」

 河童が水かきの手をぐんとこちらまで伸ばしたので、うららはそこに割れた煎餅のはいった袋を手渡した。

「あんたイイコだなあ――――よし、代わりにイイコトを教えてやるよ」

 河童は袋をあけ、長い指で器用に煎餅の欠片をかきだしてうまそうに食べ始めた。そして、

「もうすぐ月がでる」

 と河童は言った。

「そうしたら、そこの土手に立って向こう側を見てみな。面白いものが見れるぜ」

 運が良ければ、な。

 河童は、煎餅の最後の欠片の一粒まで食べきると、袋の皺を丁寧に伸ばし頭の皿に乗せて、またけっけと笑った。

 うららは背伸びして、草葉の向こうに広がる堤の土手に目を凝らす。

「ここからじゃ無理ね」

 よく見ると、変な地形だ。

 川の片側いっぽうにだけ、妙に高い堤防がある。

「向こう側の土地だけ低いのかしら……それとも」

 そして、また岩場に目をやったが、もう河童の姿はなかった。

 あれ?

 停留所のポールに濡れた手形がひとつ着いていた。

 うららは草原から岩場へ跳んで向こう岸にわたる。

 堤防の土手は高かったが、足場になるくぼみがところどころに空いていて、ラクに登れた。

 ぴょんぴょん跳ねて辿り着くと、うららは辺りを見渡し、大きく息をつく。




 おお……!




 それは、地平線まで続くなだらかな草原だった。

「これは凄いな」

 さっきの原っぱよりずっと広く、残日がどこまでも揺れる草波を映している。

「まるごと関東平野みたいだね」

 うららは適当なことを言って、笑う。

 その広大な草原の一角に、電車から見る広告のような看板が所狭しと立っていた。

 少し違うのは、広告看板が電車の線路にそって整然と同じ向きで並ぶのに対し、その看板は大きさも向きもばらばらで、折れ曲がったり斜めになったり、地中に深く埋もれていることだ。

 まるで隕石のように、空から落ちてきたふうにも思える。

 あるいは

「打ち上げられて、着地したとか」

 うららは墨色の空を見上げた。

 そのとき雲の切れ目から、月明かりが射してくる。

 ほんの一瞬、地面が揺れた。

 慌てて体を踏ん張り顔を上げると、草原の真ん中に深々と突き刺さっていた看板たちもうららと同様に、大地を踏みしめスックと背を伸ばした。

 さらに立ち上がった看板を支えるように、周辺からもにょきにょき、にょきにょきと何かが生え出してくる。

 うららは思わず身を乗り出す。

「……うわあ……」

 あれは――――何?

 看板は、もはや看板ではなかった。

 見る間に、それらは石造りや木造の建物、店舗へと形を変え、街灯や道となり、車が生まれ、光が集まり、たちまち華やかな街へと姿を変えていく。

 すごい。すごい。

 すごい!

「生きてる町だ」

 うららは土手を滑り降りた。もつれる足をさばきながら、走り出す。

 最初のネオンサインがうららを手招いた。

 大きなアドバルーンに、飛行船もぶちあがる。

 走るうららの足元に、道が出来ていく。青草ばかりが生い茂る広い野原の真ん中に、道が敷かれ、町までうららを導いていく。

 うららは走った。途中からスキップした。


 らんら、らんら、らん。

 らんら、らんら、らん。

 らんら、らんら、らん。


 町の手前にバス停留所も出来ている。

 ペンキの塗りあとも真新しい字で『のはらまちなか』とその名を読んで、うららは大笑いした。






[まろうど 肆]

