4章第13話 泡沫の夢
しばらく間が空きまして申し訳ありません
「眠いっす」
「寝るな」
ガタゴトと揺れる馬車の中で正対して座るエリーとアーノルド。
しきりに舟を漕ぎそうな動作を繰り返すエリーが、あくびをしながらボヤく。馬車の揺れに合わせて体が前後し、油断すると瞼が落ち切ってしまいそうだ。
「やっぱり環境が変わると寝付けないんですかねー?こういう時だけは、私の繊細さが嫌になっちゃいます」
「その割にはいつも馬車の中でイビキをかいて爆睡しているが?」
「先輩も膝枕されながら寝てんだろうがよ。お互い様ってやつですよ」
「俺の方が睡眠時間は短いので、俺の勝ちだ」
「お互い様に勝敗もクソもあるか。あ、今日は私、先に帰っているんで、寂しくて泣かないでくださいよ」
「お前こそ、俺がいない寂しさの余りベッドで横になってるんじゃないぞ」
「そうですね。嗚咽して嘔吐するかも知れない」
「それは殊勝なことだ」
「寂しさに耐えかねて寝転んだアーノルドさんのベッドで」
「俺のベッドを汚物まみれにするんじゃねぇ」
などなど、互いに互いを貶め合いながら会話を続けていく。よくもまぁ、これほどまで下らない会話が続くものだと感心する。
そんな中で、ふとエリーの声が若干、真剣味を帯びる。
「……で、いつ、王都から出発ですか?」
「来週の頭には出発する。だいたい準備も整ったし、あとは出発を待つばかりだ」
アーノルドはこの冬、東部への輸送隊護衛に参加する事になっている。
同行する輸送隊は王都から東への街道を進み、そのまま国境付近の砦へと向かう。その際に気を付けなければならないのは、街や村から離れた際に出没する野盗の類と、森林部地域に入った時の魔獣である。
ただし現有戦力であれば、その辺の野盗や魔獣など、物の数ではない。
……あくまでいつも通りの相手であれば、だが。
東部戦線は停滞しているとは言え、文字通り「戦線」であり、油断できるような地帯ではない。
先の洞窟調査のように、他国の間諜が忍び込み、予期せぬ場所から奇襲を仕掛けてくる事も考えられる。これは先にクリフォードらも心配していた点であった。
「まぁ、それまでには間に合うと思うんですよね」
「なにが?」
「こっちの話です。冬休み入ってすぐの出発なんスね。ちょっとはゆっくりする暇くらいくれたらいいのに」
「早く終わったら、早く帰って来られるだろ」
「単純で羨ましいです」
エリーは、む~~っと膨れる。
「せっかく年末年始なのに、お休みも出来ないなんて」
「別に年末だから何かあるわけじゃないぞ。むしろ毎年毎年、宮中の宴に召喚されるのを、どうやって断ろうかと頭を捻っていたんだからな」
アーノルドはこれまでの年末を思い出して憮然とする。
正直、アーノルドにとって宮中の懇談会など面倒でしかなかった。
そういう意味では、エリーが宮中に出向かない事を糾弾する資格は、アーノルドにはないとも言えるのだが、彼自身は「行く必然性があれば、ちゃんと参列する」と言い張っている。
同じにして欲しくないのだろう。ぶっちゃけ、目くそ鼻くそな気もするが。
「そっか。じゃあどっちにせよ、一緒に年末の城下町で遊んだりはできなかったわけですね」
「そうだな」
「しゃーないですね。もし行くなら、誰か他の人を誘って遊びに出るか~」
「ちょっと待て」
アーノルドが厳しい顔をして異議を挟む。
「誰と行くつもりだ」
「さぁ? まだ何も決めていないので」
「変な虫がつくと良くない。俺が許可した人以外とは一緒に行ってはいけない。あと午後の鐘が鳴る頃には帰って来るように」
「お母さんか、おまえは」
過保護にも程があろう。いや、この場合は過保護なのか嫉妬なのか、判別は難しい所だ。
そもそも午後の鐘が鳴る時間は正午である。冬で日が暮れるのが早くなっているとは言え、いくらなんでも制限時間が短すぎるだろう。
ただエリーはぶんむくれながらも積極的にアーノルドの意見を否定しようとはしない。
