2章第104話 内憂
「貧血かしらね……このところ、忙しかったから……」
生徒会室のソファで横になっていたノエリアが半身を起して頭を振る。
周囲には心配そうな顔をして、馴染みの面々が居並んでいた。
「そうだな。健康管理も職務の一部だ。少し静養すべきだと思われる」
と語るのは、共に生徒会で励む監査役のラルス・ハーゲンベック。
「心配しましたよ。だいぶ顔色も良くなったようで何よりです」
笑顔を向けてくれるのは後輩であるキャロル・ワインバーグ。
「貴女は学園の支柱じゃ。養生されよ」
珍しく生徒会室に顔を出しているのは、留学生でありながら2学年の代表を務めるジュマーナ。
「義姉さん、あとは俺たちが引き受けるよ」
頼もしく語りかけてくれたのは1学年下で、生徒会書記であり、可愛い義弟でもあるアーノルド・ウィッシャート。
「なにかも忘れて寝てください!!」
元気いっぱいに言ってくれたのは、何かと騒がしく目の離せないエリー・フォレスト。やや口調がたどたどしいような気もしたが、きっと気のせいだろう。
「そうさせてもらおうかしら」
「うん!ぜひぜひ、そうしてください!」
「それはそうとエリーさん、どこか目が泳いで……」
次の瞬間、アーノルドの指がエリーの両目に突っ込まれた。完璧な目潰しである。
「ちょ、ちょっと、アーノルド!?」
「大丈夫です、義姉さん。いつもと何ら変わりありません」
「ぎゃあああああああああああ!!!目が!!目がああああああああああ!!!」
「全然、そんな風には見えないけれど!?」
「最近、親しい相手の眼球を愛でるのが流行っていまして」
「なに、その猟奇的な流行!」
驚き慄くノエリア。さらに彼女を戦慄させる事態が起きたのは、その直後だった。
「とにかく義姉さんには休んでぐぶぅ!」
アーノルドが前のめりに悶絶する。
見れば彼の背後から、エリーの足が股間を蹴り上げた姿が認められる。
「うおおおおおおお!!こ、股間が……!」
「安心してください、ノエリア様。親しい殿方の股間を蹴り上げるのが流行っていまして」
「私が気を失っている一瞬の間に、この世の中はどうなってしまったの!?」
あまりの事態に驚愕するノエリアだったが、頭を抑えて何事かを呟く。
「うっ……股間……言い争い……な、何かを思い出しそうな……」
その言葉にラルスとキャロルとジュマーナが被せるように、だがいつもの三人らしくなく強引な口調で、それ以上の思考を押しとどめた。
「ノエリア、君は疲れている。余計な事は考えない方が良い」
「その通りです。きっとたいした事ではないと思います!」
「病は気からと言う。考え過ぎはよろしゅうなかろう」
三人の背後では、エリーとアーノルドが、相手への追撃を試みて相打ちになってしまい、片や両目を、片や股間を押さえて悶絶する醜態を見せつけていたが、この際、無視しても良いだろう。
「あの二人は放っておいても大丈夫だ。実に仲睦まじい姿じゃないか」
「そう……かしら…?」
「それよりもノエリアが来てくれたのは幸いだ。少々、お勉強会をしようと思ってね」
「あら、ここにいる人たちはみんな優秀で、その必要はない……」
そこまで言うと、ノエリアの視界には両眼を抑えながら床を転がり回っている少女が入ってくる。彼女をしばし眺めやると、改めて前を向き
「エリーさんは、どの教科が遅れているのかしら?」
と笑顔で質問をした。
やや失礼な断定であったが、現実問題として赤点に最も近い生徒であり、的確に事実を突いていた(正確には他の生徒たちは成績上位であり、赤点とは無縁だ)。
「強いて言えば、科目は歴史。ただし多分に現代社会について学んでもらいたいと思っている」
「どういう事?」
「つい先ほど、エリーは門閥貴族の子弟に襲われてね。それを救い出し保護をしたところだ。そんな彼らは王家に対して不遜な言葉を吐いたという」
「なっ……」
初耳のノエリアは思わず声を漏らす。この学園内で治安も風紀も乱すような輩がいるなど看過できない。
