ムムツの谷底9
次の日、魔物の襲撃もなく3人が目を覚ます。空は昨日と変わらず快晴で、清々しい風が駆け抜けていた。
「それじゃあ、ムムツの谷へ向かうよ。」
と言ってもムムツの谷は目と鼻の先。3人の移動速度で考えれば5分もかからずに到着することだろう。全回復した魔力を使い、3人は出発した。
「昨日魔物が現れました?」
「いや?いなかったと思うけど。」
空を飛びながらリアとアナスタシアが会話を始める。
「グルンレイド領では、人の匂いを感じたらすぐに襲いにくる、と習いましたのに……。」
「確かにね。」
グルンレイド領での講義は何一つ間違ってはいない。魔物というのは人間の存在を察知したら、問答無用で襲いかかってくるのが普通だ。しかしグルンレイドのメイドなどの、“力を持った存在“に限ってはそうではない。彼女たち3人に挑もうと考えるような魔物が、この森全域にいなかっただけだ。
「谷が……見えた。」
メルテがゆっくりと速度を落とし、空中で止まる。それに続き2人も止まるが、目下に広がる景色を見て息を呑んだ。
「大きい、ですわね。」
「想像の百倍くらいね。」
彼女たちは数十メートルの裂け目の底にあるものだと思っていたが、実物は推定でも裂け目の長さは数キロはあるだろう。そして底の深さも、ここからでは目視することはできない。周囲は森だが、不思議と裂け目の周辺には植物が一切存在していなかった。
「魔物は……いないようですわね。」
茶色の地面の上に着地し、周囲を見渡す。上空から見た時も魔物の存在を確認することはできなかったようだ。
「みんな、準備はいい?」
二人ともゆっくりと頷く。
「じゃ、いくよ。」
低位の魔物から姿を認識されないように、メルテが認識阻害魔法を唱える。そして、3人は真っ暗な谷の底へ向かって降り始めた。
「カルメラさんの話だと、ムムツの谷底はいくつかの“層“に分かれてるみたい。」
「ここは上層、ってこと?」
ムムツの谷はそのあまりの深さに、4つの層に分類される。1つは現在3人が降っている場所である上層。魔物の平均危険度は周囲の森と大差ない。しかし飛行系の魔物が多いため、見つかってしまった場合の逃走は容易ではないだろう。
「……魔物が見え始めましたわ。」
飛行系の魔物の他に、壁に張り付いている昆虫系の魔物が見えた。3人の存在には気づいていないようだが、いつ強い魔物や、感知に特化した魔物が現れるかわからないので、警戒するに越したことはない。
「うわ……気持ち悪い……。」
リアが苦虫を噛み潰したような表情を見せる。昆虫系の魔物は群れで行動することが多く、一体見かけたらその近くに数十体以上いると見ていいだろう。
しかし上層に関しては3人の敵になるような存在はいないようで、なんの問題もなく下へと進んでいった。
ーー
「……空気が変わりましたわね。」
「ここが中層、だと思う。」
ある地点を境に、魔力密度がはっきりと上昇したのを感じられた。ここまで降ってくると太陽の光も届きにくくなり、薄暗い空間が広がり始める。目視だけでは魔物が接近してきても気付くのが遅れてしまう可能性もあるので、感知魔法を強化していた。
彼女たちは上層では壁きわをなぞるように飛んでいたが、中層では壁から離れて、中央付近を飛んでいた。壁きわを飛んでいると、壁に張り付くタイプの魔物と接敵する危険性が高まるからだ。中央付近をには飛行系の魔物しか存在しなく、そんな魔物は羽音によって察知できる。
「魔物も強くなってる。」
リアがそう呟く。中層の平均危険度はB+。上層と大差ないが、出現する魔物の種類がガラリと変わっていた。
「見て、あのかべ。」
薄暗い中を目を凝らして壁を見てみると、彫刻刀で木を削った時のように、ざっくりと切られている部分を見つけた。驚くべきはその大きさである。
「もう道といっても過言ではありませんわね。」
高さと奥行きは数メートル、横は数十メートルと巨大な傷だった。自然にできたものに見えなくもないが、やはりこの傷をつけた存在がいるということを前提で移動して行ったほうがいいだろう。
「何はともあれ、気をつけて進んで……」
次の瞬間、キュイという音が聞こえた。3人はその場に留まり、息を潜める。魔物の声であることには違いはないのだが、それがあまりにも近い場所から聞こえたのだ。周囲に羽音も気配も感じない。
そして、ヒュッ、という音と共にアナスタシアが壁に向かって吹き飛ばされる。
「っ!アナスタシア!」
『大丈夫ですわ!』
魔法によるメッセージが飛んできた。メルテがアナスタシアの名前を大声で叫んでしまい、これで完全に隠蔽魔法が解かれた。しかし、今3人に襲いかかっている敵は、隠蔽魔法が解かれる前から3人を認知していたということになる。その事実にメルテはさらに警戒を強める。
「見て……周囲の魔物たちが、逃げていく……」
普通であれば襲いかかってくるはずの魔物たちが、壁をつたい、上へと飛び去り、メルテたちの周囲から離れるように移動していった。
「まずアナスタシアと合流……いっ……!」
リアの背中がざっくりと切断された。
「たい!!」
即座に反応し、その周辺の空間を魔法によって爆発させたが、手応えはなかったようだ。
「見えない敵を相手にするときは……」
「メルテちゃん、まずはアナスタシアちゃんのところに!」
リアはメルテの手を引き、猛スピードでアナスタシアが飛ばされた、例のえぐれた岩はだへと移動する。その間、メルテは急速に思考を回転させる。
「アナスタシアちゃん!」
「リアさん、背中が……。」
「大丈夫、これくらいじゃ死なないから。」