「私も王都に来てから、初めての年越しなんで勝手が分からないですからね。一人でふらつくにはリスク多すぎますし。誰か案内役がいてくれれば良かったんですけど。で、その案内役をアーノルドさんにロックオンしていたんですが」
「悪かったな。暇がなくて」
「仕事だからしょうがないですけどね。しょうがないですけどね。あー、ただ年末年始に仕事とはね~~。あ~~あ、休みじゃないんですかー」
「機嫌を直せ。この埋め合わせはいつかするから」
まるで「彼氏に急な仕事が入って約束をキャンセルされた彼女が理解を示しながらも憤懣やるかたなくグチグチと愚痴をこぼしている」と言ったやりとりである。
彼らの知人たちが見たら、
「付き合いたてのカップルか、新婚の夫婦か、お前らは」
と総出でツッコミを入れていただろう。
そもそも二人の関係は現状、先輩と後輩、保護者と被保護者であって、そこに何の契約もないのだが。
「ちなみに年末から年始にかけて、城下では祝いの宴が催されて、一晩中踊り明かすような場所もあれば、飲食店は明け方まで賑わったり、出店には煌びやかな装飾品や玩具、軽食が所狭しと並ぶんだ。年に一度の催しだからな。見逃したら後悔するぞ」
「もう見逃すの決定している奴に言う台詞じゃねぇよな」
今年は残念ながらウィッシャート家で待機となりそうな身に、楽し気な情報だけが与えられる理不尽。
そう言えば、怪我で入院中に学校生活における楽しいイベントが軒並み終了した事を告げられたな、とデジャブを感じずにはおれぬエリーであった。
「家から見るなら、天空の魔法火はどうだ?」
「魔法火?」
「炎や光系の魔導士が天空に向けて魔法を放出して、夜空に色とりどりのライトアップをするんだ。年越しの風物詩だな」
「お、花火っすか」
「花火……なるほど、言い得て妙だな」
「花火」という言葉に感心するアーノルドを見るだに、どうやらこの世界での花火はエリーの元々いた世界と違い、火薬ではなく魔法が導火線となるらしい。
確かに火薬の存在自体がまだまだ認知されていないくらいだ。火薬技術が未発達であるならば、そうなるだろう。
「おそらく敷地のどこにいても見えるはずだ。さすがに会場と離れているから特等席とまではいかないが、音と雰囲気くらいなら味わえるんじゃないか」
「ほうほう」
エリーにとって……というか、日本人にとって花火は身近な存在である。
夏はもちろん、テーマパークやらフェスティバルやら、何かの記念日につけて花火を打ち上げている。この世界の花火を観るというのも乙なものだなと思った。
「こないだ一緒に行った植物園からも見えるぞ。あそこで見たらどうだ?」
アーノルドはそう勧めてくれたのだが、エリーは首を横に振って拒絶する。
「やですよ」
「悪くない場所だと思うんだけどなぁ」
「あそこはアーノルドさんと一緒の時にしか行かないって決めた、特別な場所ですから」
「お、おう」
虚を突かれたのか、いつもとは逆にアーノルドの方が面食らった。
たいていの場合、アーノルドの何気ない一言がエリーにクリティカルヒットするのだが、今回ばかりは立場逆転である。変な咳払いのような、生返事のような言葉が出てしまった。
そうとは知らずエリーは、呑気に年越しイベントについて興味津々に聞いてくる。ここまでせっかく異世界に来たというのに、スタートは最悪だわ、貴族連中に馬鹿にされるは、二度も瀕死の怪我するわ、拉致されるわで、ろくに異世界生活を謳歌できていないのだ。そりゃポジティブなイベントに前のめりにもなろう。
「で、で? 服装とかはどんな感じですかね? その日だけ綺麗に着飾るんですか? でも寒いからな~、あまり薄着ってのも難しいですよね?屋台の食べ物ってのも気になります!!」
目をキラキラさせながら、矢継ぎ早に質問を浴びせてくるエリーに、アーノルドは多少押されながらも、ひとつ咳払いをした後、まるで講義をするかの如く語り出す。
「服装だが皆、着飾って街に繰り出す。中でも年の最後の日は仮装して夜通し踊るイベントなんかもあるぞ。それに仮面を被って、結構な身分の貴族がお忍びで来ていたりするんだ。あまり大きな声では言えないが、その日だけは身分差をなくして見目麗しい相手と逢瀬を楽しんだりする奴もいるとか…」
