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極悪辺境伯の華麗なるメイド  作者: かしわしろ
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散らない桜4

 翌朝。障子の隙間から差し込む薄い光で目が覚めた。外はまだ霧がかかっている。

 身支度を整え、長剣を腰に差す。短剣はスカートの内側に。メイド服のまま山を登るのはどうかと思ったが、これが自分の正装だ。グルンレイドのメイドとして極東に来ている以上、変えるつもりはなかった。

 宿の入口に出ると、晴之介様がすでに待っていた。


「おはようございます、アナスタシアさん。」

「おはようございます、晴之介様。お待たせしてしまいましたかしら。」

「いえ、私も今来たところです。」

 そう言いながらも、着物に一つの乱れもない。おそらくかなり早い時間から準備をしていたのだろう。真面目な人だ。


「山の上までは歩いて二刻ほどかかります。途中で魔物が出ることもありますが、この辺りの魔物はそこまで強くないので問題はないかと。」

「わかりましたわ。」

 二人で歩き出す。宿場町を抜けると、すぐに山道に入った。木々が鬱蒼と茂り、朝露が葉先から滴り落ちている。足元は土と苔に覆われた細い道で、石段が所々に組まれていた。

 晴之介様は歩きながらも周囲への警戒を怠っていなかった。目線の動き、足の運び方。常に戦闘に移行できる状態を保っている。それが意識的なものではなく、体に染み込んだ習慣であることが分かった。


「晴之介様は、お師匠様のもとでどれくらい修行されているのですか。」

「十二のときから師匠のもとに入りましたので、もう十四年になります。」

「十四年……。」

「長いように聞こえるかもしれませんが、バルザ流の深さを知れば知るほど、まだ足りないと感じます。」

 謙遜ではなかった。本心からそう言っているのが、声の調子で分かった。


「お師匠様は、どのような方ですの?」

「そうですね……。」

 晴之介様が少し考え込んだ。言葉を選んでいるというよりも、師匠という存在をどう表現すればいいのか迷っているようだった。


「剣に関しては、私が知る限り最も強い方です。ただ、普段は寡黙で、笑っているところを見たことがほとんどありません。」

「怖い方ですの?」

「怖い……というのとは少し違います。厳しいのですが、理不尽なことは決して仰らない。ただ、認めた相手にしか剣を教えない、という方です。」

 認めた相手にしか教えない。つまり、案内してもらったからといって教えてもらえるとは限らないということだ。


「正直に申しますと、師匠がアナスタシアさんを受け入れてくださるかは分かりません。無愛想に追い返される可能性もあります。」

「覚悟しておきますわ。」

「ただ——」

 晴之介様が足を止めて、こちらを振り向いた。


「師匠は、目を見ます。その人の剣に対する姿勢が真っ直ぐかどうかを、目で見るのです。」

「目を。」

「はい。だからアナスタシアさんは、そのままでいてください。」

 そのまま、という言葉に少し戸惑った。だが晴之介様の表情は真剣で、お世辞や社交辞令ではないことは明らかだった。


「……ありがとうございます、晴之介様。」

 そのまっすぐな言葉に、私は少し動揺してしまう。


 山道は徐々に傾斜がきつくなっていった。岩を越え、沢を渡り、苔むした大木の根をまたいでいく。途中、小型の魔物が二匹ほど現れたが、晴之介様が刀を抜くまでもなく、私の闘気を纏った一撃で片付けた。


「……お強い。」

 晴之介様が率直に言った。


「まだまだですわ。これくらいの魔物であればローズの方々なら視線を向けただけで倒しますもの。」

「視線だけで……?」

「比喩ですわ。……半分は。」

 晴之介様が困った顔をしていた。半分本気だということを、どう受け止めていいか分からないのだろう。


二刻ほど歩いたところで、木々が途切れた。


 開けた場所に出る。山の中腹に、質素な道場があった。木造の平屋で、柱は太いが飾り気はない。屋根には苔が生え、長い年月をここで過ごしてきたことが伺える。道場の前には砂利が敷かれた広い空間があり、その隅に水がめと木刀が何本か立てかけられていた。