 飛行船のいく方へ、大通りを歩いて行く。

 生きている町の呼吸は、数秒ごとに濃密になり、空を覆う電飾広告には飛び出す猫の広告や、グラスに注ぐ果汁の甘い香りまでが溢れている。

 空をゆくのは飛行船だけではない、ひゅーいひゅーいと弧を描くように四方から飛んでくる看板に乗って、その店の店主たちも行き交っている。

 おしるこ十八番と松ノ湯、それにクロフネ銀行やラーメン軒や十字電化など、町の一等地が次々と埋まっていくのは、看板同士のジャンケンの結果らしい。

 面白いなあ。

 つい上ばかり見て歩いていたら、ドンと足元の何かに躓いた。

「……あいたたた……」

 何かが呟いた気がして、すみませんと頭を下げると、黒々とした瞳に睨み返される。

「お気をつけなさい! 上と下と真ん中に、あなたの目はもう二つずつ必要じゃなくて」

 ごめんなさ――――。

 あ!

 あらららら――――。

 そこで睨み合うふたりは手を取り合い、同時に叫ぶ。

「弟子じゃないの!」

「お師匠でしたか!」

 まあ。

 まあまあ。

 まあまあまあ。

「まさか、こんなに早くあなたもここに来るなんて信じられないわ……」

「はい。駄菓子屋をやってたら、お師匠の残された薬を立て替えて……」

 なんかここまで飛ばされてしまいました。

 相変わらず、全然意味がわからないわね。

 ふたりは何度も同時に喋り、そのたびに笑みを漏らしては、互いの顔を見つめる。

 とにかく――――。

「元気そうで何よりだわ、うらら」

 嬉しそうにプリムは言った。

 はいと答えて、うららも笑った。

 そこで、時計塔が十八時の広告を流し始め、プリムがはっと我に返ったように、背後の大きなキャリーケースを引き直す。

「積もる話も聞きたいけれど、そろそろ開店の時間だわ。よければ、あなたも手伝ってくださらない?」

 もちろんですと、うららは小さな胸を張って答えた。





 流星堂魔術用品店。



 見覚えのある彫金の立派な看板のかかった煉瓦造りのレトロな建物は、賑やかな大通りを一筋入ったところにあった。

 重々しい木製の扉を開けると、薬草の匂いが立ちこめ、薄明かりに浮かぶ髑髏が、『いらっしゃいませ』の文字を掲げた羊皮紙に走らせた。

 薬棚にはアメジストやシトリンの群晶と大小様々な薬瓶、その下には丸薬やさまざまな薬種の分別された抽斗と背表紙の擦り切れた魔法書。

 以前のコンビニエンスストアのような店を想像していたうららは、面食らう。

「――――驚いた?」

 プリムはニヤリと薄笑いを浮かべて、うららを見やる。

「まあ……あんな品性下劣な大通りに出す店じゃないのは、確かね」

 プリムは言った。

 そして、便利なみんなの魔術用品もいいが、一級魔法使いの自分としては、こういう本格的な店を出してみたかったのだと、誇らしげに微笑んだ。

 ところで、とプリムが切り出す。

「あなた、例のバスチケットはちゃんと手に入れたの?」

 もちろんです、とうららは胸を張る。

「新しいお店でわたしも頑張ったんです。ちゃんと蓄えで支払って、ここに来る前にポケットの中へ……あれ?」

 うららはポケットの中を探った。

 プリムの手帳とバスの周遊券。

 カウンターの抽斗の中にしまっていたのを、消えかかる前に掴んでポケットに入れてきたはず。

「……まさか、落とした?」

 空を飛んでいた時も、あれだけはなくしちゃいけないと、ずっとポケットを押さえていたはず。

「ない……ない、ない!」

 大慌てでワンピースのポケットの右、そして左を裏返し、脱いでバサバサ裾を振り、さらに髪の毛の間や下着と靴下の中まで確かめたが、どちらも見当たらない。

「お……お、お師匠さまあ!」

 素っ裸のまま、うららは泣き出した。

「ああ……ああ、ああ」

 慌ててプリムが、うららの衣服を拾い集める。

「だって……だって。わたし頑張ったのに……すごくすごく頑張ってやっと周遊券二冊分も貯めたのに……それにお師匠様の手帳まで」

 堰を切ったように、嘆きが止まらない。

「泣かないの……もう泣かないで。お願いよ、うらら」

