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3章第10話 宵時雨

感想を送ってくれた方、ありがとうございます。

すごく励みになります~。

返信は少々お待ちください!

アーノルド・ウィッシャートは自分が何をしているのか、はっきりと自覚はしていた。

ウィッシャート家の後継者としてあるまじき蛮行。

この件に関しては色々と議論すべき点は多いが、表向きにはこう処理されるだろう。


【ルンドマルク辺境伯の「婚約者候補」を強奪】と。


アーノルドらにしてみれば、


「先にエリーを強奪したのは貴様らだろうが」


という想いは強く、どちらかというと奪還の意識が強いのだが、現時点ではその境界線はかなり曖昧に定義されている。

むしろその扱いを巡って、王家側とルンドマルク側とで目下、交渉中であった。


しかし一向に進展しない状況に対し、アーノルドも2日ほどはどうにか自制心が効いていたのだが、ついに己の内にある衝動を抑えきれずに行動を開始したという次第である。

そうした気配は皆も感じていたのだろう、恩人、知人、果ては義両親や義姉に至るまで軽挙は慎むようにと強く忠告されていた。それどころか、トラヴィス学園への登校以外は自室での待機を命じられていた。

にも関わらず、その制止を振り切って(というか、黙って)行動に移してしまったのだ。


(何をしているんだ、俺は)


曇天の雲から今にも雨が落ちて来そうな夜半時。

その暗闇に紛れて目立たぬよう頭からすっぽりと灰色のフードを被ったアーノルドが向かった先は、ルンドマルク辺境伯一行が滞在している豪奢な屋敷であった。

さらに言えば、裏手にある茂みに隠れながら、屋敷の中への侵入を試みている真っ最中である。


(さすが警備が厳重だな。さてどこから入るか……)


砦などの設備ではないにしろ、貴族御用達の屋敷である。

金目当ての窃盗・強盗や、襲撃・暗殺に備えてそれなりの防衛機能を有しており、そこにルンドマルク親衛隊が警備に当たっているとあれば、おいそれと侵入はできない。


さて、どうしようか、とアーノルドが侵入経路を模索している時、複数の足音が近付いて来たので、茂みに深く身を隠し、息をひそめつつ、壁沿いである事を活かして、耳をそばだてる。

足音はどうやらルンドマルクの人間であり、彼らは巡回交代による休憩時間なのか、気楽な会話をしていた。


「そういや、あの女、まさかあんな廃屋同然のぼろ屋敷にぶち込まれるなんて思ってなかっただろ」


「綺麗なドレスで祝賀会に出てたってのに、一晩であれだもんな。さすがに同情するぜ」


男たちの会話が耳に入って来る。その内容から、おそらく話題の主はエリーだろう。


(廃屋……という事は、ここにエリーはいないのか?)


アーノルドは身を屈めながら、さらに情報を引き出さんと静かに近寄っていく。

移動されるとついて行くのに面倒だったが、幸いにも壁の向こうは休憩場所だったらしく、立ち止まって会話を続けてくれた。


「あのぼろ屋敷、ドルト修道院だっけか?」


「旧だろ、旧。旧修道院な。前の神父が死んじまった後、貧困街にあるって理由で誰も後継がいなくて荒れ放題なんだとよ」


「はっ、聖職者の名前が泣くね。貧しい人には神の祝福も訪れないってか?」


どうやらエリーは、この豪華な屋敷に監禁されているのではなく、もっと劣悪な環境に閉じ込められてしまっているようだ。


(旧ドルト修道院か。ここからそう遠くないな)


しかもこの屋敷に比べれば監視設備は明らかに下。侵入ははるかに容易である。

上手くいけば連れ出して、奪還も可能だろう。


そうと分かれば長居は無用。むしろ敵拠点のド真ん中に居続けるリスクから、早々に離脱すべきだろう。


「そういや……あの女………だってな……」


速やかに退散しようとしたアーノルドであったが、不意に足が止まる。

いや、彼らから聞こえて来た言葉に足が固まってしまったのだ。


「しかし朝から晩までぶっ続けだろ?壊れちまうんじゃねぇか?」


「違ぇねぇ。女一人にあの人数を相手じゃ寝る暇もないだろうぜ」


女一人、とは会話の流れからエリーに間違いない。

「何の話だ」とは、いかにアーノルドが愚鈍であろうとも、否が応でも察してしまう。

今、エリーがどんな状況で、何をされているのかを。

むしろ自分が鈍くて、何の話か見当がつかなければ、どんなにか楽だっただろうかと、アーノルドが歯を噛みしめる。


(早く行かねぇと)