 そして、道場の縁側に一人の老人が座っていた。

 白髪を短く刈り込み、顔には深い皺が刻まれている。体格は細身だが、背筋は刀のように真っ直ぐだった。腕を組み、目を閉じている。眠っているようにも見えるが、この距離でもう気づいているはずだった。近づくにつれて、その存在感の大きさに気づく。何も発していないのに、空気が重い。闘気でもない。ただ、そこにいるだけで圧がある。


 晴之介様が立ち止まり、深く頭を下げた。

「師匠、戻りました。お客人をお連れしました。」

 老人は目を開けなかった。数秒の沈黙があった。


「……グルンレイドか。」

 低く、しわがれた声だった。目を閉じたまま、そう言った。メイド服を見たのではない。目を閉じていたのだから。おそらく、纏っている闘気か魔力の質から察したのだろう。あるいは、その紋章入りの服が放つ微かな魔力を感じ取ったか。


「アナスタシアと申します。西のグルンレイド領から参りました。」

 私は背筋を伸ばし、はっきりと名乗った。

 老人の目が開いた。鋭い、だが濁りのない目だった。その目がまっすぐに私を見る。顔を、体を、そして——目を。


 晴之介様が言っていた通りだった。この老人は目を見ている。こちらの剣に対する姿勢を、心のありようを、その一瞥で測ろうとしている。


 私は視線を逸らさなかった。逸らす理由がなかった。自分はここに修行をしに来た。闘気を伸ばしたい。強くなりたい。その気持ちに嘘はない。


 沈黙が長かった。

 やがて、老人が口を開いた。


「剛斎だ。」

 名前だけ。それだけだった。晴之介様がそっと小さく息を吐くのが聞こえた。


「……受け入れてくださったのですの?」

「名前を名乗ったということは、そういうことです。興味がなければ名前すら言わずに去ります。」

 晴之介様が少し嬉しそうに言った。弟子として、自分が連れてきた人間が師匠に認められたことが嬉しいのだろう。こういうところに、この人の誠実さが出ている。自分のことではなく他人の結果に素直に喜べる人間は、そう多くない。


「ただ、これからが大変ですよ。」

「覚悟はしておりますわ。」

「師匠の教え方は独特です。言葉で説明することはほとんどありません。見て学べ、というのが基本です。」

「見て学べ、ですか。」

「はい。ですから分からないことがあれば、私に聞いてください。師匠の言いたいことを通訳するのも、弟子の仕事ですから。」

 晴之介様が笑った。穏やかで真っ直ぐな笑顔だった。言葉の端々に師匠への敬意が滲んでいる。長い年月を一緒に過ごしてきた人間にしか出せない空気感だった。


「ありがとうございます、晴之介様。頼りにさせていただきますわ。」

「はい。精一杯お力になります。」

 道場に入ると、剛斎はすでに木刀を手にしていた。もう一本の木刀が、私の足元に投げ出されている。


「振れ。」

 それだけだった。型を見せるでもなく、説明をするでもなく。ただ、振れと。

 私が木刀に手を伸ばしかけたとき、剛斎の声が遮った。


「その格好で剣を振るつもりか。」

 視線がメイド服に向けられていた。確かに、スカートの裾が足さばきの邪魔になることは否めない。グルンレイドでの訓練ではメイド服のまま戦うのが常だった。それがグルンレイドのメイドとしての矜持でもある。


