2章第106話 聖女の生きる道
トラヴィス学園の生徒会室に凶報とも言うべき報告が行われたのは、すでに夕刻時であった。
凶報を届けたのは生徒会長のクリフォード・オデュッセイア。
先ほどまで従兄ジャレッドと面会をしていたのだが、その内容たるや散々な物であり、奇しくもエリーの受難と似たような案件であった。
「まさかジャレッド殿下が、そのような行動に出るなんて…」
ノエリアが表情を曇らせる。
王家と敵対する門閥貴族たちがエリーに群がる事は予想していたが、まさかその親玉が出て来るとは予想外であった。
「思い切った提案をして来たものだ。しかもウィッシャート家まで巻き込もうとしている」
クリフォードの嘆息にノエリアは毅然として答えた。
「我がウィッシャート家を見くびらないでもらいたいですわ。このような見え透いた申し出に乗ると思ったら大間違い。何よりエリーさんを、政争の具にするなど言語道断」
「ジャレッド殿下の申し出も、どこまで現実味があるのやら。父のヴァージル殿下からの提案であれば、まだ検討の余地があるでしょうが、その際にはこの学園ではなく、直接、ウィッシャート家の門が叩かれるでしょう」
在校生徒たちの、好いただの、付き合っただのという次元ではない。
ここまで大きな話になれば当人たちの合意があろうと家同士の話し合いは避けて通れるはずもない。そう考えると、まずは反王家側からの挑発めいた牽制と言ったところだろう。
「……というわけだから、落ち着いてくれないかい、アーノルド」
クリフォードが、この行動に対して、思いっきり吊られている人物に対して嗜める言葉をかける。
その視線に先にいるのは、当然、アーノルド・ウィッシャートがいた。
門閥貴族がエリーに絡んできた時は激発してしまったアーノルドだが、今度は沈黙を保っている。だがその沈黙は、決して冷静さを保証しているものではなかった。
クリフォードが指摘するように、アーノルドは完全に冷静さを欠いていたと言って良い。沈黙しているのは、あまりに感情が昂ぶりすぎて、沸点をはるかに通過しているだけなのだから。
アーノルドの様子を見て、同室にいるラルスとジュマーナ、そしてキャロルの三名は、それとなく身構えた。
彼がジャレッドへの怒りで、部屋から飛び出そうとしたら、実力行使でねじ伏せるつもりだった。無論、アーノルドの力を考えれば、三人がかりでも止められるかどうか分からない。しかしここで軽挙しようものなら、取り返しのつかない事になるのは明白であった。
「あの野郎……」
果たして、アーノルドの感情が爆発しようとした、その瞬間……
「落ち着け」
ぐい、とアーノルドの袖が引かれ、機先を制される。
横にいたエリーが、アーノルドを睨みつけ、声をかけたのである。
「私はまだ何も言われていないし、何もされてない」
その言葉を耳にしたアーノルドは、激昂する感情が冷えていくのを感じた。
結果的に、さっき門閥貴族を掴みかかったのが予行練習になったのは、彼にとって幸いだっただろう。
もし今回の恥知らずな誘引を初見であったなら、感情の赴くままにジャレッドに襲いかかるべく、部屋を飛び出していたかも知れない。あの時、頭が真っ白になった自分を反省したからこそ、どうにか最悪の行動を回避できたのだ。
たっぷり30秒ほど瞑想した後、ゆっくりと目を開いたアーノルドは、自分を現実に引き戻してくれた声の主の方を見る。
そこには、ちょっと怒ったような、眉を吊り上げた少女がじーっとこっちを見つめていた。視線が交錯しても、その瞳は一瞬とて逸らす事無く、見返してくる。
「はぁーーーー……っ…」
深く深く息を吐くアーノルド。
白く、そして黒く狭窄していた視野が、ようやく広がってきた。
血が滲むほど握りしめた手が、ようやく緩む。
その光景を見て、身構えていた3人は安堵と共に警戒を解いた。特に場数の少ないキャロルなどは、自分に向けられてすらいない殺気だけで腰が抜けそうだったので、本当に安堵した。
ジュマーナのように幼少期から様々な英才教育を受けている王族ならいざ知らず、あんな野放図に放たれる殺気など、まだ年若き少女が受けるものではない。
あんなものをまき散らす当人と、正面切って対峙できるエリーがおかしいのだ。
「今後ともエリー嬢には、アーノルドの側にいて欲しいものだな。あんな殺気を振りまかれては、命がいくらあっても足りん」
ラルスが迷惑そうに言いつつも、すぐにそれを打ち消すように呟く。
「……とはいえ、アーノルドが我を失うのは、常にエリー嬢絡みなのだがな。側にいた方が良いのか悪いのか…」
そんなラルスの心情など無視するように、無頓着で明るい声が生徒会室には響く。
「ったく、沸点低ぃなぁ、先輩。私相手にそんなんじゃあ、彼女さんとか出来たらどーすんですか?」
それは挑発なのか?それともアーノルドを試しているのか? ……と、他の者たちはハラハラする。
何て質問を投げかけるのだ、この娘は。
