散らない桜7
十五日目からは、剛斎様が直接打ち合ってくれる時間が増えた。
といっても、剛斎様が本気を出すことはない。私の打ち込みを捌きながら、体の使い方の癖を見ている。時折「肩が上がっている」「踏み込みが浅い」と短く言うだけだが、それだけで十分だった。その一言を意識するだけで、次の一振りが変わる。
十六日目の朝。いつものように晴之介様と素振りをしていたとき、ふと気づいた。
闘気を内側に通すことを、意識していなかった。
正確に言えば、意識しなくても通っていた。腹の奥から腰を抜け、腕を伝い、剣先に流れる。それが呼吸と同じくらい自然になっていた。いつからそうなったのか分からない。昨日の夕方あたりからかもしれないし、今朝の一振り目からかもしれない。
「晴之介様。」
「はい。」
「今、私——意識していませんでしたわ。」
晴之介様は一瞬きょとんとした顔をして、それから静かに頷いた。
「分かります。今朝のアナスタシアさんの素振りは、昨日までとはまるで違いました。」
「どう違いますの?」
「音が違います。」
音。確かに、木刀が空気を裂く音が変わった気がする。以前は鋭く尖った音だったのが、今は深く、太い音になっている。
「師匠が仰っていた、呼吸と同じように——ですね。」
「ええ。でも、まだ打ち合いの最中に維持できるかは分かりませんわ。」
「試しましょう。」
晴之介様が構えた。私も構える。
打ち合いが始まる。一合、二合、三合。闘気が途切れない。内側を通り続けている。五合、八合、十合。晴之介様の打ち込みが徐々に強くなっていく。本気に近い速度で打ち込まれても、闘気の流れが乱れない。
二十合を超えたあたりで、晴之介様が大きく踏み込んできた。
「バルザ流・風斬り!」
速い。だが、見えた。晴之介様の刀身に闘気が乗る瞬間が見えた。私も踏み込む。
「バルザ流・土切り!」
木刀と木刀がぶつかる。衝撃が腕に伝わる。だが、弾かれなかった。晴之介様の構えも崩れない。互角だった。
互角。晴之介様と互角に打ち合えた。
二人同時に飛び退いた。息を整える。晴之介様の額に汗が浮かんでいた。私も同じだろう。
「……参りました。」
晴之介様が木刀を下ろして、そう言った。
「え?」
「最後の一合、私は全力でした。それを受け止められた。これは私の負けです。」
「全力……ですの?」
「はい。アナスタシアさんの闘気、本当に変わりましたね。」
晴之介様が真っ直ぐにこちらを見ていた。その目に嘘はなかった。悔しさもない。ただ純粋に、私の成長を喜んでいるような目だった。
こういう人なのだ、と改めて思った。自分が負けたことよりも、相手が強くなったことを喜べる人。その在り方は、どこかカルメラさんに似ている気がした。
「ありがとうございます、晴之介様。あなたが毎日打ち合ってくださったおかげですわ。」
「私も勉強になりましたから。魔法の剣を間近で見られる機会はそうありません。」
私は訓練中、バルザ流の技に時として魔法も混ぜて使っていた。剛斎様に闘気を極めろと言われたが、魔法を捨てたわけではない。基本的な動きはバルザ流で、そこに闘気のほかに魔力を乗せる。それが私の剣だ。そのことに、ここでの訓練を通じて気づくことができた。
縁側で見ていた剛斎様が立ち上がった。
「晴之介。」
「はい、師匠。」
「お前、負けたな。」
「はい。」
晴之介様が迷いなく答えた。
「鍛え直しだ。」
「……はい、師匠。」
晴之介様が苦笑いした。だが、その表情には嬉しさが混じっていた。自分を鍛え直す理由ができたことが、この人には喜ばしいのだろう。
剛斎様が私の方を見た。
「いつ発つ。」
「明後日には発たなければなりませんわ。船の便がありますので。」
「そうか。」
それだけだった。引き留めもしなければ、早く行けとも言わない。ただ、事実を確認しただけ。
「明日が最後の稽古だ。」
「はい、剛斎様。よろしくお願いいたします。」
剛斎様は何も答えずに、道場の奥へ消えていった。
——最後の日。
朝から剛斎様が道場に立っていた。刀を手にしている。これまでの訓練で、剛斎様が朝から道場に立っていたことは一度もなかった。
「来い。」
一言。私は長剣を取った。
最後の手合わせが始まった。
剛斎様の動きは、今まで見せてくれたものとは次元が違った。今まで手加減していたのだということが、一合目で分かった。一振り一振りに乗る闘気の密度が桁違いに重い。受け止めるだけで腕が痺れる。
だが、逃げるつもりはなかった。
闘気を内側に通す。腹の奥から、腰、腕、剣先へ。力まない。流す。
「バルザ流・雨斬り!」