 だが——ここはグルンレイドではない。


 私は一瞬だけ迷った。メイド服はグルンレイドのメイドとしての証だ。それを脱ぐということは、一時的にでもメイドであることをやめるということに等しい。


「……今は、メイドはいったん休業ですわね。」

 そう呟いて、自分自身を納得させた。ここに来たのは、メイドとしてではなく一人の剣士として闘気を学ぶためだ。


「晴之介様、着替えをお借りすることはできますか。」

「はい、道着の替えがあります。少しお待ちください。」

 晴之介様がすぐに奥へ行き、畳まれた道着を持ってきた。白い上衣に紺の袴。質素だが、清潔に洗われていた。


「こちらの部屋をお使いください。」

「ありがとうございます。」

 案内された小部屋で、私はメイド服を脱いだ。袖を通すたびに少しだけ心が騒いだが、丁寧に畳んで隅に置く。道着に袖を通す。袖が広く、腕の可動域が大きい。袴は足さばきが驚くほど楽だった。この服は剣を振るために作られている。それが着た瞬間に分かった。


 道場に戻ると、剛斎がちらりとこちらを見た。何も言わなかった。だが、先ほどとは違い、視線に拒否の色はなかった。


 私は木刀を拾い上げた。重さはちょうどいい。握りも馴染む。


 闘気を全身に纏う。足に力を込め、腰を落とす。そして——振った。


「バルザ流・土切り。」

 闘気を込めた一振り。空気が裂ける音がした。道着は体の動きを妨げない。メイド服のときよりも明らかに足の運びが滑らかだった。


 剛斎は何も言わなかった。

 もう一度振る。今度は連撃。三連、四連。闘気を足、腰、腕へと流し、加速していく。

 剛斎は腕を組んだまま、目を閉じた。


 良い反応なのか、悪い反応なのか分からない。私は構わず振り続けた。ここまで来たのだ。見せられるものはすべて見せる。


 十分ほど振り続けたところで、剛斎が口を開いた。


「お前の闘気は、外に纏うことしかできておらん。」

「……外に?」

「闘気を鎧のように体に貼り付けているだけだ。それでは剣に乗る闘気が薄い。」

 私は言葉を失った。自分の闘気の纏い方が間違っているとは考えたこともなかった。全身に闘気を纏わせ、攻撃時に足や腕の闘気を強める。それが基本だと教わってきた。


「闘気は、体の中を通すものだ。」

「中を……通す?」

「血が流れるように、闘気を体の内側に流せ。外に出すのは、剣に乗せるその瞬間だけでいい。」

 剛斎が木刀を片手で持ち上げた。


 次の瞬間、私は目を疑った。

 剛斎の体からは闘気が全く感じられなかった。纏っていない。だが、木刀を振った一瞬——ほんの刹那だけ、刀身から凄まじい闘気が噴き出した。空気が震え、道場の床板がびりびりと鳴った。そして振り終わると、再び何も感じなくなる。


「これが、バルザ流の本質だ。」

 言葉は少なかった。だが、今の一振りですべてが語られていた。

 常に闘気を外に纏っている私の戦い方は、いわば蛇口を開きっぱなしにしているようなものだった。水は常に流れているが、勢いは分散される。剛斎のやり方は、蛇口を閉めておいて、必要な瞬間にだけ全力で開放する。だからあの一瞬に、桁違いの闘気が乗る。


「……お見事ですわ。」

 素直にそう言った。見たことのない闘気の使い方だった。グルンレイドでは誰も教えてくれなかった。カルメラさんも、ヴァイオレット様も。いや、そもそもグルンレイドのメイドは魔法が主体だ。闘気をここまで突き詰めた人間が、あの屋敷にはいなかった。


「今日から、それを叩き込む。」

 剛斎がそう言って背を向けた。


「晴之介。こいつの面倒を見ろ。」

「はい、師匠。」

 晴之介様が頷き、こちらに手拭いを差し出してくれた。まだ一振りもしていないのに、手のひらが汗で湿っていた。緊張ではない。剛斎の一振りを見て、体が震えたのだ。


 あの領域に、自分も届くのだろうか。

 届きたい。

 私は木刀を握り直した。

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