「あー、ありがちな話っすね~」
「屋台だと、ラビオリにリコッタチーズとほうれん草を詰めてソース掛けした奴が俺は好きだな。甘いものなら揚げパンに粉砂糖をかけたお菓子は定番かも知れん。ああ、パイ生地の中にアーモンドクリームを入れたお菓子もあるが、あれは屋台ごとにドライフルーツやオレンジ、中にはラム酒を混ぜたりしたものもあるから覗いてみるといい」
「………………」
「それから演劇なんかも……って、どうした?ずいぶん複雑な表情をしているが」
「いやぁ~、語るなぁって思ってー。そもそも年末年始、忙しいはずなのに、どうしてそんなに知っているんですか?」
年末年始はかり出されることが多いとか言っておきながら、ずいぶんと詳しい説明ありがとう、という感じである。
まるで見てきたかのような口振りだ。
「………まぁ、その、なんだ、抜け出して参加したりしたからな」
「だよなぁ! 伝聞にしては詳しい気がしましたよ!」
あっさりと白状したのは、誤魔化してもこの聡い娘の追求からは逃れられないと思ったのだろう。
毎年毎年、宮中に行っているとか、どの口が言ったのだろうか。
「宮中には最低でも一度、顔を出した後で行っているから問題ない」
「そういう問題じゃないと思うんですけどね。しかし真面目一辺倒だと思っていたアーノルドさんが、そんな不良的行為をしているなんて少し驚きました」
「俺もやる時はやる男だ。大人になったらそういうヤンチャも青春の1ページだったと回顧する時が来るだろう」
「その事、ノエリア様はご存じなんですかね。今度聞いてみます」
「やめろ。いや、やめてください」
「10秒くらい前、すっげぇドヤ顔していた人とは思えない低姿勢」
この件はノエリアには内緒らしい。
とは言え、ノエリアの事だ。アーノルドが内緒で市中に繰り出していた事はとっくに知っていて、それでいて何も言わずにヤンチャな義弟を見守ってくれているんじゃないかと、エリーは思っている。
だがまぁ、黙っていてくれている事と、事実を注進されてしまう事は雲泥の差である。何も知らない体なら微笑ましく見守ってあげられるのだが、事実を知らされたら断罪せねばならなくなる。
「義姉さんに怒られたら、俺はもう生きていけない」
「もう情けなすぎて笑う事すらできねぇ」
怒られたら死ぬとか、ハードルが低すぎる。マンボウですらもっと強靭だろう。
「でもその程度の微笑ましい規則違反なら、ノエリア様の怒り方って、『こら~っ!めっ、でしょ!』くらいじゃないですか」
「何だ、ご褒美か。よし、義姉さんに言っていいぞ」
「それはそれでお前、人としてどうかと思うわ」
あまりの変節……というか、変質者ぶりにエリーは呆れたような声を出した。何か新しい扉が開いた音がしたが、まぁ、気のせいであろう。
「とにかく、そういう面白くて華やかな催しが行われるわけですね。興味がわいてきました。他には……」
「そうだな、他には……」
アーノルドがさらに続けようとした時、急に口をつぐんで沈黙する。
「?」
突然、会話が中断したので首をかしげて不思議がるエリー。特にここまで、おかしな点(アーノルドの性癖が少し開示されたくらいで)はなかったと思うのだが。
「どうしました?」
「これ以上はやめておく」
「えーーーーー」
エリーは眉間に皺を寄せ、ぶー、ぶー、と唇を尖らせて文句を言う。
「どういう心境の変化ですか。ここまで喜々として語っていたくせに」
「そうだな、確かに心境の変化……これ以上、語るのは精神衛生上よろしくないという判断をした」
「はい、そうですか……って引き下がれると思いますか?その判断に至った理由をお聞かせ願いたいっス」
「行きたくなくなるからな」
「ほぅ?」
アーノルドの、この一見不可解な返事について、エリーはある程度、傾向が掴めていた。
こういった「一言で理解できない返事」が来た時、それは大概言いにくい事なのだが、その一方で、だいたい照れているか、くだらない稚気が顔を出しているかのどちらかである、と。
