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2章36話 長くなりそうな夜(5)

エリーが自分のテント内で悶々としていたのと同じ時刻。

アーノルドは一人珍しく悄然と、頭を抱えて懊悩としていた。


(俺は、何て事を、しちまったんだ……)


自分で自分が信じられない。あの時、自分は………


日課の鍛錬をしていた時、エリーが声をかけてきてくれた。そこまでは良かった。いつも通りだ。

その後、俺は、知らないうちに何故か、エリーに自分の気持ちを打ち明けていた。


(俺は、【護れている】か)


………その時まで俺は、いつだって護るべき人物をノエリア義姉さん一人だと決めていた。俺が剣を捧げたのはただ一人、義姉さんだからだ。


(それなのに)


いつの頃からか、そのイメージが上書きされた。

俺の背中にいるのは、いつの間にか目の前でニコニコしている女……エリー・フォレストになっていた。

素振りをしながらイメージするのは、エリーをどう守るかだったし、鍛錬中だってエリーならばどこをどう動くだろうと想像しながら剣を振るっていた。その事に軽くショックを受けた。いや、すげー、衝撃だった。

話しているうちに、「いつの間にか自分がエリーをどう思っているかについて、当の本人に話している」という状況に慌てた俺は、無理矢理、これは義姉さんの事なのだと思い込もうとして、半分失敗した。エリーが、俺の事を褒めるのだ。

あれだけ酷い事をした俺を褒めて、励まして、さらには俺に信頼を寄せてくれていると告げてくれた。


そして、その事を理解した俺は………


(訳が分からなくなって、エリーを押し倒した)


もう、衝動的な行動だった。やっちまった後、どうしようかと動揺した。とんでもない失態だ。護衛対象を、劣情の赴くままに押し倒したのだ。

エリーの笑顔を見て、言葉を聞いて、仕草を見て、我慢できずに押し倒した。

狼の遠吠えが聞こえてきた時、俺はその忌むべき声を神の助けだと思ったね!


『…………静かにしろ』


セーフ!!俺が押し倒した行為は、エリーを護るための正当な行為に昇華した!………いや、これは世間体が守れたというだけで、実際にやっちまった事は最低だな。世間体が守れたとか、姑息な事を考えたのも、なかなかに自分勝手で最低だ。

ただエリーのびっくりした顔が、納得顔になってくれたのは良かった。護衛をしてくれるはずの騎士が、とんでもない劣情まみれだと知ったら安心して背中を預けてくれなくなるだろう。背徳的な騎士(インモラル・ナイト)の称号、笑いこっちゃないぜ。

しかし……あの『これからも、私を護ってくれます……か?』の台詞は反則だと思った。あれが理性のトドメとなったに違いない。あんな表情で、あんな事を言われたら、思わずあんな行動に出ちまうだろが……。

そしてこれ以上、何か言われたら、本当に我慢できなくなると思い、口を塞がせてもらった。

そしたらあの女は何をしたと思う? 俺の指を舐めてきたんだ!

くすぐったい感触が指を這ってきた瞬間、こいつ俺の理性を飛ばそうとしてんのかと思った。やめろ、というつもりで指を突っ込んだが、逆効果だった。

淫靡な顔で指を吸い上げ、それどころか吸ったり舌をちろちろと巻き付いたりしてきやがった。こっちはこっちで、指を突っ込んで警告をしていたつもりが、いつの間にか口腔内を弄り回す事になり、しかも弄れば弄るほどエリーの顔が上気してきて、何かとても背徳的な事をしている気分になってきた。いかん、マジで理性が飛ぶ。


『んんっ……』


一連の行為に対し、恐ろしく淫靡な吐息が俺の耳を打った。いかん、頭がぼーっとしてきた。こいつ、俺に魅了の魔法でもかけてんじゃないのか。もう我慢できそうにない、そう思った時、エリーがぎゅうっ、としがみついてきて、こう囁くように言った。


『怖い……』


……それを聞いて、俺の理性が幾分、回復した。ああ、俺はどんだけ馬鹿なんだ…。俺が劣情をもよおしている時、エリーは狼の遠吠えに恐怖で震えていた。肩や膝を噛み砕かれた狼が近くを徘徊している恐怖に小さく怯えている少女に対して、どれだけ果てしなく不敬で邪な思いを抱いているんだろうか。物語に出てくる好色の悪大臣とか、人の弱みに付け込む悪漢とか、それと同じ考えじゃないか。俺はそんな連中と同列になるつもりなどない。


『大丈夫か?』


俺はエリーを落ち着けるべく、優しく話しかけた。半分は自分自身に言い聞かせるつもりで。俺は大丈夫か、理性は残っているか、変な事をしないだろうな?


