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極悪辺境伯の華麗なるメイド  作者: かしわしろ
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散らない桜5

 その日の訓練は、ただひたすらに木刀を振ることだった。

 剛斎は縁側に座ったまま動かない。時折目を開けてこちらを見るが、何も言わない。晴之介様は道場の隅で自身の稽古をしながら、私の様子をさりげなく見守っていた。


 闘気を体の内側に流す。言葉にすればそれだけのことだが、実際にやろうとすると途方もなく難しかった。十五年間、闘気は外に纏うものだと思ってきた。体の表面に鎧のように張り巡らせ、攻撃のときに部分的に強める。それが私の闘気の使い方だった。


 それを根本から変えろと言われている。

 闘気を体の中に引き込もうとする。だが、意識すればするほど闘気は外に漏れ出ていく。まるで水を手のひらで掬おうとしているのに、指の隙間からこぼれ落ちていくような感覚だった。


「くっ……。」

 百回目の素振りを終えたところで、私は木刀を下ろした。息が上がっている。闘気の消耗も大きい。いつもの纏い方であればこの程度で疲れることはないのだが、慣れないことをしている分、余計に体力を使っていた。


「水を飲んでください。」

 晴之介様が水の入った椀を差し出してくれた。


「ありがとうございます。」

 受け取って口をつける。冷たい水が喉を通っていく。山の水は甘かった。


「最初は誰でもそうなります。私も師匠に同じことを言われたとき、三日間まったくできませんでした。」

「三日間……。」

「四日目に、ほんの一瞬だけ感覚を掴みました。それでも安定するまでに半年はかかりました。」

 半年。私にそれだけの時間はない。任務の期間を考えると、極東にいられるのはせいぜい数週間だろう。


「焦らないでください。アナスタシアさんの闘気はとても強い。あとは流し方の問題です。」

 晴之介様の声は穏やかだった。慰めではなく、本心からそう言っているのが分かる。この人は嘘がつけない類の人間だ。


「もう一度、やりますわ。」

 椀を返して、木刀を握り直す。


 日が傾き始めるまで振り続けた。結局、闘気を内側に通すという感覚は掴めなかった。だが、何かが違うということだけは分かった。剛斎様の一振りを見たあの瞬間から、自分の闘気がいかに荒く、いかに無駄が多いかということを、体が理解し始めていた。


「今日はここまでだ。」

 剛斎様が縁側から立ち上がった。日が山の稜線に沈みかけている。


「晴之介、飯の支度をしろ。」

「はい、師匠。」

 晴之介様が当たり前のように台所へ向かった。この道場では、弟子が食事の用意をするのが決まりのようだった。


「私も手伝いますわ。」

「いえ、アナスタシアさんは休んでいてください。今日はかなり消耗したでしょう。」

「ですが——」

「お客人に台所仕事をさせるわけにはいきません。」

 晴之介様がきっぱりと言った。柔らかい口調だが、譲る気はないらしい。こういうところにもこの人の育ちの良さが出ている。


「……では、お言葉に甘えますわ。」

 道場の縁側に座った。目の前に広がるのは、山の斜面と木々、そしてその向こうに沈んでいく夕日だった。空が赤から紫に変わっていく。虫の声が少しずつ増えていく。


 しばらくして、晴之介様が食事を運んできた。木の盆の上に、飯と味噌汁、焼き魚、煮た野菜が並んでいる。昨夜の旅館の食事に比べると素朴だが、山で暮らす人間の食事としては十分すぎるほどだった。

 三人で食事を取った。剛斎様は無言で箸を動かし、晴之介様が時折私に料理の説明をしてくれた。


「この野菜は山で採れるものです。少し苦みがありますが、体にいいと師匠がよく言います。」

「確かに苦いですわね。ですが、後味が爽やかで悪くありません。」

「そう言っていただけると嬉しいです。味付けは私がしているので。」

「晴之介様がお料理を?」

「師匠は料理をしませんから。ここに来た当初は大変でした。何度焦がしたか分かりません。」

 晴之介様が苦笑する。その横で剛斎様が黙々と飯を食べている。否定も肯定もしない。ただ、出された食事を残さず食べていた。それが弟子の料理に対する、この老人なりの評価なのだろう。