そして今回もまた、アーノルド的には言いにくい事らしい。
(まー、逆に安心したわ)
仮に「行きたくなくなる」の意味が、こんな話題を持ち出した所で、お前となんか宴に行きたくない……とかだったら悲しかったが(マジでこんな悲しい事はない)、どうやらそういう訳ではないらしい。
照れてるという事は、まぁ、なんだろうか、エリーにとって悪い話ではなさそうだ。
(出来うるならば、思わず頬が緩んでしまうような答えを期待したいものですけどね)
であれば、こっちから正解を当てるのは野暮だというものだろう。
エリーは何も言わず、じーーーーっと大きな瞳でアーノルドを見据えながら、言葉の続きを待った。
アーノルドとしては、さっきので答えを告げたつもりなのだろう、しばらくは無視を決め込んでいたが、あまりにも視線の圧が長く、それに伴い沈黙が流れるのが我慢できなくなったのか、大きく咳払いをして続けた。
「行きたくなくなるのは、遠征にだ」
「あ、年末年始の宴ではなく、そっちでしたか」
意外な方に飛び火した。
どうして新年の宴の話から、遠征の話に飛んだのだろうか。その辺のロジックがエリーにはわからず、逆方向に首をかしげる。
「でも、それはなぜ?」
「そりゃそうだろう。話せば話すほど、宴に参加できなくて残念な気分になるだろうが」
その言葉で、ようやくエリーは得心がいった。
「あーー、なるほど。大いに語ったところで、アーノルドさん、不参加決定ですもんね」
「そういう事だ」
ふん、と鼻を鳴らして不機嫌そうに馬車のソファに深く座り直すアーノルド。
「任務がなければ、お前を連れて街へ繰り出せたのにな。このまま紹介を続けていたら、任務すっぽかして、あちこり連れ回したくなるから、この話はここで終了だ」
「おおっと」
エリーは表情が緩むのを自覚し、慌てて両頬を手で押さえた。
己の研鑽しか興味がなさそうなアーノルドが、それよりもエリーと年末年始のお祭り騒ぎを優先したいとは意外というか、想像の埒外であったし、そもそも……
(それって、もう、もはや、疑う余地もなく、状況的に、客観的に、言うまでもなく、デ、デ、デートなんじゃないっすかね!?)
任務よりもデートを優先してくれるなんて、もしかしてアーノルドさん、意外と私に好意的……?少なくともお荷物とか嫌われているとか、そんな事はないと思って良い?
………と、今更ながら、エリーはそんな事を思っていた。
第三者からすると、「何をいまさら」という気がするのだが、恐ろしい事にこの二人、互いが互いに相手は自分の事をそれほど好いていないと考えているのだ。なんというすれ違いだろうか。
アーノルドはアーノルドで、ニマニマと笑いをこらえるエリーを眺めて一言、
「なんでそんな愉快な顔になってんだ?」
などとデリカシーに欠ける台詞を口走ったせいで
「かわゆい小動物フェイスと言え!」
と説教される羽目になった。
そんな風に延々と口喧嘩をしておきながら、内心では互いに
((普段と雰囲気の違う私服か……きっと似合うんだろうな))
などと、互いに不参加が決定している存在し得ない宴に想いを馳せる。
普段と違い、夜まで明るく人々が出歩く中、大通りから裏通りまで、びっしりと並んだ様々な出店を巡り、時折楽し気に奏でられる音楽に乗って歌ったり踊ったり。
磨いただけの石や、価値としては大したことのない露店のアクセサリーを見て回り、普段は行儀が悪いとされる食べ歩きだって、この日だけは許される。
そんな雑踏の中、迷子にならないように手を引き合いながら、くたくたになるまではしゃいで、最後はどこかで空を見上げながら、新年を祝う天空の花火に目を輝かせる。
夢想すればするほど、色鮮やかに脳裏に浮かび上がる。
それが鮮明であればあるほど、その光景が実際には訪れない事に失望してしまう。
「「最低、1年後かぁ………」」
ほぼ同時に、ぽつりと呟く両名。
エリーとアーノルドは、互いに窓の外の光景を見る。
そしてあと10日もすれば、今しがた脳裏に思い描いた風景で満ち溢れる大通りを眺めやり、深く溜息をつくのだった。
