そして、女領主は鶴崎の死神となる
鎌倉時代より続く名門大友家は豊後国を中心に勢力を伸ばし、戦国の世にあっては現在の当主大友宗麟の下で最盛期を迎えていた。宗麟は周辺国を打ち破っては勢力を伸ばし、元々の勢力圏であった豊後を中心に、豊前、筑前 筑後、肥前、肥後にまで勢力を伸ばした。
また、海を越えて渡ってきた南蛮国の文化や宗教に傾倒し、宗麟が居を構える府内館は日ノ本とは思えぬ異国情緒あふれる街並みとなり、町中を象に跨って練り歩くなど、その威勢を大いに誇った。
しかし、その繁栄に陰りが見え始めていた。
豊後国の南隣に位置する日向国より救援要請がやって来たのだ。日向国は伊東家が治める領域であったが、長年の敵対者であった薩摩国の島津家に敗れ、国土の大半を奪われる事態となった。
そこで伊藤家当主の伊藤義祐は親交のあった宗麟の下へ落ち延び、日向国奪還の助力を願い出た。その条件として、取り返した領土の半分を譲るという話であり、宗麟はこれを受け入れた。
一方の島津家はこれに反発し、大友家に対抗するべく兵を集めた。
そもそも、島津家からすれば、島津家初代の島津忠久が鎌倉殿より薩摩、大隅、日向三国の守護職を賜って治めていたので、当然その三国は島津が治めるべきだという立場を崩さなかった。
かくして、北を耳川、南を高城川に挟む地域にて、両家の一大決戦が行われた。
当初は大友有利に事態が進んだ。日向国は元々伊東家の領土であるので、その者達を率いて戦った大友軍は地形を把握し、さらに隠れ潜んでいた伊東家の旧臣らも一斉に蜂起し、島津勢を大いに苦しめた。
一方の島津勢は日向国を手にしてから日も浅いこともあって対応が後手に回り、せっかく手にした領土の大半を奪い返される事態となった。
しかし、そんな中にあって島津家当主の島津義久の末弟家久が高城に籠城して、大友勢の大軍を食い止めるという働きを見せ、どうにか決戦に及べる状況にまで持って行くこととなった。
ここで大友方が致命的な失策を犯した。家臣の田北鎮周が功を焦り、独断で兵を進めて高城川を越えてしまったのだ。他の諸将も慌てて出撃するも、軍列が乱れに乱れて統制が利かなくなり、しかも渡河による疲労も相まって、島津方に殲滅されるという事態となった。
一大決戦に勝ちを収めた島津は執拗に追撃し、高城川と耳川の間の道は大友勢の死体で溢れかえった。これを踏まずに進むことができぬほどに討ち果たされ、その数多の将兵の死は同時に多くの女房の涙を生むこととなり、彼女らは“日向後家”と呼ばれることとなった。
かくして、主力の大半を失った大友家は苦難の時節を迎えることとなる。
***
大友家家臣団の中に、一際大きな家があった。吉岡家である。
吉岡家は大友家の第二代目当主大友親秀の流れをくむ名門であり、代々大友家に重臣として仕え、その治世を助けてきた。
特に吉岡長増は大友家の長老として宗麟を助け、南蛮絡みの案件以外はすべて長増が差配していたといわれるほどに活躍した。また、長増は智謀と交渉力に長けており、南は伊東家、島津家と和を結び、西は肥前の龍造寺隆信を抑え込み、北は中国地方から九州に進出してきた毛利元就を退けるなど、大友家にとってなくてはならないほどの働きぶりであった。
もし、長増が今少し長生きしていれば、日向国での島津との戦はなかったとさえ言われるほどであった。
そして、それを最も強く感じている女性が豊後国鶴崎の地にいた。
彼女の名は妙林と言い、吉岡長増の娘であった。と言っても、長増との血の繋がりはない。長増の息子である鎮興の妻であり、長増とは義理の親子というわけだ。
その夫たる鎮興はすでにいない。日向国の戦にて討ち死にを遂げており、妙林もまた“日向後家”の一人となっていた。
そのため、吉岡家当主の座は現在、妙林の息子である統増が継いでいる。若いながらも武勇に優れ、今も主家の大友家を助けるべく、丹生島城に出陣していた。
亡き夫、そして息子の帰る家である鶴崎城を、妙林は預かり、これを上手く切り盛りしていた。
だが、それも終わりを告げようとしていた。
日向国にて大友勢を退け、破竹の勢いにて北上する島津の軍勢がいよいよ鶴崎の地にまでやって来たのだ。敵は大軍、ざっと見ただけでも数千はいる。
一方の鶴崎城に籠る者達は戦力と呼べるのか怪しいほどであった。ただでさえ日向での敗戦で多くの者が亡くなった上に、残りのなけなしの兵も統増に従って出陣しており、全くいない有様であった。
城にいるのは、老人や女子供ばかりで、まともに戦える者など、ごく少数だ。
だが、妙林は諦めなかった。偉大なる義父が育て上げた領地をなんで手放せようか、亡き夫が残した家をなんで手放せようか、息子が帰って来る場所をなんで手放せようか。
島津襲来の報を聞いた妙林は即座に動いた。
まず、領内の民草を鶴崎城へと収容した。気性荒い薩摩隼人どもが何をするか知れたものではないし、民を守るためには、城へ避難してもらうよりなかった。
同時に、防御設備の強化に当たった。周辺の家々から板や畳を調達し、それらを組み上げて壁と成し、少しでも守りやすくするように努めた。
そして、鉄砲だ。数はそこまでないが、それでも強力な武器だ。弓は訓練がいるし、槍や刀では人を殺すのに技前がいるし、なにより敵兵の前に立たねばならない。だが、鉄砲なら、玉薬と弾丸の取り扱いだけで、人を殺すことができる。
例え女子供であろうとも、引鉄を引くだけで、たちまち人を殺せる“兵士”となる。
それでも不安はある。皆、怯えている。当然だ。相手は猛者揃いの薩摩隼人で、こちらは老人に女子供ばかり。戦力差は如何ともし難いものがあった。