だが走り出してもいないのに息が上がり、心臓が早鐘を打って止まらない。

視界が極端に狭くなり、眩暈と動悸、さらに吐き気をもよおして足が動かない。

叫び出したくなる衝動を、かろうじて理性が抑え付ける。


「存外、ああいうの、好きなんじゃねぇの?昨日の夜、覗いてみたら、そりゃもう頑張ってご奉仕してたぜ」


「ははは、麗しのお姫様はお優しい。誰にでも差別せず、慈愛を振りまいてくださる」


「俺も今度の非番の時に立ち寄ってみっか」


「それまでに心が折れてなきゃあいいがよ。服なんてボロボロだったぞ」


「おいおい、せめて北に連れて行くまでは壊すなよ。あんなんでも戦利品なんだぜ」


「俺に言うんじゃねぇ。ったく、あいつら、よってたかって好き放題しやがるからなぁ」


ぎゃははは、と男たちが笑い合う。

やがて「おい、休憩時間は終わりだぞ」の声と共に、男達の喧騒は足音と共に去って行った。


―― だがアーノルドは隠れて盗み聞きをしていた場所から一歩も動けなかった。

赤い髪を隠していたフードを深く被り、口には己の手首を噛ませていたが、その手首から血が流れている。

強く噛み過ぎて、歯が皮膚に食い込んでいたのだ。

荒くなる息をかろうじて、執念で押し殺しながら、フードを強く深く被り続ける。


憤怒、屈辱、悔恨、懺悔、悲嘆、様々な感情が去来しては、唇がわなわなと震えた。

先ほど奪還できると内心、喜んだ自分の浅慮さを恥じる。

四肢の力が抜けて、走り出せない。


俺のせいだ。


あの祝賀会場で後れを取った。それが、こんな形で返ってきた。

厳密に言えば、連れ去られようとしていたエリーを止めようとしたが、それが敵わなかったという流れなので、決してアーノルドのせいではない。

だがアーノルドにとって、そんな慰めは詭弁でしかなかった。

あの時、負けなければ、もっと事態はこじれただろうが、エリーは連れ去られる事はなかったはずだ。


それがどうだ、傷面の男(スカーフェイス)を下し切れず、盟主ラーシュには一刀であしらわれた。

挙句に脳天を割られる所をエリーが間に入って止めてくれたおかげで救われ、代わりにエリーは彼らの手中に堕ちる始末。

とどめは、そのエリーが聞くに堪えぬ境遇に押しこめられた現実。

間抜けにも自分が2日ほど逡巡している間に、事態は最悪の方へ転がっていた。

情けな過ぎて、いっそこの場で剣をもって喉を突いてしまいたい衝動に駆られる。


幸いなのは、身じろぎすらできぬほど打ちのめされた事と、折しも降り始めた雨のおかげで、巡回の警備に見つからなかった事だろう。

全身から発せられる激情を、雨が冷やしてくれたのか、しばらくの後にアーノルドはふらりと立ち上がる。


顔には精気がなく、視線が沈み、重い足取りで進む。

もしルンドマルクの者に見咎められ、剣を向けられれば、為す術なく囚われていただろう。


ようやく城下街に出れば、突然の雨に大慌てで家路に急ぐ者たちの喧騒の中、アーノルドだけが幽鬼のように、おぼつかない足取りであった。

すれ違う者たちからは一様に怪訝な顔をされたが、まさか雨に打たれて悄然と歩く男が、あのアーノルド・ウィッシャートとは夢にも思わず、むしろただならぬ雰囲気に気圧され、厄介事は御免だと遠巻きにするのみである。


(……どの面下げて、会えと言うんだ)


