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2章第60話 咆哮

アーノルドは嘆きの乙女(バンシー)に剣を向けながら、内心感謝していた。


(危なかった)


ギリギリだった。完全に魅了(チャーム)にかかっていた。あと数秒、いや1秒、嘆きの乙女(バンシー)からの攻撃が遅かったら、完全に手遅れ、アウト、要救護者に欲情した背徳的な騎士(インモラル・ナイト)として後ろ指を指されていただろう。


(本当にギリギリだったぜ。ちょっとでも遅れていたら……)


いや、それはそれで良かったのか? ……………待て待て、変な事を考えるな。考えている時点でまだ俺は魅惑の魔法に囚われているに違いない。ウオオ、醒めろ、俺の理性よ!先ほどお前らを総動員して煩悩を振り切ったじゃないか。なに?直接のきっかけは嘆きの乙女(バンシー)の攻撃だと?……それはまずいな。また攻撃してもらわないと困る。


「やれやれ、せっかく良い所だったのに、邪魔するなんて野暮じゃないか」


超かっこいい台詞を吐いてみる。どうだ、余裕がある感じだろ?どうやらこの挑発は成功したらしく嘆きの乙女(バンシー)が絶句している。その一方で護っているはずのエリーの方から、何やら憤怒の気配を感じるが勘違いだろう。守っている対象から憎悪の感情をぶつけられる心当たりがない。しかもギリギリではあったが、紳士としての理性を保ちきったのだ。もしかしたら尊敬の眼差しを向けているのかも知れないな。

それにしても発情とは、人をまるで動物のように言ってくれるじゃないか。いったい、どこの誰が発情したというのだ。思い返してみても………


(口喧嘩で勝てなくても、塞ぐ事くらいは出来るんじゃないですか?)


駄目だ、思い返したら煩悩が甦ってしまう。あれは、どういう意味だったんだろうか。俺はてっきり、その、あれだ、良い雰囲気の流れからして、あれだと思い込んでしまったのだが、間違えていたのかも知れない。危なかった。間違えていたら、もう明日と言わず、次の瞬間からどう接して良いのか分からなくなる。しかし、あんな顔で、あんな仕草をされたら誰だって勘違いするだろ!指で唇を示された上に、火照った顔で……


(私を、黙らせて下さい)


とか言いながら、舌なめずりなんかされたら、男なら誰だって好意を持っていると勘違いしちゃうだろうが!まるで誘うような、蠱惑的な仕草と声は女淫魔(サキュバス)を想起させた。目の前の怪異なんかより、よっぽど手強い。

……待てよ、そう考えると、嘆きの乙女(バンシー)が俺たちを見て「こいつら発情してやがる」と勘違いするのも無理はないな。すまん、嘆きの乙女(バンシー)。お前のツッコミは正しかったかも知れん。

俺の内心の謝罪など聞こえるはずもなく、嘆きの乙女(バンシー)はジリジリと間合いを取る。近距離戦なら明らかに俺の方に分があるので、遠目の間合いで戦いたいのだろう。良い戦法だ。こっちはエリーを抱えて機動力がない。遠距離まで離れることができれば、【死の歌声】で一方的に攻撃する事ができるだろう。俺とエリーが話している間にも間合いを取る事はできたはずだが……知性がある怪異はなかなか正々堂々としたものだ。


「……………っと!」


そう思っていたら、嘆きの乙女(バンシー)の影が数本、伸びてきて襲い掛かってくる。もちろん陽動である事はお見通しだ。不規則な動きだが、よく目を凝らせばたいした脅威ではない。エリーを抱えながら斬撃を放ち、一気に間合いを詰めて……


「………………!!」

「ちっ…!」


炎を帯びた剣で薙ぎ払うが、さすがに嘆きの乙女(バンシー)、身軽にかわされた。意外と厄介な相手だな。


「だが」


俺はにぃ、と笑ってやる。厄介なだけだ。勝てない相手ではない。その笑みの意味を相手も悟ったのだろう、顔色がさっと変わる。幸い、エリーが前に付与してくれた加護も続いている(どれだけ長持ちするんだ。信じられない魔力量だ)。これに重ね掛けをすれば、相手を圧倒する事も可能だが、今のエリーの状態次第だな。


「いけるか、エリー」


俺は気合を入れ直し、問いかける。エリーを抱きかかえる腕に自然と力がこもり、今ならばどんな相手でも倒せそうなする気概が溢れ出すのを感じる。

さて、そろそろ決着をつけようじゃないか。


◇◇◇


(何だ、この茶番ハ)


苛立った。一体、何を見せつけられているのか。

これも罠かも知れないと警戒した。調査隊のうち、この男が一人で派遣された事を鑑みて、単騎の戦力としては最強に近い者が派遣されて来たであろう事は容易に察しがついた。

最大限の警戒をして、様子を見守っていたら………イチャつき出した。

最初は口喧嘩だと思った。こんな状況で余裕だな、と苛立ちはせず、むしろ感心をした。そもそもこの女の異常性から考えれば。自分の命がかかっているのに、平気でその命を放り出すような事を考える異常な精神性を考えれば。そして言葉の端々から感じた、偽悪趣味的な性格を考慮すれば。たったさっきまで、自分を拷問していた怨敵の前で救出に来た相手に悪態をつくという異常な行動も説明がつく。