だが、それは士気の高さと堅牢な城で補うしかない。そう考えた妙林は自らも甲冑に身を包み、弓を携え、皆の前に出てきた。
「皆、聞きなさい!」
居並ぶ領民に妙林の声が響く。力強く、それでいて凛とした佇まいの女性に、皆が見惚れた。
「今、戦える者は皆、大殿を救うべく、出撃しています。もし、この城が、鶴崎が敵の手に渡る事でもあれば、統増を始め、若人達の帰る家を失います。退く道を無くし、なにより家中における立場と面目を失い、苦しい状況に追い込まれることでしょう。お前達はそれをヨシとしますか!?」
誰も頷く者はない。夫や息子が帰る家を失うことだけは避けねばならない。たとえ相手が誰であろうと、この城と領地だけは守り抜かねばならない。そう、皆が思っていた。
「不安も多いことでしょう。武器を持ったことのない者もいるのですから、それは当然こと。ゆえに、思い出しなさい。日向でのことを! 帰らぬ息子の顔を! 帰らぬ夫の顔を! 帰らぬ父の顔を!」
日向での惨敗の結果、豊後の人々は多くの戦死者を出し、身内縁者に葬式を上げぬ者がいない程の人死にを出した。それは屈辱であり、何より悲しみであった。
「そして今、それを成した薩摩隼人共が目の前にやって来る。ならば、為すべきことはただ一つ。さあ、奮い立て! 皆、弔い合戦は今ぞ!」
妙林が弓を持つ手を振り上げると、周囲もまた腕を振り上げ、気勢を上げた。
それを見つめる妙林には分かる。皆が怖いということを。そして、それ以上に島津の連中に恨み骨髄であることを。怨嗟が恐怖に勝っているからこそ、目の前の者達は戦えるのだ。
そして、この者達を死地に追いやる自分のなんと罪深いことか、そう妙林は感じずにはいられない。
なにしろ、妙林はすでに夫の死後、仏門に入り、尼僧となっている身の上である。にも拘らず、武器を手に取り、民草を扇動し、戦場へと追い立てている。その感情を利用して。
それでも、妙林は迷いを振り払う。自分や皆の家族の帰る家を守るため、今は阿修羅にも仁王にもなってみせようと。
「お見事でございますぞ、妙林様」
鎧甲冑に身を包む一人の老人が話しかけてきた。
「与兵衛、あなたはもう八十も近いというのに」
「なんのなんの。亡き大殿と共に数多戦場を駆け巡って来たのを思い出しますわい。この老骨の、最後の御奉公と思って張り切っておりますぞ」
与兵衛だけではない。他にも甲冑をまとう老人が何人もいる。妙林にはよく見知った顔ばかりだ。皆、義父の馬回りを務めた者達であり、戦国の世にあってここまで齢を重ねた古強者ばかりだ。
古すぎるかも、とは思っても口にはすまい。止めたところで、絶対に前に出てくるのだから。
「それで、準備の方は?」
「整ってございます。ヘッヘッ、薩摩の阿呆共がこの城を見て、慌てふためくのが今から楽しみですわい。まあ、この老いぼれの采配、見ていて下され」
とても老人とは思えぬ、活き活きとした声に妙林は安堵した。少なくとも表面的には、安堵しておかねばならない。
今この場において、総大将は紛れもなく自分なのだ。自分の不安がそのまま配下の者や、あるいは領民に伝わっていく。ゆえに、無様は晒せぬ。義父の名を、夫の名を、貶めるわけにはいかない。
「おそらく敵は、城の東にある白滝山に陣を構え、こちらを窺うことでしょう」
与兵衛は城の東にある小山を指さした。
「まあ、勝手に布陣させてやりましょう。この城の“仕掛け”を見ていただくには、あそこが最適にございますからな」
自信満々に説明する与兵衛に、妙林はいちいち頷いて聴き入った。そして、確信した。
「勝ち目は十分にありますわね」
「はい、いかにも」
「なれば、皆の者、薩摩の者共がやって来ましたら、存分に歓待して差し上げなさい!」
妙林の呼びかけに応じ、誰も彼もが再び気勢を上げた。来るなら来い、そう言いたげな雰囲気だ。士気は高く、これさえ維持できれば、城が落ちることはない。
島津が諦めるのが先か、あるいは、こちらが倒れるのが先か、時間との勝負だ。
***
そして、島津勢が姿を現した。予想通り、城の東にある白滝山を中心に布陣し、城を一呑みにせんとこれ見よがしに鬨の声を上げた。
そんな鬨の声が響く中、城に近付く十数名の騎馬がいた。そして、城の東にある大野川を川縁まで来ると、あらん限りの大声で叫んできた。
「我はこの軍の指揮を預かる伊集院久宜と申す者。そちらの総大将は何処か!?」
櫓上からそれを見聞きしていた妙林は意を決し、兵を押しのけて櫓の手すりに前のめりになりながら叫んだ。
「私の名は吉岡妙林、当主統増の母で、留守を預かる者でございます。丹生島では、息子に手が出ず、這う這うの体でこちらに参られた伊集院殿が、本日はいかなるご用向きでありましょうか?」
きっちり挑発を忘れぬ妙林であった。使い番の情報によって、丹生島城を城攻めを諦めたとの報が入っており、統増があちら側の防衛に成功したということは知っていた。
そして、その部隊が鶴崎を先に攻略する動きを見せていることも知っていた。それを理解した上での挑発だ。
しかし、久宜もまたこうしたやりとりには慣れたもの。逆に笑い返してきた。
「これはこれはご丁寧な挨拶痛み入る。女子に甲冑を着せて戦陣に立たせるなど、豊後の男は余程の腰抜けと見受けられる。これでは城もすんなり落ちようというものだな!」
「では、やってみなされ! いつでもお相手致しますので、かかってきなさい!」