ともすれば歩みを止めてしまいそうな体を、それでも、と渇望する感情だけがアーノルドを動かしていた。


それでも、俺はあいつに会いたい。

会って何をすべきか分からないし、何を話すべきかも分からない。

謝罪か、激励か、慰めか、決意表明か。

だが、全部、違うような気がする。


もしかしたら、もう会いたくないと拒絶されるかも知れない。

守るどころか、自分の身すら守れなかった情けない男の顔など、見るのも嫌だろう。

その上、穢れた身を見られるなど、屈辱以外の何者でもない。


それでも自分は会いたい。

罵られて、罵声を浴びせられ、それでエリーが少しでも溜飲を下げられるのであれば、いくらでも受ける。


しかし、しかしである。

エリーの性格からして、アーノルドを労わり、逆に励ましてくれるに違いないのだ。

どんな苦境でも、気にしないで、と笑うのだろう……そうアーノルドは確信していた。


その時、アーノルドは自分の心が耐えられるか、まったく自信がなかった。


エリーが、噂通りの唾棄すべき性格の女だったら。

エリーが、最初の情報通り、ノエリア義姉さんを害する事を目的とした悪女だったら。

エリーが、俺に笑顔を向けてくれていなければ。

エリーが、俺の心にズカズカと入り込んでこなければ。


こんなにも心を乱される事はなかったというのに。


アーノルドは冷たい雨に打たれながら、身体以上に心が凍てついていくのを感じた。

物心ついた時から、一日欠かさず振り続けたと自負する腰の剣は、果たしてこんなにも重かっただろうか。

幼少期に身の丈に合わないと笑われた時ですら、ここまで重く感じた事はなかったはずだ。


鉄のように重い心と身体を引きずりながら、アーノルドは静かに雑踏の中へと消えて行った。


◇◇◇


―― ドルト修道院。

貴族の邸宅が立ち並ぶ中、隣接する貧困街の入口にある修道院である。

元からあまり経済的に恵まれた環境ではなかったが、前神父が病没した後は新たに人が派遣されるでもなく、打ち寂れた雰囲気に拍車が掛かっている。

今はかろうじて有志たちによる修繕や管理が細々と続けられているに過ぎない。


そして、エリー・フォレストはその一室にいた。

華やかなドレスは奪われ、今、身に着けているのは質も値段も雲泥の差の、ボロボロに擦り切れた作業服のような粗末なもの。

可愛らしいメイド服ならまだしも、薄汚れて煤けた服に身を包み、椅子に座ったエリーは呆然と天井を見つめている。

死んだような目が宙を泳ぎ、疲労困憊の体を動かして、せめて汚れた体を拭きたいと思うのだが、四肢が鉛のように重い。


(なんでこんな事になっちまったんだろ)


呆けていたようやくエリーが動き出したのは雨音が屋根に当たり始めて来た夕暮れ時であった。

冬の日の入りは早く、もう真っ暗である。

とはいえ、昨日も一昨日も、安息と言うべき時間はあまり与えられなかった。むしろこの時間からこそ、ひっきりなしの奉仕を余儀なくされていた。

それを考えれば、気を確かに持たなくてはならないというのに、疲労の蓄積は如何ともしがたい。


(昨日に比べて今日の方が遠慮なかったな。日に日に、扱いが雑になってくる)


この調子だと明日はどうなるだろうか。いや、今日もこれから、どんな要求を突きつけられる事か。

そもそもあの人数を一人で相手をするには無理があるというものなのだが……


(考えていてもしょうがない、か)


