第39話 幾万の絶望の果てに
―― 嘆きの乙女は妖精であり、疎通するような意思はない。
そう思われていた怪異が、明確にエリーを捉える。
「がはっ………」
突っ伏すエリーが咳き込むと、血が混じっていた。
寒い、痛い、苦しい。
エリーの脳裏には、その3つがぐるぐると回り続けている。
『アアアああああアアアアアアああアアアアあアアアあアア!!』
そこに追撃するように、再び耳に【死の歌】が聞こえてくる。
すでにキャパオーバーになっている体が仰け反って、押さえていた左肩から血が噴き出して。
口からもがぽがぽと血が出てきたけど、悲鳴も出ずに空気音だけが漏れている。
(あー、もー、せっかく血が止まったのにさー)
悲惨な外面になっているが、エリーは薄ぼんやりと、そんな事を考えていた。
びちびちと苦しげに跳ね回っている自分がどこか現実だと思えず、「何か生きたままお湯にぶち込まれたエビみたいだな」とか思ったり。
くそ、皆さん分かるかなぁ。
動かない体を無理矢理動かされるつらさが。
身体の中で、ボキボキブチブチ、やばい音が鳴ってるのが聞こえる感覚を。
『スゴイ、死ナナイ』
嘆きの乙女の驚いた声が聞こえてくる。
散々、歌を聞かせておいて、なんだ、その言い草は。
どこを見ているんだよ。 死ぬよ、死ぬ。 もうすぐ死ぬから。
お前のせいで死ぬからね、本当に。
『普通ナラ、1分も持たナイのに。
デモ、5分たっテモ、死なナイ!!」
そんなに聴かせたのか!
やべーよ、即死効果のあるの歌を5分も聴かせるって、ジャ○アンリサイタルくらいしか聞いたことないぞ、そんな非道なイベント。助けてドラえ○ん。
『キっと対魔属性が強いのネ。
さすがに無効化は無理みたいだけど、普通なら即死するよ!』
そっちを向く元気もないけど、ドサドサと周囲の魔獣が倒れていく音が聞こえた。
日記が正しければ、ここは8階層のはずなのだが、そこにいるレベルの魔獣が即死する。
おいおい、私はどんな音波兵器を聞かされていたのだ。
せっかく応急手当や、動かない事で必死に治してきた傷口はすっかり広がって、私の探検服は血で真っ赤になってしまった。
あーあ、べちょべちょだ。 ボタボタと地面にまで滴ってる。
ちなみに冷静に語っているように聞こえるかも知んないけど、実際の私の身体はぼろ雑巾のようになって、白目剥いて泡吹いて痙攣してる。 ちょっとこれ、ホラー過ぎませんかね?
これはもうだめだ。 色々と身体が不味い事になってるな。
いつか私、木っ端微塵に吹っ飛ぶんじゃないか?
『ねぇ、助けはこないの?』
………………?
なんだろう、この違和感は。
嘆きの乙女は先ほどと比べて、ずいぶんと言葉がはっきりしている。
狂気に囚われた言葉ではなく、はっきりとした質問。
だが頭も体も追いつけず返事に窮すると、向こうからこちらを覗き込むように顔を近づけると。
『そっか、ここまで来られないものね』
と笑った。
あまりに酷薄な笑みに、私はぞっとする。
そしてもうこの怪異とは距離を置くことに決めた。
お願いです、もうつきまとわないで! 全部、無視するから。
『そうだよね。来られるわけないよね、こんな深い場所まで。
みんなみんな、意気地なしだもんね』
は?
『薄情だよね、落ちた時も、誰も助けてくれなかったもんね。
どうかしら、見殺された気分は?』
こいつ、何を言ってるんだ?
『もう意地を張らないでいいのよ。
私の歌で、あなたを苦しみから解放してあげ――』
「ふざけんなよ」
あれ?
今、喋っているの、私?