もっともエリーとアーノルドが繰り広げた一連の騒ぎは大いに風紀を乱したような気がしなくもないが、幸いにしてノエリアはその事を知らない。
「この先、彼女が学園内でどう立ち回るべきか……その指針として、現状を認識するのは悪い事ではあるまい。なにせ彼女は貴族社会に疎い。身を助けるべき知識が不足している」
「……確かに今の王宮内で起きている事を知っておいて損はないと思うけど…」
「ノエリア先輩よ。エリーを巻き込んでしまう懸念はもっともじゃ。ただもはや、好む好まざるに関わらず、早晩、エリーは権力闘争に巻き込まれるであろう。であれば、少しでも武器は多い方がよかろう」
ジュマーナが横から言葉を挟み、そして彼女の指摘は実に正鵠を射ていた。心優しいノエリアは貴族の力関係についてエリーに教えてしまう事で、否応なしにこのパワーゲームに巻き込むのを恐れていた。
しかしエリー自身が襲われたとなれば、躊躇している暇はないだろう。
「わかりました。エリーさんに、今の王国の状況を把握してもらいましょう」
きっ、と強い視線で前を見るノエリア。そして全員の視線がエリーに注がれる。
「目があああああぁっ!私の可愛いオッドアイの瞳がああああああああああ!!」
「うるさーーーーいっっ!!!」
苦悶するエリーに、キャロルの怒声が浴びせられる。
普段はアーノルドの仕事なのだが、今日は彼も股間を押さえて悶絶中なのでそれどころではないので代理である。
―― 結局、煩悶するエリーを椅子にくくりつけて、イシュメイル王宮のお勉強会が始まるまで、それから15分ほどクールダウンタイムを挟まねばならなかった。
◇◇◇
「質問です。この国で一番偉いのは誰でしょう?」
「クリフォードさんのお父さんです」
復活したエリーにキャロルが質問を行い、返答を聞き出す。
若干、国王に対して不敬な返事ではあるが、正解である。
「いいでしょう、正解です。正確にはエセルバート国王陛下ですね」
「いえい」
簡単すぎる問題でドヤられても困るが、エリーの事だから見当違いの答えをするかと思っていた一同は胸を撫で下ろした。
「今回、登城していれば会えたんだぞ」
アーノルドの言葉である。
その言葉通り、エリーは洞窟調査での功績でお目通りの栄誉を得ていたのだが、簡単に放棄した。
この事はちょっとした驚きを持って受け止められ、謙虚だと褒める者もいれば、不敬と取る者もいた。事実としては、エリーは極力目立つことを回避したかっただけなのだが。
「謁見の栄誉を賜りながら姿を見せなかったのは稀有な例だ。最近で言えば、晩餐会を無視したアーノルド以来だな」
「そんな事、ありましたっけ?」
ラルスの言葉に首をかしげるアーノルド。ノエリアが助け舟を出す。
「あったでしょう?あの日は訓練場で模擬戦をした後、宮中晩餐会が催されて、私とクリフォード様とラルスが参加したじゃない」
「あー、何となくそんな日があったような……」
「お前が訓練場で大乱闘を繰り広げた日だぞ。ついでに周囲を一望できる高台で、白昼堂々エリー嬢の顔を股間に押し付け、周囲の顰蹙を買った日だ」
「ああ、俺がイザークさんに勝利をした日ですね」
アーノルドの返事が斜め上気味なので、彼への説明とは別にキャロルがエリーに確認をする。
「エリー、あなたがアーノルドさんと馬に二人乗りをしながら周囲の目も憚らず、城下を嬌声を上げて闊歩した日だけど、覚えている?」
「おー、私の演技でいけすかねぇ野郎に一泡吹かせた日だ!」
何と言う事だろう。人々にとっては忌まわしい日だというのに、この二人にとっては誇るべき記憶しか残されていない。どれだけポジティブな思考をしているのだろうか。
あの後、事後処理に奔走して各所に頭を下げまくったキャロルなど、眩暈がしてふらついている。
「……で、その王様が一番偉いとして、何であの貴族は反抗的だったのかな?」
エリーは事もなげに話を戻す。
これ以上、何かを語らっても生産的ではないと判断し、キャロルは気持ちを奮い立たせて説明を始めた。
「おそらく、その先輩方は【貴族派】に属する家門だったのかと」
