第35話 暗闇の中で
(ああ、死ぬ。 もう死ぬよ、これ)
地下を彷徨いながら、もう何百回となく呟く。
エリーは一人、右足をずるずると引きずりながら、それでも歩き続ける。
洞窟内だと時間の感覚も失われているが、何となく、まぁ、3日くらいかなと思う。
ただ一度、目を瞑ると泥のように眠ってしまうので、本当はどれくらいかは知る由もない。
(これは神様を信じる気持ちになるね)
意を決して目を閉じる時、これが最期になるかと思い、祈りながら、眠る。
(どうか神様、また私に明日をください)
今の所、天は見放していないようで、寝ている間に魔獣の餌食になる事はなかった。
もちろん今日の無事は明日の無事を意味しない。
この階層では死はあちこちに転がっている。
群れ同士のちょっとした諍いから、凄まじい乱闘となって死体がゴロゴロと転がる事なんか当たり前だし、負けた魔獣が追いやられてエリーの方に来る事もある。
エリーは自分を「この階層カーストの最弱者」として早々に認定し、危険を察知したらすぐに脱出した。
頼りになるのは、洞窟内で自然群生している発光する草、「蛍草」がもたらしてくれる、わずかばかりの光と、いざという時にとってある簡易ランプなどの探索グッズ、そしてたまに耳に入って来る水の流れる音。
これまで10回ほど(多い)、喉の渇きと飢えに耐えかねて、魔獣の死体を食い漁ろうと考えるまでに堕ちたが、その時に聞こえて来た水音のありがたかった事!
喉を潤し、傷口を洗い、患部を冷やし、ついでにその辺に生えていた苔を食べる事で何とか飢えを凌いだのである。
いくら空腹でも魔獣なんて食べたら、一発で腹痛起こしてあの世行きだっただろう。
だが洞窟内の水場などは魔獣たちにとっても大切な場所。
用が済んだら、ただちに移動し続けないと遭遇してしまう。
死を覚悟で寝るか、四方を警戒しながら丸まって痛みと飢えを耐えしのぐか。
深層落ちして以降のエリーの行動は、だいたいこのどちらかであり、暗がりから暗がりへと滞在場所を変えながら、どうにか生きていた。
(いつまでこんな生活を続ければいいのかな。
だったら、いっそ……)
ふと、そんな思いが胸を去来するが、慌ててその思考を追い払う。
いかんいかん、そんな弱気でどうする。
あんな高い所から落ちてきて、まだ生きているだなんて奇跡だ。
この奇跡を活かさなくてどうする。
もはや千切れそうな心をかろうじて繋ぎ止めているのは、ここにいない男の言葉だけだった。
『俺から言えるアドバイスは、ただひとつ。
死ぬな、だ』
アーノルド・ウィッシャートの言葉が反芻する。
『何があっても死ぬな。
どんな怪物と遭っても、ダメージを受けても、苦境に陥っても、手足がもげても、諦めるな。
諦めなきゃ人間ってのは、そう簡単に死にはしない。
足掻いて、足掻いて、どんなに格好悪くたって、生き延びろ』
マジすか。 もう死にそうなんスけど。
比喩的表現じゃなくて、手足がもげそうなんですけど。
引きずっている足なんて、もうどっち向いているか分からんのですけど。
『そしたら、俺が駆けつけてやるぜ』
本当かなぁ。 あの人、結構、いい加減な事を言うからなー。
いい加減な事を、いい笑顔で言うからなー。
じわり、と涙があふれて来る。
ぐしぐしと泣きながら、たった一人で洞窟内を這い回っては、また絶望して。
左肩と右膝が相当ヤバいってだけで全身にも、ぶん殴られた頭にも痛みが走り、そのたびに歩みが止まる。
でも、もうダメだと諦めそうになるたびに、あの言葉と顔を思い出すと、なぜかもうちょっとだけ頑張ろうと思う。
(私がこんなにも先輩の事を思ってあげてるのに、きっと向こうは何とも思ってないんだろうなー。
もしかしたら爆笑してんじゃないかしら)
エリーは知らない。
その先輩が、エリーを侮辱した一国の財務長官に対し、斬りかからんばかりに激怒していた事を。
その事をエリーが知っていたら………まぁ、普通にドン引きするだけだろうが。
(ここにしよう)
エリーは岩場が崩落した場所に、隙間があるのを見つけた。
中を慎重に確認し、小型の魔獣がいないのも確認する。
よっこらせっと中に入ると、そこは意外にも広い空間だった。
これは良いと横になるエリーは、そこでふと気が付く。
(あれ?)