『だい、じょぶ、れす……』


何て口調で返事をするんだ。今の俺にはこの舌ったらずの返事も毒だ。胸の中で一生懸命、恐怖に逆らって健気に頷くところもまた、いつものエリーと雰囲気が違って変な気持ちになる。その間にも指をちゅーちゅー吸われて理性も一緒に吸い取られているような気分なのに。くそ、悔しい。俺だけドキドキしているのは卑怯だ。口惜しいので口に突っ込んだ指で舌を弄ったり、頬を内側から掻き回したりしてやるが………ダメだ、逆にエリーの口が半開きになって、ますます蕩けた表情をされるので、これではいくら理性があっても足りない。「ふあああ」とか「にゃああん」とか、変な声で鳴かれた日には堪えるだけで精一杯だし、何だか足も絡み、絡まれて、ヤバい。こんな姿を誰かに見られたら、俺の人生は間違いなく詰む。簡単に言って終わる。そうなったら、どこか俺の名前を知らない遠方の地で冒険者にでもなるかな……もしくは煩悩を打ち払うために僧侶にでもなろうか……


……どれくらい、こうしていただろうか。やがて狼の遠吠えが遠ざかっていく。


……………………。


いや、名残惜しくないぞ。「くそ、役立たずどもめ。もう少し距離を取りつつも徘徊すれば良い物を」などと思ってはいない。


『もう、大丈夫かな』


俺はそう言ってエリーを労わった。怖かっただろうに、ずいぶんと我慢をさせた。その証拠に、まだこいつは俺にしがみついて離れない。密着しているから分かるが、心臓の音もドキドキと高く脈打ち、緊張状態なのだろう事が分かる。俺を惑わせていた指を、エリーの口から引き抜くと、にゅるんと粘液が糸を引き、舌と指を繋ぐ。やべぇ。まさか涎がこんなにもいやらしい物だとは思わなかった。あと、「あふん」とか変な声を出すな。それだけで脳内にもやがかかったような気分になる。


『もう平気だ、もう大丈夫だ』


今も胸に顔をうずめて震えているエリーをなだめるために声をかける。いや、そうでもしないと理性が保てない。こいつ、あの手この手で俺の理性を飛ばそうとしてきやがるからな。だが、こうして小さくなっているエリーを見ていると、護ってやりたくなるのは嘘偽りではないと確信する。いつの頃からだろう、こいつが俺の視界から離れなくなったのは。少なくとも、今の俺はエリーに対して幸せになって欲しいとは思っている。色々と辛い事も多かっただろうしこれからも平民出身という事で苦労するだろう。その荒波から護ってやらなくてはなるまい。その為には、俺の目の届く所にいてもらいたい。………うーん、何だか俺自身の本心を偽っているような気がするが、まぁ、その辺はおいおい、心の中を整理して行こう。今、彼女に言うべきは違う言葉だ。


『俺から離れるなよ』


俺はエリーの目を見て、そう言った。

……………ん、おかしいな。何か俺、今、とんでもない事を口走ってしまった気がする。しかし今は気にしないでおこう。なぜならさっきからエリーの心音が高鳴り続けているのだ。一体、どうしたという事だ。何か緊張状態を引き起こす敵でも迫っているのか?困惑する俺を、エリーは真っ赤になり、潤んだ瞳で見上げて、たった一言、言った。


『はい』


素直なのは良い事だ。だが俺は、彼女の瞳から目が離せなくなり、そのまま顔を近づけていく。やべぇ、これはやべぇ。一線越えちまうぞ。シャレにならん。どういうわけか、今の俺は、エリーの一挙手一投足を見るだけで、強烈に庇護欲をそそられてしまう。有体に言えば、護ってやりたくなってしまう。この、強く抱きしめたら壊れてしまいそうな少女を、この手から離したくなくなってしまう。