「【貴族派】……?」
「以前は王家よりも門閥貴族たちの方が力を持っていたの。その勢力バランスをひっくり返したのが、現国王であらせられるエセルバート陛下よ。正確には、今は亡き前国王デズモンド様からの悲願だったのだけれど」
イシュメイル王国は長い歴史の中で、幾度か内乱が勃発していた。
そして近年では内乱にまで発展はしなかったものの、権力を巡る暗闘の末、門閥貴族たちが勢力を伸張させて王権を制限し、貴族主体の政治を行われていた。
やがてその政治体制は腐敗を生み、挙句に王家と貴族が結託して民衆から血税を絞り上げ、その金で贅沢を行うという由々しき状況にまで堕ちていた。
そんな中、玉座に座った先王デズモンドは二人の子供に恵まれた。
一人は長男ヴァージル。
もう一人は次男のエセルバート。
長男は貴族の籠絡に嵌り、淫蕩に耽る事甚だしく、心ある者は眉根をひそめた。
だが次男は齢を重ねるに従い、文武に長じ、戦場を駆け回る事に喜びを見出す好漢へと成長する。
デズモンドは王になって以来、病弱で暗愚と評判であった。政は貴族たちに牛耳られ、大貴族の傀儡だと信じられ、また大貴族たちもそう思って疑った事はなかった。
しかしそれが次世代への布石だったと誰が想像したであろう。
「後継はエセルバートに託す」
デズモンドの放った宣言の衝撃は、まさに青天の霹靂であった。
事は極秘裏に進められ、当のエセルバートですら直前まで知らされていなかったという。
ほとんど革命に近いこの宣言は混乱を招いたが
「エセルバートの功績は多大であり、古の名君・名将に匹敵する」
という言葉の前には、享楽を甘受し続けて来たヴァージルの立場などないも同然であった。
またいくつかの勢力が王家側に付いたのも大きい。
エセルバート永らく戦場を駆け巡っていた為、軍部からは圧倒的な支持を受けていたし、腐敗政治とは距離を置いていた事で国民からの人気も高かった。
さらに王族に連なるバッハシュタイン家や、有力貴族であったウィッシャート侯爵、数多くの宰相を輩出している名門ハーゲンベック家なども、腐敗しきった体制に愛想を尽かしエセルバートを支持した。
ウィッシャート家は、ご存知の通りノエリアやアーノルドたちの家門であり、ハーゲンベック家は生徒会監査役としてクリフォードを支えてくれているラルスの家門である。
彼らの助力と国民たちからの圧倒的な指示を受けたエセルバートは、最初こそ戴冠を渋っていたが、ついに了承。
大貴族たちからの反撃が懸念されたが、肝心の軍部が総じて王家側に立っていたため、反勢力側は武力行使と言う強硬手段に出る事ができずに沈黙。
散発的な抵抗が鎮圧された後、正式にイシュメイル国王としてエセルバートが即位したのである。
「おおむね、その説明通りだ。そして、経緯が経緯だけに、未だ王族に対して反攻を試みる勢力があちこちにいる」
そんな貴族たちの子弟が学園内にも多数、在籍している。
入学当初から、女子生徒たちを中心に、幾度となくいじめを受けているエリーだが、アーノルドがやらかさなくても平民出身というだけで標的にされていた可能性は高い。
(ゆえに結果論的な話になるが、アーノルドはエリーの現状に、そこまで一人で責任を背負う事もない……が、アーノルド自身が、それをよしとする事はないだろう)
「まー、だいたい状況は分かりましたけど」
エリーはそう言いつつも、「むー」と呻きながら、何か得心がいっていない様子である。
「疑問があれば、分かる範囲で答えるわよ?」
「まぁ、単純な疑問なんだけど、その反対貴族たちって、具体的に何すんの?」
エリーは疑問を口にした。
話を聞いていて、何となく前世?でやっていたゲームでも、それに近しい事を言っていたような……くらいの事を思い出した。ただ残念な事に、その辺のプロローグや劇中説明をスキップしていた為、とんと記憶がない。こんな事なら、もう少し真面目にゲームをしていればよかった。
だって、しょうがないだろ!さっさとゲーム始めてイケメンとめくるめく日々を送りたかったんだからさぁ!
