2章第66話 高揚
嘆きの乙女、いやアデリナ・パラッシュは夢見心地であった。
失ったと思っていた、すでに手から零れ落ちていたと諦めていた願いが、今まさに目の前に存在していた。
自分を護るように立っている首のない騎士。彼が纏う古びた銀の甲冑は、対峙する赤毛の騎士の軽装な鎧とは違うが意匠は類似している。それは間違いなくイシュメイル王国騎士団の鎧。
そして首は存在しないが、確かにこの騎士をアデリナは知っていた。
その名はハロルド・マクニール。アデリナを護り散って行った同僚の騎士。
洞窟の奥深くで、ようやく理解し合えたかと思った途端に未来永劫の別れを余儀なくされた友。
結果、アデリナは幾度となくやり直したい、もう一度だけ遭えたらと願い続け、怪異にまで堕ちてしまった。
その男が、自分が討伐される直前に現れ、身を呈して護ってくれた。
(なるほどな)
今なら目の前の娘の気持ちが分かる。どうして心身ともに限界を超えているにも関わらず立ち上がれるのか分かる。胸中に想い描いていた相手が、自分の窮地に颯爽と現れてくれた。これで心が震えぬはずがないではないか。
それだけで嘆きの乙女は、これまでの苦難が報われた気がした。自然と口端が上がってしまうのを自覚しながら、それを止めようとはしなかった。
(やれやれ、なにが嘆きの乙女だ。これでは嘆きの乙女ではなく、微笑の乙女ではないか)
心が高揚しているのが分かる。死んだはずの自分の胸が、これほどまでに躍るとは思わなかった。胸の前で腕を交差し両手の指から糸のように影を繰り出す。鞭のようにしなった影が、嘆きの乙女の心中を反映したように躍る。その影の1本は首なしの騎士を支援し、別の1本はエリーに襲い掛かり、また違う1本はアーノルドへと向かう。変化自在、自由自在に伸縮する影は眼前の敵を圧倒し、反撃を許さない。一方で嘆きの乙女の口から称賛が漏れる。
『やるな、ハロルド。研鑽は怠っていなかったと見える!』
はっ、と一笑した表情や口調は、すでに嘆きの乙女ではなく、アデリナのそれであった。首なしの騎士となったハロルドの表情は分からないが、もし顔が存在していたら、きっと笑い返しただろう。
首なしの騎士の鎧は傷つき、ところどころ凹んでいる。大きな欠損こそないが、斬撃や打撃、噛みつきを受けたであろう跡が無数にある。いくら怪異であるとはいえ、深層で生き延びるためには戦いは避けて通れない事は誰の目にも明らかで、どれほどの激闘を潜り抜けてきたのかは、その傷のひとつひとつが雄弁に物語っていた。
もちろんアデリナ=嘆きの乙女とて同じ事。一度死んで、なお死と隣り合わせの時を経て、巡り合えた奇跡を思うと、自然と笑みのひとつ浮かぼうというものだ。
ブンっ!!!
首なしの騎士の剛剣がアーノルドの剣と交差し、火花を散らす。アーノルドはエリーを小脇に抱えながら、どうにかその剣を受け止めると二、三歩後退して態勢を整える。元いた地面に影の襲撃が突き刺さり、後退が遅ければ串刺しになっていた事を示す。
『アアアアアアアア!!!!』
その攻勢は途切れず、【死の詩】が二人に襲い掛かり、エリーの障壁がかろうじて防ぐ。本当なら歩く事すらままならないくせに厄介な魔法を駆使するエリーを真っ先に倒したいところだが、アーノルドが運搬(彼女を積み荷のように扱うのであえてそう表現しよう)する事で機動力を補いながらギリギリでしのいでいる。
(しかし見事な斬撃だ)
かつてのハロルドとは見違える。仮に首なしの騎士に堕ちた事が身体能力を引き出したとしても、その剣技はハロルドのもの。それが戦いの中で鍛え上げられ磨かれて、見違えるような強さを……容易に人が到達できぬほどの域に達していた。いや、それ以上に………
『お前も高揚しているのか』
首なしの騎士……いや、ハロルドが一瞬振り返った後、さらに剣圧が増したところを見ると、外れではないようだ。もしかしたら自分よりも高揚しているのではないかと思う。
(逢いたかったのは、私だけではなかったという事か)
それはそうだ、どうしてそこに思い至らなかったのだろう。あんな別れ方をしたのだ、自分が逢いたいと思う以上に、相手も逢いたかったのだ……と思うのは自惚れだろうか。
(もう逃れられんぞ)
今日という日は、何と素晴らしい日なのだろうか。ずっと願っていた邂逅と共闘が叶った日。死んでも手に入れたかった望みが、同時に叶った日。どうして私たちが負けることがあるだろう。
さすがの騎士も後退を余儀なくされ「まったく厄介な連中だ」と口走っている。娘と口論をしているようだが、それもやむを得ないだろう。おそらく反撃の糸口がつかめずに四苦八苦しているのだ。ならばいっそ、すぐに楽にしてやるのも慈悲かも知れない。
……と、とどめを刺すべく態勢を整えていた時、凄まじい横薙ぎが襲い掛かる。信じられない速度と、娘ごと斬り伏せんとする角度からの一撃は、完全に死角からの攻撃となって私を両断しようとしていた。
(不覚!)