久宜は降伏勧告をするつもりでいたが、城内の士気が思った以上に高そうなので、いきなりの勧告はやめることにした。少し痛い目を見てもらってから、再度降伏を呼びかけようと判断した。
「では、すぐにでも攻めかかる故、疾く備えをなされておるがよい」
久宜は馬首を返し、白滝山の本陣へと戻っていった。
***
本陣に戻った久宜を、二人の武将が出迎えた。白浜重政、野村文綱の両名で、この部隊の副将を務めていた。
「久宜殿、あの城、一筋縄ではいかんぞ」
話しかけてきたのは重政であった。二人は久宜が降伏勧告に出かけている間に、周囲に斥候を放ち、地形の把握に努めていたのだ。
「ああ、その通りだ。まず、あの城は東を大野川、西を乙津川に挟まれる形で建てられている。この時点で攻め口を二つ失っている」
文綱の指さす城は、まさに東西が川に挟まれている姿を見せていた。その川が自然の堀となり、城を守っているのだ。
「そして、南側はその川に挟まれ、非常に狭い地形になっている。とてもまともな部隊を展開できる場所がない」
「では、残るは北側のみか・・・」
三人の視線が城の北側の向く。二つの河川に挟まれた扇状地であり、大野川さえ越えてしまえば部隊を展開するのには十分な空間がある。
「だが、あそこも問題がある」
苦悶に満ちた顔で重政がその扇状地を睨みつけた。
「今の時刻は恐らく“引き潮”のはず。海岸からの高さから察するに、あそこの半分は“満ち潮”とならば海に沈むはずだ」
「なんだと!?」
あろうことか、鶴崎城は東西南北、どこを攻めるのにも問題ありということだ。東西は河があり、南は狭く、北は時間によっては水没する。
どんな縄張りをしたのかと、築城を命じた相手を罵りたくなった。
ちなみに、この城の縄張りをしたのは亡き吉岡長増である。地形を把握し、全てを利用することで、見た目よりも遥かに強固な城を作り上げたのだ。
先程の女将の自信はここから来るのか、と久宜は舌打ちした。
厄介ではある。だが、攻め落とさなくてはならない。丹生島での攻防も攻め難しと判断して、鶴崎を先に落とそうと作戦変更したのだ。ここで鶴崎まで落とせないとなると、敵味方どちらからも笑いものになるということだ。
それだけは絶対に避けねばらなかった。
「だが、手をこまねいていても仕方あるまい。攻めかかるぞ。むしろ、潮が引いている今こそ、攻め時なのだ。重政、おぬしは手勢を率いて、南から攻め上がれ。狭いとはいえ、あそこは陸続きに城に取り付ける。で、それがしと文綱が北側より攻め込む」
「「応!」」
作戦は単純明快。南北からの挟み撃ちによる力攻めだ。どうせ、城の中にいるのは老人か女子供しかいないはず。何度か小突けば、悲鳴を上げて降伏してくる。そう久宜は考えた。
だがその考えは、前半は当たって、後半は大きく外すこととなる。
***
まずもって地獄を見たのは、南から攻め上がってきた白浜隊であった。
城の南側は大野川と乙津川に挟まれた地形をしており、扇の接点のように狭いのだ。そこから城壁に取り付こうという腹積もりであったが、初手からしくじった。
その狭い地形のあちこちに“落とし穴”が掘られていたのだ。いきなり地中に落とされ、その底には釘を打ち付けた板が並べられており、足を釘が貫いた。
あちこちで悲鳴が上がり、身動きが取りづらくなったところで、城壁や櫓から矢や弾が降り注いだ。次々と撃ち抜かれ、どうにか体勢を立て直そうとするも、そこへ城兵が撃って出て槍で突きかかって来たのだ。
城壁の外側に板や畳で急ごしらえではあるが“出城”を築き、隙あらば穴に落ちた薩摩兵を次々とあの世へ送り出していった。決して深追いはせず、淡々と確実に相手を殺しては引いていった。
余りの手際の良さに、南側の大将である重政は驚嘆した。
「こいつら、ヨボヨボの爺ではないのか!?」
兜から見える顔は間違いなく老人のそれだ。にも拘らず、次々とこちらがやられていく。焦る重政に、出城で指揮を執る与兵衛は叫んだ。
「薩摩の大マヌケ侍共め。ワシらは“老いぼれ”ではない。亡き長増様と戦場を駆け抜けた“生き残り”なのだ! この枯れ木のような首を取れぬようでは、おぬしらも存外、へっぴり腰よのう。雑ぁ魚、雑ぁ魚!」
その声に反応してか、あちこちから笑い声が上がる。どちらを向いても老人ばかり。だが、誰一人怯む者はいない。すでに“死”は決まっている。そう言いたげな顔ばかりだ。
「おのれ! 者共、あの爺どもをさっさとあの世へ送り出してやれ!」
重政は配下の者に攻撃を続けるよう命じるが、またしても落とし穴に捕まった。そして、また矢弾が降り注ぐ。これの繰り返しだ。
「く、攻め口が狭すぎる。おまけに、その狭い道が落とし穴だらけとは!」
南側の攻撃は遅々として進まなかった。
***
一方の北側の戦場もひどい有様であった。ありったけの鉄砲弾薬をかき集めた火線を引き、櫓からも弓手が射かけた。
この鉄砲の射手はその多くが女であった。弾を入れ、火薬を込め、筒の先を敵に向けて、それから引き金を引く。これで“人殺し”ができるのだ。刀や槍にはできない、圧倒的な時間短縮。僅かな訓練で誰でも人が殺せるようになる。“殺しの簡略化”こそ鉄砲の最大の利点と言ってもいい。
そして、子供も戦列に加わっていた。城壁を登ろうとする薩摩兵に向かって、石や木片、瓦などを投げつけたのだ。地に足を付けていればどうということはないのだが、登攀中で手がふさがっているときには、たとえ兜を被っていたとしても、十分な威力が発揮される。
頭部に直撃し、悲鳴を上げながら落ちていった。
「いいぞ、者共! このまま敵を追い払いなさい!」