そんなエリーの質問に対して、ラルスがしばし逡巡して口を開く。この男にしては珍しい迷い方である。
「………具体的には、旗頭となるべき人物を立て、その人物を前面に押し出しながら勢力の巻き返しを図る…という感じだな」
「うへぇ、面倒くさそう」
「その認識は正しい。厄介かつ面倒、この上ない」
ラルスは苦虫を噛み潰したような顔をした。どうやら、よほど面倒くさいようだ。
そして、そんな具体的な例と合わせて、明らかに嫌がっている表情をしているという事はある程度、状況を把握しているのだろう。
「んで、そんで?」
「…………誰を旗印にしようとしているのか目星はついている。というか、相手は隠す気もないらしい」
「そんな堂々と!? やっちまえばいいじゃん」
なかなか物騒な言葉を吐くエリー。「やっちまえ」は「殺っちまえ」なのかどうか、そこで人間性の評価は分かれるであろう。
「なかなかそれが難しい」
「そうなの?王様組が結託すれば、貴族の一人や二人、倒せそうだけど」
「事はそんな単純なものではないのだよ」
「そんなに強い相手なん?」
「強いというか………」
ラルスがちらっとノエリアの方を見る。
何か言いにくい事情でもあるのか、その視線に気が付いたノエリアは、ラルスの発言を引き継ぐ格好で、はっきりと言った。
「反王家の貴族たちを扇動し、自らを神輿として担ぐように振る舞っている人物……その名をヴァージルと言います」
「ヴァージル………?」
あれ、ついさっき、聞いたような……と首をかしげるエリー。
ノエリアは、その言葉を肯定するように頷いてみせる。
「王兄ヴァージル・オデュッセイア。後継者になり損ねた、現国王の兄です」
◇◇◇
イシュメイル学園の来賓室には二人の男性が向かい合っていた。
豪奢と言って差し支えないであろう豊かな金髪を揺らし、その下には秀麗な美貌が笑みをたたえている。その容姿に相応しい優雅な手つきで紅茶を口にする男こそ、この国の若き皇太子であるクリフォード・オデュッセイアだ。
その彼と対面している人物は、おそらくクリフォードより2~3歳ほど年長者と見える。こちらもまた、艶やかな金髪と端麗な容姿を纏っており、この光景を女子生徒が見たらさぞ黄色い歓声を上げる事だろう。
しかし両者の間には、女子が狂喜するような熱とは無縁であるばかりか、およそ正反対な空気が漂っていた。
「わざわざ学園にまでご足労いただき、ありがとうございます、ジャレッド殿下」
クリフォードの口から発せられたのは丁寧な言葉だが、字面ほど友好的な口調ではない。
むしろ「何をしに学園まで来たんだ」と詰問しかねない勢いである。
「ご挨拶だな、クリフォード。従兄弟同士、堅苦しい呼び方は止めにしないか」
対する年長の男は、両手を広げてクリフォードに軽口を叩く。
彼の名はジャレッド・オデュッセイア。
クリフォードから見れば、父兄ヴァージルの息子、年長の従兄である。奇しくも生徒会で語られていた、もうひとつのオデュッセイア王家の嫡男であった。
「懐かしいよ、クリフォード。私が在籍していた頃から、学園は変わらないな」
「そうでしょうか?」
「変わったと言えば、下級貴族、さらには平民が幅を利かせているくらいか。上に立ち模範となるべき者の不徳とすべき状況だな」
笑顔のまま、辛辣というには苦味の多い言葉を投げつける。
この台詞からしてジャレッドという男もまた、クリフォードに対して好意を抱いていない証左となろう。
「権力は一部の者の物であるべきだ。選ばれし者の特権だな。それが分からなければ、人の上に立つ資格はない」