「悪いけど、みんな、見殺してないから。
落ちて行く時のみんなの顔、しっかり見てたから。
みんな、私の事を心配した顔をしていたから。
誰一人、薄情な人なんていなかったから!」
まったく感情のなかった嘆きの乙女が、反応した。
でもそれは、私にとって良い反応ではないと思う。
メッチャ怖い顔で、こっちを睨んでいたから。
でも、やめればいいのに、私の反論は止まらなかった。
「私の事は馬鹿にしても構わないけど、
私の事を想ってくれた人たちを馬鹿にしないでよ。
誰も意気地なしなんていないし、今もきっと頑張っている。
そんな人たちの事を悪く言うのは、私が許さない」
『ミ、み、見………』
嘆きの乙女が激昂した。
恐ろしい形相で、恐ろしい金切り声を上げながら、歌ではなく、振り乱した髪が、鞭のようにしなって私を打ち据える。 は? 物理攻撃? そんな事できるなんて聞いてないんだけど。
『見殺しにされたくせに! 見殺しにされたくせに!見殺しにされたくせに! 見殺しにされたくせに!』
髪の鞭が私の背中を打ち据える。
それはもう、やけくそで、感情に任せて、怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになっている彼女の感情そのままだった。
ですがね、あのー、私の背中もぐちゃぐちゃになってるんですけど……。
皮がめくれて、剥き出しの肉が弾け飛んで、一発一発、間違いなく死に近づいているんですけど!
あと一発くらいなら魔法ぶちかませるから、こいつの顔面に叩き込んでやろうか。
…………うん、ダメだな、身体動かねぇ。 文字通り、死体に鞭打ってるって感じ。
多分、すっごい情けない悲鳴を上げていたと思うんだけど、しばらくしたら声も出なくなった。
……で、散々に打ち据えられた挙句、私は変な呼吸音だけをする血袋になっていた。
前髪を掴まれ、無理矢理体を起こされて、顔を接近させられて凄まれる。
『誰も来ないネェ?』
ああ、ムカつく。
私には到底、叶わない相手だけれど、こいつには降参しない事を決めた。
『何か言う事はナイの?』
すっかり頭部の傷が広がって、血塗れになった顔を舐められる。
もう意識を保つ事もできなそうだ。
私は、力を振り絞って口を開いた。
「あ………の…………」
『なぁに?』
「アー……ノ…ルド、さんに、やられ……ちまえ……ばーーか」
私の脳裏に最後までこびりついていた人の名前を出してやった。
何だよ、私の最期の言葉がこれか。
もっとお世話になった人とかいたでしょ?
―― これじゃ、私が、まるで……
それを言葉にならなかった。
代わりに、嘆きの乙女が目から血を流し、呪詛のように、噛みつくように叫んだ。
『アハハハハハハハハハハハハハ、面白い子!
じゃあ来てくれるように祈りなさイ!!』
耳元で愉悦と、それ以上の殺意交じりに宣言する。
『今からずっとずっとずっと、耳元で歌ってアゲル。
ここまで耐えてきたけど、0距離で歌われるのは初めてでしょウ?
耐えラれる? ねぇ、耐えらレレレるかなァ?』
こいつ、本当に馬鹿だな。
………耐えられるわけないだろ。
◇◇◇
洞窟の8階層の北エリアにある、ちょっと開けた場所に、生ゴミが転がっている。
あ、それ、私です。
あの後、長時間のエンドレス拷問を受け続けた結果、完全に起動停止した私に見切りをつけたのか、嘆きの乙女は狂い笑いしながら、どこかへと立ち去って行った。
勘弁してよ。 やるならきっちり、殺すところまで責任持って欲しかった。
いや、それとも、これが狙いだったのかな。
嘆きの乙女の狂気的な拷問を遠巻きで見ていた魔獣たちが、様子をうかがいながら私に近づいてきていたのだ。
このまま食われるのか、それとも殺されてから食われるのか。
どっちかと言えば、後者でお願いしたい。
視界に入るだけでも、凶狼に人馬獣に一つ目の大巨人かぁ……
しかも複数体いるんだもんな。
冷たい洞窟の床に、大の字で転がっている私へ、ゆっくりと一つ目の大巨人の足が上がると、そのまま上に………
ぼきぼきぼきぼき
ご丁寧に、私の右膝を踏みつけた。 踵でぐりぐりと磨り潰す念の入りようだ。
「ぐ、あ」
とっくの昔に声が潰れた私は、もうこんな悲鳴しか出ない。
この野郎、大の魔獣が雁首そろえてボロボロの女の子に何をしやがる。
そんな慎重にやらなくても、もう動けないっての。
一思いにやっちゃって欲しいのだが。
その想いが通じたのか、一つ目の大巨人は、今度は頭に照準を合わせる。
身動きもできないので、それをじっと見る事しかできない私。
やれやれ、死の直前に見た光景が化け物の足の裏だなんて、何て人生だったんだよ。
『何があっても死ぬな』
突然、私の頭の中に声が響く。
『足掻いて、足掻いて、どんなに格好悪くたって、生き延びろ』
…………なんだ、くそ。
最後の最後まで人の行動を束縛しやがって。
もう十分頑張ったんだから、もう良いじゃんか。
そろそろ楽にさせてよ。
やっと死ねるんだ。 絶対にここを動かないからな!