さらにいうと、アーノルドの行動はもっと空気を読んでいないものだった……いや、逆に読み過ぎるほど読んでいるとも言えた。
アーノルドはドヤ顔のエリーの背後から両手を回すと、思いっきり抱き寄せてしまったのである。
「あわわわわ」
驚いたエリーだったが、周囲は周囲でもっと驚いている。
まさかこの神聖なる学び舎で、他生徒が見守る中、堂々と熱い抱擁をするとは。
しばし「ぐむむむ」とか「苦しい」とか抵抗をしていたエリーだったが、アーノルドがぼそっと
「大事にならなくてよかった」
と呟くのを耳にして、抵抗を止めた。
観念して力を抜き、むしろ自分の後頭部をアーノルドの胸に擦り付けるようにして密着すると
「しょーがねーっすねぇ。まぁ、これで精神が安定するってなら、お好きにどうぞ」
と、ぬいぐるみよろしく、抱かれるがままに脱力した。
「ああ、悪ぃが、もうちょっとこのままで頼む」
「ごゆっくり。あれですね、ブランケット症候群だか、ライナスの毛布だか」
「……………?」
最後の台詞だけはエリー以外の者たちには何の事やら理解不能だったが、とにかくイチャつく事で精神安定が図られたようだ。
改めてジュマーナは
「こやつら、本当に付き合っておらんのか?」
とキャロルに問いただしたが、信じ難い事に答えはYESであった。
ジュマーナはさらに話を聞き出そうとしたのだが、キャロルの二人を凝視する視線が氷よりも冷え切っていたので断念した。
「はっ、淫獣どもが」
と、地獄のような声が聞こえたのは空耳だろう。
「ついでに言っておくと…」
クリフォードがそんな二人を見ながら口を開く。
「君たちはやんごとなき仲だと説明をしておいたから、少なくとも彼の前では、そのように振る舞うようにして欲しいな」
「俺たちが!?」
「ぐええええ」
クリフォードの言葉に驚いたアーノルドが腕に力を込めると、その腕を首に巻きつけていたエリーが変な声を出す。
「そうでも言わないと納得しそうになかったからね。そもそもノエリアまで、駆け引きの材料にしてきた」
「ノエリア義姉さんを!!?」
「…………………」
「アーノルドさん、エリーさんが絞殺されそうなのですが」
「ふざけやがって……っ!」
「………………………………。」
「あの顔色、もう手遅れかも知れんな」
「冷静に様子を見ていないで助けてあげてください!」
キャロルの悲鳴でようやく動き出したのだが、興奮したアーノルドの手からエリーが救出するのには、それなりの時間を必要とした。
その間、エリーは薄れゆく意識の中で
「もうこいつを信用しねぇ」
と心に固く誓ったのである。
◇◇◇
「ごめんって」
ぷんすか帰路を急ぐ私の背後で謝罪を続けているのはアーノルドさんである。
あの野郎、私の首を落とすまで締め上げてやがって。
後ろから抱き締められて、
「あらやだ、大胆ね。それに改めて意識すると想像以上にたくましい腕してるじゃない。うふふ、そんな力強く抱かれちゃうなんて、ちょっとマフラーみたいに首に巻きつけると、さらに恋人みたいきゃはっ♪」
とか、のぼせて浮かれていたのが、そもそも間違いだった。
まさかその腕が、私の命を狙ってくるとは夢にも思わないじゃん。夢見心地から悪夢に急転直下ですよ。
さらに怒りの具合は、私が貴族のボンボンたちに馬鹿にされた時の比ではない。
ノエリアさんの名前が出た瞬間よ、もう瞬間。怒髪天とはこの事かって思ったよね。
周囲の言葉なんて、一切合財、入らない状態になっちまった。怒りスイッチON。逆鱗に触れまくりだわ。
そして当人のいない憤激を、私が一心に受け止めるという、この理不尽さよ。マジでなんだってんだ。
「私の後ろをくっつくより、大事なお義姉さんの側にいた方が良いんじゃありませんか?」
半分本気、半分意地悪である。
アーノルドさんがとんでもねぇシスコンってのは知ってましたし、今更って感じなんですが。
そう、まさに今更。
アーノルドさんが今更、シスコンじゃなくなるわきゃねぇし、それを求めるのは酷ってもんは分かってます。
培ってきた日々が違いますしね。
人と人との繋がりの深さは必ずしも時間と比例しないってのも分かるんですが、それだって長い年月を一緒に過ごすっていうアドバンテージは、ちょっとやそっとじゃ覆せないもんです。
ただ、それにしたってよぉ、他の女に気持ち持って行かれて、不可抗力とは言え、目の前の女の首を絞めちゃう男は、なかなか最低だと思うんですよ、私は!
「まだ足だって万全じゃないだろ。松葉杖だし」
「お構いなく。どうやら今の私は思ったよりモテるようですし、アーノルドさんの助けはいりません」
どうやら私には求婚者が集っているらしい。
あの貴族の勘違いボンボンたちは論外だとしても、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる理論で、中には掘り出し物のイケメンかつ心根の優しい素敵な貴族青年がいるかも知れないではないか!