やっとの思いで身を起こして背伸びをする。

……その時である。

窓際に、人影が見えたのは。


「ひっ」


エリーの口から思わず悲鳴が漏れた。

ホラー映画もかくや、という不気味な人影が現れると同時に雷が鳴り響く。

その稲光に照らされたのは………


「アーノルドさん?」


誰かも分からないほどフードをすっぽりと頭から被り、雨に打たれてずぶ濡れになった風体。

生気のない顔と、肩を落とした迷い子のような姿に、エリーとてこれがアーノルドだと気が付かなかったほどだ。


「ちょ、ちょっと、どうしたんですか?そんな濡れて、風邪ひきますよ!」


きょろきょろと周囲を見回した後、ぐいっと手を引いて室内へと招き入れる。

ボロ屋で隙間風すら入って来るような部屋だが、暖炉に薪をくべて温かさを生み出しているだけ外よりはるかにマシである。

暖炉の前にアーノルドを押し込んで、外套を脱がしてやる。

アーノルドの体は冷え切っていて、いくら頑強な肉体をしていようとも、このままでは間違いなく風邪くらいひいてしまう。


「えーと、タオルタオル……」


疲れ切っていた身体に鞭打って、エリーが献身的に世話を焼き始める。さっきまで動く事すら億劫だった事は忘れたかのようだ。


「警備が手薄とはいえ、よくここまで来られましたね。表の護衛はどうしたんです?まさか……」


「……この雨の上、周囲には明かりもないしな。ちょうど当番交代の時間で、隙も多かったから、裏口から入ってきた」


ようやく、ぼそりとアーノルドが口を開いた。

どうやら見張りの連中をぶった斬って侵入するという暴挙は思いとどまったようで、その言葉にエリーは一安心する。

アーノルドという男は、時折というか頻繁に後先考えぬ行動を取る。なので、またやらかしたんじゃないかと思ったエリーの懸念は良い意味で裏切られた。


「今、温かいものでも淹れますね。こんな粗末なとこじゃあございますが、お湯くらいは使えるんですよ」


エリーがにへら、と笑ってカップを持って来ようとした時、その手首が掴まれた。

それは数日前に祝賀会で、エリーが浚われた時の状況に似ている。あの時はラーシュ・ルンドマルクが相手であった。

その行為に激怒したアーノルドはルンドマルクの親衛隊と大立ち回りを演じ、最後はラーシュの手によって一敗地に塗れた。

あの時の記憶が、まだ生々しく脳裏に残っている。


「ドレスはどうしたんだ?」


訪問して、初めての言葉がそれである。

エリーとしては


「なんだお前。そもそも先輩、見るや否やいちゃもん付けて来てただろうが。なきゃないで文句言いやがってこの野郎」


と言い返してやりたい気持ちに駆られたが、その表情が存外というか、想像を超えて真剣だった。とてもじゃないが、冗談を口に出す雰囲気ではない。

仕方なくエリーは真面目に答える事にした。


「もう手元にありませんよ。そんな綺麗な服、いらないだろって脱がされました」


「………………」


「まぁ、こんな場所じゃー、どんなに着飾っても無駄ですし。……っていうか、うわ、どうしたんです、その手首!」


エリーがびっくりして声を出す。

彼女の手首をつかんだアーノルドの手。その手首から鮮血が滴り落ちている。

エリーはなるべく綺麗な布を引っ張り出して水で洗い、手首に当てて止血をしてやるのだが、アーノルドはそれをじっと見つめているだけである。


「調子狂いますねぇ。そんな不機嫌な顔をしていないで、お礼の一つでも言ってくれたって罰は当たりませんよ」


何故か重苦しい空気の中、冗談を飛ばすエリーだったが、それに対しての言葉は短いものだった。


「ごめん」


だがその短い言葉には、様々な想いが内包されていた事を、さすがのエリーでも気が付いた。


「………言葉は明確に。何について謝ってくれているんですか?」


くるくると手首に包帯を巻きながらエリーは聞き返す。

まるで子供をあやすような口調で、あえてアーノルドの顔を見ないでいた。きっとそっちの方が話しやすいだろう。


「………ずっと謝りたかった事がある」


包帯が巻きつけられ、治療されていく手首を見ながら、まるで独白のように口を開くアーノルド。

暖炉の炎の揺らめきが彼の流麗な横顔を照らし、エリーは思わず見惚れた。


(おっと、こいつ、こんな顔だっけ?)


イケメンという事は知っていたが、青白い顔は白陶器のようで、物憂げに伏せた目が悩ましい。憂いを帯びた表情が、逆にアーノルドの端正な顔立ちを際立たせているかのようだった。

図らずもエリーが祝賀会で周囲を魅了したのと同じような現象がここでも起きていたのだが、当のエリー本人はそんな事など露にも思わず、「ほえー、イケメンは悩み顔もイケメンだのう」と浅い感想を抱いていた。