それは普段だったら絶対に気が付かないような違和感だった。
極限状態を綱渡りで生き延びて、人恋しくて死にそうな時間を過ごしてきたから気が付いた違和感。
(これ、人がいたんじゃ……?)
寝転がると、ちょうど同じくらいの窪みに、そこだけ草がわずかに短い。
ここに何かがいた痕跡がある。
巧妙にカモフラージュされた入口と、狭い穴からは想像もつかない広い空間。
崩れそうな外見だが、少し触ると堅牢に補強されているのが分かる。
小型の魔獣では、こんな事ができるはずがない。
「人だ、人がいるんだ……!」
にわかに嬉しくなるエリー。
ぼっちだった時間、どんなに苦しかっただろう。
それが一人でないと分かった途端、希望が見出せたような気がした。
(な、なにか、なにかないの?)
気掛かりなのは、どうしてここにいないのか。
なぜいなくなってしまったのか。
(いなくなってから、ずいぶんと時間が経過しているみたいだけど…
もっといい場所が見つかったのかな?
水か食料を確保しに出て行って、見つかっちゃったか……)
地上へ戻れた?
いや、そんなはずはない。
だったらもっと騒がれてもおかしくない。
苦しい体を気力で動かし、穴倉の中を手探りで触れていく。
すると指先に何かが触れた。
岩でも、草でもない、人工物。
必死で左肩を抑えていた右手を伸ばし、血に濡れた手で、その人工物を引き寄せる。
(この形……)
知っている……これは紙だ。
しかも束になっている……本か、手帳か。
魔獣たちがいないことを確認し、光が漏れないように自分の身で明かりが漏れないように、今こそ残された簡易ランプを付ける時だと灯を照らす。
(日記……?)
それは汚れてかすれて、ボロボロになって。
まるで今のエリーのように見るも無残な、今にも朽ち果てそうな、ほとんどゴミ同然の……
いやいや、それは言い過ぎでしょ!?
まだ私は朽ち果てるつもりはないんですが!
(……誰の日記だろう?
ごめんなさい、拝見します!)
ゆっくりとページをめくると、最初のページに持ち主の名前が書かれていた。
「アデリナ・パラッシュ……?」
女性の名前だった。
綺麗な文字で、繊細で、持ち主の教養がうかがえるような。
だがその下に、書きなぐったような書かれていた文字が。
同一人物とは思えないような乱暴な筆致で書かれていた言葉を見た瞬間、エリーは後悔した。
(知らなきゃよかったよ……)
ああ、と体の力が抜けていく。
身体が軋み、心が何度目かの複雑骨折を起こして、その場にうずくまってしまう。
そこに書かれていた、たった一言。
それはエリーの心を穿つのに十分な破壊力を秘めていた。
「間違いない、ここは洞窟の第8層だ」
悲痛な叫びにも似た文字。
ああ、誰だよ、下手したら5層まで落ちちゃうとか言った奴は。
8層なんて、誰も来れるわけないじゃん。
一瞬でも期待を抱いた私が馬鹿みたいだよ。
「……言ったじゃないですか」
思わず愚痴ってしまうのは、許して欲しい。
「早く駆けつけて下さいよぉ………」
もう動けない。
こんなに足掻いた結果が、誰も来られない闇の中で徘徊していただけだなんて。
人知れず、死んでいくと思ったら、つらくてつらくて。
エリーは知らない。
ここで発見された「日記」が後日、大騒動を巻き起こす事に。
だが今はそんな事など想像もできず、緊張の糸がぷつんと切れたエリーは、ゆっくりと倒れて、そのまま意識を失ったのだった。