 プリムは困ったように呟くと、手早くうららに服を着せる。

 そして、言った。

 泣き止みなさい、うらら。

「あなたがあの高価なバス周遊券を二冊も買えるほど頑張ったなら、魔法使いとしての心得は、もう十分に理解できているはずです」

 でも、

「わたしがやっていたのは、魔術用品店ではなくて、ただの駄菓子屋ですよ」

 そううららが返すと、プリムはいいのよと微笑んだ。

「……魔法というのは、そういうものです。自分の能力に見合ったことを、コツコツ身につけていけばいいの」

 誰もが一級魔法使いになど、ならなくてもいいとプリムは言った。

「そんなことになったら、わたくしの商売があがったりです――――それに」

 それに?



 店の扉をノックする音がした。



「おはいりあそばせ」

 と、プリムが言う。

 重々しく扉を軋ませて現れた姿に、うららは声を飲みこんだ。

「相変わらず……うっかりした弟子だわねぇ、トンデモ魔法使い」

 すらりとした長身に、ぴったりとした赤いドレスを身に纏った黒猫が、そこに居た。

 このひともこの町へ来ていたのかと、うららは驚いた。

 金のチョーカーに赤いハイヒール。

 以前より羽振りが良さそうだ。

 ニヤニヤと微笑みながら、片手をひらつかせている。

 その中で羽ばたくものに、うららは叫んだ。

「……わたしのバス周遊券!」

「鳴らない目覚まし時計用のバス周遊券でしょ」

「だから、わたしの……」

 ポンと行儀悪く黒猫は、その束を放って寄こす。

「大通りに落ちてたわよ。鳴らない目覚まし用のパスチケットなんて、あんたのほかに誰も使えないから、わざわざ届けに来てあげたの」

 見事にそれをキャッチして、うららは言う。

「……どうもありがとう」

 プリムも言った。

「ありがとう、でも……」

 あら、なあに。と、黒猫は不満げに顎をしゃくる。

「そばに黒い手帳が落ちてなかったかしら。それもこの子のものなんだけど」

「えー知らないわぁ」

 ふうん。プリムは懐からミルラの若枝を取り出した。

「ほんとに、知らないのよ! わたしが拾ったのは、このバス周遊券だけだってば!」

 黒猫は慌てて両手を振る。

 プリムは杖を引っ込め、そうと小さく頷いた。

 そして、店の棚から輝くアメジストの晶洞(ジオード)をひとつ手に取って、黒猫に差し出す。

「ありがとう……これ、よかったらどうぞ」

 黒猫は目を丸くした。

 ジオードは掌に乗るほど小ぶりなものだったが、その煌めきは満天の星にも劣らず、とても高価なものに思える。

「い……いいのかしら。こんなお高そうなもの、戴いちゃっても……」

 思わず黒猫も遠慮するのを、プリムは押し切る。

「ええ。このチケットはこの子にとって、それはそれは大切なものだから。わざわざ届けてくださって、わたくしも師匠として感謝してるわ。これは、その気持ちよ」

 そ、そう?

 ようやく黒猫も安心したように、それを受け取る。

「そこまで言うなら……」

 ええ、とプリムも微笑んだ。

「ありがとう。そして、ごきげんよう」

 顔を引き攣らせながら、黒猫も答える。

「ご……ごげんきよう……」

 黒猫が去ってしまうと、うららはプリムと目を合わせる。

 ぷ。

 ぷぷぷ。

 先に噴き出したのはプリムだった。

「ごげんきよう、ですって」

「ごげんきよう……なんて」

「笑っちゃいけないわね。少なくとも親切に届けてくれたのに」

「笑っちゃいけませんよ。本当に助かりました。有り難いです」

 そこでふたりは固く抱き合って、改めて再会を喜び合ったのだった。



 結局、流星堂魔術用品店はその夜、臨時休業の札を表にかけた。





 それから、うららは旅を中断し、しばし『のはらまちなか』のすずかぜ横丁の角に舗を構える、新しい『流星堂魔術用品店』でアルバイトをすることになった。

 まず、暇だったこと。

 つぎに、うららが街を訪れて間もなく、ひらさか門前町で仲良くなった小鬼姉妹のニコラとニーナがやってきて、『うら町ダイニング』という人気店のメイドとして働き始めたのだ。