妙林もまた櫓に登り、周囲を鼓舞しながら弓を射かけた。出家したとはいえ、元々は武家の娘である。弓や薙刀、馬の扱いなど、当然のように嗜んでいた。
そして、こちらからも老人の部隊が討って出た。隙を見ては城門を開き、敵兵を二度三度と突き付け、そしてさっさと引き上げる。これの繰り返しだ。
女子供では、さすがにこれはできない。“生き残り”だからこそできる芸当だ。無論、昔のように縦横無尽に駆け巡る体力はすでに失われているが、それでも長年戦場で培ってきた“勘”というものがある。老人になるまで戦場にいたからこそ分かるそれである。
そうこうしているうちに時は流れていき、潮が満ちてくると、北側の大地も海に沈んでいき、攻め手を展開できる空間的余裕を失っていった。
また、南北からの挟み撃ちという作戦で攻めていたため、北側が攻撃を断念したということは、南側も被害を抑えるために引かねばならず、城方は攻め手を退けることに成功した。
すごすごと引き下がる薩摩兵の姿を後目に、妙林は櫓上から城内に向かって叫んだ。
「皆の者! 我らの勝利ぞ!」
大地が揺れんばかりの完成が響き渡り、下がる薩摩兵がなんとも惨めに映った。
そんな攻防が数日にわたって続き、延べ十六回もの攻撃が加えられたが、その悉くが防がれた。鶴崎城の守りは想像以上に硬かったのだ。
***
しかし、何もかもが順調というわけではなかった。鶴崎城にこもる者達は善戦している。老人に女子供しかいないわりには、精強な薩摩兵相手によく戦っていた。
堅牢に造られた城のおかげもあったが、誰一人として降伏を行おうとする者がいないほどに、とにかく士気か高かったのだ。その士気の源が“恨み”であったとしても。
まだまだやれる、そんな雰囲気に水を差すどころか、水桶をひっくり返される事態となった。
「兵糧が尽きたですって!?」
報告を聞いた妙林は渋い顔になった。当たり前だが、人は腹が空くし、腹が空いては何かを食べねばならない。食べねば死んでしまうからだ。
「申し訳ございません。物資の運び手が老人や女ばかりで思ったほど運び込めず、しかもそれに並行して防御設備の拡充を行っておりましたので、運び入れた食料が思ったより少なかったのです。それに、あの状態では・・・」
恐縮しながら報告する与兵衛が後ろを振り向くと、そこには“数多く”の領民がいたのだ。領民に被害が出ないようにと、周辺の住人は鶴崎城に収容した。つまり、その分、多くの食料を消費することとなり、思いの外早くに食料が底を突いたのだ。
幸い、水だけならまだある。なにしろ、城のすぐ横に川が二本も流れているため、飲み水や負傷者の手当てに使う水には不自由していない。
だが、水だけでは腹は膨れない。膨れたとしても、それは単なるごまかしに過ぎない。すぐにでも限界が来て、戦死者よりも餓死者の方が増えてくるのは明白であった。
なにより、城内の人々もかなり限界が近づいていた。戦慣れしていない女子供は疲労の色を隠せないし、戦慣れしていた老人とて、齢のせいか疲労の回復が遅い。戦死者も出ているし、負傷者も日増しに増えてきている。
はっきり言えば、なけなしの戦力でここまで戦えただけでも御の字と言わざるを得ない。
城を枕に討ち死にするをよしとするか、薩摩に二度目の屈辱を受けることとなるのか、決断は妙林に委ねられた。
考え抜いた末に、妙林は結論を出した。
「開城いたしましょう。領民全てを道連れにするなど、外道のすることです。それだけはなりません」
妙林の答えは屈辱の極みであった。死線を潜り抜けてきた者達からは、なぜ憎い薩摩勢に下らねばならぬのかと、怒りの表情を浮かべる者が大半であった。
だが、その背中には子供達がいる。この子らまで道連れにするのかと問われると、さすがに開きかけた口を閉じねばならなかった。
「機はあります。今は耐えましょう」
その言葉に、やむ無しと皆が納得せざるを得なかった。今は刀を収め、機を見て寝首を掻くくらいで臨んだ方が、まだマシな選択か、そう考えたのだ。
「与兵衛よ、辛い役目となるが、あなたが和議の使者となりなさい」
「はい、お受けいたします。して、どの辺りまで譲歩なさいますか?」
現状、戦死者で言えば薩摩勢の方が多いが、すでに城内は限界に達している者が多い。次の攻撃で城門を抜かれる可能性すらある状況だ。そうなったら、今までの鬱憤もあるであろうし、地獄が城内に顕現することだろう。
失陥した城の末路など、戦国の世を生きる者なら誰でも知っているのだ。
だからこそ、それだけは防がねばならなかった。
「全部差し出します。城内を掃き清め、素直に門扉を開け放ち、“命”以外のものはすべて差し上げます。そう伝えなさい」
乞うのは、ただ命のみ。城も、他の財貨も、全て差し出す。それが妙林の決定であった。
与兵衛もその決定には異論はなかった。おそらく、それ以上の条件は無理だと考えている。生き延びるだけでも良しとせねばならない。
しかし、それでも確認しておかねばならないことがある。
「もし、薩摩方が“城主”の首を要求してきましたらば、いかがいたしましょう?」
降伏した城の長たる者は“けじめ”を付けねばならない。これは当たり前のことだ。しかし、鶴崎城の城主は吉岡家の当主である統増なのだが、今は不在である。そのため、今は妙林が城主を代行している状態で、実質的に城の長は妙林ということになる。
本来ならば城主は切腹でもするのが倣いであるが、薩摩方は女にそれを要求してくるかは分からなかった。であればこそ、与兵衛は妙林に尋ねたのだ。
「構いません。その場合は私の身柄を差し出して、以て降伏の証といたしましょう」