いやいや、違うだろ。聖女は誰かの物ではないし、護るのだって何も俺一人である必要はない。だから自重を………


そう思った瞬間、唇同士が軽く触れた。

俺の名誉の為に断言するが、これは完全に事故である。いや、顔を近づけすぎたせいで、そうなってしまったのは原因だが、そんな事をするつもりは毛頭なかった。


『なにするんスか!乙女の純潔を返して下さいよ!!ざっと金貨50万で良いですからね!』


それくらいの罵声は覚悟した。しかしエリーは何ひとつ文句は言わず、その代わりに


『ぃゃん………』


とか言って、自分の唇を、自らの小さな舌で軽く舐め回してみせた。

………こいつ、こんなに扇情的だったっか?見た目が可愛らしいのは知っている。おそらく黙っていれば(黙っていればな)十中八九の人間が美人だと言うだろう。一方、造形を気にしない人間から見ても、こいつの真骨頂は予測不能な言動は興味をそそる。外見と合わせた魅力はなかなかのものだと見ている。個人的には後者の方が俺的には好ましい。外面が美人の奴なんざ、ごまんといるからな。

………が、今のエリーを見ていると、蠱惑的で、淫靡で、艶やかな色気が溢れている……ような気がする。空色と濃褐色、それぞれ違う色彩を帯びた瞳が潤み、桃色に上気した肌が健康的な色気を醸し出している。

ああ、毒だ。これはもう目の毒だ。それでいて、顔が、エリーの側から離れない。わざと何かを喋ってみる。


『どうした?』


己の台詞が白々しい。どうした、じゃねぇよ。顔が近すぎて、しゃべるたびに唇が何度か接触し、そのたびに柔らかい感触が伝わってくる。やばい。意味もなく語り掛け、唇の感触を何度も確かめてしまう。くそ、エリー、すまねぇ。お前を組み伏している男は、とんだスケベ野郎だ。お前を護る資格もない、発情期の動物だ。どこに行っちまったんだ、俺の自制心は!

しかもエリーの奴が嫌がるなり抵抗するなりしてくれれば、俺としても我に返るタイミングがあっただろう。それなのに……エリーはエリーで、何も言わねぇ!もしかして大の男がのしかかってきた恐怖心で縮こまっているのだろうか……と思ったが、そういう風でもない。むしろ、向こうも受け入れて………いやいや、それは男の身勝手な妄想というべきだ。エリーが自分からそう言い出さない限り、そんな幻想は捨てるべきだ。


(ああ、それなのに、それなのにだ…!)


エリーは抵抗するどころか、舌をちらりと挑発するように出して再び自分の唇に這わせ、さらに時折、紅い舌を俺の唇と触れ合わせて来た。冗談ではない。いや、本当に冗談じゃ済まない。分かってやってんのか?俺の自制心を試しているのか?そう問いただそうとしてエリーを見ると………


『…………………』


拒絶の意思を微塵も見せず、こっちをじっと見つめている。試しに俺も軽く舌を出すと、ちょうどよく……いや、また偶発的な事故で、舌同士が触れ合う。いや、事故だって!本当に!


(柔らかい)


……違う。何をしているんだ、俺は。か弱い女子に対して、何をしでかしているんだ。

落ち着け、落ち着くんだアーノルド。お前はできる男だ。自分を律する事ができる男だ。クールになれ。深く深呼吸を「あふ……ん…」もうやめろ、変な声を出されると煩悩が甦っちまうだろ。耳を塞がないと軽く一線を越えて、一戦を交えかねねぇな、これ。自制心を振り絞って「ちゅ」ぐああああ、また触れちまった!いや、明らかに今の、向こうから舌を出してきたから、俺のせいじゃない!

それよりも、むずむずするような、くすぐったい感触と、電撃が走るような刺激が舌同士を通じて伝わってくるのが、いやもう、どうにでもなれという気分にさせる。

ウオオオオ、目覚めろ、俺の理性。このままだと本当に犯罪者になるぞ。


『あ、悪い』


そう言いながら、全身全霊、すべての理性をフル動員してエリーの体から離れる事に成功した。ああ、絶対に今、「あ」の部分、うわずったな。声が裏返った。情けない。ただ悪いと思ったのは本心だ。心の底から反省している。どんな罵声でも受け入れよう。


「……………」


何も言ってくれない。気まずい。


冷静になって今の態勢を顧みる。エリーは仰向けのまま、軽く両手を挙げている格好だ。その手首をつかんでのしかかっている俺は………ああ、どこからどうみても、襲い掛かって押し倒したようにしか見えないな。悲しいかな、半分くらい事実なのだが。

いつもならば、例によってどこからか飛んでくる衛兵に「確保!」とか言われて連行されていただろう。しかしながら今は俺とエリーしかいない。つまり……まぁ、これからどうなろうと、これから何をしようと、止める人も咎める人もいないわけで……。おーい、騎士団のみんな!出番だぞ!俺を確保しろ!いや、してくれ!