……現実には、まぁ、ほとんど私というより私という存在の利用価値目当てだと思うけど。
「でも、いや、ほら、クリフォードさんだって言っていただろ。変な虫を近付けないように、仲良く振る舞えって」
「だからって首絞めるような奴を近付けてたまるかよ」
もっとも私は首を絞められた事に怒っているわけではない。
あ、いや、怒っているけど、そこが主要な問題ではないのです。
どっちかっつーと、なんだろうな、これは私の我儘でもあるというか……
「約束する。もうあんな真似はしない。それに、ほら、部屋を出る時、みんなも心配していたし……」
ああ、そうなんです。
まさにそれが、私の中でモヤってるところなんです。
私はいつもアーノルドさんの中では介護対象で、弱くてダメダメで、情けない後輩でしかないって事が分かってしまったんです。
ノエリアさんがアーノルドさんだけでなく、みんなから慕われ大事にされているのは、美人で性格が良いってだけでなく、自立して頼れる女性だからって事でもあるからなんでしょう。
聞けばノエリアさんの風魔法と、アーノルドさんの炎魔法を組み合わせると、そりゃあもうとんでもねぇ威力で敵を駆逐すると聞いています。
翻って私の事を鑑みるに、神聖魔法は別段、炎に合わせたものでもありませんし、加護の付与は誰にでも等しく効力を発揮する感じで、別にアーノルドさんに寄り添ったものでもなんでもないです。
それって、アーノルドさんにとって私は「いなきゃいねぇで、どうにでもなる」存在なんじゃないかなと。
これまでアーノルドさんが私の為にしてくれた事は本当にありがたいですし、感謝しています。
でも、それに甘えて、何かこう、互いに楽な方に流れてんのかなって。
別にアーノルドさんがそれでいいなら、そういう日々も良いとは思っていましたが、首絞めは別にして、アーノルドさんの心の中心には相変わらずノエリアさんがいるのを目の当たりにしてしまったので、
(うーん、こりゃいつまでも、べったりじゃダメだな)
と薄れていく意識の中で思ったわけです。
一度は吹っ切った気持ちでしたが、ぶっちゃけ洞窟で助けられた時、「あれ?もしかしてまだ脈ありなのでは」とか無自覚に期待していたのは否定しません(いや、むしろ自分の中で勝手に盛り上がっていたかも)。
ですが、改めてアーノルドさんにその気はないのに、甘えっぱなしってのは、なんだかなぁと。
それなのに、後ろからついて来られてしまうと、そんな決意が鈍って、また勘違いしそうになりますね。
くそ、天然の女ったらしめ。
ちっと前に「人には優しく接しろ」と説教したけど、勘違いさせろとは言ってないぞ。
まぁ、これもアーノルドさんの性格的なものだから仕方ないんですけど、それはそれ、私の我儘と言う事です。
あー、そろそろアーノルドさん離れをしよう。
自分の事はきちんとやって、護られなくても済む力をつけて、みんなに迷惑をかけないよう頑張ろう。
「アーノルドさん」
私は決心をして振り返る。
「今までありがとうございました。これからは一緒に登下校していただかなくても結構です。どうせしばらくは病院との往復ですし。もう私の心配なんてしないでください」
そう言われたアーノルドさんは、ぎょっとして制止した。
私の決意表明が、そんなにびっくりしたのか。いきなり雛が巣立っていく気分なんだろうか。
何だか気恥ずかしくなって、俯いてしまう。ええい、この場からすぐに逃げ出そう。
「さようなら」
それだけ告げると、松葉杖を使いながら、ひょこひょこと夕暮れの校舎を足早に脱出。
さすがにあれだけ言えば、アーノルドさんもついて来ないようだ。
…………………。
あれ? なんだかとんでもない別れ方をしたような気がする。
何と言うか、彼女から彼氏へ、三行半を叩きつけたような……。
いやいや、いくらなんでも考え過ぎだろう。
むしろ私の方が三行半を叩きつけられてもおかしくないんだから、アーノルドさん側が誤解するはずなかろうて。
でもアーノルドさんだからなー。
そこまで考えたが、私は顔を上げ、思考を切り替えた。
もう忘れよう。
仮に誤解させたとしても、アーノルドさんが私ごときと縁が切れたくらいで多勢に影響はないでしょう。
むしろ入学以来の腐れ縁が切れてせいせいするかも知れない……それはそれで寂しいが。
今はもう前を向いて歩こう。
―― それが聖女の生きる道ってもんです。
こうして私は新たな決意と、一抹の不安を抱えながら下校した。
そして後日、この行動があっちこっち波及するとは、この時、微塵も思ってもいなかった。
だったらもう少し、マシな別れ方したんだけどなぁ!
とりあえず今回で2章終了です。
もう少し早くすっきりまとめる予定だったのですが…。
この後、2話ほど外伝的な投稿する予定です。




