第31話 さよなら聖女
対岸で悲鳴が上がる。
「エリーさん!?」
真っ先に声を上げたのはモニカで、続けて真っ青な顔をしたキャロルが
「魔力枯渇………」
と震える声で呟く。
―― 魔力枯渇。
魔法の授業中、頑張りすぎた子がよく陥っていた症状。
何らかの理由で魔力が枯渇すると、全身が激しく脱力し行動停止に陥る。
魔法が使えない人で言うと、脱水症状や低血糖症のような症状で、本当に重い場合は死にさえ至る症状。
それが、どうして、こんな時に?
いや、思えば兆候はいくつかあった。
「全力で魔法ぶっ放したから、頭がくらくらするんですけど!」
と言いながら、ふらついていた足元。
「……エリーさん、鼻血出てるけど」
と指摘された、突然の鼻血。
そもそも丸一日、あんな高威力の魔法を使い続けて平気なはずがない。
魔族との戦力差を一変させる可能性すらある魔法を、あんな頻度で、あんな長時間放ち続けて、魔力が枯渇しない方が異常なのだ。
いつも元気で、あんな状況でも冗談を言いながら魔法を使い続けたので、いつしか皆、エリーの魔法は無尽蔵だと思っていた。
魔力所持量が多ければ多いほど、枯渇時の反動は大きくなる。
エリーは橋の真ん中付近で、痙攣しながら鼻血を出し、一歩も動けない。
あの症状を見ると、すぐにでも手当をしないと命の危険さえありそうだ。
「くそっ!!」
すぐに戻ろうとするグレンを、フランクが押しとどめる。
「離してくれ!」
「落ち着け!!」
神聖魔法によって生み出された防壁が破られると同時に、人馬獣たちが一斉に弓を放ち、エリーとの間に矢の弾幕を降らせる。
この矢の雨に突っ込んでいたら、負傷どころでは済まなかっただろう。
「射手、援護だ! それと援軍は……隊長たちはまだか!?」
「連れてきます!」
ケイジが走り出す。
一方で何もできないモニカたちは叫ぶしかなかった。
「エリーさん! 早くお立ちなさい!!」
「エリーさん!!!」
モニカの雷も、キャロルの水も、形を成す前に崩れていずれも不発に終わり、同時に二人とも地面へ膝をつく。
こちらも魔力枯渇を起こし、身動きができなくなったのだ。
言っておくが二人とも魔力は多い方であり、その反動は通常よりも強い。
だが、明らかにエリーの倒れ方とは違う。
その事が、いかに今、エリーが陥っている状況が危険なのかを際立たせていた。
そして、大地に昏倒するくらいの反動を受けたエリーに、危険が迫っていた。
(……何が起きているの?)
さっきまで橋を走っていたはず。
それがどうしたのだろう。
今は遠くでみんなが何かを怒鳴っているのが見える。
素早く体を起こす……つもりが、ずいぶんと緩慢な動きしかできない。
鉛のように体が重いんだけど……えーと、何をするんだっけ?
ああ、そうだ、逃げなくちゃ。
早く逃げないと橋を落とせ………あれ?
「あう………」
情けない声を上げて、再び転倒してしまう。
何だよ、これじゃあ産まれ立ての子馬だよ。
あー、気持ち悪い。
視界がぐるぐるするし、体中に力が全然、入らない。
ぼんやりと考えている私は、目の前に狼の牙が迫っているというのに、ぼーっと突っ立っていて。
……おかしいな。
あの凶暴な狼の顔が、私の顔の真横にある。
それに右膝にもまとわりついていて、低く唸り声をあげていた。
「あ……………」
私はやっと、ここで我に返った。
自らの力ではなく、凄まじい激痛と、とてつもない不快感で。
ぐしゃり。
変な音を立てて、私の左肩と右膝に喰いついていた狼の口が閉じる。
それと同時に、真っ赤な鮮血が噴きあがる。
べきべきと音を立てながら、強力な顎が私の骨を砕いていくのが嫌でも実感できて、不快感のあまりに吐き気をもよおす。
「あああああああああああああああああああ!!!」
これ、私の声?