妙林の答えに迷いはなかった。結局、今回の戦は“根比べ”であったのだ。だが、城側がその根比べに負けてしまったのだ。勝てばそれでよかったが、負けたからには勝った側に従わねばならない。
これ以上の損害は、自分一人だけで十分だ。それが妙林の答えだ。
気丈な方だ、そう感じ入った与兵衛は急ぎ薩摩勢が陣を張る東の白滝山に急いだ。
無念ではあるが、そうせざる得なかった。中には悔しさのあまり咽び泣く者もいた。妙林はそれら一人一人を励まし、さらなる屈辱に耐えるように言って聞かせた。
(私はここで死ぬかもしれない。でも、もし、生き延びることができるのであれば・・・)
そう考えながら、妙林は薩摩勢を出迎える準備を始めるのであった。
***
結局、開城交渉は思いの外、すんなりと決することとなった。
当初薩摩方は渋り、開城の条件に「城主に加え、十五歳以上の男は全員処断する」と言ってきたのだ。
さすがにこれは受けられぬと、与兵衛が突っぱねてご破算にもなりかねなかったのだが、結局は当初の条件通り、助命の件は通った。しかも、現在の実質的城主である妙林の助命も認められた。さすがに女を切腹なり斬首なりをするのは体面的によろしくなかったためだ。
あくまで、交渉をすんなり通してしまうと、薩摩方も薩摩方でかなり厳しい情勢になっており、それを見透かされたくなかっただけであった。
交渉がまとまると、与兵衛は急いで城に戻り、話がまとまった旨を妙林に伝えた。
その際、与兵衛は見た。妙林から今までに見たこともない恐ろしい“笑顔”が生じたことを。数多の戦場を駆け抜けてきた与兵衛も、この笑顔ほど不気味な物を見たことがなかった。
「よろしいですわ。では、取り掛かりましょう。皆、手分けして作業に取り掛かります。まず、怪我人を城外に出し、周囲の村で治療にあたること。城内を掃き清めて、貴人を出迎えるがごとく整えなさい。あと、周辺に転がっている薩摩勢の死体を回収。鎧も体も清めて、返せるようにしなさい!」
妙林は次から次へと指示を出し、周囲もそれに従って慌ただしく動き始めた。
「それから、与兵衛。隠してあった城外の備蓄庫から、ありったけの食料を運び込みなさい。できれば、酒も調達して」
「畏まりましたが、いかなるご用向きで?」
「無論、歓待するためです。先程までは、矢弾にて“おもてなし”をしていましたが、これからは酒と飯と・・・、あと“女”を武器に戦を始めます」
妙林の言わんとすることは、与兵衛にはすぐに分かった。城に招き入れた薩摩勢を歓待して、徹底的に骨抜きにする腹積もりなのだと。
そして、そのための小道具に、自分を含めたすべての“女”を使うつもりなのだということも、言葉尻から察した。
「では、舞の衣もなにか探して参りましょう」
「察しが良くて助かります。頼みますよ」
打てる手はすべて打つ。妙林の覚悟はとうに固まっていた。
屈辱だ。屈辱以外の何物でもない。夫を殺したのは薩摩の人間だ。そして今、自分はその憎い薩摩の人間を歓待しようとしている。にやけ顔の薩摩人にお酌をして、囃し立てられるままに舞い、そして床を同じくすることだろう。
だが、それでも耐えねばならない。心と体の距離が近づけば近づくほどに、一刺しにできる機会が巡って来るというものだ。だから、何をされても笑顔で返さなくてはならない。
そして、それを自分のみならず、他の女達にも強いねばならない。仏門を叩いた尼僧のするべき所業ではない。殺生に加え、姦通に騙し討ち、きっと地獄に落ちるだろう。
だが、それでも構うことではない。夫の仇を討ち、領地領民を守る術がこれしかないのであれば、鬼にも、死神にもなろう。
そう、妙林は決意した。
***
久宜は警戒していた。鶴崎城に籠る者がすでに限界なのは察していた。わざわざ開城交渉の使者を送って来るということは、すでに城内は負傷者で溢れたか、あるいは武器か食料などの物資が底を突いたかしか考えられなかったからだ。
それでも、城内に招き入れて謀殺することも考えられた。
そこで、まず先行して数百名、城内に入場させ、妙な仕掛けや伏兵がいないかを調べさせ、安全が確認されてから城内へと入って行った。
そこからは警戒していたのが馬鹿らしくなるほどに、大いに歓待された。先程まで刃を交えて殺し合っていたのが嘘か幻かと思うほどにもてなされた。酒や料理が山と積まれ、女達は着飾り、笑顔でお酌をして、舞いを披露する。つい前日まで鉄砲を握っていたとは思えぬ姿だ。
また、薩摩勢の将たる三人には、妙林が付きっ切りで酌をして、あらん限りのおべっかを使い、時にわざとらしいほどに衣を開けさせ、三人をとりこにした。
妙林の衣が乱れるほどに、三人の心もまた皴が走るがごとく、隙を晒していった。だが、妙林は動かない。ここで三人を殺しても、残った薩摩兵に反撃を受けて、城内皆殺しとなる。
そう、一撃ですべてを葬れる機会を探らねばならなかった。今はその時ではない。屈辱と逸る気持ちを抑えつつ、妙林は酌を続けた。
そして、切り出した。
「ときに、久宜様、是非お耳に入れたい提案がございますのですが?」
「おおう、なんじゃなんじゃ、聞こう」
久宜はすでに酒に酔っていた。そして、その手は妙林の尻を撫で回している。そのまま手に持つ酒瓶を振り下ろしてしまいたい衝動に駆られるが、今はまだ我慢の時だ。そう言い聞かせて、艶やかな笑みと共に、妙林は久宜を見つめた。
「はい、すでに師走も終わろうとしている時期にございます。もし、お急ぎでなければ、このまま鶴崎の地で、正月を迎えられてはいかがかと」
