フリーマウンテン1
遠征当日の朝。時刻は七時三十分。
私たちは朝食も食べ終え、準備万端の状態でグルンレイドの屋敷の玄関前に立っていた。背中のカバンには着替え、水、携帯食料、記憶磁石、地図そして昨日カルメラさんから預かった採取用の特殊な容器。目的は月の国にある"月の砂"の入手。用途については教えてもらえなかったが、気にしても仕方ない。グルンレイドのメイドとして与えられた任務をこなす、それだけだ。
「気持ちの整理はついたかしら?」
カルメラさんが三人の顔を見てそう言った。
「はい。問題ありません。」
私の返答に、後ろの二人もうなずいた。三人の表情を確認すると、カルメラさんは優しい微笑みを投げかけてくれた。あんな顔をするんだ、この人。
「行ってらっしゃい。」
「「「行って参ります!」」」
その声とともに三人は浮遊魔法を唱え、空高く飛び上がった。
朝の空気が冷たくて気持ちいい。グルンレイドの屋敷がどんどん小さくなっていく。振り返ると、カルメラさんはまだこちらを見上げていた。
「カルメラさんのあんな安心した顔、初めて見たかも。」
「そう?たまに見ると思うけど……」
オリビアちゃんの言葉に私がそう返すと、
「私もオリビアちゃんに同意。初めて見たよ!」
レイリンちゃんもそう言った。いつも忙しそうにしているカルメラさんが笑顔を見せることは、そんなに珍しいことだっただろうか。
「どちらかというと怒っている印象の方が強い。」
「それはわかるかも。ルナさんとか毎日怒られてない?」
ローズの一人であるルナさんが毎日のようにカルメラさんに怒られているというのは、グルンレイドの屋敷内ではもはや日常だった。何をやらかしているのかは知らないが、大体ルナさんが悪い。
「そんなことより、グルンレイド領を抜ける前にもう一回遠征の内容を確認したいんだけど。」
「おっけー。目的は月の国で"月の砂"を採取すること。」
私は背負っているカバンの中身を頭の中で確認しながらそう答えた。
「月の砂、どんなものなんだろうね。」
「カルメラさんは"触ると冷たい不思議な砂"としか教えてくれなかったよ。用途も秘密だって。」
「秘密って言われると気になるんだけどなぁ。」
レイリンちゃんがそう言いながら空中でくるりと回った。飛行しながら回転するのは地味に難しいのだが、この子は体の使い方が上手いから簡単にやってのける。
「話を戻すよ。ルートはまずフリーマウンテンを越えて、王国を経由、そこから南下して月の国に入る。」
「王国を経由するんだ。まっすぐ南に行けないの?」
「グルンレイド領から直接南に向かうと、指定危険区域である静寂の森があるから、体力を残すためにも王国経由のほうがいいはず。」
「了解、わかった。」
オリビアちゃんはそれだけ聞くと、前方に視線を戻した。この子は納得すればそれ以上聞かない。無駄がなくて好きだ。
「宿泊はどうするの?」
「月の国に着いたらそこで一泊する予定。次の日の夜までには帰ってきなさいってカルメラさんに言われてるから、あまりのんびりはできないけどね。」
「了解!」
そんな話をしているうちに、グルンレイド領の境が近づいてきた。空気の質が変わり始める。グルンレイド領には常に魔力拡散結界が展開されていて、その内側と外側では魔力密度が明確に違うのだ。
そして——三人はグルンレイド領を抜けた。
「……いつの間にか外に、出たんだね。」
レイリンちゃんが小さくそう呟いた。
「魔力密度が少し上昇したからすぐにわかる。」
オリビアちゃんが冷静にそう分析する。拡散結界の外は、結界の中よりも自然の魔力密度がわずかに高い。微妙な差だが、毎日訓練で魔力を扱っている私たちにはすぐにわかった。
「ここが……外。」
レイリンちゃんの声がほんの少しだけ震えていた。でも、足が止まることはなかった。
「みんな、調子はどう?」
「悪い……ように見える?」
「問題ない。」
「だよね。」
私はまっすぐに、フリーマウンテンの方角を向いた。カルメラさんの言葉、リリィさんの言葉が三人に勇気を与えてくれている。今の私たちに"恐怖"の文字はない。
「少し先の地上にゴブリンの群れを発見。」
オリビアちゃんが観測魔法で捉えたようだ。
「オリビアちゃん、やってみる?」
オリビアちゃんがカバンの中から剣を取り出そうとすると、レイリンちゃんがそれを止めた。
「クレアちゃん、私にやらせて。」
「レイリンちゃん……いいよ。思いっきり、ね。」
レイリンちゃんはうなずくと、猛スピードで地面へと飛んでいった。ゴブリンの群れの前に降り立つ。上から見ていると、十数匹のゴブリンがレイリンちゃんの存在に気づいて一斉に襲いかかっていくのが見えた。
「リリィさんの言うとおりに、怖くなる前に、一発ぶっ飛ばす!龍技・」
レイリンちゃんの周囲の魔力密度が急激に上昇した。右手に魔力が集まっていき、熱を帯び始める。
「バーンナックル!」
先頭のゴブリンの顔面にレイリンちゃんの右拳が触れた瞬間、爆音が鳴り響いた。ゴブリンの群れは一撃で全壊した。
「あちゃー、地面抉れてるし燃えてるし……。」
「でも見て、レイリンちゃんのあの表情。」
「だね、やってやったぜ、って顔してるね。」
地面に落ちる魔石には目を向けず、空に浮かんでいる私たちに向かってレイリンちゃんはガッツポーズをした。私とオリビアちゃんもガッツポーズを返す。
レイリンちゃんの攻撃で破壊された地面は平らにならして、焼けこげた部分は目立たないように土の中に隠した。不自然にその部分だけ茶色い土が露わになっていてかなり不自然だったが、三人ともその部分には目を瞑って空に飛び上がった。
「スッキリした?」
「うん、スッキリした。私の中に渦巻いていた不安が綺麗さっぱり消えた。」
「それはよかった。でも油断したらダメだよ?」
私はあえて釘を刺す。確かにレイリンちゃんの龍技はここら一帯の魔物には敵なしだろう。しかしそれで最強になった気になってはいけない。
「わかってるよ。毎日のようにローズの方々を見てるんだもん。大丈夫。」
その返事に、私は素直に笑顔を見せた。
「クレアちゃん、レイリンちゃん、次敵が出てきたら、今度は私ね。」
「うん、いいよ。」
オリビアちゃんも早く自分の実力を外で試してみたいようだった。レイリンちゃんとは違って、外の世界に対する恐怖はもうほとんど払拭されていて、単純に力試しがしたいという顔をしている。
前方には、巨大な山の影がうっすらと見え始めていた。フリーマウンテン。私たちの最初の関門だ。