いや、別に何をどうしようとか思ってないけどさ!むしろ逃げ場のない状況で大の男にのしかかられちまうだなんて、女性にとっては恐怖以外のなにものでもないだろう。きっとエリーを怯えさせちまったに違いない。


『…………………………』


全然怯えていない……というか、組み伏したエリーを上から眺めた瞬間、やっと取り戻した冷静さが吹き飛びそうになる。

上気した肌、潤んだ瞳、ぷるんとした蠱惑的な唇、はだけた胸元からは谷間が覗き、付け根まで見えちまっている健康そうな足が、俺の足に絡みついていた。ちらちらと下着が露出しているのも悩ましい。

ああ、俺はどうしちまったんだ。こいつは護衛対象で守らないといけないのに……こんな姿を見せられると、逆に滅茶苦茶にしてやりたくなってくる。


『エリー……』


俺は懇願するように、かろうじて声を出した。頼む、頼むから俺を罵ってくれ。いや、変な意味じゃなくてだな、俺を拒絶してくれ。そうでないと、本当に俺は、もう無理だ。無理です。無理過ぎる。


『わ、た、し………』


(あ、ダメだこれ)


とても拒絶する声ではない。

もしも、だ。もしも、万が一、あり得ない事ではあるが、この後に続く言葉が、俺を受け入れるようなものであったら。今の俺の行動を肯定するような言葉だとしたら。

間違いない。俺は飛ぶ。巷で喧伝される根も葉もない破廉恥な噂は現実となり、背徳的な騎士(インモラル・ナイト)の称号は未来永劫、俺の頭上に輝くだろう。だーーれーーーかーーー。


『…………………』


エリーが俺の言葉を待っている。どうする?どうすればいい?言いたい事はある。だがそれを口にすれば、もう引き返せなくなる。言うべきか、言わざるべきか。


『俺は………』


情けなく乾いた声で、ようやく声を出す。カスカスだ。喉が渇いてしょうがない。ここでは水は貴重品だというのに。


『はぃ………』


エリーの声もうわずっている。うっすらと目を閉じて、口も半開きで……何だ、これは。こんなの俺の好き放題じゃねぇか。無防備にもほどがある。ははぁ、あれだな。高名な剣士は防御態勢を取らずとも、相手の攻撃を捌けるという。……まぁ、こいつがそんな達人であるはずはないので、ただの無防備な態勢なんだろう。……えーと、つまり、どういう事だ?……俺の直感というか、感覚では……二人とも考えている事が一致しているような気がしている。だがこれは勘なので、信じていいものかどうか。


『どうされても、もう構わないです。どうぞ好きにしてください』


ダメだ、幻聴が聞こえる。エリーの言葉ではなく態度や肢体から、そう訴えかけているように聞こえてきた。全身から濃厚な色香が昇り立つのが見えるようだ。病気かも知れん。かろうじて、本当にかろうじて理性の糸が繋がって、最後の一線を越えまいとこらえている。ただもはや決壊寸前だ。もしエリーの口からさっきの言葉……そこまでいかなくても、受け入れるような言葉が発せられていたら……ああ、もう間違いなく襲い掛かっていた。それはもう、貪るように襲い掛かっていただろう。

再び俺は理性をフル動員して、ギリギリで襲い掛かる手を止めている。比べるのは失礼かもしれないが、犬が「お預け」を命じられている時は、こんな感じなのだろうか。よし、明日から犬に対して「お預け」の命令だけはしないようにしよう。目の前に宝物がありながら、それを我慢するとか悪魔の所業である。


(初心に戻れ、俺は騎士、俺は騎士、俺は騎士……エリーだって、二人きりになっても、こんな真似をしない俺を信頼してくれてんだろうが。俺は何を目指して騎士になった?)


俺が騎士になった理由。そう、俺は………


『義姉さんを護れる男になれそうか?』


俺は義姉さんを護るために騎士になったのだ。その姿を、エリーも見てきたはずだ。ここは、エリーからも、俺がきちんとしているかどうか聞いておきたい。その上で、立派に勤めを果たしていると言ってくれたのなら。そうしたら、俺は俺にもっと自信が持てるはずだ。

俺は正しい騎士としての道を歩んでいて、初心を貫徹していて、そして、エリーの目から見ても、それが揺らいでいないかどうか。……そしてひいては、エリーを護れる資格を有しているのかどうか。そうした想いを口にしたつもりだ。つもりだった。

だが、次の瞬間、俺は完全に間違えた事を痛感する。



―― エリーは目を見開き、あれほど全身から発していた熱情が完全に欠落しているのと同時に、泣きそうな顔で俺を見上げていた。


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