檻に入れた獲物を逃がすわけにはいかない。なるべく長く逗留してもらう必要がある。そう、隠した刃が首を断ち切るその瞬間までは、居座る理由を作り、立ち去る理由を作らせない。笑顔と酒精で覆い隠した殺意を成就するまでは、決して逃がしてなるものか。
「おお、そうか。もうそんな時期になるのか。重政、文綱、どうしようかのう?」
久宜が左右に座る副将二人に尋ねた。もちろん、この二人も酒を勧められるままに飲んでおり、すでに出来上がっていた。
「そうですな。すでに城は落ちておりますし、連日の攻撃で兵も疲れております。しばし正月までは休養しても良いのではないでしょうか?」
「それがよい。今、出立しても、冬の野外で正月を迎えても士気が下がりましょう。英気を養うのがよいかと存じます」
二人とも逗留に賛成。妙林は嬉しさのあまり、危うく殺気を放ちかけたが、酒を注いでごまかした。どのみち、三人とも酔っていて鈍くなっていた。
「うむ。では、妙林殿の言葉に甘えて、今しばらく鶴崎に留まることにしよう。府内にいる家久様に使い番を出して、指示を仰ぐのは忘れないようにな」
これで逗留は決まった。そして、薩摩勢を死の淵に追い落とす準備もまた、一つ進んだ。
***
酒宴は夜半まで続き、さすがに久々の痛飲と戦疲れもあって、そのまま宴の広間で寝てしまう者まで現れた。
久宜も酔いが回り過ぎて、フラフラと歩きながら、宛がわれた寝室へと酔った体を、どうにか自身の足で運ぶことができた。
部屋の前に到着し、ふすまを開けると、そこにはすでに布団が敷かれていた。そして、その横で待ち構えていた女人の姿もあった。
「おや、妙林殿、このような場所でいかがした?」
わざとらしく尋ねる久宜であったが、妙林が何を目的としての“待ち伏せ”かは問うまでもなかった。なにしろ、敷かれた布団には、枕が二つあったからだ。
久宜の姿を確認すると、妙林は三つ指を突き、頭を下げ、久宜を出迎えた。そして、ゆっくりと頭を上げ、笑顔で応対した。
「久宜様、薩摩国より戦に出られ、はや数ヶ月のことと存じ上げます。さぞ、女子の肌に恋しいかと思いまして、もし私などでよろしければ、今宵は御夜伽の相手を務めさせていただきとうございます」
無論、目の前の久宜だけではない。すでに他の武将達にも女を宛がってある。正月までの逗留が決まった以上、徹底的に骨抜きにしてしまうつもりでいた。
久宜も酒に酔った勢いもあって、そのまま妙林の体を布団の上に引き寄せた。白無垢の装束はその勢いで乱れ、肌があらわとなる。つい先頃まで兵を殺めていたとは思えぬほどに柔らかく、滑らかであった。
そして、久宜はしばらく味わっていなかった女人の肌を思う存分味わうこととなった。その女人が殺意に満ちた鬼や死神の類であることも知らずに。
***
年が明けて正月を迎えることとなった。その間、情勢は大きく動いた。
豊後国から瀬戸内の海を挟んだ反対側、今や日本の中心となった大坂にて、豊臣秀吉が全国の大名に対して号令を発した。
「島津を征伐し、九州の乱を収める!」
年賀の席にて公にされ、ニ十万もの大軍勢を島津の征伐のため、九州に向かわせるとしたのだ。
元々、島津に圧されて危地に陥った大友は、秀吉に助けを求めていた。これに対し、秀吉は島津に対し、薩摩、大隅、日向の三国は領有を認めるが、他は諦めろと警告を発していた。
しかし、島津はこの警告を無視した。大友に打撃を与え、龍造寺も傘下に収めた今、九州の統一は目前であった。それをいきなりの横槍から三国のみの領有を認めるなどとは、到底容認できるものでなかったのだ。
いっそ、勢いのままに九州を完全制圧し、以て上方からの豊臣軍を迎え撃とうとしたのだ。
だが、ここで島津方に狂いが生じる。北九州に僅かに残った大友の勢力圏である宝満城と立花山城にいた高橋紹運と立花統虎の熾烈な抵抗に遭い、北九州の完全制圧が頓挫。
大友の本拠地である豊後国に侵攻するも、丹生島城が落とせずにいた。
そこへ、豊臣軍の先方がいよいよ関門海峡まで迫り、島津方に与する秋月家の小倉城に攻撃を加えてきたのである。
事ここに至って、島津は九州統一を諦めざるを得なくなった。地勢に暗い外征地で決戦を挑むよりも、地元で戦った方がいいと、一気に戦線を下げることが決定した。
当然、引き上げの指示は鶴崎に留まる久宜らの下へも届き、帰り支度を始めた。
荷造りに勤しむ薩摩の兵達を後目に、妙林は久宜に願い出たのであった。
「久宜様、薩摩本国へお帰りになるのだとか。もしよろしければ、我々もお供に加えてはいただけませんでしょうか?」
久宜にとっては意外な申し出であった。鶴崎は放棄せざるを得ず、このまま自分達が消えてしまえば、城はまた妙林達の手に戻るのだ。それよりも、薩摩に行きたがる理由が見えてこなかった。
「妙林殿、いかなる思案あっての申し出か?」
「はい。我々、鶴崎の者達は、薩摩の方々と睦まじくなってしまいました。もし、このまま薩摩の方々がいなくなりましたら、薩摩の方々と昵懇の仲になっていた我々は、周囲に白い目で見られることでありましょう。何を言われ、何をされるか、知れたものではございません。ならば、いっその事、薩摩まで一緒に参ろうかと考えた次第です」
「なるほど、それは難儀な事よな」
妙林の話は筋が通っており、久宜も納得した。敵方に通じていたことが知れれば、あとでどのような沙汰が下されるかしれたものではないからだ。
しかし、薩摩方にはこの申し出を受ける理由はない。女子供の混じる行進など、時間がかかるだけであった。急ぎ撤退しなくてはならない状況にあって、お荷物を抱えるなどバカのすることであった。