連撃。剛斎様はそれを片手で捌く。だが、以前のように一方的ではなかった。私の闘気が、確かに剛斎様の刀に届いている。弾かれるのではなく、受け止められている。
「バルザ流・周断!」
闘気にわずかな魔力を混ぜる。バルザ流の動きに、魔力を乗せた、私だけの剣。剛斎様の目が細くなった。
「面白い使い方をする。」
その一言を聞いた瞬間、剛斎様の闘気が爆発的に膨れ上がった。一振り。
「っ——!」
吹き飛ばされた。地面を二回転がって、ようやく止まる。長剣は手の中にある。だが、腕の感覚がない。
「……参りました。」
立ち上がろうとして、膝が震えた。剛斎様が歩いてきて、私の前に立った。
「お前の闘気は、来た時とは別物だ。」
「ありがとうございます、剛斎様。」
「だが、まだ荒い。十年は修行が足りん。」
「十年、ですか。」
「十年後にまた来い。もう少しまともに打ち合えるようにしておいてやる。」
剛斎様が背を向けた。その背中は小さかったが、どこまでも大きく見えた。
「十年後、必ず参りますわ。」
剛斎様は振り返らなかった。だが、その足がほんの一瞬だけ止まったのを、私は見逃さなかった。
ーー
最後の食事を終え、私は縁側で髪を解いていた。訓練中は邪魔にならないように結んでいたが、明日からはメイドに戻る。髪を整えておかなければ。
指で梳いていると、晴之介様が声をかけてきた。
「アナスタシアさん、これをお使いください。」
差し出されたのは、木でできた小さな櫛だった。
「これは?」
「極東の櫛です。桃の木で作られていて、髪に良いとされています。よろしければ。」
「お借りしてよろしいのですか。」
「差し上げます。」
「そんな、いただけませんわ。」
「お世話になったお礼です。アナスタシアさんのおかげで、師匠に鍛え直しという目標ができましたから。」
晴之介様が笑った。私は櫛を受け取った。手のひらに収まる小さな櫛だったが、丁寧に磨かれていて、手触りが滑らかだった。
髪に通してみる。引っかかりもなく、するりと通った。
「……素敵な櫛ですわね。」
「似合っていますよ。金色の髪に桃の木の櫛は合うだろうと思っていました。」
この人は会って間もない頃から、こういうことをさらりと言う。道着に着替えたときも「よくお似合いです」と言い、訓練中に汗で髪が張り付いた私を見て「それはそれで綺麗ですね」と真顔で言った。誰にでもこういう言い方をする人なのだろう。極東の礼儀というものかもしれない。
「晴之介様は、お上手ですわね。」
「お上手、とは?」
「そうやって、さらりと褒めるところですわ。きっと誰にでもそう仰るのでしょう?」
軽い調子で言った。嫌味ではない。事実を確認しているだけだ。
だが、晴之介様は少しだけ困ったような顔をした。
「誰にでも、というのは違います。」
「あら、そうですの?」
「私は嘘が下手なので。思ってもいないことを口にするのが苦手なんです。」
その声は静かだったが、いつもの柔らかさとは少し違う響きがあった。
「似合っているも、綺麗だというのも、すべて心からそう思って言っています。お世辞を言えるほど、器用な人間ではありませんから。」
まっすぐにこちらを見ていた。月明かりの下で、その目に冗談の色は一切なかった。
「……そう、ですの。」
何か気の利いた返しをするべきだった。いつもなら「まあ、ありがとうございます」くらいは言える。だが、言葉が出なかった。晴之介様の目があまりにも真っ直ぐで、受け流すことができなかった。
視線を櫛に落とす。月の光を受けて、桃の木の表面が淡く光っていた。
「大切にしますわ。」
「はい。」
沈黙が数秒。虫の声だけが響いていた。
「それでは、おやすみなさい。明日の朝、お見送りします。」
晴之介様が立ち上がり、いつも通りの穏やかな声で言った。さっきまでの空気が嘘のように、自然に去っていく。この切り替えの早さも、この人の美点なのかもしれない。あるいは、鈍いだけなのか。
「おやすみなさいませ、晴之介様。」
晴之介様が去った後、私は櫛を握ったまましばらく動けなかった。
嘘が下手。思ってもいないことは言えない。つまり、今まで言われたことは全部——。
柄にもなく、私のほほが少し火照るのを感じて、これ以上考えるのをやめた。
部屋に戻り、櫛を荷物の中に大切にしまう。そして、布団に横になって目を閉じる……が、なかなか眠ることはできなかった。
ーー
——出発の朝。
荷物をまとめ、メイド服に着替えた。道着を丁寧に畳んで晴之介様に返す。
「いえ、差し上げます。また来るときに使ってください。」
「よろしいのですか。」
「もちろんです。」