攻撃動作に入っていたので、回避しようがない。もしハロルドが間に入って剣で受け止めてくれなかったら、胴体から真っ二つになっていたはずだ。ハロルドに口があったら生前のように「油断するなよ」と苦言を呈されていたに違いない。
剣と剣がぶつかった衝撃は完全に受け止める事はできず、ハロルドが背後に吹き飛ぶ。一方で騎士はというと、あの衝撃にも関わらずその場から一歩も動いていない。どんな体幹してんだ、この騎士は。私たち以上の化け物か。
『……………こいツ…っ』
『…………………!!』
警戒を一気に高める。こいつは死に体でもなければ、慈悲を与えるような生易しい相手ではなかった。最後の最後まで気を抜く事が出来ない強敵。たったの一発で、それを痛感させられた。
だが私が、いやハロルドと共に私たちが驚愕したのは、その後の娘とのやりとりだった。
「あれ、頼むぜ」
騎士が娘に何かを要求した。それに対して娘は、あろう事か卑猥なジェスチャー……シュッシュッ、と手で、こう、棒状のモノをしごく仕草をした。私はすぐに分かった。アレだ。つまり、手で性欲を発散させるアレだ。ええい、つまり、その、手淫だ…!この二人、戦場において性欲の発散方法について話し合っているのだ。だが、話はそこで終わらなかった。
「それは終わった後でいいだろ!」
騎士が叫ぶ。手淫は事後の処理というのか。最後まで一滴残らず搾り取れ、と……。どこまでも貪欲すぎる騎士に、私は頭がクラクラした。これでは娘も怒るだろうと思いきや…
「ちゃんと口でイッてくださいよ!」
………口淫で絶頂しろと要望している。思い出した。この二人は変態だった。この洞窟にいる誰よりも、どの魔物たちよりも淫猥で恥知らず……いや、少なくとも騎士の方は、恥すら嗜好の一部に取り入れてしまうような性癖倒錯者だった。娘は若干、騎士よりもマシかと思っていたが、どうやら間違いだったようだ。どっちもどっちで、おぞましい。私たちは何を見せつけられているのだろうか。
『………………』
絶句している私を、首なしの騎士がじっと見ているのに気が付く。どうやら二人に対して私と同じ感想を抱いているようだが、沈黙した事についてどう思われただろう。もしかして興味を持ってしまったとか思われたのではないか。違う、違うぞ、あんな連中と私を一緒にしないでもらいたい!
『……………………』
視線と沈黙が痛い。何かしゃべってくれ。ああ、口がないからしゃべれないのか。いかん、変な汗が出て来る。顔が紅潮し、まともに顔が見られない…!そういえば怪異同士は、そうした営みは可能なのだろうか……?女淫魔なんかは男の性を搾り取るため、そういう行為をするというが……生前、そうした行為を経験した事がない私には難易度が高すぎる。良く考えたら、私が生前に経験しなかったあんな事やこんな事を、この二人はすでに行っていて、それに飽いてさらに過激な行為に手を染めているのだな。そういう意味では先達と言えるだろう。
『…………………………………』
なぜかハロルドから呆れたような波長を感じる。相手に呆れているのか、私に対してなのかは分からないが、まぁ、私と言う事はないだろう。きっと眼前の二人が性行為について相談している厚顔無恥さに呆れ果てたに違いない。いや、もしかしたら「アデリナもそういう事に興味があるのか」と思われているのか……?