しかし、この薩摩勢はバカであった。いや、バカに仕立て上げられていたのだ。
「うむ、よかろう。そういう事情であらば、致し方あるまい。妙林殿らを残しておくのは、心苦しいと考えていたのだ。一緒に薩摩へ向かおう。皆も異論はあるか?」
久宜の問いかけに、誰も異議を挟まなかった。なにしろ、開城してからというもの、何かに理由を付けては宴を開き、酒を飲んでは女を抱いてきた日々を過ごし、すっかり骨抜きになっていたのだ。中には夫婦のように睦まじい連れ合いもおり、逆に鶴崎に残りかねない勢いの者までいたほどだ。
兵の士気を考えても、連れて帰った方がいいかもしれない。そんな判断を下したのだ。
「ああ、薩摩の方々にはなんとお礼申し上げてよいか。ささ、今宵は鶴崎で過ごす最後の夜となりましょう。荷造りができました方から、今日はずっと飲み明かしましょう」
妙林の申し出に、薩摩兵は歓声を上げた。さあ、今宵も宴だぞ、と。
当然、その夜も盛り上がった。酒に、踊りに、誰しもが酔いしれた。二人きりの逢瀬を楽しむべく、一組、二組と宴の席から出ていく者達もちらほらと見受けられた。
その日の酒が最後の晩餐になるとも知らず。
***
昨夜は大いに飲み明かし、歌って踊って楽しんだ。しかし、肝心なことを忘れていた。そう、鶴崎の民の荷造りである。
薩摩勢を歓待する最後の日となるため、そちらに気を取られて、うっかり自分達の持って行く荷物を荷車に乗せていなかったのだ。
「申し訳ございません。ついつい皆様を歓待するのに、こちらの方が疎かになっておりました」
「いや、なに、構わん構わん」
神妙な面持ちで頭を下げる妙林に、久宜らは笑って応じた。昨夜も楽しかったし、薩摩へ“無事に”着けば、また飲み明かせるのだ。怒る理由は何一つない。
「久宜様、先に出立してくださいませ。荷造りが終わりましたら、すぐに追いつきますゆえ。このまま真っすぐ南へ向かい、乙津川に沿って進んでください。そうすれば、日向方面に抜ける街道に出られます」
「おお、そうか。ゆるりと進んでおくので、追いついてこられよ」
久宜は指示を飛ばし、南に向かって行進を開始した。
その後ろ姿をじっと眺めている妙林であったが、その隊列が城から離れるにつれ、歪んだ笑みに代わっていくのを与兵衛は見逃さなかった。そう、これは以前見た、あの不気味な笑みがまた戻って来たのだ。
妙林は無言で踵を返すと、そのまま自室に戻り、鎧甲冑に身を包んだ。久方ぶりの凛々しい姿に、与兵衛はやる気を漲らせてきた。いよいよ始まる。ついに始まる。待ちに待った仇討ちが。
妙林が完全武装で皆の前に姿を現した。手には薙刀を持ち、その刃を以て薩摩隼人の首を狩り尽くさんという意気込みの表れであった。
そして、目の前にいる鶴崎の人々もまた、荷造りという名の完全武装が完了していた。その手には、刀が、槍が、弓が、鉄砲が握られている。
もう待ちきれない。そう言わんばかりに、武器を持つ手が震え、妙林の言葉を待った。
「皆、よくぞ屈辱に耐えてくれました!」
妙林の声は城内に響き渡った。耐えがたい屈辱であったのは間違いない。夫を殺した相手に抱かれる女房、倅を殺した相手に薄ら笑いを浮かべて酒と料理を差し出す老人、一人残らず怒り心頭だ。早くこの抑えがたい感情を解き放ちたい。ただその一心だ。
「今、あのバカ者共は油断している。我らを体のいい召使いか何かだと思い込んでいる。だが、それは違う。我らは召使いにあらず。我ら、これより修羅となる。よいな!?」
「「応!」」
やる気は十分だ。戦意や怒りが、完全に恐怖を抑え込んでいる。今ぶつかれば、女であろうが老人であろうが、精兵として飛び掛かるであろう。妙林はそう感じた。
長かったが、ようやく機が到来したのである。
「じきに上方より、関白殿下の大軍が押し寄せてきます。もはや我々の負けはありません。反撃の時は今ぞ! 驕った薩摩のバカ者共を屠るのは今ぞ! さあ、今一度思い出しなさい。日向での敗戦を、この鶴崎での屈辱を。ああ、許してなるものか。一人たりとて逃すものか。さあ皆の衆、我らが成すべきことはただ一つ!」
機は熟した。今一度大きく呼吸をして、妙林は吐き出した。
「撫で斬りぞ!」
待ちに待った時が来た。もう我慢しなくていい。忍従の日々は終わった。我先にと城を飛び出し、そして、川縁を進む標的に襲い掛かった。
当初、久宣を始め、薩摩勢は何がおこったのか認識できないでいた。後ろの方から駆け足で鶴崎の人々が追いかけてくるのが見えた。荷造りが終わって、急いで追い付いて来たのだろうと思ったが、同時に違和感も感じた。
なぜなら追ってくる者達が、どういうわけか鎧を身につけていたからだ。
なんだ、と考えたのが最後。真横の森からの銃撃、それが文字通りの引鉄となった。地元の地形を知り尽くす先回りによる奇襲だ。
轟音と共に弾丸が飛び交い、島津勢がバタバタと倒れていく。それだけではない。それに続いて、矢も放たれ、次々と突き刺さる。
島津勢は混乱した。“敵”などいるはずもないとおもっていたところに、いきなりの攻撃に晒されたからだ。そう、彼らは失念していたのだ。昨夜愉快に飲み食いして歓待していた鶴崎の人々こそ、“敵”であったということを。
その混乱した島津勢の隊列目掛けて、追いついてきた鶴崎勢が斬り込んだ。刀を振り回し、槍を突き立て、薙刀にて払い、先程まで仲良く話していた“敵”を殺して回った。
島津勢の対応は鈍い。奇襲もさることながら、酔いがまだ残っている。昨夜しこたま飲まされて、それがまだ体と頭を蝕んでいるのだ。
