2章第96話 騎士の腕の中で(2)
(ああ、こいつ、重度のシスコン野郎だったわ)
思い出してしまった。
アーノルド・ウィッシャートと言う男の行動原理はすべて、義姉のノエリア・ウィッシャートに帰結する事を。
「義姉さんの為にこの身を捧げると誓った。ただ強くあれと願い、騎士となり、立身出世し、義姉さんの側にいるのに相応しい力を手に入れる。それだけが俺のすべてと信じて邁進して来た」
すごい。何と言うシスコン。
だけどそれが、アーノルドさんの絶大な力を手に入れる原動力だとしたら、もうノエリア様様だ。
あとは無事に帰還すれば、その大半の望みが叶うはず。
どうやって今回の件を説明するかはさておき、嘆きの乙女と首なしの騎士をぶちのめしたか、その辺をぼやかすとしても代わりにミノスの暴牛を討伐した事にすれば、勲功第一は確実だ。
以前、私のせいで参列できなかった王宮での晩餐会。あれを欠席してしまった機会喪失とは、もう比べ物にならないくらいのチャンスを手に入れたなぁ。もはや地位と名声は約束されたようなもんじゃないの。
「―― はずだったんだけどな」
は?
「お前のせいで変わっちまった」
一体全体、アーノルドさんが何を言っているのか理解できなかった。ノエリア・ウィッシャートに仕えるのが至上の喜びであり、この男の存在意義ではなかったのか。
しかも私のせいだとは。はて、私が何をしたのか、皆目見当がつかない。
「剣を振る以外の時間は無駄だと思っていた。早く騎士になり、義姉さんの側に仕えたかった。学園の生徒会活動ですら無駄だと思っていたが、義姉さんやクリフォード様の力になりたい一心で身を投じた。だからかも知れんが、学校の生活が自分の為になるとは思わなかった。せいぜい自分の履歴になる程度だろうと。その証拠に、俺は何の困難も労苦もないまま、1年を過ごせた」
「……存外…嫌な、奴だったんスね……」
「本当にな。でもよ……」
アーノルドさんは苦笑いを浮かべながら、血でカッチカチになった私の髪の毛を撫でた。
「お前のせいで変わったんだ。毎日トラブルは続くし、突拍子もない事故は多発するし、おかげで剣術に割く時間は大幅に減った。多少なりとも学校生活で築いて来たと自負する名声は簡単に吹っ飛ぶわ、ろくでもない噂が流れるわ、破廉恥野郎に見られるようになるわ、マジで一変した」
「あー……」
心当たりがあり過ぎる。
そして、どうした事だろう、アーノルドさんの私を見る目が、慈しみからジト目に変わった気がする。
いかん、あれは殺意だ。自分で語りながら、憤怒の感情に支配されていくという……自分勝手も甚だしいぞ。忘れてりゃあ良い物を、お前が思い出したんだろ!さっきまでの慈悲の心を取り戻して!