「ちょうど新人募集の広告を月刊魔術で見かけてさー」

「旅するだけの貯金も貯まったので、ふたりで思い切って来てみたんです」

 愛らしいふたりは揃って、見事、メイド採用となり、最近では週5で働きながら、ちょくちょく流星堂へ顔を出す。

 それから、いつまでも新しい店を持てず、看板に乗ったまま街の上空を飛び回っていた赤ら顔の男も、新しい流星堂を訪れた。

 門前町の店の向かいで、かつてパン屋を営んでいたという。

 これが噂の。うららも目を瞠る。

 プリムの徳を盗んだという噂は誇張されたものだったらしく、彼はもじもじしながら、いつかのランチ用にプリムの買い求めたタマゴサンドウィッチのお釣りを返した。

「……ごめんにょ、プリム殿。それがし、うっかりしていたんにょ。わざとじゃござらんゆえ。お許しくださいましませ」

 なんだかキャラの定まらないオヤジだなと、うららは思ったが、ふたりが古い知り合いなのは本当らしい。

 プリムは不問とし、快く足りなかった釣りを受け取る。

「よござんす、ナンデモ。わたくしは気にしていませんわ」

 そのことで、ようやく元パン屋のナンデモは街に認められ、通り外れのパン工場で働くことになった。

 ここでしっかり勤め上げ、いつかまたこの町で手作りの焼きたてパンを売りたいと張り切っていると、噂好きなニーナとニコラが、うららに教えてくれた。



「ちょっとーギンギンドリンク、きれてるんですけどお」

 また売り切れなのぉ?

「やーねー、うららの怠慢よ」



 黒猫はなんと毎日やってくる。

 特に、占いの席を出す夜には、開店前と開店後の二回も、夜食やら客待ちの間に読む雑誌やら、虫除けコロンに靴擦れパッチと張り込み、新商品のポップを見れば必ず買っていくほどだ。

 そうそう。

 プリムの望んでいた魔法使いのそれらしい魔法の店は、すぐに売り場を縮小され、今ではカウンターの後ろの小さな黒い薬棚だけにその面影を残している。

 そのかわり小さかった店舗は数か月で隣の店を吸収し、みんなの流星堂魔術用品店へと様変わりした。

 もちろん扱っている商品は、手軽ではあるが効き目を一級魔法使いのプリムが保障するものだから、売り上げは良く、あっという間に常連客が増えた。

 それでいいんですかと、一度うららはプリムに尋ねてみたが、プリムは小さく肩をすくめて見せるだけ。

「求められれば提供いたしますわ」

「お客様は神様っていいますよね」

 うららが返すと、プリムは

「あなた、その言葉の真意は間違っていましてよ。ご存じ?」

 と腹をたてたが、内心はまんざらでもないようで、そのあとしばしば『客人(まろうど)来たりて我神のごとく祈らん』と、開店の祈祷に付け加えるようになった。

 



「はーい。ギンギンドリンク、ひえっひえで入りまーす!」


 

 うららは、もう手袋とマスクの力を借りなくとも、一人前に流星堂のスタッフとして働ける。

 ごく稀に魔法薬の処方箋を持った客が来たときはプリムに任せるが、それ以外で困ることはほぼなくなったのではないだろうか。

 看板も毎日磨いている。

 バスチケットを求める客への対応もできるようになった。

 だが――――。




 一線――――!