絶叫とも悲鳴ともつかない大声が洞窟にこだました。
普段なら恥ずかしくなる所だけど、今はそんな事など言っていられない。
喉が潰れるくらいの絶叫を上げながら、またしても橋の上で横転してしまう。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!
イタイイタイイタイイタイイタイイタイ!!!!!
激痛で頭の中がやっとクリアになる。
いや、そんな生易しいものじゃなくて、もっとヤバい危険信号が頭の中で鳴り響き続ける。
『このままだと、死にます』
分かりやす過ぎるサインが全身から伝わってくる。
ガジガジと肩と膝が噛まれるたびに血が溢れ出し、骨が砕ける嫌な音が体の中に伝わる。
凶狼の咬合力は尋常じゃないって聞いていたけど、想像以上だった。
しかしまさか、生きながら食われる事になろうとは思わなかったよ。
そんなに美味いか、私の体は。
その時、苦悶する私の体に、頭部に衝撃が走った。
「あれ?」
私の体は空を飛んでいた。
本当に、比喩的表現ではなく、大いに私の体は宙を舞い、一回転しながら地面に叩き付けられる。
そのまま、2回、3回とバウンドしながら地面を転がり、松明の台座をど派手にぶっ壊してようやく止まる。
「げぶっ」
くそ、もうちょっと色気のある悲鳴は出なかったのかね。
そう思いながら、衝撃を受けた頭を触ると、べっとり濡れていた。
血だった。
ボタボタと音を立てて、床に血の跡が広がっていく。
薄れそうな意識を必死で繋ぎとめて目を開くと、やや遠くにいる一つ目の大巨人の拳に血が付着してやがる。
あの野郎、私の頭を思いっきりぶん殴りやがったな。
さっきいた地点から10mは吹っ飛んでいる。
運良く橋の上に飛んだけど、一歩間違えたら奈落の底へ真っ逆さまだったぞ、ちくしょう。
唯一、幸いだったのは狼たちがさすがに口を放した事くらいだろうか。
しかし肩に食らいついていた狼は、ごっそりと私の肩の肉をえぐり取っていった。
鬼か、こいつ。
「あ………ぅ………いっ…たぃ……」
もう私の悲鳴など、悲鳴にすらなっていなかった。
視界は頭部への打撃と出血で限りなく暗くなり、右膝は喰い砕かれて変な方に曲がっている。
肉が持っていかれた左肩は、ぶらんと垂れ下がっていて動く気配もない。
かろうじて動く首だけ、進むべき方向を向く。
真っ暗な視界の中、かろうじて目に入ったのは、橋の向こうから大きく口を開いているみんなの顔だった。
なによ? 何を言いたいのかしら?
次の瞬間、私の体は再び空を飛んでしまった。
続けて来る左脇腹の痛みに、ようやく一つ目の大巨人の膝蹴りをモロに食らってしまった事を理解した。
べちゃ、とカエルが潰れたような音を立てて、私の体は痙攣する。
そうか、みんな注意をしてくれたんだね。
気が付かなくって、ごめんよー。
こんな私を案じてくれるなんて、思わなかったからさ。
こちとら、あんまり優しくされたりした事なくってね。
……ああ…
………帰りたい。 帰りたいなぁ。
あっちまでたどり着きたいよ。
明日は何事もなく、また授業を受けて、大道芸魔法を披露して、笑われて。
放課後、魔獣の洞窟の注意事項をみんなとお菓子を食べながら共有して。
先生に「平民風情が」と言われながらも、優しい助言に感謝して。
それと、そうだ。
アーノルドさんと一緒に馬車に乗って、登下校もしないと。
あの人は嫌がってるみたいだけど、結構今は楽しみなんだよね。
「帰りたい……」
もう私を突き動かしているのは、その気持ちだけだった。
最後の力を振り絞って、ゆっくりと立ち上がる。
右足を引きずり、今、ぶん殴られた左の脇腹を押さえながら。
黄金色の髪の毛も、探検用に支給された服も、もう自分の血で真っ赤になっている。
幽鬼のように橋の向こうへ歩いていく姿は、きっと嘆きの乙女なんかより、よっぽど酷いんだろうな。
クラスメイトのみんなは、絶句して声も出ないみたいだし。
………やだな。 また嫌われちゃうのかな。
でも、こんな汚いクラスメイトは嫌か。
……けれど、けれど。
でも、でも、お願いします、神様。
どうか少しだけでも。
「あうっ」
声が出た。
背を向けた魔獣の群たちの中から、人馬獣の放った矢が左肩に突き刺さっていた。
凶狼にえぐられた肩を、的確に追撃するとか、どんだけ鬼畜なんだよ、あいつら!