「気が利かない事、自分勝手な事、思い込みが激しい事、そのせいでお前に迷惑かけてた事……」


「おお」


エリーは思わず声を出した。すごい、ここまで正解である。


「………いつも義姉さんと比べてしまう事」


何と意外にも完璧な回答であった。

感心したエリーは、ちょっとばかり茶化してやろうかと思ったが、存外、真面目な顔をされると、そんな気も失せてしまう。


「よくできました」


いつもこの人、ちょっと遅いんだよな、とエリーは思う。

喧嘩した時だって、こうやって反省して、自覚してくれたら、こじれにこじれた挙句、拉致される事もなかったのに。

今も仲良く同じ馬車に乗って通学していた未来があったのかと思うと、今の状況は隔世の感がある。

つい数日前は元気に学校生活を送っていたのに、もはや登校すらかなわなくなるとは。


その後は、互いに沈黙したまま、手首の治療だけが黙々と進んでいく。

屋根に打ち付ける雨音だけが響き、時折、パチリと暖炉の薪が音を立てて弾けた。

二人とも、話したい事が山ほどあるはずなのだが、どちらも声に出す事無く、時間だけが過ぎていく。


その時である。

バタバタと、複数の足音が、突如として耳に届いたのは。


アーノルドが、バッと顔を上げて腰の剣に手をかけると同時にエリーが


「昨日もだいたい、この時間に来るんだよね…みんな……」


と呟き、表情が曇らせる。

そしてアーノルドの方を向いて、穏やかな微笑を浮かべると、諦めたかのような表情で言った。


「……ってわけで、名残惜しいですが、そろそろお別れです。今日は逢えて嬉しかったですよ」


それに対するアーノルドの返事は、実にシンプルだった。


「帰らない」


「いや、だって、もうすぐそこまで……」


「いやだ」


頑固に言い張るアーノルドに、エリーは苦笑し、やがて悩ましげな表情を浮かべた。


「私としても、あまりアーノルドさんにはいて欲しくないんですけど」


「なぜだ」


「これから起こる事、できれば、アーノルドさんには見て欲しくないから」


そう言うと軽く肩を竦めながら、物憂げな表情で告げる。

言われた方のアーノルドは、沈黙を続けた。いや、正しくは喉がカラカラになり言葉が告げられなかった。

何か気の利いた事を言いたくても、エリーの力になるような言葉を伝えたくても、何一つ口から言葉が発せられない。

改めてアーノルドは自分自身が情けなくて堪らなくる。

そんな先輩の姿を見て、エリーは好意的な苦笑を口端に作り、わざと明るい声を出して言った。


「まぁ、乙女心ってやつを考慮してくださいよ。いつもアーノルドさんの前ではイキり散らかしていたのに、全然違うみっともない姿を晒すんですよ?そりゃあ私にも羞恥心ってやつがありますからね。ちょっとばかり席を外していただきたいです」


「エリー……」


「大丈夫です。こう見えても、まだまだ私、体力あるんですから。あっちがどんな事を要求してくるか分かったもんじゃありませんが、ま、どうにかしますって」


笑顔で力こぶを作って見せるエリー。

だが、そんな姿を見せられたアーノルドからすれば、堪ったものではない。


「ダメだ」


そう口にした後の行動は、エリーにも想定外であった。

アーノルドはエリーを引き寄せ、抱き締めたのである。


「!?! ?! ????」


突然のハグに混乱するエリー。

死の淵でテンション爆上げした洞窟調査の最後の最後以来である。しかもあの時のような盛大なアゲアゲ感情バフは付いていない。

至って素面な感じの中でのハグであり、まったくの想定外であった。


「ちょ、ちょ、どうしました!?離してください。もう来ちゃいますよ!?」


「来るなら来い」


「いやぁ、それはどうかな?意気込みは実に立派だと思いますが、面倒くさい事になると思いますんで、退出した方が無難かと」


「俺はお前を護れなかった」


アーノルドはエリーを抱きすくめながら、ぐっと腕に力を入れる。


「ぐえ」


良い雰囲気、良いシーンなのだが、アーノルドの力が強すぎてエリーが潰れそうである。

抗議の声を上げようと試みたのだが、それよりも早くアーノルドが呟いた。


「だからせめて、これ以上、お前を酷い目に遭わせたくない」


アーノルドの胸の中で潰されそうになりながら、エリーは「ああ、そうか」と得心した。

前に自分の首を締め上げられたが、あの時もそうだった。

この人は誰かが蔑まされた時ほど憤り、力の加減も忘れてしまうような人だった。


(あん時はノエリア様だったけど……)