 食事を終え、後片付けは晴之介様が手早く済ませた。私が手伝おうとしたが、やはり断られた。


「お休みになる部屋を用意しています。こちらです。」

 案内されたのは道場の奥にある小さな部屋だった。畳敷きで、布団が一組敷かれている。窓は障子で、外から虫の声が聞こえた。


「何かあれば声をかけてください。私の部屋はすぐ隣ですから。」

「ありがとうございます、晴之介様。今日は本当にお世話になりました。」

「いえ。明日からが本番ですよ。」

 晴之介様が軽く頭を下げて去っていった。

 布団に横になる。体中が重い。特に腕と肩がひどい。普段使わない筋肉を使った証拠だった。闘気を内側に通そうとする動きは、いつもの素振りとは全く違う負荷を体にかけていた。


 天井を見つめる。剛斎様の一振りが頭から離れない。あの一瞬だけ噴き出した圧倒的な闘気。自分がやってきたことの全てが覆されるような衝撃だった。

 だが、不思議と落ち込んではいなかった。むしろ、道が見えた気がしていた。自分の闘気には伸びしろがある。今までのやり方が間違っていたのではない。ただ、まだ本当の使い方を知らなかっただけだ。

 カルメラさんの言葉を思い出す。


『あなたの闘気はまだまだ伸びるはずよ。』


 伸びる。きっと伸びる。

 私は目を閉じた。


ーー


 ——翌朝。

 日が昇る前に目が覚めた。体はまだ重いが、昨日よりはましだ。身支度を整えて道場に出ると、晴之介様がすでに庭で素振りをしていた。朝靄の中、刀を振る姿は静かで、美しかった。一振り一振りに無駄がない。そしてやはり、闘気の出し方が剛斎様と同じだった。普段は纏わず、振る瞬間にだけ解放する。


「おはようございます、晴之介様。」

「おはようございます。よく眠れましたか。」

「ええ、不思議とぐっすり眠れましたわ。山の空気のおかげかもしれません。」

「それは良かった。朝食の前に少し体を動かしましょうか。」

 晴之介様が微笑んで木刀を差し出してくれた。

 二人で並んで素振りをする。晴之介様は私の動きを横目で見ながら、時折声をかけてくれた。


「腰の回転をもう少し意識してみてください。闘気は腰から生まれるものですから。」

「腰から……ですの?」

「はい。師匠の受け売りですが、闘気の源は丹田——腹の奥にあります。そこから腰を通って手足に流れていく。外から纏うのではなく、中から押し出すように。」

 昨日の剛斎様の言葉を、晴之介様が噛み砕いて教えてくれている。通訳するのも弟子の仕事、と言っていた意味がよく分かった。

 朝食を取った後、剛斎様が道場に現れた。昨日と同じように縁側に座り、腕を組む。


「アナスタシアとやら。」

「はい。」

「お前は華流を使うと言ったな。」

「はい。グルンレイドのメイドが使う流派ですわ。」

「知っておる。」

 剛斎様が目を閉じたまま言った。


「この世界には四つの剣技の流派がある。お前はどこまで知っている。」

「華流とバルザ流の二つは使えます。ゼノ流の名は聞いたことがありますが、詳しくは知りません。」

「ならば教えてやる。座れ。」

 私は姿勢を正して座った。晴之介様も隣に正座する。剛斎様が口を開くのを、静かに待った。


「剣技とは、体に宿る力を剣に乗せる技術だ。人の体に宿る力は大きく分けて三つある。魔力、闘気、聖力。この三つに対応する形で、剣技の流派が生まれた。」

 剛斎様の声は低く、淡々としていた。だが、言葉の一つ一つに重みがあった。何十年もの修行の果てに辿り着いた人間だけが持つ、確信に裏打ちされた言葉だった。


「まず、バルザ流。闘気を剣に乗せる技術だ。創始者バルザが闘気の扱い方を体系化し、型として残した。主に人間が使う。人間は魔力や聖力に秀でる者が少ない代わりに、闘気という力を持つ。バルザ流はその闘気を最大限に活かすために生まれた流派だ。」

 私が学んでいる流派。だが、剛斎様の口から聞くと、まるで初めて知る知識のように新鮮だった。


「次に、ゼノ流。魔力を剣に乗せる技術だ。創始者ゼノが体系化した。主に魔族が使う。魔力を剣に込めて斬る、力任せで荒々しい剣技だ。実戦的で、型の美しさにはこだわらん。」

「華流と本質的には同じだと聞いたことがありますわ。」

「その通りだ。華流とゼノ流は、どちらも魔力を剣に乗せるという点では同じだ。だが、華流はグルンレイドが独自に磨き上げたもので、動きに品がある。ゼノ流にはそれがない。」

 剛斎様が華流を認めている、とまでは言えないが、少なくとも違いを正確に理解していた。


「三つ目が、シド流。聖力を剣に乗せる技術だ。創始者シドが体系化した。主に聖族が使う。聖力は人間や魔族にはほとんど扱えん。ゆえにこの流派を使える者は極めて限られる。」