◇◇◇
エリーたちの乗った馬車が走る大通りには、大小様々な酒場が立ち並んでいる。
その中でも、ひときわ賑やかな酒場で、数人の男たちがテーブルを囲み、低い声で会話がなされていた。
フードを深く被っていて明らかに怪しいのだが、こうした客があちこちにいるので浮いていない。それこそがまさに、この男たちがこの酒場を落ち合う場所に選んだ理由であった。
そして彼らの話題の内容は、ウィッシャート家で起きている、エリー来訪後の出来事に集約されている。
「……という事があった。思ったよりも馴染んでいる印象だ」
「なるほど」
「若き勇者様も堕ちたものだ。謹厳な騎士道精神も女の色欠落したようだな」
くっくと笑う男の表情はフードで見えないが、暗く陰湿な印象を与える。
言葉の端々からは侮りの口調と同時に、忌々しく苛立たしい気配を感じさせた。
それだけを見ても、アーノルド・ウィッシャートと言う男に対して、並々ならぬ敵意を抱いている事は明白であった。
だが同席する別の男は必ずしも、その意見に同調しない。
「そうかな。以前よりも厄介になったと思うがね」
口調は前に発言した男の物よりも軽妙であった。
どちらかといえば余裕のない雰囲気の前者の男より、どことなく相手の力量を正しく評そうとしている冷静さを帯びた口調。
反論しようとする男を制し、語り続ける。
「以前は潔癖で剛直、まさに謹厳な騎士道精神と正義を体現したような、竹を割った性格という点において、否定するつもりはない。だが融通が利かず、初見の印象を引きずったまま、感受した第一印象を覆す度量に欠けていた。それだけ己の直感に自負があったのかも知れないが、その分、次の行動が容易に想像でき、与し易かった」
トントンと机を叩きながら、滔々と語る姿はどこにも忖度がない。
事実だけを語っている説得力を有し、先ほどまでアーノルドを批判してきた男でさえ、不機嫌に沈黙するしかなかった。
「つまり一定の行動原理さえ把握していれば、簡単に懐に入り込めた。そしてひとたび味方認定されれば、頑ななまでに信じようとする。そうなればこちらのもの、裏で好き放題に蠢動し放題……少なくとも怪しまれる順番としては最後になっただろう。それがどうだね。あの娘との邂逅がよほど忸怩たるものだったのか、何事につけても顧みる姿勢を身に着け始めてしまった」
アーノルドがエリーと初めて会った時、彼女の首筋に剣を突き付け、斬り伏せんばかりに詰問した。
この事がアーノルドにとっては未だ引きずる程の痛恨の極みであり、第一印象で人を判断し切る事の愚を悟らせた…と言ったら過言だろうか。少なくともあの一件が、アーノルドの価値観に一石を投じたのは間違いない。
むしろアーノルドのこの1年は、あの事件に対して向き合い続け、それに連なる失態・失敗に己が未熟さを痛感させられる1年だったと言えよう。
それが、この男たち曰く「付け入る隙を失った」と論じるほどの成長に繋がったとしたら、存外悪くはない1年だったのではないだろうか。
「感心してばかりではいられぬぞ。その言葉が正しければ甚だ、我らにとっては悪い知らせではないか」
「まぁ、そう急くな。確かにアーノルド・ウィッシャートについては堕としにくくなった。だが裏を返せば、あの男が最大限の力を発揮できるのは、エリー・フォレストと共にいる時だ。それ以外の場合は、戦力がダウンする。そればかりか、離れているからこそ焦り、見せる隙もあろう」
一層、声のトーンを低くした男が、他の面々に顔を近づけながら語り、他の面々もそれに従い、寄り添うように会話を続ける。
「だからこそ、こたびは二人を引き剥がしたのだ。自然な形で分かれさせるのは、なかなか面倒であったが、その分、効果も高かろう」
「分かれさせた後は大丈夫なんだろうな?」
「手は打ってある。いくら護衛の人員を手厚く配置しようとも、所詮は護衛の規模では有事への対応は一手、二手、遅れる。矢継ぎ早にトラブルが起きれば、足止めされるのは必定……」
テーブルの上に置かれた地図の上に、携帯食である豆が無造作にばら撒かれる。