ジャレッドがひと講釈垂れ終わると、それを静聴していたクリフォードが、こちらもまた穏やかな笑顔を崩さずに答えた。
「そんな考えをどこかの誰かが植えつけていったせいで、僕が生徒会に入ってから是正するのに大変でしたよ。ようやく悪しき風習を払拭できる希望が見えてきたのですが……まだまだ先は長いですね」
視線が交錯し、見えない火花が二人の間で飛び散る。
しばらく沈黙が流れた後、ジャレッドがふぅと息を吐くと、秀麗だが乾いた笑いを上げた。
「ははは、よそう、よそう。今日は君と学園の在り方を争論するために来たのではないからね」
「そうですね。では用件についてうかがいましょうか」
「門閥貴族たちが動き出している」
「ほう、それは」
クリフォードは笑顔を崩さないまま応じたが、内心で警戒レベルをひとつ上げる。
奇しくもエリーが教えを受けている王家と貴族の関係についてであるが、この件に関しては警戒して損はない。
「何が原因か分かるかい?」
「先の魔獣の洞窟探索でしょうか」
すんなりと答えたクリフォードを見て、ジャレッドが軽くと口笛を吹く。
「さすがだね。その辺の調査は完了しているってわけかい?」
「他にも色々とありますが、門閥貴族たちが最も刺激されるような案件はそれかな、と。大方、失敗に終わると思っていたのでしょう」
この調査には貴族たちが面白くない要素が多分に含まれていた。
まず調査を任命された騎士団二番隊は下級貴族や平民出身者も多く、まさに家柄よりも能力を評価する国王エセルバート・オデュッセイアの言葉を体現する部隊であった事。
さらに派遣される調査団において、構成メンバーの要に平民が据えられていた事。
そして何より、紆余曲折はあったものの、調査自体が成功に終わった事。
(このままでは、下級貴族や平民たちに、今の座を奪われてしまう)
既得権益という名の恩恵にどっぷり漬かってふんぞり返っていた門閥貴族たちや、さらにそのおこぼれに預かっていた者たちが焦るのも無理はない。
「成功したのは何よりだが、勝ち方が良くなかったな。あそこまで結果を出さなくても良かった。あれで大貴族や一番隊の地位が下落し、王家寄りの勢力が台頭したからね」
あの調査の副産物として、一番隊隊長であるイザーク・バッハシュタインが進退伺いを提出し、副隊長のハーマンは逮捕された。これにより伸長を続けた来た一番隊は停滞どころか後退するだろう。副隊長ハーマンの画策に乗って多くの子弟を一番隊に送り込んできた大貴族たちにとっても計算違いだったに違いあるまい。
逆に二番隊の騎士たちは、その面目を大いに施した。参戦した騎士たちは皆、栄誉を賜り、その活躍は庶民たちに今でも語られている。
中でも出色の活躍を見せたのはアーノルド・ウィッシャートである。
数々の魔獣を打ち倒すだけでなく、「参加したものの、役に立たず逃げ惑うばかりだった平民」を保護し、昨今、洞窟付近を通る通行人を悩ませていた元凶を排除した若き英雄。
彼の義姉が皇太子クリフォードの婚約者という出自の良さも相まって、巷では大人気との事だ。
「不思議ですね。ジャレッド殿下の物言いを聞いていると、王族の力が強くなりすぎると困ると言いたげだ。貴方も同じ王族であるのに」
「物事にはバランスが必要だよ。権力の一点集中はいつか歪を生む。ましてや、急速にそれが進むと、反動もまた大きい」
ジャレッドがチン、とティーカップを指で軽く弾き、高い音色を立てさせる。
「君の父上は性急すぎるのだよ。あれでは国を二つに割る」
そう言うと、ジャレットは慌てた素振りで手を振り、打って変わって明るい口調で
