散らない桜6
九日目からは、闘気を内側に通す感覚が少しずつ安定し始めた。まだ十回に三回は失敗する。だが、あの感覚を意識的に呼び起こせるようになってきた。
剛斎様は相変わらず言葉が少なかった。私が振るのを見て、時折「遅い」「浅い」「力み過ぎだ」とだけ言う。それ以上の説明はない。だが不思議と、その短い言葉が的確に刺さった。
十日目の昼。晴之介様との打ち合いの最中に、剛斎様が立ち上がった。
「晴之介。」
「はい、師匠。」
「少し出かける。こいつを連れていけ。」
「どちらへですか。」
「桜だ。」
晴之介様の目がわずかに広がった。
「師匠、よろしいのですか。」
「あれを見せてやれ。剣ばかり振っていても頭が固くなる。」
それだけ言って、剛斎様は道場の奥に引っ込んでしまった。
「桜、ですの?」
「はい。散らない桜のことです。」
私の任務の本来の目的。花びらの採取。訓練に没頭していて、正直なところ後回しになっていた。
「この山のさらに奥に自生しています。師匠の道場からは歩いて一刻ほどです。」
「晴之介様は、散らない桜をご覧になったことが?」
「何度か。師匠と一緒に見に行ったことがあります。」
晴之介様が少し懐かしそうな顔をした。
「初めて見たときは、言葉を失いました。」
「そんなに美しいものですの?」
「言葉で伝えるのは難しいですね。見ていただいた方が早いかと。」
晴之介様が柔らかく笑って、歩き始めた。私も後を追う。
道場の裏手から山道をさらに登っていく。道は細く、人が通った形跡がほとんどなかった。木々が密に茂り、足元は苔と落ち葉に覆われている。空気はひんやりとして、山の奥へ進むほどに静けさが深くなっていった。
「この先に谷があります。散らない桜はその谷の中に一本だけ生えています。」
「一本だけ?」
「はい。師匠の話では、昔はもっとあったそうですが、今ではこの一本だけになってしまったそうです。」
なぜ一本だけ残ったのか。聞きたかったが、晴之介様も詳しくは知らないようだった。
木々の間を抜け、岩を越え、小さな沢を渡った先で——視界が開けた。
谷だった。両側を切り立った崖に囲まれた細長い空間。日の光が真上から差し込み、谷底を明るく照らしている。
そして、その中央に一本の桜が立っていた。
私は足を止めた。
満開だった。枝という枝に薄紅色の花が咲き誇り、谷の空間を埋め尽くしている。花びらの一枚一枚が淡く光を放っているように見えた。いや、実際に光っているのかもしれない。日の光を受けて、花びらが半透明に輝いていた。
だが、何より異質だったのは——風が吹いても、一枚も散らないことだった。
谷を吹き抜ける風が枝を揺らす。花びらが震える。だが、落ちない。枝にしがみついているのではない。むしろ、花びら自体が風を拒んでいるかのようだった。
「……これが。」
言葉が出なかった。
美しいという言葉では足りない。圧倒的で、厳かで、どこか寂しい。永遠に咲き続けるということは、永遠に散ることができないということだ。散ることを知らない花。季節の移ろいの外に、一本だけ取り残された桜。
「初めて見たとき、私は泣きそうになりました。」
晴之介様が静かに言った。
「なぜ泣きそうに?」
「分かりません。ただ、散れないのは辛いだろうなと。」
散れない。その言葉が、不思議と胸に残った。
私は桜に近づいた。幹に手を触れる。温かかった。木の温度ではない。もっと内側から、何かが脈打っているような温もりだった。
「花びらを採取しなければなりませんの。ですが……散らないのに、どうやって。」
「それが難しいところです。普通に摘もうとしても取れません。」
「取れない?」
「試してみてください。」
私は枝に手を伸ばし、花びらを一枚つまんだ。軽く引く。取れない。少し力を入れる。それでも取れない。かなり力を込めてみたが、花びらはびくともしなかった。ちぎれるどころか、指先が滑っていく。
「まるで、花びらと枝が一体になっているみたいですわね。」
「師匠に聞いた話では、闘気を込めれば取れるそうです。」
「闘気を?」
「はい。散らない桜は、自然の力——風や雨では散りません。ですが、人の意志を込めた力には応えるのだと。」
人の意志を込めた力。つまり、闘気。
私は右手に闘気を集中させた。いつものように外に纏うのではなく——剛斎様に教わった通り、体の内側を通して、指先にだけ解放する。
花びらをつまむ。闘気を込める。
すっ、と。驚くほどあっさりと、花びらが枝から離れた。
「取れた……。」
手のひらに薄紅色の花びらが一枚、乗っている。半透明で、持ち上げると向こう側が透けて見えた。重さはほとんどない。だが、微かに温かい。
「おめでとうございます。」
晴之介様が微笑んだ。
「しかし……これは。」