その豆はこれからアーノルドが赴く東部国境線近くに散乱している。さしずめ、この豆をトラブルに見立てているのだろう。それを一粒ずつ、拾っては口に運ぶ。
「ひとつひとつはたいした事がない。数個程度、いささかの問題もなく食する事が出来る。だがそれも積み重なれば腹も膨れる。ましてや中には辛く一筋縄ではいかぬものも混じっていたら………」
「さすがのアーノルド・ウィッシャートとて一網打尽とはいかぬ、か。時間がたつにつれ、帰郷の念に駆られ、判断を誤るかも知れんな」
「それこそが狙いよ。2~3日……いや、今回の仕込みでは週単位で帰還が遅れる可能性もある。遅れれば遅れるほど、我々の仕事はやりやすくなる」
「重なるトラブル、難題が続き、過ぎていく時間……不覚を取るには十分な条件だ」
にやりとフードの下で男たちが笑う。
「そうなった時に冷静に対処できるかどうか……」
仕切っていた男は獰猛な笑みを浮かべると、最後の豆を口に運ぶや思いっきり噛み砕いた。
「さて、高みの見物と行こうではないか」
◇◇◇
「「お帰りなさいませ」」
「「お帰りなさいませ、アーノルド様」」
放課後、騎士団との訓練をしてウィッシャート家に帰宅した俺を、執事や侍女たちが挨拶をしてくれた。
彼らの言葉に対し、軽く会釈をしながら玄関から先に進みながら、筆頭執事のロンドに鞄を渡す。
彼は鞄を完璧な礼節で受け取りながら、一言告げてくる。
「まだノエリア様はお戻りになられておりません」
ロンドは俺が欲しい情報を端的に教えてくれる。さすが筆頭執事だ、そつがない。
「今日も学校が終わった後、登城しているのか」
「ええ。来週からは多くの来賓と目通りしなければならないそうで……皇太子妃としての腕の見せ所ですからな」
「なぁに、義姉さんなら、上手くやってくれるだろう」
ノエリア義姉さんについては、まったく心配などしていない。むしろ心配など失礼なくらいだ。
「アーノルド様のご準備の方も順調そうですな」
「今日は出立前の最終訓練だった。随行するメンバーも増員されたし、やる事はやったという感じだ。これで何か起きたのであれば、事態が大きすぎたと考えるべきだな」
こればかりは分からない。
いつ、いかなる状況に陥るかなど、予知能力者でもあるまいし、今から考えても無駄だ。その時、その時で、最善を尽くすしかない。
そんな会話をしながら廊下を進んでいると、その先に人影があった。
その影は、こちらを認めると、軽やかに空を飛ぶように近付き、そのまま滑るように停止した後で淑女の一礼というには元気の良すぎる勢いのお辞儀をした。
「お帰りなさい、アーノルドさん」
薄水色のドレスに身を包んだエリーが、満面の笑みを浮かべる。
行きの馬車の中で話していたように、エリーは先に屋敷へ戻っていて、俺の帰宅に合わせて顔を出したのだ。
「ああ」
俺は気のない返事で応じたが、内心、まんざらでもない気分である。
そこそこに可愛い後輩女子が我が家に滞在している上に、「お帰りなさい」と出迎えをしてくれるのだ。なんか、こう、くすぐったい感じがする。
(※そこそこに可愛いとはアーノルドの弁だが、客観的に見て、この日のエリーは男女問わず振り返るくらいには可愛く着飾れていた)
「おいおい、可愛い後輩女子のお帰りコールだぞ。もう少し喜べ。泣いても良いんだぞ」
俺と同じ発想だ。図らずもエリーと俺は同じ価値観を有している事が判明してしまった。
なんだか自分が馬鹿になったみたいで不快感を覚える。
「ご飯にします? お風呂にします? ……あ、やっぱり…」
その不快感を表現する隙もなく、矢継ぎ早に、それも蠱惑的な表情で問いかけてくるエリーに、一瞬、気圧される。
分かっていると思っていても、反応してしまうのが忌々しい。次の台詞ではお決まりの冗談が発せられるだろうが、思わず頷いてしまいそうだ。
エリーは腰をくねらせ、科を作りながら、甘い甘い吐息を吐きかけながら、ゆっくりと俺に囁く。
「汗くせーから……まず風呂からにして・く・だ・さ・い」