『違うぞ、誤解するな!』
なぜか私はする必要のない言い訳を始めてしまった。それを受けたハロルドは、さらに呆れた波長を発し出したので、これはもう、誤解を解かねばならんと思い、言葉を尽くして私がいかに清廉潔白で純粋無垢である事を説明してやった。その一方で、ハロルドの態度が一向に改まった様子がないので、成功したかは分からない。こいつ、顔がなくなったせいで全然心情が読めなくなったな。
そして、そんな事をしていたせいで、娘から騎士へ神聖魔法の付与が行われてしまった。それだけは阻止せねばならなかったのに。くそ、卑怯者め。お前たちのせいで、こんな事になったというのに。
「とっとと終わらせて下さいよ」
「そうしよう」
普通のやり取りのようだが、きっとあれは戦いの後の性行為の話をしているに違いない。さっさと終わらせて二人してくんずほぐれつの姦淫に耽りたいのだ。間違いない。
『行くぞ、ハロルド』
『………………』
なぜかハロルドからは先程までの迸る闘気とは別に「なんだかなぁ」みたいな空気を感じるが、まぁいい。二人の力を合わせれば……
『『………………………!!!!』』
次の瞬間、凄まじい炎が立ち昇り、熱で頬が焼ける。洞窟の暗闇に眩いばかりの紅蓮の炎が出現すると、その塊が襲い掛かってくる。斬撃に次ぐ斬撃が私たちに向けられ、それを回避するのに全神経を集中しなければならない。何せ神聖魔法を付与された炎の斬撃だ。ただでさえ強力無比な攻撃が強化され、直撃されれば消滅必至だろう。弱点である娘を狙うも、騎士はそれを受け止めるだけでなく、抱きかかえながら飛翔して攻撃を続けてくる。何と言う身体能力だろう。
(化け物か!)
そう思った私の脳裏に、ある考えが浮かぶ。そしてそれは、騎士の眼を見て確信に変わる。
鋭い眼光、爛々と輝く闘志、その表情はどこか笑みを浮かべている。
戦いを前にして心躍る人種を何度か目にして、この騎士もその類であろう事は疑いないが、それ以上に感じるのは「喜び」。ああ、そうか、そうなのだな。この騎士も、私たちと同じだった。いや、私たち以上かも知れない。
(高揚していやがる)
逢いたくて逢いたくて、もしかしたらもう二度と逢えないかも知れないと絶望して。後悔と懺悔に打ちのめされる中、それでも足掻き、彷徨って。その先に、遂に焦がれていた相手と邂逅を果たした。これで高揚しないはずがないのだ。
思えばおかしかった。いくら優秀な身体能力を誇っていても、片手で人一人を抱えて飛んだり跳ねたりできるはずがない。重傷者を抱きかかえて、片手で度重なる攻撃を受け止められる腕力は、普通ではない。普段からそんな動きを訓練しているはずがない。
だが人は気分が高揚すると信じ難い力を発揮する事がある。脳が制御を解放して恐るべき力を発現させる時がある。つまり………
(この騎士、この場にいる誰よりも気分上々じゃないの)
娘と軽口を叩き合い、澄ましたな顔をしていながら内心はマグマのように煮えたぎった決意が秘められていた。立ち昇る炎は魔法の力だけではあるまい。騎士自身から発せられる闘気が揺らめいていた。
娘を抱きかかえるというよりも抱き締めながら、もう離すまいという強すぎる決意を全身から発する姿は、さながら姫を護る白馬の王子。
「退くなら、止めはしねぇぜ」
騎士がじり、と剣を構えて前進してくる。その剣先が、チラチラと揺れて二人を常に捉え続けて隙を見せない。その圧力と並んで、胸に抱かれている娘が「はわぁ」とか乙女の顔をしながら顔を真っ赤にしているのがアホらしくて集中の邪魔をしてくるのは作戦なのだろうか。
「俺はこいつを、もう離さない」
そう勢いよく騎士が宣言する。そして確信した。こいつ、テンションが上がり過ぎておかしくなっている。たぶん、冷静になったら身悶えするやつだ。今は気が付いていないが、きっと黒歴史になる。娘は娘で目をキラキラさせて感極まっている。手の自由が利いていたら、拍手していただろう。頭を胸にすりすりと押し付けてご満悦だ。イラっとしたので怒りに任せて意思を投げつけてやった。簡単に防がれたが、それをネタに
「大丈夫か?」
「………うん」
とか、クソみたいなやり取りを始めやがった。もう一発、投げつけてやろうかと思ったが、ハロルドに羽交い絞めにされて止められた。
「いくぜ。準備は良いかい?」
散々、イチャついた後に騎士が格好をつけて言い放った。こっちはずっと準備は出来ているんだが。お前たちが勝手にイチャついて、こっちは待ってやったくらいなのだが、なぜ恩着せがましい事をドヤ顔で言われなくてはならないのか。娘は娘でうんうんと頷いているし。張本人が頷いてんじゃないわよ。ああ、こんな事ならいたぶるんじゃなくて、一思いに殺してやれば良かった…!
「………………」
「………………………」
「………………………………」
「…………はぅ」
3人の視線が交差する(1人は味方に視線を注いで相手が眼中に入っていないので除外)。
―― そして次の瞬間、4つの影が飛び跳ね、交差した。