今回は自分に対してである。そう思うと、苦しいけれど悪い気はしない。


「むしろ、お前をこんな目に遭わせている奴に挨拶をしないとな」


「ん?」


声に不穏な空気が籠る。

エリーは慌てて顔だけをハグ地獄から脱出させて、アーノルドを見上げながら制止する。


「挨拶って、「こんばんは」じゃないですよね?ひと悶着起こすつもりですよね?」


「場合によってはな」


「いやいや、腰の剣に手をかけてる時点で、もう友好的な雰囲気皆無ですけど」


エリーを抱き締めつつも遠くから近付いてくる喧噪に対し、注意を払い続けるアーノルド。

確かに友好的というよりも、完全に敵愾心を抱いている。

しかもエリーは一生懸命に説得しているが、体勢的に胸の中から上目遣いにアーノルドを見上げる形となっていた。

そんな姿をしながら、うるうるとした瞳で見つめられたら、これではアーノルドでなくても庇護欲を刺激されてしまう。

この時点でアーノルドの選択肢に「この場から逃げ出す」という項目はなくなったに等しい。


「何人だ?」


「ほえ?」


「ここに来た人数だ。一人や二人じゃないだろ」


「………昨日は……12~3人……くらい…だったと思う……」


「……そんな大勢で寄ってたかって……!」


男の風上にも置けぬ鬼畜の所業を思い描き、アーノルドの腕の力がより強く籠められる。


「あの、離して……」


「離さない、絶対に」


「はう」


あまりにもどストレートな返事に、エリーは言葉に詰まる。

抱き締められまま、身じろぎもせずにアーノルドの胸に顔を埋めて沈黙する。

見上げれば、凛とした決意を秘めた偉丈夫の横顔とあれば、これで心ときめかさない方がどうかしている。

迫り来る大勢の足音の事すら、しばし忘れてしまう。


だが終わりという者は必ずやって来る。

足音はエリーの部屋の前で止まると共に、無遠慮に、勢いよく、鍵のない扉を開け放つ。


それに対してアーノルドは身をよじらせエリーを隠し、自らを盾にするような態勢を取った。

中に入ってきた闖入者たちは、エリーの言葉の正しさを証明するかのように15名ほどの人数。

彼らは無遠慮に侵入してくるや、アーノルドがいる事に対して目を丸くし、続けてエリーを抱きかかえている姿を見て、大声で叫んだ。


「うわああああ、エリーおねーちゃんがカレシとイチャついてるぅぅぅっ!!!」


それは素っ頓狂なくらい間抜けな、少年の声であった。


◇◇◇


雨音が続く修道院。

陰鬱な廃墟のようなボロ屋に、少年少女たちの声が響く。


「きゃーーーー、おねーちゃん、ふしだら!オトコをつれこむなんて!」

「やっぱおとなはちげーよなーー」

「なあ、にいちゃん、どっからはいってきたんだ?」


キャッキャと二人を取り囲んできたのは、おそらく6歳程度の子供たちで、誰もがつぎはぎだらけの服を纏っていた。その身なりからして、裕福ではない事が一目でわかる。


「こらっ!今日はもう寝るっつったじゃん!」


からかわれたエリーが、ぷんすかしながら少年たちを叱り飛ばす。

だが彼らも怯まない。


「えーー、きょうも本よんでよーー」

「おはなしして、おはなし!!」

「ねる前におしゃべりしましょ」


我儘な少年少女たちに、エリーは「こらっ!」と怒ったふりをして右腕を振り上げる。

その仕草で彼らはまた笑いながらきゃっきゃと走り回るが、やがてエリーがアーノルドに抱きすくめられて追いかけて来れないのに気が付くと、徐々に皆が黙っていく。

あらかた全員がエリーに注目をした時、頃合いだとばかりに彼女は悪戯っぽく口を開いた。


「きょう、おねーちゃんは、この人と今からイチャイチャチュッチュするから、みんなと遊べません」


それを聞いて、おませな女の子たちが、たちまち「きゃーーー」と声を上げる。

男子は男子で


「カレシ?にーちゃん、ねーちゃんのカレシなの?」

「かっけーなー、イケメンじゃん!」

「たしかに、だきあってら!あついじゃん!」

「じゃー、きょうは絵本はなしかー」


と思い思いに絡んでくる。

エリーはなぜか「ふふん、どーよ」とドヤ顔をしながら、子供たちに対して


「ま、これが大人ってやつ?これからは大人タイムなんで、子供たちはさっさと寝なさいっていうかー。その先はまだまだ君たちには早いっていうかー。あ、ごめんごめん、ちょっと、大人の恋愛っての、わっかんないかなー?」


と、まぁ、いやらしいほど、マウントを取りまくっていた。


一方でアーノルドは激しく混乱をしていた。

そしてしばし喧騒に身を委ねた後、ひとつひとつ状況を整理して行く。


「……エリー」


「はい?」


「さらわれてから毎日昼夜を問わず、相手をさせられていたというのは……」


「ああ、ここの孤児院の子たちでねー。昔は修道院兼孤児院だったんだけど、今は神父様もいなくなって近所の有志で世話してるんですって。もうこいつら、手がかかってしょうがないんですよ。朝から晩までぶっ続けだし、いつか身体壊すよ、この生活」