「科を作ってまで言う台詞じゃねぇな」
俺の予想は大きく外れた。まさかの変化球だった。
おそらく「それとも、わ・た・し?」から、その言葉に俺が不用意に反応して、そこにエリーがツッコミを入れるパターンかと思ったら、外してきやがった。
無意識のうちに俺は「してやられた」って表情をしてしまったらしく、あの野郎、
「え? どうしたんですか~ぁ? 何を言われると期待しちゃったのかなぁ? ほらほら、言ってみ?」
と煽ってきたので、ちょうど訓練で使った剣が手元にあったので抜刀すると、周囲の人間総がかりで止められた。
離せ、あの不埒な悪漢を刀の錆にしてやっからよ!
「冗談!! 可愛い後輩の、軽いジョークじゃないですかぁ~」
さっきまで抱いていた、まんざらでもない気分は一瞬で吹き飛び、この忌々しい女狐を打擲せねばならんと魂が告げている。
誰だ、「弟殿、御乱心!」とか言っている奴は! 俺は正気だぞ!!
ただちょっぴり……まぁ、この白いカーペットの一面が鮮血赤く染まるくらい、どうって事あるまい。
「ちょっぴりなもんか!そんなに血飛沫が飛び散ったら死んじゃいます!!」
「洞窟だと、もっとヤバかっただろ。腕とか足とかもげそうになってただろうが!」
「てめー、トラウマを掘り起こすような事、平気で口にしてんじゃねーぞ」
やいのやいの言い合いながら、しばし抜刀鬼ごっこを続けていると、大きく2回、手を叩く音がして動きが止まる。
「ずいぶんと賑やかな事だな、アーノルド」
「義父上」
叱責するでも咎めるでもなく、落ち着いた声で語り掛けてきたのは、義父だった。
モーリス・ウィッシャートと言えば、宮中でも一目置かれる良識派で通っているほど謹厳実直な人物で、さすがノエリア義姉さんの実父だと、幼少の頃から感心している。
そんな義父の前に立つと、思わず背筋が伸びるのが常だ。それが威厳と言うものなのだろう。俺も将来は、こういう落ち着いた仕草が似合う年の取り方をしたいものだ。
「先輩には無理だと思いますけど」
何でお前に分かるんだよ。なるかも知れないだろ。
「そのまま、そのまま。良くも悪くも物静かだった屋敷が、こうも明るくなるとは、客人は尊ぶべきかな。だがあまり大声を出し過ぎるのは、優雅さに欠ける」
申し訳ありません、義父上。ウィッシャート家の後継者として恥ずべき言動、猛省しなければなりません。
「全くその通りだぞ。しょうがねー先輩だな」
「頭を垂れろ。首と胴体を永遠にお別れさせてやる」
そこをどいてください、義父上。
そいつを生かしておけば、必ずやウィッシャート家にとって禍根となるでしょう。
「もうしない、もうしないから!!」
義父の背後に隠れたエリーが懇願する。俺はそれを見下ろしながら告げる。
「他に言う事はないのか」
「ごめんなさい」
「他には?」
「な、なにかあったかな?」
「私は卒業パーティーまでにダンスを完璧に習得します、だろ」
「何気に無理難題を押し付けて来たな!!どこから飛んできたんだよ、そのお題!」
「リピート、アフター、ミー」
「……………………」
「リピート」
「分かりました!私は卒業パーティーまでにダンスを完璧に習得します!!……で、良いですかね!?」
「習得できなかったら死にます、と言え」
「横暴だ!!」
「今、ここで真っ二つにされるのと、そう変わらないだろ」
「しゅっ、習得できなければ、死にます!!」
「いいだろう。俺と義姉さんが不在の間、必死になってダンス習得に励め」
「くそっ、横暴だぞ!! ぶーぶー!」
どこからかブーイングだか、豚の鳴き声だかが聞こえたが、耳を塞いで無視する。
「ああ、何も聞こえない、何も聞こえないなぁ~~~あっはっはっはっは」
これ見よがしに大爆笑をしてやると、エリーは目を怒らせて何かを叫んでいる。
だが耳を塞いでいるから聞こえない。愉快愉快。いやぁ~~、そんな必死な顔をして、何を言ってるのかなぁ~~? 全然聞こえないな~~。
でも、もう約束は締結されたんだから、しっかりと守ってもらわないと困るからな~。
おっと今度は泣き真似か?