メルテやアナスタシアであれば、苦痛で動けなくなってしまうほどの傷だったのだが、悪魔付きであるリアの場合はそれほど重大な傷ではないようだ。すぐにアナスタシアがヒールを唱え、傷をふさぐ。
「ホワイトノイズ」
メルテが認識阻害魔法を唱える。
『動かないで、そして喋らないで。』
魔法によるメッセージで二人にそう伝える。認識阻害魔法というのは止まっているときが最も効果が上がる。こちらも攻撃することはできないが、この状態を見破ることができる存在はかなり限られてくる。幸い、3人を認識できないのか、攻撃していた敵は薄暗い空間のどこかに息を潜めているようだった。
『私がこの空間全域に、全力の魔力拡散結界を展開するから。後はアナスタシア、お願いしてもいい?』
『わかりましたわ。』
魔力拡散結界を展開することで、相手の認識阻害魔法が解除されるということだ。しかし、ここで問題なのは自分たちの認識阻害魔法、そして魔法障壁と言った全てのバフも解除されてしまうという点である。
『リアも“闘気“をまとって。』
『苦手だけどね……了解。』
しかしここで出てくるのが“闘気“という概念だ。これは魔力とはまた違ったエネルギー体系であり、主に魔法の使えない剣士が使用するものである。闘気は火や水を作り出すことも、空中を飛ぶこともできない、また止血などはできるが肉体の再生などはできない、結論から言うと魔法に比べるとできることが少ない力だ。グルンレイドのメイドの中では“魔法が使えない際に少しでも長く生き延びるため“と言った考え方で使われることが多い。
しかし、この中でたった一人だけ、闘気の認識が違うものがいた。
『いつでも言ってくださいまし。全てを叩き切りますわ。』
『じゃあ、いくよ。』「バニッシュルーム!」
メルテがそう叫んだ瞬間、周辺の全ての魔力、そして瘴気が拡散した。
「キュイ!!」
「見つけましたわ!」
アナスタシアの視線の先には、3人のメイドが認知できないほどの強力な認識阻害魔法を解かれた翼のついたカメレオンのような見た目の魔物が現れた。危険度で言うとA+、ごくたまに本来であれば下層以下に生息するレベルの魔物が、中層に巣食うこともある。
「キュイキュイ!」
アナスタシアを見つけた瞬間、その魔物は猛スピードで突進し鋭い翼で切り刻もうとするが、それを剣で受け止める。
「見えればどうってことないですわ!バルザ流・」
アナスタシアは剣に闘気を纏い、そのまま振り下ろす。
「断頭!」
翼の強度はなかなかのものだったようで、切断することができなかったが力任せに魔物を吹き飛ばした。
「いつ見てもあの闘気……すごいね。」
アナスタシアだけは魔力より、闘気の力に魅了されていた。確かに魔法に比べて何もできないと言われている力だが、攻撃力の上昇、基本的な身体能力の向上などは、自分の闘気次第で際限なく上昇する。見かけによらず、緻密な作業が苦手なアナスタシアの性格にとってはぴったりの力だったようだ。
「キュ!」
魔物の反撃は早かった。吹き飛ばされ、少し下の壁に激突したと思ったらすぐに壁を蹴り上げ、アナスタシアへと向かっていく。そして右翼を振り上げる。
「っ……!」
それを剣で受け止めるが、体制が崩れた次の瞬間左翼でアナスタシアの右肩が斬られる……が、血は流れない。
「その程度の攻撃力では、私の闘気は崩れませんわ。」
少女たちの顔ほどもある目に向かって剣を振りかざす。
「ギュッ!」
メルテの魔力拡散によって、魔物の身を守っている瘴気も薄れているためすんなりと刃が通った。その痛みに耐えかねて魔物は距離を取る。
「バルザ流奥義・」
アナスタシアは剣を握る手に力をこめる。
「星斬り!」
距離をとったつもりが、アナスタシアの機動力の前には足りなかったようだ。魔物の体は真っ二つに切断され、瘴気となって消えた。
「お疲れ。」
「ナイス!」
「これくらいなんでもありませんわ。」
地面には大きい魔石と、数枚の羽が散らばっていた。
「ドロップアイテム、かな?」
魔物を倒すと瘴気となって消えてしまうが、たまにその場に残り続けるものもある。わかりやすいもので言えば、ゴブリンが人間から奪って使用している武器や服。特殊なものだとワイバーンのクチバシなどだ。魔物の中には“瘴気となって消えない部分“を持っている種が多々存在する。
リアは魔石とその羽を拾い上げる。
「……リア?」
するとメルテとアナスタシアの視界からリアが消えた。
「どこにいますの!?」
「ここにいるけど?」
しかし二人の視界にはリアの姿は存在しない。が、次の瞬間羽が地面へ落ちていく様子とともに、リアの姿は現れた。
「これを持ってるとかなり強力な隠蔽効果を得られるみたい。」
「それはすごいですわね!」
3人がそれぞれ所持してしまうとお互いの場所がわからなくなってしまうが、それは魔法によるメッセージを常に送り合うことでカバーしようとしていた。
「メッセージが届かなくなったらすぐに羽をカバンにしまうこと。」
メルテがそういった。自分たちが唱えた隠蔽魔法であれば、各々の感知魔法でお互いを見つけ出すことは可能だ。
「それじゃあ一人一枚その羽を持って、さらに下に移動するから。」
アナスタシアと魔物の戦闘によって大きな音を出してしまったが、彼女たちの周囲には一向に魔物の気配がすることはなかった。彼女たちとカメレオンの姿をした魔物から遠ざかるように移動していたことから、あの魔物は中層の中でもっとも強い存在だったのかもしれない。
そうしてメルテたちは削られたて作られた地面から飛び降り、谷底を目指した。