「……まぁ」
アーノルドさんはギリギリで理性を取り戻したのか、憤激の表情が幾分、和らいだ。ふぅ、セーフ。ったく、こいつ、感情の起伏が激しすぎんだよ。
「おかげで色んな事に気が付けたけどな」
「ほえ?」
「前より周りの奴らと話す機会も増えた。親しみやすいとか、そんな面白い奴だとは思わなかっただとか言われながらな。授業や訓練以外で雑談をしたり、何もせずに過ごす時間は無駄だと思っていたが、そんな事はなかった。相手の事を知る機会になったり、そこで新しい発見ができたりな」
「あは……そりゃあ…よかった……」
ちったぁ、私が引っ掻き回した時間もお役に立てたようですね。
からかい過ぎて逆鱗に触れちまったアーノルドさんから逃げ回ったり、送迎の馬車の中でくんずほぐれつになって、全校生徒から白い眼で見られたりした日々が糧となっていたとは。
「おまえのおかげだ」
アーノルドさんが、ぐっと抱く力を強める。
おおおお、顔が、吐息が、そして体が密着するっ…!跳ね除けようとしても、四肢に力が入らない。
「ええと、あの、血が……」
とりあえず血が付着するんで離れた方が良いという方向で誤魔化そうとしたが
「気にするな」
の一言と共に、さらに力を込められたので完全に逆効果だった。
どうした、アーノルド。お前、そんな漢気や雰囲気が読めるキャラじゃなかっただろうが。これではただのイケメン野郎じゃねぇか。
私の身体は完全にアーノルドさんの大きな身体に包まれて、何か、こう、もう、色々と駄目だ。頭がくらくらするのは、岩が直撃しただけのせいじゃないな。いかんぞ、顔が上気して上げられない。まともに顔が見られない。
だがアーノルドさんは、そんな私の顎を摘まんで、くいっと上に上げながら、こう言った。
「全部、おまえが教えてくれたんだ」
わざとか? 顎クイっ、からの真っ直ぐな眼差しは眼福というより、致死量だわ。顔を上げられないっつてんのに、無理矢理顔を見られるとか、どんな羞恥プレイだ。茹でられたように真っ赤になってるだろ、絶対。
心臓がやばい。どきどきが止まらない。密着しているから、いつアーノルドさんに知られてしまうか分からない。
もう、アーノルドさんに丸聞こえしてんじゃないかってくらい、びっくりするくらい早く、大きく脈打ってる。
うおお、鎮まれ私の鼓動!こんな事を知られたら、アーノルドさんにドキドキしてるって知られたら、恥ずかしくて、もう生きてはおれんぞ!
「あのさ、エリーさん。アーノルドさんに抱かれて嬉しいのは分かるけど、かなり脈が早いし、血圧も高くなっているから興奮するのもほどほどにしてくれないかしら?」
いいいいいいいい委員長おおおお!? 乙女の秘密をどうしてそう簡単に暴くかなぁ!?
見ろよ、アーノルドさん、「そうなの?」みたいな顔をしてんじゃねぇか!死にたい!顔を隠したいのに、顎クイっとされてるせいで、顔を伏せる事も出来ない!目が泳ぐ!漫画的に言うと、ぐるぐるおめめになってる状態だぞ、これ。
「それで、興奮してるところ悪いんだけど、そんなに脈が早いと止血できないわ。ちょっと心臓止めてもらえる?」
辛辣ぅ!! 委員長、メス丸出しの私にイラついているのが嫌でも分かる。
そんな我々を見かねたアデリナさんが間に入ってきてくれた。救世主!
「そう強く当たるな」
「しかし……」
「発情すれば心拍数も上がる。性的興奮は本能的なものだから、止めるのは難しい」
この女、何を言い出してんだ!!怒りでますます血圧が爆上げだよ!
アーノルドさんが首を傾げて理解できていないっぽいのが、唯一の救いだな!こんな時だけは、アーノルドさんが鈍感愚鈍のアホノルドさんで助かる!
「思えば、私たちと戦っている時も破廉恥な行為に及ぼうとしていたな……」
してねぇよ。何を誤解したらそうなるんだ。想像力が逞しすぎるだろ、このムッツリ怪異め。
「やっぱり……」
あの~、委員長、何がやっぱりなんですかね。そこで納得しないで欲しい。普段、私をどんな目で見ているんだ。
…と、まぁ、そんな会話を耳にしながら、それでも顔はアーノルドさんと正対しているので、一向に心臓の音は鳴り止まない。抱かれて、顔同士が吐息がかかるくらいにまで接近して、平常心でいられるほど私の心は強くないのだよ。
なんか、こう、一歩間違えたら、そのまま百歩くらい間違えそうな、そんな雰囲気が流れている。
くっ、落ち着け私。平常心だ、平常心。
キャロルさんとアデリナさんがいるとは言え、このアホノルドさんは空気が読めないので、どんな所業に走るか分からないのだ。
「この場に我々がいるのも野暮と言うものだ。二人きりにしてやろう」
「そうですね。治療もこの辺で止めておきます」
ちょ、待ってぇええええぇっ!! こんな雰囲気の中で二人っきりにさせないでえぇ!