「あ!いやいや、国王に対する非難だと聞こえたなら、それは誤解だ。あくまで国を憂慮する一貴族の意見に過ぎない。ただ同じような危惧を抱いている者も大勢いる事を分かって欲しくてね」
と弁明した。
(ふぅん、なるほど。おおかた、門閥貴族連中にせっつかれたという所か)
クリフォードは笑顔を絶やさず、内心である程度、この従兄の訪問理由を察した。
そして同時に、王家サイドに釘を刺しに来たのだろう。
(これ以上、調子に乗るなとでも言いたいのかな。もしくは、この安い挑発に乗って、僕が失言でもするのを期待しているのか……)
ここで「ならば敵対勢力を排除すべし」などと武断政治的な発言をすれば、その事を貴族たちに吹聴し、事を大きくして責任を取らせる腹づもりかも知れない。ならばこちらからの発言は得策ではなかろう。
「いえ、従兄殿のご意見はいつも傾聴に値します。これに対し、どうするのが得策でしょうね」
クリフォードは意見をそのまま打ち返した。無難な意見であれば自分も相槌を打てば良いし、ジャレッドが失言をすれば、その事を突けば良い。また相手が発言を避けるなら、この話題自体をうやむやにして終わらせれば良いのだ。
いずれにせよ、こちらから意見を述べる愚は避けるべきである。
「これは私見だが………」
切り替えされたジャレッドは、意外にも話に応じた。
クリフォードの予想では3番目、「適当に誤魔化す」かなと思っていたので、少々意外であった。
「王家と繋がりの深いウィッシャート家の存在感が増している事が原因の一つだと思う。先の洞窟調査での功績は、現場と実務処理共に抜群だったからさ」
今更、現場での活躍について言及するまでもないだろう。
アーノルド・ウィッシャートの功績に異を唱える者は、彼やウィッシャート家に反感を持つ者ですら認めざるを得ないものであった。
一方でノエリア・ウィッシャートは、現場での混乱や救助活動について、積極的な指揮を執り、これもまた評価されていた。未来の皇妃として何事も評価対象となりがちな立場の彼女は、臆するどころかむしろ卓越した指導力を見せつける格好となり、周囲を実力で黙らせたのである。
元々、大貴族として好む好まざるにかかわらず一目置かれる存在であったウィッシャート家が、文武両面で優秀な後継者を有するとなれば、その実力は頭ひとつ抜きん出たと言って良い。
「そんな大貴族が、王家と蜜月関係を築いているというのだから、心中穏やかじゃないさ」
「そう言われても、力のある貴族と王家が反目し合っている方が不健全な状態ですがね」
「それはそれ、理想としてはそうなんだろうけど、人の心理はそう単純なものじゃない。誰かが力を付け過ぎるのを面白くないと思う人間は一定数いるものさ。その力がいつ、自分たちに降りかかるかと疑念を抱いている人にとっては、なおさらさ」
「それはそうですね。それで、どうすれば王家と貴族の対立を回避できるでしょう?」
「簡単な事さ。ウィッシャート家の恩恵を、貴族側にも与えてやれば良い。そして、幸いにも私は貴族側から信頼されている」
その言葉にクリフォードの目が細く、鋭くなる。看過できぬ事を言い出したぞ、と警戒心を露わにし、冷たい声で釘をさす。
「つまるところ、何らかの権限を委譲して欲しい……という要求ですかね?それは良いとして、ウィッシャート家の恩恵と言う点が理解できません」
「王家とウィッシャート家の深すぎる接点を、貴族側にも分けてあげようという事さ」
貴族側と言えば煙に巻かれる言葉だが、有り体に言えば、ジャレッドへウィッシャート家との縁を割譲せよ、という事だ。
