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4章第16話 認識

「お前さぁ……」


アーノルド・ウィッシャートはエリー・フォレストにジト目で責められていた。

まだ少年と言って差し支えない、ダニエル・ウィッシャートに対しての厳しい訓練への抗議である。

それについてアーノルドは、この男にしては弁解がましく異議を唱える。


「訓練は理に適っているし、ダニエル君が乗り越えられるギリギリのラインを設定していたつもりだ。組打ち稽古についても厳しくしてくれと要望を受けたので、それに応じたまで。実際、力尽きたものの、大きな怪我はしていないはず……だ」


「だからって年下の子を、ここまで虐め抜く事ぁないでしょーが」


ここ3日間ほど連続して、ダニエル・ウィッシャートが稽古を続けている。

しかもかなり強度の高い訓練を、アーノルド・ウィッシャートという、家門でも屈指の剣士による手ほどきを受けて。

だが、あまりの強度に連日のようにダウンしては介抱を受けているというわけだ。


「俺も少しやり過ぎたと思っている。だがな……」


アーノルドは唇を尖らせながら、睨み付けるようにエリーに視線をやる。


「毎度毎度、膝枕して介抱してやらなくても良いんじゃないか?」


その視線の先にはダニエルが目を回して倒れているのだが、その後頭部の下にはエリーの膝枕が彼を優しく受け止めていた。

……アーノルドはそれが気に入らない。

どことなく「そこは俺の定位置だ」とか思っている節すらある。

そもそもアーノルドが、ちょっと強めの訓練を直々にダニエルに施したのも、エリーがダニエルに近過ぎるのが、なんとなく心に引っかかるものがあったとかいう、大人げない動機だった。

まぁ、簡単に言えば嫉妬である。ダサい。


「石畳の上じゃ、かわいそうじゃん」


「まぁ、可哀想ではあるが……それ以上にいい夢でも見てるのか、良い顔をして……」


ぶっ飛ばされて気を失ったダニエルではあったが、エリーに膝枕をされてスヤスヤと、ついでにニコニコ寝ている姿は、まぁ、晴天とは言え冬空の下にしては、良い寝顔であった。


「スカートが汚れちゃうのがな~。私は良いんだけれど、貸してくれたノエリア様や手入れをしてくれる侍女のみなさんに申し訳なくて。明日からは女中さんからメイド服を借りようかと思うんですよ。あっちの方が丈夫だし」


「やめておけ」


「なんでさ?似合わない?」


「エリーは何でも似合うとは思うが、客人に女中服なんか着せたら、大問題になるぞ」


「ああ、なるほど」


この家に仕える女性たちの中だけでも、「侍従・侍女」と「使用人」で明確に立場が分かれている。

それなのに賓客に対して女中服なんて着せようものなら、対象をないがしろにしているどころか、招待した家人までも愚弄する行為だろう。

それにしても、しれっと「何でも似合う」と惚気に近い言葉を織り交ぜるアーノルドであるが、あまりに自然なので言われたエリーもスルーしてしまった。

当のアーノルド自身、当たり前のように口に出てしまうという無意識のなせる業なのだが、それにしてもこの二人、これでも互いの矢印が一方通行だと思っているというのだから恐ろしい。


「貧乏気質の自分としては、客人という立ち位置に申し訳なく思っているのですが。今からでも何か手伝える事はないですかね?」


「今も負傷者を介護してるだろ」


「そんなんじゃなくて、雑用的な奴ですよ」


エリーとしては、働かざる者、食うべからずという概念からして今の自分は、単なる穀潰しにしか思えなかった。

貴族の婦女子様たちは、普段は何をしているんだろうと思う。

貴族は貴族としての務めがあるのだが、その責務もないエリーは現状、ウィッシャート家でのんびり過ごすだけで良いのだ。

とても居心地が悪い。


(貴族の嗜みもないし、貴族の遊びも知らないし、ましてや同年代に友達もいなければ、貴族女子の趣味や礼儀も知らないし)