「聖族の流派……。」

「そして最後に華流。これは他の三つとは少し毛色が違う。創始者の名を冠していない。グルンレイドという組織が独自に体系化したものだからだ。魔力を用いた剣技だが、ゼノ流とは異なり型の美しさ、動きの上品さを重視する。」

 剛斎様が目を開けた。


「つまり、バルザ流は闘気の剣、ゼノ流と華流は魔力の剣、シド流は聖力の剣だ。お前は華流とバルザ流を両方使うと言ったな。」

「はい。」

「魔力の剣と闘気の剣を同時に扱う人間は少ない。大抵はどちらかに偏る。お前はどちらに偏っている。」

「……闘気ですわ。魔力の制御は得意ではありません。」

「ならば闘気を極めろ。中途半端が一番始末に悪い。」

 厳しい言葉だった。だが、その通りだった。華流も使えるが、リアのような魔力密度の高い相手と華流で打ち合えば押し負ける。私の強みは闘気だ。それを誰よりも深く理解していたはずなのに、どこかで華流への執着が捨てきれていなかった。


「魔法そのものを捨てろとは言っておらん。だが、お前の本質は闘気にある。そこから目を逸らすな。」

「……はい。」

 それ以上、剛斎様は何も言わなかった。立ち上がり、道場の奥へと消えていった。

 晴之介様が静かに口を開いた。


「師匠がこんなに話すのは珍しいことです。」

「そう、ですの?」

「ええ。私に流派の話をしてくださったのは、修行を始めて三年目のことでした。」

 それは——つまり、剛斎様が私をそれだけ真剣に見ているということだ。拒絶せず、流派の根幹を教えた。それは師匠として弟子を見る目と、同じものだったのかもしれない。


「さあ、稽古を始めましょう。」

 晴之介様が立ち上がり、木刀を手に取った。私も続く。


 今日から、闘気を内側に通す訓練が本格的に始まる。

 ——それからの日々は、来る日も来る日も同じことの繰り返しだった。


 朝、日が昇る前に起きる。晴之介様と並んで素振り。朝食の後、剛斎様の前で闘気の訓練。昼食を挟んで、午後は晴之介様との打ち合い。夕方まで稽古をして、夜は早く眠る。


 闘気を体の内側に通す。それだけのことに、私は三日間まったく成功しなかった。


 四日目の朝。

 素振りをしていたとき、ほんの一瞬——本当に一瞬だけ、闘気が体の中を通った感覚があった。腹の奥から腰を通り、腕を伝って剣先に抜ける。その一瞬だけ、木刀が別の物のように軽くなった。


「今のっ——」

「はい。今の感覚です。」

 晴之介様がすぐに気づいていた。


「もう一度やってみてください。」

 だが、もう一度やろうとすると消えてしまう。意識すればするほど闘気は外に逃げる。あの感覚は、意識しないときにだけ訪れるものだった。


「焦らないで。一度感じたということは、体はもう覚えています。」

 晴之介様の言葉を信じて、私は振り続けた。


 五日目。闘気が内側を通る感覚が、二度訪れた。

 六日目。三度。

 七日目。五度。徐々に間隔が短くなっていく。

 そして、八日目の夕方。晴之介様との打ち合いの最中に、それは起きた。


「バルザ流・土切り!」

 打ち込んだ瞬間、闘気が腹の奥から一気に剣先まで駆け抜けた。今までとは明らかに違う重さが木刀に乗る。

 晴之介様の木刀が弾き飛ばされた。


「っ……!」

 晴之介様が驚いた顔をしていた。今まで一度も弾けなかった晴之介様の構えを、初めて崩した。


「今の……。」

「はい。通りました。確かに通りましたわ。」

 自分でも信じられなかった。だが、体は覚えている。今の感覚を、手のひらが、腕が、腹の奥が覚えている。


 縁側で見ていた剛斎様が、小さく鼻を鳴らした。


「遅い。」

 それだけ言って、道場の中に入っていった。


「……褒めてくれてもいいと思いますのに。」

「あれが師匠なりの褒め言葉ですよ。」

 晴之介様が木刀を拾いながら笑った。


「本当に興味がなければ、何も言わずに去ります。遅いと言うということは、もっと早くできるはずだと思っているということです。」

「……なるほど。分かりにくい方ですわね。」

「十四年一緒にいても、いまだに読み切れません。」

 二人で顔を見合わせて、少しだけ笑った。

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