しかも、相手は昨夜抱いた女ばかりだ。昨夜寝床で見た艶やかな笑みは、悪鬼のごとき形相に変わっている。夢か幻か、そう思えるほどに。
「これは夫の分! これはお父の分!」
「こりゃあ、倅の分じゃ!」
日向後家が、あるいは枯れた老人が、倒れた島津勢に止めを刺して回る。何度も何度も刺突しては、次の“獲物”を求めては殺して回った。
頭が働かない。何がどうなっているのか認識できぬまま、倒れ、血を流し、そして、死んだ。たちまち乙津川は朱に染まり、地獄と化した。
妙林もその渦中にいた。混乱する敵兵目掛けて薙刀を振り回し、一つ、また一つと、丁寧に命と首を刈取っていった。
久宜も必死で抵抗するが、混乱する味方が邪魔をして、逃げることもまとめることもできない。
そして、すぐ側で殺された兵を見やる。刀で何度も斬りつけられており、しかもそれを成したのが女であった。殺された兵士とは、昨夜は仲睦まじく夫婦のごとく振舞っていた女だったことも、久宜は覚えていた。なんのことはない、すべてが“芝居”であったのだ。
鶴崎の面々は約を違えた。“命”以外はすべて差し出すと言ったが、そんなことはない。“心”もまた差し出してはいなかったのだ。
だが、そんな言い訳は通用しない。なぜなら今は戦国の世。この程度など、乱世にあっては合法であり、また日常であるのだから。死体の山を築き、道を血で塗り固めながら、島津も大きくなってきた。大友とてそれは同様であり、殺し殺されては当たり前。文句があるなら、手に持つ刃で抗議すればよいだけのことだ。
今、鶴崎の人々がそうしている様に。
久宜の乗る馬にどこからともなく飛んできた矢が刺さり、暴れるままに振り落とされた。地面に叩き落とされ、背中を強く打ち付けた。
ようやく起き上がったその目に映ったのは、不気味の微笑む女人が一人。妙林だ。
「見つけましたよ、久宜殿」
微笑む妙林の腕の中には首が一つ。他でもない、重政の首だ。変わり果てたその姿に、久宜はそれを凝視した。そして、それを投げつけられた。
ベチャリとまだ生温かい血肉の感触が伝わり、顔が赤く染め上げられた。
「ヒェッ!」
「ご安心ください。三途の川にて、皆がお待ちですよ。すぐに送って差し上げますわ」
昨夜の笑みとはまるで違う。艶めかしい遊女など、もうどこにもいない。いるのは、身内を殺され、怒りに猛る女房達だけだ。
そして、死神は薙刀を勢いよく払った。絶望に染め上げられた心のままに、それを現す表情を崩すことなく命が刈取られた。
何度も抱かれた屈辱の日々。自分も含めて、鶴崎の女達もまた、自分の抱いた男共をきっちりあの世へ送り出した。
「まだです! まだですよ! まだ、動いている者がいます! お残しは許しませんよ!」
そうだ、まだ終わっていない。生きて返すな、薩摩の地へ。一人たりとて、逃がしてなるものか。妙林の号令の下、再び猛り狂い、もはや戦意も何もない、哀れな敵兵を刈り取るだけであった。
こうして、乙津川の川縁は島津勢の死体で埋め尽くされた。僅かな兵が文綱に率いられて脱出するが、その文綱も何本もの矢を受け、逃げる途中で命を散らせることとなる。
こうして後に『乙津川の戦い』と称される一連の戦いは終わりを告げることとなる。耐えに耐えた妙林の、鶴崎の人々の粘り勝ち。最終的な“根比べ”に勝ちを収めたのだ。
敵を見誤ることなかれ。人は与えられた恩義よりも、奪われた恨みをこそ忘れないのだから。
***
その後、妙林は皆を鶴崎に引き上げさせ、一部の者だけ連れて、大殿と息子のいる丹生島城を目指した。丹生島城もまた鶴崎と同じく女子供まで防戦に当たる厳しい状況であったが、息子の統増の奮闘に加え、用意していた仏郎機砲が功を奏し、守り抜くことに成功していた。
ようやく島津勢が引き上げたところへ、鶴崎から妙林が駆け付けてきたのだ。
「母上! ご無事でありましたか!」
母の無事な姿に統増は安堵した。互いにしっかりと手を握り、それぞれの無事を喜んだ。
「おお、統増や、大殿に従って、随分な活躍をしたとか。父も、御爺さまもお喜びでしょう」
「いえいえ、自分の働きなどまだまだでございますよ」
笑顔を交わす母子ではあるが、その笑顔の裏で、おびただしい数の死体を作り上げていたことは、それぞれも察していた。
そこへ、宗麟が姿を現した。主君の登場に、二人は恭しく頭を下げた。
「おお、妙林か。久しいな」
「宗麟公も御無事で何よりにございました。ああそうです、お土産がございます」
妙林が後ろを振り向くと、荷車を引いていた与兵衛が進み出てた。そして、荷車を覆っていた布を取り除き中身を見せると、そこには、首、首、首。文字通り、山と積まれていた。
これには、さすがの歴戦の猛者達も引いた。
「み、妙林、これはなんだ?」
あまりにも予想外過ぎる土産に、宗麟もまた、目を丸くした。隣にいた統増も同様である。
妙林はそのうちの一つの頬をペチッと叩き、にこやかな笑みと共に答えた。
「私めが討ち取りました甲首、全部で六十三ツございます。どうぞ、側に来て御改め下さいませ」
サラッと言ってのける妙林に、宗麟も、統増も、ただただ思った。
“怖い”と。
~ 終 ~
薩摩勢を薩摩言葉で書きたかったんですが、さすがに無理でした(汗)
吉岡家はその後、主家の没落と共に改易されますが、細川家に拾われて仕官を果たし、そのまま熊本藩の藩士として幕末まで残ります。
あと、室町幕府の剣術指南役であった、吉岡道場はここの分家筋ですね。宮本武蔵との決闘やらで知られている京・吉岡道場はここの吉岡家の流れです。