晴之介様が笑った。私は道着を鞄の中にしまった。
道場の前で、晴之介様が見送ってくれた。剛斎様の姿はなかった。
「剛斎様は。」
「師匠は見送りが苦手な方ですから。気にしないでください。」
「……そうですの。」
少し残念だったが、あの人らしいと思った。
「アナスタシアさん。」
「はい。」
「また来てください。師匠も——私も、待っています。」
晴之介様が真っ直ぐにこちらを見ていた。穏やかで、誠実な目だった。
「ええ。必ず、また参りますわ。」
頭を下げて、山道を下り始めた。背中に晴之介様の視線を感じる。振り返りたかったが、振り返ったら戻りたくなりそうだった。
山道を半分ほど下りたところで、足が止まった。
道の脇の木の枝に、布が一枚結びつけてあった。古びた布に、墨で一文字だけ書かれている。
『励』
剛斎様の筆跡だった。
カルメラさんの置き手紙を思い出した。あのときと同じように、私はその布を丁寧に取り外し、懐にしまった。
「行ってまいりますわ。」
山を下りた。港町へ向かい、船に乗った。
帰りの船旅は行きよりも短く感じた。黒海を通過するときも、行きほどの緊張はなかった。甲板で闘気を練る訓練を続けた。内側を通す感覚は、もう失われなかった。
カブの港に着き、飛行魔法でグルンレイド領へ向かう。全力飛行。行きと同じように魔力を大量に消耗するが、体の芯にある闘気が安定しているせいか、行きよりも体が軽く感じた。
グルンレイド領の屋敷が見えた。東門から入る。門のそばの柱には、もう紙は挟まれていなかった。
カルメラさんの部屋に向かう。扉の前で立ち止まり、息を整えた。
「カルメラさん、ただいま戻りましたわ。」
扉を開ける。カルメラさんが机に向かっていた。こちらを見て、少しだけ目を細めた。
「おかえりなさい。」
「散らない桜の花びら、採取してまいりました。」
布に包んだ花びらを差し出す。カルメラさんはそれを受け取り、中身を確認した。
「綺麗な花びらね。ご主人様にお渡ししておくわ。」
「はい。お願いいたします。」
カルメラさんが花びらを机の上に置いた。そして、改めて私を見た。
「変わったわね。」
「……分かりますか。」
「分かるわよ。あなたの闘気、来る前とはまるで違う。」
カルメラさんは笑わなかった。だが、その目には確かな満足があった。
「いい指導者に出会えたようね。」
「はい。剛斎様という方に教えていただきました。バルザ流の——」
「詳しい報告は明日でいいわ。今日は休みなさい。」
「はい。」
部屋を出ようとしたとき、カルメラさんの声が背中にかかった。
「アナスタシア。」
「はい。」
「お疲れ様。」
短い言葉だった。だが、カルメラさんのその一言の重さを、私はよく知っている。
「ありがとうございます、カルメラさん。」
頭を下げて、廊下に出た。
自室の扉を開ける。中にはリアがベッドに寝転がって本を読んでいた。メルテは机で何かを書いている。出発した朝とまるで同じ光景だった。
「あ、おかえり、アナスタシアちゃん!」
リアが本を放り出して飛び起きた。
「ただいま戻りましたわ。」
「どうだった!?極東!海!料理!」
一度に聞きすぎだ。だが、その勢いが嬉しかった。
「海は綺麗でしたわ。リアさんの言っていた通り。色が変わっていくのが本当に美しかった。」
「でしょ!」
「料理も覚えてきました。焼き魚と煮物がとても美味しくて。」
「やった!約束守ってくれたんだ!」
リアが嬉しそうに笑う。
「おかえり。」
メルテが机から振り向かずに言った。
「ただいま、メルテさん。」
「強くなった?」
「……ええ。少しだけ。」
メルテが振り向いた。私の顔を見て、ほんの一瞬だけ口元が動いた。
「少しじゃない。」
それだけ言って、メルテは再び手元に視線を戻した。
私は自分のベッドに腰を下ろした。懐に手を入れると、二つの布が指先に触れた。一つはカルメラさんの『風邪をひかないように』。もう一つは剛斎様の『励』。
どちらも短い言葉だった。だが、どちらも私の背中を押してくれた。
「ねえねえ、アナスタシアちゃん。極東の話、もっと聞かせてよ!」
「はいはい。でもまず着替えさせてくださいまし。」
「あ、そうだよね。ごめんごめん。」
リアが笑って、ベッドに戻る。メルテが小さくため息をつく。
いつもの部屋だった。何も変わっていない。
だが、私は少しだけ変わった。
メイド服に袖を通す。道着とは違う、体に馴染んだ感覚。グルンレイドのメイド。それが私だ。極東で道着を着て剣を振ったが、帰ってくる場所はここだった。
窓の外では、夕暮れの光がグルンレイド領の屋敷を照らしていた。