慌てる私を無視して話が進んでいく。これは本当にまずいぞ。どうにかしてアーノルドさんをギャグ路線に持ってこないと、このまま18禁路線まっしぐらだ。
「あのですね……」
「しゃべるの禁止だっつっただろ」
いきなり説得の手段を封じ込められた。まずい。これからアーノルドさんの独白を聞かされるのだろうか。どうせまた、義姉の話題を持ち出して、私の心は氷点下まで下がるんだろうけれど、それはそれで嫌だなぁ。
たまには、ストレートに私を褒めて欲しい。労わって欲しい。
「エリー」
来たぞ。はてさて、どんな事を言ってくるのか。お手並み拝見と行こうじゃないか。
「また一緒に、学校へ行こうな」
…………。
………それだけ?
あれ、おかしいな。
もう少し場違いな台詞を言ってくれると思ったのに。
「お前が生きて帰らないと、義姉さんに怒られる」とか、サイコパス的な台詞かなと予想していたんですけれど。
それに、何かこう、もっと「愛してる」とか「もう離さない」とか、そんな台詞じゃないんスね。
当たり前すぎて、拍子抜けです。
当たり前すぎる。
そう当たり前すぎて。
もう私には手が届かないものだと思ってました。
(あーあ、我慢していたのにな)
悔しい。
目を見開いたまま、瞳から涙がボロボロ零れて来た。くそ、一度溢れると止まらなくなっちゃうじゃないか。
決壊した涙腺が、いつまでも大量の水を供給し続けるけど、顔を逸らす事ができない。いい加減、アーノルドさん、顎を離してくれないかなぁ。
「………………」
アーノルドさんは何もしゃべらない。そりゃそうだろう。いきなり泣き出した女を、どうすればいいかなんて、この朴念仁が分かるはずもないんだから。
だからアーノルドさんが何も言わずに、指で涙を拭ってくれた行為には、少なからず驚いた。して欲しい行動のひとつに当てはまったから。
この朴念仁にしてはやるな、と憎まれ口のひとつでも叩こうと思い口を開くが、その先が続かない。
体力が限界だった事もあるけれど、私を見つめるアーノルドさんの表情が、これまで見た事もないくらい優しいものだったから。
ずるい。ここ一番で、そんな表情をされたら、二の句が継げなくなるわ。
そう、始まりは通学からだった。
剣を突き付けられ、最悪の好感度からスタートした私たちは、城下町からの馬車通学でご一緒するという摩訶不思議な縁から関係を築いていった。
そこでの他愛もない会話や、悪口を言い合い、やがて学校内でも馬鹿な雑談をして……それから、アーノルドさんは、たまに笑ってくれるようになったんだっけ。
あ~、私が遭難した後、一時期アーノルドさんは私を避けた事もあったなぁ。
あん時の馬車の広さったらなかった。一人きりの馬車が、あんなに寂しいものだとは思わなかったよ。
それから、一緒に馬に乗って下宿先に送ってくれた事もあった。
洞窟探索の指南をしてくれた日もあった。
アーノルドさんの訓練が終わらないから、ずっと訓練場で待っていた事もあったっけ。
ああ、全部、全部、全部、全部、全部。
何もかもが愛おしくて、懐かしくて、楽しい日々で。
嫌だった事もたくさんあったのに、今はもう、楽しかった事しか思い浮かばない。
みんなの笑顔しか思い出せない。
「………た…い」
「エリー、どうした?」
「また……行き……たい………」
ぶわっと涙があふれる。そして、どうしたって、思ってしまう。
こんな所で、死にたくない。
また学校に行って、みんなと馬鹿な事や馬鹿な話題で盛り上がりたい。
もう左腕も、右足も動かないし、検査したらもっと酷い状態かもしれないけれど、それでもみんなと一緒にいたい。
優しい目をして私を見つめているアーノルドさんに、私は涙ながらに訴えた。
「……一緒に……がっ…こ……」
「ああ、一緒に行こう」
その言葉がとても嬉しくて、私は苦痛の中でも「えへへ」と微笑んでしまう。