自分で自分を評して悲しくなるが、事実なので仕方がない。

そうなると出来る事と言えば、訓練を見学したり、邸内を散策したり、せいぜい義務としてダンスレッスンを受けるくらいだ。

それともうひとつ、アーノルドには内緒で進めている事もあるのだが、これも根を詰めると良くないので、もうちょっと気分転換になるものが欲しい。


「あ?学校の、冬休みの宿題? んなもん、休み最終日にまとめてやっちまえば問題ないんだよ」


と絶対に後で苦労と後悔する事、間違いないスケジュールを立てているエリーは、現時点でほぼ無敵状態だった。

そんなエリーに、アーノルドは大きく息を吐いて


「もうお前は十分、よくやっていると思うぜ」


と呟く。


「なにせ実力はあっても引っ込み思案な性格が懸念だったダニエル君が、この変わりようだ。まさか自分から剣を習い、気絶するまで頑張るだなんて、彼を知っている人間からすれば奇跡が起きたとしか思えないだろう」


「そんなにぃ?」


「ダニエル君の両親なんて手と手を取り合って、泣いて喜んでいたからな」


ふぇ~、とエリーは思わず変な声を出してしまった。

今、膝枕をされながら安眠している少年が、そんな問題児だったとは。

確かに消極的だな~とは思っていたが、そこまでこじらせているとは知らなかった。


「陰キャは陰キャを呼ぶという事か……」


「お前と同族にするなよ。ダニエル君が不憫すぎるからな」


「むっ、階級差別ですか?やはり貴族という身分に属する人々は、そうやって出自で人の優劣をつけるのですね」


「いや、身分・階級関係なく、人間的観点からお前と一緒扱いだと可哀想だという意見だ」


「は? 先輩が何を知ってるってんですか?」


「少なくともダニエル君は、休暇中に出された課題を最終日にまとめてやろうとか考えるほど、浅はかじゃない」


「ぐうの音も出ねぇ」


早々に白旗を上げたエリーは、反論する気も起こさずに降参した。

君子たる者、ここで挑発に乗って「私だって計画的に課題をこなすことくらいできらぁ!」とか口走り、墓穴を掘るような真似はしないのだ。


「話を元に戻しますと……私がよく頑張ってるって話でしたっけ」


エリーは、半ば強引に話題を変更して語り出す。

もっともズレていく話の軌道修正をしたかったわけではなく、話の流れが戦況不利だったからに過ぎない。


「まー、代わりにダンス教えてもらっているから、おあいこってやつですよ。最初は渋られてましたけど、始めたら積極的に教えてくれるんで助かってます。まったくツンデレさんなんだから」


「ふ、ふーん。よかったな」


アーノルドが「積極的」という箇所でどもる。

エリーはそんなアーノルドに脇目を振らず、ふんふんと指を振りながら、得意げに続けた。


「ただ膝が本調子ではありませんので、激しい動きはできないのが今後の課題です。いくら私の身長が低いとはいえ、さすがにまだ私の方が背が高いですからね。寄りかかったりした時、支えてもらうのが気の毒かな~って。せいぜい密着して、振り払われないように頑張ってます」


「そんなに密着するダンスなんかないだろ」


「ありますよ~。ダンスではなくてですね、こう、私がバランスを崩したら、抱き合うように、ぎゅ~~~って」


エリーは両手の人差し指同士を絡めたりくっつけ合わせて、二人の踊り手がダンスの途中で前のめりになって密着している表現をする。

その表現に、今度はアーノルドは露骨に嫌悪感丸出しの表情を浮かべた。


「はしたないから、おやめなさい」


なぜか丁寧に注意するアーノルド。動揺しているのか、視線が落ち着かずに、あっちこっちを見ている。

やがてエリーの隣にどっかと座り込むと、ひとつ咳払いをして忠告をし始めた。


「いいか。お前は意識をしていないかも知れないがな。指導という名のスキンシップにかこつけて、体を触ろうとする不逞な輩は世の中にいくらでもいるんだぞ。もう少し危機感を持って人に接しろ」


「いや、まぁ、私だって誰でも構わずって訳じゃないですよ。きちんと人を見て、信頼できる人を選んで、事に及んでいます」


「言い方ぁ!!もう少し別の表現あるだろ!」


「それともなんですか、ここウィッシャート家には、そういう不埒な事を考える人物がいるという事でしょうか」


「む……」


そう言われると黙るしかない。

まさか「この世の生物学上のオス全員」を不埒な輩認定するわけにもいくまいし、ましてや身内を信頼していないのかと言われると、いくら不平不満を抱いていようとも、簡単に首肯できない。