さらに2本、3本と背中に突き刺さり、4本目が命中した時、とうとうバランスが崩れて膝をついてしまった。
何か言おうにも、口からはひゅー、ひゅーと、聞いた事もない変な音が漏れていて、言葉にならない。
(ダメかぁ)
天を仰ぐ私の視界に入ってくる天井。
(もうちょっとだったんだけどな)
視線を戻すと、みんなの姿が映る。
ああ、どうしたんだろう。
そんな悲しい顔をしないでもらいたい。
周囲の制止を振り切って飛び出そうとするグレンくん。
危ないよ、そんなに前に出ちゃ。 いくら君でも、あの矢の雨は無理だって。
あらケイジくん、そんな顔は君には似合わないよ。
いつもニコニコしてたのに、どうしてそんな必死な顔をしているの?
事態が深刻だと自覚させられるから、笑っていて欲しいな。
モニカ様、やっぱりあなたは何だかんだ言って、心配してくれるんだね。
ありがとう、私の友達になってくれて。
あなたの明るさに、何度も救われたの知らないでしょう?
キャロルさんは顔が真っ青じゃない。
美人が台無しだから、もっと笑うと良いんじゃないかな。
せっかく眼鏡がよく似合う知的美人枠は大事にして下さいよ。
ブリアナさん、ミーアさん、区別がつかないとか言ってごめんなさい。
洞窟での二人はとても頼もしかったです。
イヴェットさんと三人で、モニカ様をよろしくね。
フランクさんもピエールさん、みんなをよろしく。
騎士団の人たちの凄さや責任感、すごかったです。
あー、後は名前も知らないけど、貴族の息子、娘さんたちは、せっかく助かったんだから、これからは頑張って色んな人に優しい人になって欲しい。
……うー、先生とか、下宿のおばちゃんとか、みんなにもっと感謝したいんだけど。
そろそろ時間がないみたい。
振り向くと目の前に狼の牙が再び迫ってきていた。
そうそう、予想通り。 さぁ、私の方に来な、カモーン。
鈍い衝撃が、再び私の体中を駆け巡る。
あー、左肩と右膝は、使い物になんないな。
でももう、そんな事、知ったこっちゃないぜ。
こっちは覚悟決めたんだから。 一匹でも多く、地獄の底まで付き合ってもらおうじゃないの。
崩れ落ちる体を気力で支えながら、どうにかみんなの方を向く。
最後にみんなの顔を焼き付けたいから。
……うーん、残念。
最後の顔は、みんなの笑顔が良かったんだけど。
だから私だけは、笑っていよう。
精一杯のやせ我慢で、微笑んでみた。
……大丈夫かな、上手く笑えているかな、これ。
痛くて般若みたいな形相になっていたら笑えないぞ。
私は、まだ声が出るうちに、ちゃんと意思をこめて、言葉を紡いだ。
「【爆破】」
次の瞬間、橋を支えていた天井から伸びる支えが爆発し、橋が崩落していく。
視界が落ちる。
今度は倒れたのではなく、本当に身体が沈んで、落ちていく。
崩落に巻き込まれていく魔獣たちと共に、私の身体は落ちて、落ちて、落ちて。
―― 暗闇に落ちながら意識を失った。