今、闘気を内側に通して指先に流した。自然にできた。振るときは十回に三回失敗するのに、花びらを取る瞬間は迷いなくできた。
なぜだ。
考えて、分かった。木刀を振るとき、私はまだ闘気を「攻撃」のために使おうとしている。だから力みが入る。だが、花びらを取るときは攻撃ではない。ただ、指先に闘気を通しただけだ。力みがなかった。
「晴之介様。」
「はい。」
「もしかして、剛斎様がここへ連れていけと仰ったのは——」
「さあ、どうでしょう。師匠の考えることは私にも分かりません。」
晴之介様がとぼけたように笑った。だが、その目は分かっていると言っていた。
剣ばかり振っていても頭が固くなる。剛斎様はそう言った。闘気を剣に乗せることだけを考えていると、力むことしかできなくなる。だが、花びらを取るような穏やかな動作に闘気を通すことで——力みのない、自然な闘気の流し方を体が覚える。
花びらを数枚採取し、持参していた布に丁寧に包んだ。任務としてはこれで十分だろう。だが、本当の収穫は花びらではなかった。
帰り道、私は何度も右手を開いたり閉じたりした。あの感覚を忘れないように。指先に闘気を通したときの、力みのない、自然な流れを。
道場に戻ると、剛斎様が縁側に座っていた。私の顔を一瞥して、また目を閉じた。
「花びらは取れたか。」
「はい。」
「お前の闘気、少し変わったな。」
それだけ言って、剛斎様は黙った。
少し変わった。たったそれだけの言葉だったが、この人の口からそれが出たということは——間違っていないということだ。
ーー
——それから数日、私の闘気は目に見えて変わっていった。
花びらを取ったときの感覚を手がかりに、素振りのときにも力みを抜くことを意識した。闘気を押し出すのではなく、流す。体の内側を通った闘気が、自然に剣先から抜けていく。力を入れるのではなく、力を通す。その違いが、少しずつ分かり始めていた。
十二日目。晴之介様との打ち合いで、初めて五合続けて闘気を内側から通すことに成功した。木刀の打ち合う音が、それまでとは明らかに違った。重く、鋭く、澄んだ音になっていた。
「アナスタシアさん、今の五合——全部通っていましたよ。」
晴之介様が息を弾ませながら言った。
「ええ。自分でも分かりましたわ。」
手応えがあった。確かな手応えが。
十四日目。剛斎様が初めて、私の前で構えた。
「かかってこい。」
木刀ではなく真剣だった。鞘から抜かれた刀身が鈍く光る。
「真剣で、ですの?」
「お前はまだ木刀か。」
挑発ではなかった。事実を述べているだけだ。私は木刀を置き、自分の長剣を手に取った。
「参りますわ。」
闘気を丹田に集める。内側を通す。腰から腕、腕から剣へ。力まない。流す。
「バルザ流・雨斬り!」
連撃を放つ。一撃一撃に闘気を乗せる。以前の自分とは違う。剣先から放たれる闘気の密度が、明らかに上がっていた。
剛斎様は微動だにしなかった。
私の斬撃を、最小限の動きで全て捌く。刀を大きく振ることはない。ほんの数センチだけ刀身をずらし、私の闘気ごと逸らしていく。まるで水の流れを手のひらで導くような、淀みのない動きだった。
「まだ浅い。」
剛斎様の一言とともに、私の長剣が弾かれた。手から離れてはいないが、体勢が大きく崩れる。その一瞬で剛斎様の刀が私の喉元で止まっていた。
「……参りました。」
「十四日でここまで来たのは悪くない。」
目を見開いた。悪くない。剛斎様が初めて、肯定的な言葉を口にした。
「だが、まだ足りん。お前の闘気はまだ意識しないと内側を通らん。それでは実戦では使えん。呼吸と同じように、無意識にできるようになれ。」
「はい、剛斎様。」
剛斎様が刀を鞘に収めた。そして——ほんの一瞬だけ、口元が動いた。笑ったのかもしれない。
「筋はある。」
そう言い残して、道場の奥へ消えていった。
晴之介様が駆け寄ってきた。
「アナスタシアさん、すごいです。師匠が筋があると仰ったんですよ。」
「そんなに珍しいことですの?」
「私が初めてそう言われたのは、修行を始めて五年目です。」
五年。私はまだ二週間しか経っていない。もちろん、剛斎様のもとに来る前から闘気の訓練を積んでいたという下地はある。だが、それでも——嬉しかった。素直に、嬉しかった。
「あの方にもう少し教えていただきたいですわ。」
「帰るのが惜しくなりましたか?」
「少しだけ。」
晴之介様が笑った。優しい笑顔だった。
「ですが、任務もありますし、リアさんたちも待っていますわ。」
「そうですね。でも、いつでも戻ってきてください。師匠も——きっと歓迎します。」
「きっと、ですの?」
「……おそらく。」
「不確かですわね。」
「師匠ですから。」
二人で笑った。夕暮れの道場に、虫の声が響いていた。