だが何度も何度も騙された俺は、もうそんな事では手綱は緩めない。これくらいやってやらなければ、こいつは際限なく調子に乗るのだ。
なので、思いっきり煽り顔をしながら、
「それくらい、やって当然だろうが、馬鹿め!」
と言ってやった。
するとどうした事だろう、義父上が思いっきり困ったような顔をし始める。
……ん? それはおかしくないか?
エリーの奴が困り果てるならともかく、なぜ義父上が困るのだろうか。さらにエリーの奴が首を振って何事か口走っているので、俺は耳を塞いでいた手を放す。
「しかしだな、先ほどの発言は………」
「いいんです。先輩にとっては、いつもの事ですから……」
しおらしい態度で会話をしているエリーと、心配そうな顔をして語り掛けている義父の声が聞こえてきた。
「……お前、何を言った?」
何やら形勢がおかしいのを察した俺は、エリーに尋ねる。
するとエリーは、よよよと泣き崩れながら
「私はなにも……ただ『先輩が、私の裸を見るだけでは飽き足らず、胸を揉ませたり恥ずかしい行為をさせている』って……。そしたら先輩………「それくらい、やって当然だろうが、馬鹿め!」って………」
「謀ったな!!謀ったな、エリー!!」
「な、何のこと…? 私、これからも、ずっと、そういう目に遭うかと思うと怖くて……っ」
「き、貴様ーーっ!!」
「アーノルド」
焦りに身を任せた俺がエリーの身を拘束しようとした時、義父からぴしゃりと声がかかった。
「ちょっと私の部屋に行こうか。色々と聞きたい事がある」
口元には笑みすら浮かべているが、俺は知っている。
こういう表情と、あえて冷静さを強調したような口調をしている時の義父上は、厳しい。
簡単に言うとお説教タイムである。
「うっ、うっ、うっ………」
肩を震わせて涙を浮かべるエリーに、周囲は同情と憐憫の、そして俺には蔑視の視線を浴びせる。
俺がこの屋敷に保護されてから10年以上たつが、そんな視線を浴びせられたのは初めてだ。
……だが俺は知っている。
こいつ、腹を抱えて笑いたいのを必死でこらえてやがるのだ。涙を流して、肩を震わせるほど面白いか、てめぇ。
「行って……らっしゃい……ぶっ……ふぷっ…!」
とうとう噴き出してんじゃねぇか。
後で覚えていろよ!! いや、今すぐにでも思い知らせて……
「………アーノルド」
「……はい」
その日、俺は久々に義父から説教を喰らい、疑念払拭の為に小一時間費やした。
何がつらいって、その席に義母も同席して詰められるという、地獄のような時間がつらかった。
そもそも何で俺たちは、こんな不毛な争いをし始めたのか………あまりにも日常の一コマになっていて、そのきっかけすら思い出せない。
ああ、神よ、もしこの世に神がいるのならば、あいつに天罰を下してくれ…!
……そう恨み言を天に向かってぶちまけたのだが、その事を俺は後に大いに後悔する事になる。
もし時が戻るのならば、この時の俺をぶん殴って「冗談でもそんな事を思うんじゃない」と説教をしてやるだろう。