エリーは、ろくな反論も出来ず、憤然と唇を尖らせて沈黙してしまうアーノルドをしばし面白そうに眺めていたが、やがて噴き出してしまう。


「何がおかしい」


「いやー、申し訳ねぇッス。意地悪な返し方でした」


どうやらエリーの方も、わざと返答に窮するように誘導をしていたようだ。


「なんでそんな真似をした」


「そりゃあアーノルドさんの反応が面白いからじゃないですか」


ニマニマと笑いながら、エリーが勝ち誇ったようにアーノルドを見ている。

確かに、思いがけず動揺をしてしまったのはアーノルド自身、認めざるを得ない。己が不明を恥じるばかりだ。

ひとつ息を吐き出すと


「やれやれ、どうやら修業が足りないようだ。もっと精神を穏やかに保たなくては」


と反省の弁を口にした。

そんなアーノルドに対し、エリーもまた肩を(すく)めて、唐突に台詞を口走る。


「メイベルちゃんです」


「は?」


「くっついたり、抱き付いたりしてる相手、メイベルちゃんですよ。さすがに少年とは言え、ダニエルくんも男性ですからね。ノエリア様のような親族でもない限り、知り合って間もない異性からベタベタと触られるのは好むところじゃないでしょう」


それは他愛もなく、何気ない言葉だったが、アーノルドの心中に波風を立てるには十分だったようだ。

その証拠にたった今、精神を穏やかに保つことを誓ったばかりの男が、嬉しいやら虚を突かれたやらで、複雑な顔をしている。


「おや。その顔は安心したって顔ですね。まったく本当に先輩は独占欲が強いですなぁ」


「いくらなんでもおかしいとは思ってはいたぞ。いくらなんでも、そんなスキンシップは失礼と思う反面、男性諸兄にとっては、まぁ、下衆な表現をするならば、ご褒美というか」


「ほっほーぅ。私のハグはご褒美クラスだと認めるんですね!?」


「あまりあからさまだと下品だが、一般的な成人男性は悪い気はしないんじゃないか」


「あのですねぇ」


エリーは呆れたような声を出す。


「私にとって重要なのは、()()()()()()()()()()()ご褒美かどうかです。んな、巷の一般男性がどう思うが、知ったこっちゃありません」


「少しは世間の評判も、気にした方が良いと思うがなぁ」


アーノルドは至極真っ当な意見を口にしたが、当の本人も学校での評価はなかなかのものである(悪い意味で)。

主にエリーと一緒に醜聞を重ねていっている彼に対し、その言葉はブーメランとして突き刺さっているはずなのだが、メンタル強すぎというべきか、湾曲フィルターが幾重にも掛けられているというべきか、ノーダメージというから驚きである。


「それに……ご褒美と言うなら、こっちの方が上なんじゃないか?」


アーノルドはじっと、エリーの膝の上でスヤスヤと寝ているダニエルに視線を落とした。

そう言われたエリーは、アーノルドの視線と顔を交互に見た後、非常に険しい顔で、眉根に皺を寄せながら言った。


「………こいつぁ、とんでもねぇスケベ野郎だぜ。まさか後輩女子の膝枕……すなわち、せくしーな太ももを所望するとは」


「あくまで一般論的な話だ。俺個人の感想だと思われるのは、甚だ遺憾である」


「そんな誤魔化さずに、素直に私に対して劣情を抱いていると言ってくれて良いんですよ?」


「は?別に劣情を抱いてなんていませんけど?優秀な枕としての評価ですけど」


「なるほど。私の身体だけが目当てという事ですか。見下げた性根をしていますね」


「さっきも言ったが、もう少し他の表現があるだろ!?」


「それ以外にぴったりな表現が思い浮かびませんでした。そんなに言うなら、アーノルドさんが別表現してください」


「むぅ……。より正確性を期するならば「お前の下半身だけが目当て」だが……」


「なにが「むぅ」だよ。より言い方が悪くなってるよ。最低さ加減に拍車が掛かっちまったよ」


互いに相譲らぬダメさ加減だが、恐ろしい事に、そのレベルの会話が延々と続くのである。

まさに丁々発止、白熱だけはするのだが、何の益もない不毛な会話が続く。

そしてアーノルドはダメダメな事に


「やはり普段通りの事をしてもご褒美としてはレアリティ感に欠けるんじゃないかな?サプライズが必要だと思う」


などともっともらしい事を言い放つ始末である。

後輩女子に膝枕をされる事を「普段通り」とは、聞く人が聞いたら卒倒しかねない醜聞だが、信じがたい事にアーノルドにとっては日常であり、言われたエリーはエリーで「確かに」などと応じている。