「じゃあルンドマルクの連中とは絡んでないのか?」


「逃げないように見張りはいるみたいだけど、どうなんだろ?ここに連れて来られてからは、ほとんど会ってないなー。たまに覗きにくるみたいだけど、だったら手伝えっつーの」


エリーはぷんぷんと怒っていたが、逆にアーノルドの方と言えば、これまで経験した事のない脱力感が襲っていた。

同時に若干、抱き締める力が緩んだので、ここぞとばかりにエリーは愚痴を続ける。


「朝はまだ暗いうちから起床して朝ご飯の支度でしょ?その後、洗濯と掃除に子供たちの勉強。昼ご飯の後は遊び相手になってやるのと同時に買い出しに行って、夕方には夜ご飯の支度。その後、ちょっとした休み時間にもオルガン弾かされたり、面倒この上ないんですよ。お風呂を沸かした後は全員を入浴させて、終わったら就寝時間……少しは自由になる時間をくれ!」


「………………」


アーノルドがエリーを抱いたまま、天を仰いで沈黙する。

その空気にいたたまれなくなって、いつの間にかエリー一人で頑張ってしゃべくり倒していた。


「あんな悲劇のお嬢様然とした可憐な退場をしたのに、今やってっ事は下町のオカンですよ?汚しても良いようにって支給された服とかも、もうお洒落要素ゼロですし。そりゃ~、あの祝賀会場にいた人たちには見て欲しくない姿ッスわ。いつまでも皆の記憶には美しくて可憐な美少女でいて欲しかったですもん。ぐええ」