 一線ッ!



 残念ながらうららに魔法の才能はないと、プリムは言う。

「弟子としての才は無限大なのに、魔法使いの才は壊滅的だわ……おかしいわねえ」

 腕組みをして首を傾げるが、ないものは搾り出しても出ないようで、うららは初級魔法の最初のページから、半年以上、先へ進めないのだ。

 でも、頑張ってこれだけは覚えなさいと、プリムは言う。

「精霊の赤ん坊が生まれてすぐに使う防御法よ」

 生まれてすぐの赤ん坊に出来るなら、壊滅的なうららでも、なんとかなるかも知れない。

「初級境界魔法――――さすがに魔獣には効かないけれど、ちょっとした目くらましの幻影や、その辺の雑魚あやかしには十分よ」

 うららの子々孫々のためにも、これだけは覚えることと、口を酸っぱくして言い含められ、なんとか、薄ぼんやりとした白い線を浮かび上がらせるられるようになったものの。

「本当は、しっかりバリアが貼れるはずなんだけど」

 あなたの場合は、多くを望まない方が成功率が高いと思うとプリムは言った。

「言霊に頼って、直接的な表現がいいと思うのよね」

 なので『一線』という言葉を、すうっと線を引くように述べること。

 そう言われて、うららはもう何千回も、一線を地面に唱え続けているのだが。



 一線――――!

 一線ッ!

 


 呪文が十万回を越えた頃。

 ようやく運動場に石灰で駆けっこのゴールを引くような白い線が地面に浮かぶ。

「もっと線を固くして!」

 プリムは言う。

「固く、断固として、そこからナニモノも入り込めないぐらいの意志を持って!」

 うららは頑張る。

 断固とする。

 そろそろ梅雨があけそうだ。

 今年の夏は、また撫子に会いに帰りたいとうららは思っているのだ。

 どうやら、自分がこちらでうろうろしているうちに、撫子は同居人を増やしたと、店を訪れた旅の精霊たちに伝え聞いた。

 なんでも、面白い子らしい。

 大きくて赤い髪をしている。

 おっとりして、好奇心旺盛。

 そしてふたりは仲良し。撫子は以前より明るく、元気になったそうだ。

「いいじゃないか! いいじゃないかッ!」

 是非その子の顔も見てみたいものだ。

 俄然、特訓にも力が入る。



 一線――――!

 一線ッ!

 


 そうして――――

 うららの特訓は梅雨が明け、盛夏となり、そろそろ盂蘭盆会も終わろうかと言う頃に、やっと形となった。

 ピシッと引いた固い線は、短いが鏡のように魔を弾く。

「――――これなら大丈夫」

 あわい道のあやかしも、無闇に寄っては来ないだろう。

 プリムの太鼓判を貰い、一週間のお休みとこれまでのお給金を少しはずんで貰った。

 うららはそれで夏祭り用の浴衣と兵児帯、下駄を買い求める。

「……ずいぶんめかし込むのね。子孫のところに帰るだけでしょ?」

 ブリムが不思議そうな顔をしたので、故郷はちょうど夏祭りなのだとうららは説明した。

「地蔵盆というのですよ。盂蘭盆会(うらぼんえ)のあとに迎えるお祭りです。全国でも、ごく限られた地域に残る風習だそうで」

 へー、とやる気のない相槌をプリムは打った。

「二日ほどで戻ってきますよ」

「ゆっくりしてきていいのよ」

「孫と同居人にちょっと挨拶したいだけですから」

「お祭りはきっとすごく楽しいんじゃないかしら」

 このひと、気持ちのはいらないときは不必要に早口で話すんだよなあと、うららは笑った。

 今年に入り、ようやく三途の川の渡しが再開され、のぼりの渋滞も緩和されたので、片側通行規制が解除された。そう話した時も、物凄い早口で、山を焼く祭りは安全になのかどうかと聞き返してきた。

 安全に留意しているそうですよ。

 うららは返し、それでも過去には色々とトラブルがあったかも知れないと付け加える。

「お祭りは、ただ楽しいだけじゃないです。弔いや祟りをおさめる意味もあるので」

「――――なぜ?」

 プリムは尋ねた。

「なぜと言われても」

 うららは返す。プリムはさらに言う。

「どうしてそこまでして、死んだものの魂をニンゲンは弔うのかしらね。精霊や魔物にとって、死はただの通過点にすぎないというのに。ニンゲンだけよ。そこまで死に執着するのは」

 執着?