何が確かに、なんだか第三者は訳が分からないだろう。


「予定調和も過ぎると、ご褒美がマンネリ化してしまいますからね。当初、有効だった手法がいつまでも最善手というわけではありませんし」


「その通りだ。時は常に流れ続けている。悠久の大地とて幾千年かければ変化するんだ。俺たちも変化が必要だろう」


彼女からのご褒美を悠久の大地に例えるとは、母なる大地もさぞや迷惑千万に違いない。ましてや幾千年とは単位でか過ぎである。


「では、こういうのはどうでしょう?」


「なんだ?」


「あ~、ちょっと耳を貸してください。ここから動けないので」


ダニエルを膝枕しているエリーは身動きが取れない。

エリーの横で座り込んでいたアーノルドは、さらに肩を寄せて耳を近づける。


「名案なんだろうな?ちょっとやそっとのアイディアじゃ、俺は驚かないぞ」


お手並み拝見、とばかりに、まだ聞いてもいないのに勝ち誇るアーノルド。

エリーは眼前に寄せられたアーノルドの耳……正確には横顔に、自分の顔を近寄せる。

しかしいつまでも言葉が続きが発せられず、アーノルドがおかしいなと思った瞬間である。


ちゅっ、と軽い音が響いたかと思うと、同時に濡れた柔らかい感触がアーノルドの頬を撫でる。

耳孔をくすぐるような甘酸っぱい音と、鼻腔を刺激する爽やかで甘い香り。

五感をフルに刺激されたアーノルドは目を見開いて、しばし絶句した。

まぁ、簡単な話、頬にキスをされたのである。


突然訪れた想定外の事態に、活動停止したアーノルド。

それに対してエリーは、ぶっきらぼうな口調で尋ねる。


「今の、ご褒美になります?」


言葉だけで受け止めれば平然としたものだが、当のエリーは視線を合わせるのも恥ずかしいのか、そっぽを向いて、さらに耳まで真っ赤になっていた。

どう見ても平静を装おうとして失敗しており、このままだと脳天から湯気でも噴き出しそうなほどである。


一方で不意打ちを喰らったアーノルドは、起こった事象の把握に数秒を要したが、事態を理解すると「お、おう」と一言だけ発した後は二の句も告げずに頬を撫で回していた。

つまるところ訓練場の中で、二人のいる一角だけが冬空の中、春のポカポカとした陽だまり……とは表現が可愛すぎるか。もう少し最高気温が上昇するような、もうこれは見ちゃおれん熱帯に突入している。


「ま、ま、まぁ、いいんじゃないか」


アーノルドがようやくエリーの言葉に応える。

こちらもまた、ぶっきらぼうな台詞であるが、こっちはこっちで口調は上ずり浮足立って、表情はというと、まさに笑顔を強引に「噛み殺している」という言葉がぴったりな代物であった。

真一文字に結んだ口の口角だけが上に上がっていて、普段アーノルドを見ている人なら二度見してしまうくらい、味わい深い表情となっている。

そっぽを向いているエリーはそんな事になっているとは露知らず(知っていたら全力でからかっていただろう)、


「ふーん、意外と平気なんですねぇ。もっと動揺してくれると思ったんですけど」


と若干、不貞腐れたような口調で応じる。

実際のアーノルドは心臓バクバクで、そんな余裕は皆無なのだが、座したまま硬直しているせいで泰然自若に見える。


「いや、まぁ、そうだな」


アーノルドはなんと答えていいものやら、返答に詰まった。きちんと答えてやりたくとも、果たして何を答えればいいのやら。

ただ、最初の質問にはきちんと答えてやらねばなるまい。


「ご褒美になるかどうかと言えば、なる」


「マジで?」


ぱあっ、とエリーの表情が明るくなった。


「いやー、反応薄かったから、てっきり箸にも棒にも掛かんねぇかと思っちまいましたよ。いやー、良かった良かった。少しは私のちゅーにも価値があるって事ですね。傾国の美女とまでは行かなくとも、その辺の男子を色仕掛けでたらしこむ事くらいはできそうですなー。スケールが小さくて申し訳ないですが」


まだまだ自分も魅力的って事っスねぇ、などと誰にというわけでもなく、陽気に話しているエリー。

一方でアーノルドは舌打ちを禁じ得ない。

下手に価値があると言ってしまったものだから、エリーが変に自信を付けてしまった……と思っているようだ。

アーノルドにしてみれば、傾国の美女だろうが、その辺の男を垂らし込む可愛い子だろうが、それほど大差はない。自分以外の男に秋波を送る事を想像しただけで、とてもとても不本意で胸糞が悪くなるのだから、スケールの問題ではないのだ。