この申し出にクリフォードは、表面的だが繕っていた笑顔を維持する事を止めた。
「王家とウィッシャート家の縁はノエリア・ウィッシャートによって繋がれている。聞きようによっては、彼女を差し出せと言う風にも取れますが」
クリフォードは決して好戦的な人物ではない。
だが不当な要求や扱いに対しては、頑として跳ね除ける強い意思を持ち、時と場合によっては相手を完膚なきまでに叩きのめす事を厭わない。
物腰の柔らかさに誤解を受ける事も多々あるが、優柔不断で相手の言われるがままに流されるような、貧弱なお坊ちゃまではないのだ。
普段からは想像もできないほど、殺気に満ちた圧を受けたジャレッドだったが、こちらも傲岸不遜、両手を広げておどけてみせる。
「おいおい、私はそんな人でなしではないよ。君とノエリア嬢の仲睦まじさは良く知っている。そんな提案をしようものなら、この応接室から生きて出られないであろう事もね」
「ならば義弟の方でしょうか?」
なるほど、アーノルド・ウィッシャートの方が現実的かも知れぬ。
彼には婚約者もいなければ、具体的な婚姻の話も出ていない。強いて言うなら、最近、お気に入りの平民女子と日夜、不埒な行為に励んでいるという醜聞が漏れ聞こえてくるが、そちらは愛人として囲うのであれば障壁として、それほど高い物ではあるまい。
「それも妙手と思ったんだがね。彼は……仮に誰かと結婚したところで、自分の行動規範を変えるような人物とは思えないんだよね」
ジャレッドは苦笑して、アーノルドを評した。
そして彼の考察は、ほぼ正しいとクリフォードも思う。
「確かに……彼は彼以外の何者でもないですからね」
流麗な顔をしておきながら、時折垣間見える頑迷さ。自らの属性である炎のように峻烈・苛烈な意思は一度、剣を捧げた者に対して志を変えることはないだろう。そしてその剣は義姉のノエリアに捧げられた。
つまり貴族派の誰それの娘を嫁にもらおうが、アーノルドがノエリアから離れることはないという事だ。
悪い言い方をすれば、自由にならぬ駒を手に入れた所で何の役にも立たない。むしろ駒を手に入れた方が、駒の持つ轟火に焼かれる可能性の方が高い。
(……この二人を要求しているわけではなさそうだ。だがウィッシャート家の子女は、この二人しかいないはず)
ではどのような縁を望んでいるのか。
従兄の意図が見えなくなったクリフォードの内心を見透かしたように、当のジャレッドが語る。
「もう他に、縁を繋ぐ人はいないじゃないか、と思っているんだろう?そう、確かに後継者として二人以外に子女はいない」
「ええ、何を望んでいるのか、分からなくなりましたよ」
「いないのであれば、作ればいい」
作る?
まさか侯爵とその夫人に、「もっと頑張れ」と下世話な催促でもするつもりか。
まだ言わんとしている事を理解しかねているクリフォードへ笑顔を向けたジャレッドは、種明かしをする奇術師のように大仰な仕草で説明を始めた。
「貴族側としては、片方に傾き過ぎた天秤を平衡にしたい。それならば、相応の人物を引き入れることができたなら、彼らの不安も収まるだろう」
「それは分かります。ですが、そのような人物がウィッシャート家に残っているでしょうか?」
「先の洞窟調査で、真の立役者が他にいただろう?」
「………………」
クリフォードはその言葉に、この日、最大の警戒心を抱く。
「エリー・フォレストとか言ったな。彼女をウィッシャート家の養女として迎え入れ、私が娶るというのはどうだろうか」