最後はアーノルドの抱擁力がアップした事で、気管が押しつぶされた音である。


「じゃあ」


そして、ようやくアーノルドが言葉を発した。


「エリーは」

「連中に」

「何も」

「されて」

「ないんだな?」


物凄く細切れに聞いてきた。

言葉の継ぎ目継ぎ目で大きく息を吐いたり、沈黙したりしてかなりの葛藤が感じられる。

「知りたい」「知りたくない」「事実だったらどうしよう」など、色んな感情が混ざってしまっていて、彼の願望を一言を言い表すなら、


「知りたいけど、吉報だけでお願いします」


と言ったところだろう。

実に贅沢で手前勝手な心理だが、それくらいアーノルドの心理が千々に乱れていたという事の証左である。

一方でエリーも、血を吐くような言葉の意味を理解するのに、しばしの時が必要だった。

やがて自分の置かれている状況と、これまでの経緯から、何を心配されているのかを理解した。


「あーーーー、なるほどーーーー」


子供たちの世話に忙殺され、そこまで知恵が回らなかったエリー。

今にして思えば、若い娘が傍若無人の輩に拉致られたら、まずはそれを心配するだろうと想像できるが、肝心の自分の身に危機が訪れなかった事で、その認識が抜け落ちていた。


「ご安心を。あいつら、どっかから連絡が来た途端、ざわざわし始めて、舌打ちしながらこのボロ家に放り込みやがりました。なので私の柔肌には指一本、触れられてないです」


「本当に?」


「本当です」


「本当に、本当か?」


「しつこいですね。本当に本当です」


「お前、何でもかんでも自分で抱え込むからな。自分が被害対象の時ほど、信用ならない」


「……よくお分かりで。ただ、今回に限っては本当ですよ。何なら……」


エリーはわざとらしく、品を作って見せる。ちらっとスカートの裾を摘まんでみせながら、わざと冗談っぽく舌を出して


「確認してみます?」


と言ってみた。

これくらいやれば、さすがのアーノルドでも「あはは」と笑って……


「………鑑定に自信はないが、教わりながらなら…」


「おい」


エリーはマジで突っ込んだ。

そこは笑うか、やめろと注意するか、どっちかにして欲しいところである。

まさかガチで確認に乗り気な反応が返って来るとは思わなかった。クソ真面目、ここに極まれり。


「見せられないという事は、やはり……」


「ちげーよ。冗談の上に、単純に恥ずかしいんだわ。何が悲しくて先輩の処女認定を受理するために乙女の股間見せなきゃいけないんだ」


「無理をするな。俺の前では強がらなくていい」


「くそが!!だったら見せてやろうじゃ……って、え?なに?これ、高度な挑発?私、知らないうちに誘導されてる?故意だとしたら、空恐ろしいんですが」


あと一歩で自分から股をおっぴろげる所だったエリーは、その巧みな誘導に戦慄した。

ちっとも巧みではない売り言葉を勝手に拾い上げた挙句、簡単に大事な場所を見せつけようとするエリーもどうかと思うが。


「じゃあ、本当に大丈夫なのか…?」


「大丈夫っつてるだろ!」


エリーにしてみれば、何度も何度も念を押されて、ようやく得心のいったアーノルドが不思議でならない。

何をそんなにも貞操について確認しているのだろうか。

まるで自分が恋人のように大事な人みたいじゃないか………と、そこまで考えて、不意に顔が赤くなった。


(え、そういう事です? もしかしてアーノルドさん、私の事をそんなに心配して?)


まさかまさか、朴念仁でシスコンのアーノルド・ウィッシャートが、他の女に心を砕く事があるのか。

そうであれば今もなお続き、周囲の子供たちから「けっこん、けっこん」と囃し立てられている「何か知らないけど熱烈なハグをし続けられている」という状況も納得がいく。


(だとしたら、えらいこっちゃで)


何故、関西弁。

意味もなく方言を口走ったのは、エリーの動揺が一方ならぬものである事を示しているからだろうか。


「あの、アーノルドさん」


意を決してアーノルドを見上げるエリー。

だがアーノルドの顔はエリーの目の前にあった。


「………………!?」


不覚にもドキっとして目を丸くしてしまったエリーだが、その邂逅はわずか一瞬にして終わり、やがて目線は上から同じ高さへ、そして下へと移動して行く。

エリーの身長が急速に高くなった……なんて事はなく、アーノルドの目線が下がったからである。


「アーノルドさん?」


やがてアーノルドの動きが停止する。

簡単に言えば、エリーを抱きかかえながら、ズルズルとずり落ちていったのである。

今の格好は、正面からエリーにタックルかましたような姿である。

見方を変えれば、縋り付くように抱きついているみたいだ。


「ちょっと、何ですか、急に。子供たちも見てるんですから、しっかり立ってください」


「腰が抜けた」


「は?」


どうやら本当のようで、膝立ちしたまま立ち上がろうともしない。

そのくせエリーのお腹辺りに顔を埋めて抱き着いたままである。

もう少し彼女の背が高かったら股間辺りに埋めていたかも知れないので、まぁ、ギリギリお子様が見てもセーフの態勢ではあるが。

情けないは情けないが、非道徳的になるよりは健全だろう。


「あのですねぇ……」


エリーはさらに文句を言ってやろうと、情けなく自分に抱きついている先輩を見下ろす。

だが彼女の口は途中で固まり、何事も発することなく閉じられた。

代わりに軽い溜息をついて目を閉じると、仕方ないという風に赤毛の髪の毛を撫でてやった。


(これじゃ文句も言えねぇわ)


視界に入っているのは、自分に抱きついたまま、


「よかった、よかった」


と、それだけを繰り返して顔も上げない赤毛の青年。

……いや、青年と言うよりは、大きな赤ん坊みたいな感じだった。


(赤毛じゃなくて赤子かよ)


エリーは苦笑いを浮かべ、アーノルドの頭をなでなでし続ける。

これでは文句どころか、軽口すら叩けない。幼子が泣くのと同様、当人が気の済むまで、したいようにさせてやるしかあるまい。


「うわー、この兄ちゃん、おとななのに子供みたい!」


と騒ぎ出す子供らに、エリーは静かに、再び指を唇に立てて「しーっ」とポーズをする。

叱るでもなく、慌てるでもなく、微笑をたたえての仕草に、子供たちも何かを感じたのだろう。次々と「しーっ」のポーズが伝播していき、場の騒ぎが静かになっていく。

からかったり、茶々を入れるような声もなくなると、やがて子供たちは各々、退室していく。

抜き足、差し足で、まるでようやく寝かしつけた赤ちゃんを起こさないように、という慎重さで一人、また一人消えていくと、最後に残ったのはエリーとアーノルドだけになった。

それでもなお、心からの安堵を噛みしめながら「良かった」と呟き続けるアーノルドを、エリーは呆れながらも好ましい想いで撫で続けるのであった。

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