アーノルドさんも思う所があったのかな。私を抱き締める手に、無言で力を込めた。ますます密着して、もう心臓が早鐘を打っている事なんてバレバレになっちゃったと思うけど、そんなには気にならなかった。
「でも……足……酷い傷跡に……」
「塞がったら見せてみろ。たいした事ないって笑い飛ばしてやるから」
「……もう…歩け…ないかも……」
「心配するな。今みたいに俺が抱えてやる」
アーノルドさんはひとつひとつ、私が懸念している事を打ち消してくれた。
そんな彼に、私は一番、心配している想いを、珍しく素直に伝えてみた。
「……強く、抱き締めて、ください……私が、消えないように」
これまで散々、鼓動とかどうこう言ってきたけど……もっと強く抱いて欲しかった。このままだと寒さで私の命が掻き消えてしまいそうだったから。
そんな私の我儘に、アーノルドさんは精一杯応えてくれた。
強く抱き締めてくれただけでなく、接近した顔同士を寄せて、頬擦りまでしてくれたのだから。
「あー……」
顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、たぶん、私は笑っていた。
アーノルドさんの唇が、おでこ、それだけでなく頬、それに首筋(!)にまで触れたけれど、全然気にならない。
多分、鼻水とかぐしゅぐしゅしていたと思うんで、汚いとか思われてないかなとか、それだけちょっと気になったけど、それも労わるように髪を梳いてくれたら気持ちよくで忘れてしまった。
私はどうにかして恐怖心から逃れようと、もう子犬のように甘えて、甘えて、顔をうずめたり、頬を寄せたりしていたが、やがてそんなネガティブな気持ちは抱擁の中で薄れていく。
ごめんなさい、アーノルドさん。
そんな心配そうな顔で見てくれているけれど、告白します。
全身血だらけだし、涙も鼻水もボロボロ流して、とてもそうには見えないと思うけど。
私は今、すっごく幸せな気持ちです。
徐々に瞼が閉じていき視界が狭くなっていく。しゃべりたくても、もう声も出ない。
ああ、目も口も半開きで、とても情けない顔をしているんだろうな。
ゆっくりとアーノルドさんの顔が近付いてくる。
ええ、私だって雰囲気くらい読みますよ。目を閉じて、何も言わずに、その時を待ちます。
―― 私の唇に、アーノルドさんの唇が重なる時を。
◇◇◇
白い天井。
清潔なベッド。
全身にはぐるぐる巻きの包帯。
私の欲しかったものが、ここにはすべて完備されていた。
(……天井が白いなぁ)
私は呆然と、そんな事を思っていた。左の視界がないのは、頭と顔の左側を包帯で巻かれているからだろう。
(だるい)
身体を動かすのが億劫……というよりも、ちょっと体を捻るだけで全身に激痛が走るのが分かっているので、容易に動かせない。
いや、待て待て待て、何か大事な事を忘れているような気がする。
思い出せ、思い出すんだ私。直前までの光景を思い出せ。
そうだ、私はアーノルドさんと抱擁して、抱き合って、そして唇と唇を………
唇を………?
………………。
………………………………。
あれ? おかしいぞ。
この後、最高の思い出がやってくるはずなのに、真っ暗だ。
アーノルドさんを見つめて、目を閉じて、あとは唇同士が……………
「あっっれええええええええええええええええ!!!???」
思わず叫んでしまった。
ない! 思い出がない!! 全然、思い出せない!?
目を閉じて、それからの記憶がない!!
「あれええええええええええええええええ!!??」
もう一度叫んだ。そして記憶を何度も何度も辿った。
だがそこに、私とアーノルドさんのちゅっちゅシーンは、一瞬たりとも思い出せなかった。
考えられる事はただひとつ。
私は、千載一遇というか、もしかしたらやっちまってるかも知んない貴重な貴重な場面で、目を閉じて……
そのまま寝た。