実際、恋愛というより憧憬に近い感情を抱いているダニエルにすら、敵愾心を燃やしているのだから救いようがない。


「前言撤回だ。お前の存在に何の価値もない」


「この数秒の間に、何で評価が急転直下したの?下落ってレベルじゃないよ!?」


アーノルドの内面変化を知らないエリーからすれば、そりゃそう言いたくなるだろう。天から地、雲泥万里というべき評価の落差に愕然とするエリーであった。


「そんな、男に媚を売るようなふしだらな真似は、断固許しません!」


「お父さん……いや、お母さんなのかな!?」


すっかり保護者気分になったアーノルドの苦言に、エリーは父ではなく母の姿を見た。

なぜか口調もお母さん味を感じる。

それでもエリーは、アーノルドに心配されている事に対して悪くない気はしつつも、ちょっと不満ではあった。


「言っておきますけど、ご褒美は誰にでもOKってわけじゃーないっスからね」


軽い冗談を真に取られた点について、冗談を言った自分も悪いのだが、尻軽な真似をする女に見られたのは口惜しい。

仮にノエリアが同じ事を口にした所で、アーノルドは冗談の品の低さに不満を漏らしても、そういう真似をする可能性については毛頭、信じなかっただろう。


「その辺、先輩はもっと誇って良いと思いますけど」


「そうなのか?」


「ったりめーですよ。なんで好きでもねぇ奴にご褒美やらなくちゃいけないんですか」


逆に言えば、好きな奴にはご褒美をあげる=アーノルドの事が好きである、という論法に辿り着かなかったのは幸いである。

もし辿り着いていたら羞恥にまみれたエリーが逃亡を図る事は間違いなく、ついでに膝枕をされていたダニエルは床に叩き落とされて後頭部をしたたかに強打していた事だろう。

代わりにアーノルドが口にしたのは、単純な疑問だった。


「ありがたい事だが、何で俺はOKなんだ?基準を知りたい」


「えー、理由がいるんですか?本当に野暮な先輩ですねぇ」


ちなみにエリーは、ここで「先輩が好きだからですよ」なんて乙女チックな事を素直に口にするような性格ではない。そもそも性根がヘタレなエリーが、そんな愛の告白を真っ正面からするには心の準備がなさ過ぎた。

逆にアーノルドにしてみれば、エリーが俺の事を好きだからじゃないか、などと思いこむほど、自惚れてはいない。

あくまで自分がどういう基準でエリーの合格点をいただいたのかを知りたいだけだった。

無論、それを取っ掛かりに、エリーの評価点を上げてやろうくらいは思っていたかも知れないが、あくまでそれは次のステップであり、今はただ、テストの評論を聞く生徒の気分である。


「まぁ、色々な理由はありますけれど」


それに対するエリーは、出来の悪い生徒を教える教師の如く、済ました顔で指を振る。

教えを乞う立場でなければ、今頃アーノルドの両手がエリーのぷにぷにほっぺを引っ張って、それはユニークな顔に仕上げていただろう。

そうしてやりたい気持ちをぐっとこらえるアーノルドに、エリーはさも当然のように言い切った。


「アーノルドさんとは、楽しく笑い合える未来が想像できるから、ですかね」


◇◇◇


それは突然だった。


エリーが笑顔で断言した時、アーノルドの心境に変化が生じた。

突然過ぎて、アーノルド自身が自覚できたかどうか。


「あ、そうか」


アーノルドの中で、エリーが他の女性たちと比べて特異な位置にいる事は自覚していた。

まぁ、簡単簡潔に言うと、惚れてしまったわけだが、その実、この少女のどこに惹かれたのか、皆目見当がつかなかった。

これまで女性の好みと言えば、もう、断然に義姉であるノエリア一択だったのに、まったくタイプの違うエリーに惹かれる理由がない。

恋愛沙汰を理論で解明しようとする事自体が不毛な行為なのだが、そこは大真面目なアーノルドである。


(なぜ俺は、エリーと一緒にいると居心地が良いのか)