 プリムの言葉の意味は、一度死んだうららにはよくわかる。

 ですよねと唸ったあと、ふと

「……思い出かな」

 と、うららは呟いた。

「思い出?」

 プリムは鸚鵡返しにする。

 うららは頷いた。

「思い出が死を越えてなお、強く心を揺さぶるんです。生きているものの心も、死んでしまったものの心も――――」

 プリムは遠い目をした。

 そして、それならわかると呟いて、うららの肩をちょっと抱いた。




 いよいよ旅支度を始める。

 それほど持っていくものはない。

 髪をあげ浴衣を着たら、あわいの道巡回バスの鳴らない目覚まし時計用の周遊券を持って、小銭とハンカチとティッシュ。

 ――――あとは思い出。

「そういうものなの?」

「そういうものですね」

 怖いのと寂しいのと、色々な思いが入り交じり、生きていた頃の思い出にすり替えて、物思う。

「ニンゲンって面倒臭いんです」

「ニンゲンは面倒臭い生き物ね」

 装いを整えたうららにプリムは目を細め、表のバス停留所まで見送るといって、ふたりで店を出た。

「なにかあったら、いえ、ある前に必ずあの一線を引きなさい。あなたの子孫にも教えるといいわ。ビシッとね」

 プリムが言い、うららは頷く。

「はい。ビシッと」

「ええその意気よ」

 通りの向こうから、見覚えのあるバスがやってきた。

 ――――じゃあ。

 行ってきますと、うららが言う。

「行ってらっしゃい」

 プリムが笑った。

 ふたりは手を振って、別れた。





 うららは自分専用の周遊券(パス)をバスの車掌に見せ、後ろ側のふたりがけ席に乗り込む。

 バスはほどよく混んでいた。

 残暑が厳しく、大きな扇風機が稼働している。

 周遊券についているサービスドリンクは、最初に引き換えて常温のミネラルウォーターをもらった。

 三つほど停留所を過ぎた頃、ひらさか門前町のアナウンスがあり、うららは思わず窓の外を覗き込む。

 降りるものも乗るものもなかった。

 懐かしい石の外壁と、ランプがつきっぱなしの自動販売機が目の前を通り過ぎ、そこからは延々と続く黄色いセイタカアワダチソウの坂道だ。

 登って。

 降りて。

 走って。

 揺れて。

 代わり映えのしない景色に、うららはほんのちょっとうたた寝をした。



 つぎは、みどり町二丁目公園。

 みどり町二丁目公園――――です。



 うららは目を覚ます。

「お降りのお客様はお声がけください」

 赤ら顔のキツネ帽をかぶった車掌が声を張る。

 二人の目が合った。

 ニッと微笑まれ、うららは頷く。

 降ります――――と、周遊券を持った片手を翳し、バスが減速するのを待った。

 三年ぶりの里帰りだ。










シリーズ小説『うらら・のら』 作 桃正宗・佳原安寿


■重複掲載WEB

https://novel.daysneo.com/author/sumica_wato5656/


■プロフィール

https://note.com/yukierika_wako/n/n92424737a968



お目文字賜り、ありがとうございました。

こちらの作品は全年齢対象ファンタジーライトノベルです。

著作権は日本国の法に守られ著作者に帰属いたします。無断での文章転載・翻訳およびデータ利用はご遠慮ください。

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