…………。
……………………。
………………………………。
「ああ、くそ! あの世で会ったら覚えとけよ!」
私はギリギリで身を翻し、半回転すると、一つ目の大巨人の足裏から逃れる。
「いぎっ!」
散々鞭打たれた背中が燃えるように痛い。
右足が死んでるので這いずりながら逃げ出す。
ここまでの流れ、我ながら素早いと思ったんだけどな。
実際はそうでもなかったようで、簡単に捕捉されると痛くて痛くて堪らない左の脇腹に人馬獣の突進が炸裂して、私の身体はボールみたいにポーンと吹っ飛ぶ。
でも人馬獣で幸いだった。
もしこれが一つ目の大巨人だったら死んでいたかもしれない。
前にもらった膝蹴り一発で、脇腹、完全にもっていかれたからな……。
ゴロゴロと転がりながら、洞窟の端まで飛んでいく。
一応、計算をして、この広場の出口の方向へ吹っ飛んでみたんだけど、飛距離は足りなかったようだ。
それでも最後まで足掻こうと、体を起こそうとして激痛で動きが止まる。
背中と脇腹が限界を伝えてきて、動くのを拒絶する。
呼吸するだけで全身が悲鳴を上げる。
ええい、こちとらとっくの昔に限界は越えてるんだよ、いいから動いてくれよ。
背後から迫る魔獣の群れの足音や唸り声が聞こえてくる。
動けよ、動いてよ。
動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け!!!
前に動け!!!
もう神様なんかに祈らないから、私の身体、最期まで、前に動け!!!
背後から狼の声が、一つ目の大巨人の影が、人馬獣が矢をつがえながら蹄を鳴らす音が迫る。
「アーノルドさん!!!!」
最期に叫んだ。
私、足掻きましたよ。
最後の最後まで、あなたの言った通りに、足掻いたんですけど。
……不思議と満足だった。
ここで終わりだとしても、少なくとも胸を張って、後から来るだろうみんなに顔向けできる。
だから、あの世で会ったら……そうですね、せめて褒めてくれますかね?
「よくやった」
…………ん?
早いな、あの世。
いくらなんでも色んなものを素っ飛ばし過ぎじゃなかろうか?
そういえば、最後はずいぶんと楽ね。
後頭部か背中にとどめの一撃くらいは覚悟していたんだけど。
その代わり、ふわっと体が浮き上がると、力強く引き寄せられる。
(あれ?)
上を見上げると、武骨な手で髪の毛を撫でられて。
私はここがあの世じゃない事と、ここが、この世界のどこよりも安全な場所にいる事を確信した。
「あ……あああああああ……………」
全身が脱力する。
私は、何も言えなくなって、涙だけがボロボロと流れ出して。
報われた。
足掻いて足掻いて足掻いて足掻いて、何度も絶望したけど、「死ぬな」って言葉だけは守って。
死んだ方がマシだって思った事もあったけど、それでも、前にだけ進んで。
そして、私は、辿り着いた。
私の瞳に映るのは、すらりとした長身、切れ長で強い眼光を放つ瞳は燃えるような赤。
わずか一閃で魔獣たちの攻撃を弾き返した技量と、その一瞬で場を制した存在感。
もう待ちくたびれましたよ。
幾千の苦痛と、幾万の絶望の果てに。
―― 今、私はアーノルド・ウィッシャートの腕の中にいる。