それについて自問自答を繰り返したのだが、ついに答えは出ていなかった。

それが今、すとんと心の中で収まったのだ。

「腑に落ちた」「氷解した」という言葉が、これほどまでにぴったりな事もないだろう。


これまで色んな女性にアプローチをかけられ続けたアーノルドは、女性に対して心理的な壁を築いている。

学校生活において、周囲の女性たちから好ましい視線を送られるくらいなら良い。だが甘い言葉や蠱惑的な言動、中には娼婦のように、あからさまに身体を摺り寄せてくるような女性までいた。

果たしてそんな女性と、アーノルドが付き合うだろうか。答えは否一択である。


その点、エリーはそれらの女性たちとは明らかに一線を画していた。

だがそれ以上に、エリーを好ましく思うのはどうしてだろうかと、それが不思議で仕方なかったのだが、エリーの何気ない一言は、アーノルドにとって目が覚める思いであった。


(そうか、俺はエリーと一緒にいる未来が見えているのか)


これまで出会ったすべての女性たちを想起し、そのうち未来図を描ける人が何人いるか。

ぶっちゃけ、ノエリアに(かしづ)き、支えている将来設計はある(幼年期から設計済みである)。

それ以外と言うと、心当たりがない。

自分の将来は何となく騎士として戦場に赴くか、近衛兵として皇太子クリフォードに仕えるか……等々、イメージできるのだが、女性となると、妻を娶るという行為どころか、付き合っている姿すら想像できない。


それがエリーになると、やいのやいの言いながらも、なんだかんだで一緒にいる姿が見える。

まさに先ほどエリーが口にした「楽しく笑い合える未来が想像できる」のだ。


「アーノルドさん?」


しばし呆然と、沈黙を保つアーノルドの顔前に手をかざし「おーい」と振ってみせるエリー。

いきなりフリーズしたのだから、そりゃそういう反応にもなる。


「エリー」


ようやく意識回復したアーノルドは、目の前でふりふりしているエリーの手を突然、握りしめた。


「ん?」


「俺はお前と将来を共にする為に生まれてきたのかもしれない」


「は?」


評価急落からの、訳の分からない宣言に、エリーの頭は追い付かない。

それはそうだ、ここまでの流れはアーノルドの脳内ですべて完結しており、外部に流出していないのだから。

だからまるで告白のようなアーノルドの発言も華麗にスルーしてしまったのである。

理解したところで、「うわぁ」と苦虫を噛み潰したような表情をしたかも知れないが。

エリーが理解できたのは、立ち上がったアーノルドが


「またいつかご褒美をもらえるよう、努力しよう」


と述べて訓練へと戻っていった事だけであり、それすらも「え?え?え?」と脳の処理が追い付かない有様であった。


そしておろおろとするエリーの膝の上では、もうひとつの困惑が産まれていた。


(え?エリー姉さまと、アーノルド兄さまが、接吻を……? そうか、お二人はお似合いの、仲睦まじい感じだったけど、そういう事もするんだ……な、なんていうか、なにか、こう、僕は大人の世界を垣間見てしまった!これからどんな顔をして、お二人と話せばいいんだ……もう今更、目も開けられないし、ど、ど、どうしよう……訓練に戻るきっかけを失ってしまった…っ!)


とっくの昔に失神から復活していたダニエルは、困惑と混乱の中、寝たふりをしながら「大人の世界」を反芻していた。

ちょっと少年には少々、刺激が強すぎたかもしれない。

こうして悶々とする二人とは対照的に、今までよりも激しく強く訓練に没頭していくアーノルド。


そしてこの三者三様の様子を、少し離れた場所からため息交じりに観察し、一言、呟く少女の姿。


「まさか、こんな事になるなんてね」


その少女の名はメイベル・ウィッシャート。

尊敬すべき従兄のアーノルドと、可愛がっている弟のダニエルと、そしてウィッシャート家に取り入った油断も隙もない平民のエリーを、それぞれに見比べては何とも言えないため息をつくのだった。



◇◇◇


灰色の雲が重く垂れ込め、鉛色の空が続く郊外。

冬の冷たい風が吹き抜けては、この地にいる者たちの頬を容赦なく打つ。

その地に、武装した集団が暖を取りながら野営をしている。テントの数からして、200人前後の集団であろう。

ともすれば物騒な連中だと忌避されるような雰囲気の中、風に乗って会話が聞こえてくる。


「しかし楽しみですねぇ」


「何がだ」


陽気な声と、ぶっきらぼうな声。

対照的な調子の二人の会話は、イシュメイル王国東部前線にあるブチナ近郊で行われていた。

イシュメイル国境地帯に位置する深い森に野営している一団は、夜空を見上げながら干し肉を齧っている。

吐く息は白く、彼ら以外ほとんどの者は、当の昔にテントに入って毛布と防寒具にくるまっていた。

焚火の前にいる二人は、さしずめ夜番といったところだろうか。


「今度の補給部隊ですよ。何でも有名な若い騎士が来るらしいじゃないですか」


「ああ、貴族の坊ちゃんか」


「そんな言い方しなくても良いじゃないですか。ウィッシャート家の後継ぎでしたっけ?噂じゃあ魔獣や魔物をバッタバッタと薙ぎ倒し、王都での剣術大会じゃ、あのルンドマルク辺境伯までぶちのめしたって話ですよ」


陽気な声の主は、外れっ調子の高い声で興奮気味に語る。

一方、それを受ける男はため息交じりに肩をすくめた。


「さて、どうだかな。噂は噂、真実は大した事ねぇって方が多いのが相場だろ。そりゃ東部戦線でも活躍したってんだから、腕は悪くないだろうが、あれも有名な姉貴の力って話もある」


イシュメイルの版図は広い。

そのせいもあってか、王都周辺ではアーノルドの実力を低く見る風潮はないのだが、地方に行けば噂は聞いた事あれども、実際に目にした者が少ないため、ひねくれ者の中には、こうして懐疑的な意見を口にする輩もいた。

特に無骨で鳴らす国境付近の連中は。

その代表が、先だって王都でぶちのめされたルンドマルク御一行であろう。

魔獣の洞窟などでの勇躍は耳にしていたものの、自己への圧倒的な自信だけでなく、その伝聞があまりに常識外の戦果だった為


「嘘つくな。盛り過ぎだろ」


と、侮ったのは否めない。

もちろんその見識は誤っており、その結果、盟主が一騎討ちで敗北するという憂き目に遭ったのだが。


「夢がないですねぇ。少しは心躍りませんか?勇者候補の若手騎士ですよ?一目くらい観たいとかないんすか?」


「レジェスこそ、少しは大人になれ。油断していると、いつどこから襲撃を受けるか分からんぞ」


男は表情を崩さずに、陽気な兵士、レジェスと呼ばれた男の頭をげんこつでポカリと叩く。

レジェスは叩かれた場所を撫でながら、口を尖らせた。


「ひどいなぁ、ペゲロ隊長。少しは情勢に明るくないと、この先やっていくのに苦労しますよ。ただでさえ、こんな国境守備なんて閑職についてるんですから」


「国境警備だって大事な仕事だ。閑職なんて言うもんじゃない」


「そりゃ砦勤務とかは閑職じゃないですよ。でも俺たちは周辺警備だし、この深い森を超えて来る奴なんか、動物か魔獣くらいじゃないですか。それだって深入りすればどんな魔獣がいるか分からないのに、わざわざ超えて来ませんって」


ここブチナは前線とは言え、国境付近に広がる大規模森林地帯であり、直接、軍隊が対峙しているわけではない。

むしろ森が広すぎて大軍を率いて行動するのに向いていないし、森の奥地には魔獣が徘徊している事もあって安全に通過する事も難しい。

過去、東西両陣営共に、隠密作戦を展開した事もあったが、規模が小さく大打撃を与えるには至らず、しかも隠密行動が原則だというのに魔獣に襲われて居場所がバレるという、そもそも前提が崩れるケースばかりで現実的ではなかった。

それならこの深い森を極秘裏に通過できる人材を投入すれば良いじゃないかという意見もあるだろうが、そんな稀有な人材ならばこんな博打のような作戦ではなく、もっと大規模な軍事作戦に組み込む方がよほど有意義であろう。

ましてや隣国に攻め入る前に、魔獣たちと一戦繰り広げるリスクを負うなど馬鹿馬鹿しいにも程がある。

疲弊したところを迎撃されて、ボコボコにされた挙句に


「森の魔獣討伐、ご苦労様でした」


と感謝までされるのが目に見えている。

そんな事もあり、ブチナ近郊では戦闘もほとんどなく、任務は比較的安全だと言われていた。


「だからそんなに気張らなくったって大丈夫っすよ」


レジェスは毛布にくるまって、完全にまったりモードへ突入した。もしここに敵兵が殺到したら、毛布の中で殺されるに違いない。


「そうかな」


それに対してペゲロは疑念を抱いていた。

どうにもきな臭い。何か具体的なものではないが、そういう雰囲気がある。


「そうでしょうよ。この森を抜けて、敵兵が殺到するって言うんですか? ここから抜けられるとしても、せいぜいコジュリー前の平原までですよ。意味あります?」


コジュリーはここから30kmほど北に移動した場所にある都市で、ブチナとは違い広い平原に面した、まさに最前線といった趣がある。

いざという時にここから駆けつける事は出来たとしても、東方諸国への奇襲には到底使えまい。

逆にブチナ方面に攻め入られるとしたら、コジュリーが抜かれるという事を意味する。むしろコジュリーを抜いた後でブチナに目を向ける暇があったら、とっとと街道を西に進んでイシュメイルの内陸に食い込んだ方が、よほど戦略的に有益だろう。


「万が一という事もあるだろう」


「その万が一の為に、毎日毎日、欠かさず警備巡回とはねぇ。挙句に騎馬を飼うなんざ正気の沙汰じゃないですよ。経費ばっかり掛かって、何にもなりゃしない」


「備えあれば憂いなしってやつだ」


ぶすっとしてペゲロは野営地の離れの方を見やる。

そこには馬が繋がれており、有事の時にはいつでも出動できるようになっていた。

……もっともこんな辺鄙な地に、出動要請がかかるのであれば、だが。

正直、金は食うわ、お世話は大変だわで、隊員たちの主な仕事は警備ではなく馬の世話ではないかと笑われているほどだ。


「備えるのは結構なんですがね。そのせいで隊長、上から目を突けられて閑職に回されたじゃないですかー。本当、損な性格してますよね」


「嫌なら良いんだぞ。隊を離れたって」


簡易すぎる馬繋から目を離し、ぐるりと周囲を見回すと、野営地には寂しい人数しか配置されていない。

寒風吹きすさぶ中、その少ない人数がより身に染みる。

以前はもっと大勢の兵士たちがいたのだが、配置転属を希望して一人、また一人と消えていき、かつては500人を優に越えていた兵士たちも、今はその半分もいない。

逆に言えば、この地を守るにはその程度の人数で十分という見方をされているのだ。


「やめてくださいよ、隊長!」


レジェスが珍しく真剣味を帯びた声で抗議した。

ペゲロは「ほう」と目を丸くし、この陽気で軽薄な男にも帰属意識……そこまで立派なものでなくとも同情心や憐憫の情があるという事に、今更ながら感心する。

だがその感嘆の念は、レジェスの次の台詞で雲散霧消した。


「隊を移るとか、手続きがどれだけ面倒くさいか知っていますか?俺、ずっとグータラしながら一生を過ごしていきたいのに、そんな本末転倒な事、御免こうむります」


ペゲロは思わず天を仰ぎ、そして先ほどの漏らした感嘆の吐息を返して欲しいと思った。

この生来、怠け者であるこの男は、きちんとした手続きを踏んで隊を移り、やり甲斐のある任務に就く未来よりも、その手続き自体が面倒だから、現隊に所属し続けるというのだ。こんな後ろ向きな理由があるだろうか。


「………ったく、どうしょうもねぇ奴……」


ペゲロが不意に目を細めると、腰の愛剣に手を伸ばしてわずかに鞘走る態勢になった。

まさに両断の構えに、レジェスは慌てて手を振る。


「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ!そんなに怒る事ないじゃないですか!!」


首筋に一閃されようものなら、その瞬間、レジェスの生涯は終わる。

だが幸いにも剣は抜刀されることなく、構えだけであった。


「………………?」


「………消えたか?」


「は?」


「誰かが、いた」


ペゲロはそれだけ言うと、腰に当てていた手を離し、ゆっくりと緊張の構えを解いた。

レジェスは大きく息を吐いて、ずるりと態勢を崩す。


「ああ、驚いた。……ったく、勘弁してくださいよ。こんな場所に、しかも夜中ですよ?一体、誰が来るってんですか」


「………だな」


ペゲロはそれ以上、強弁もしなければ否定もせず、ごそごそと毛布に潜り込んだ。

それを見たレジェスもまた、ひとつため息をつくと再び眠りの住人になるべく毛布を被り、やがて周囲には寝息と風音だけが流れ始める。



……そして、そのはるか森の奥で、闇に紛れながら息をひそめる者がいた。


「やれやれ。何だってこんな場所に、こんな手練れがいるんだ。びっくりするじゃないか」


その影は苦笑気味の口調で独白すると、再び闇の奥へと溶け込んでいった。

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