ところがどうだろう、口喧嘩がひと段落して泣き出しかと思うと、突然目の前の騎士を誘惑し始めた。


【ハ?】


抱きつき、指で唇をなぞった挙句、舌をチロチロと出して挑発しながら、自分を黙らせたいのなら、お前の唇で自分の唇を塞げと言い出した。破廉恥すぎる。人前でねだる行為ではない。すでに私は人ではないけれど。こんな事なら爪を剥いだ時に、一緒に歯を全部ひっこ抜いておけば良かった。

あの言動からして救出に来た騎士は、この娘と縁浅からぬ仲なのだろう。いや、恋人同士にしか見えない。その証拠に、あの騎士もまた娘の言葉に応じて、その、接吻をせんと顔を近づけているではないか。おそらく普段から、ああいう行為をしているのだろう。騎士の倫理観、道徳性も地に堕ちたものだ。ああ、やだやだ。ふしだら過ぎる。

………しまった、この瞬間にも距離を取っておけば、戦闘に有利になるというのに、思わず見入ってしまった。この距離で戦うのは得策ではない。装備からして、おそらくあの騎士は近接戦闘を得意としているのだろう。すぐにこの場を離れて、あの騎士の射程から離れなければ……


「エリー」

「先輩……」


「……………。」


しまった。


そう思った時は遅かった。何たる不覚、二人の甘い囁きが聞こえた瞬間、反射的に影を投げつけてしまったのだ。しかもかなり乱暴に、感情に任せて。当たり前だが戦略性のない攻撃は、あの騎士にとっては何の脅威にもならず簡単に塞がれてしまった。だがそれでも。どうしても言いたい事があった。


『こんな場所デ発情してンじゃないわよ』


よし、言ってやった。この馬鹿どもが。どういう了見でそんな行為に及ぶのか。下手すればそのまま、アレを致す流れですらあった。アレといえば、アレよ。言わなくても分かるでしょう。あの女の異常性から考えれば、血塗れになろうが己の欲望のままに振る舞ったっておかしくはない。その証拠に、完全にメス顔になってるじゃないの。盛りのついた淫蕩な雌犬め。


「やれやれ、せっかく良い所だったのに、邪魔するなんて野暮じゃないか」


私は絶句した。

ハ? ナニヲイッテンダコイツ。

そうか、男の方もそのつもりだったか。男女してイカれてる。まさか私に男女の営みまで見せつけるつもりだったとは。少なくとも私が騎士団に所属していた時、アデリナ・パラッシュだった頃の騎士団に、こんな変態は所属していなかった。もう二の句が継げない。性癖が倒錯している。仮にも敵前で、怪異と対峙しているその前で、性行為を行うつもりだったのだ、この騎士は。

よく見ると、背後にいる娘が憤怒の表情をしている。しかも私にではなく、どことなく騎士にその怒りが向いているようだ。

………もしかして娘は、そこまでするつもりはなかった…?


(つまりこの場にいる最大の変態は………あの騎士という事か)


見目は良いのに残念だ。しかしこの場にいる三名のうち、怪異である私がもっとも常識人と言うのはどういう事だ。私は地上に戻るのを渇望していたが、もしかして戻らない方が良いのだろうか。


「…………………。」


そうしている間にも、男はぼーっと何かを夢想している。おそらく、私が攻撃しなかった時の事をイメージしているのだろう。あのまま顔を近づけ、二人の唇が重なり合って………


「……………っと!」


騎士が小さく声を上げる。くっ、またしても感情に任せて影を発動させてしまった。本来ならば、遠距離から【歌】を聴かせてやれば有利に事は進められたというのに、完全に気を逸した。そして次の瞬間、一気に間合いが詰められ、横殴りに剣が振るわれる。


「………………!!」


速い。剣速もそうだが、間合いを詰める速度が尋常ではない。踏み込みも身のこなしも、信じがたい速度で放たれる。もう一歩、距離が近かったらかわせたかどうか。どうにか飛びずさって一撃を回避し、改めて間合いを測り直す。だが、警告にはなっただろう。あのふしだらで、淫蕩な騎士とて表情を変えているはずだ。


………ニヤニヤしている。


今日は何と言う日だろうか、信じ難い変態を目撃した日として、私の脳裏には永遠に刻み付けられるだろう。こいつは私との戦いの先に待つご褒美に興奮を隠しきれていない。もしかして私の死体を眺めながら行為をするつもりだろうか。狂っている。とてもついていけない。勝利の余韻と性欲を同時に満たそうというのだ。どちらも心地よく、征服欲を満たしてくれるのだろう。


「イケるか、エリー」


とうとう白状した。戦いの中で絶頂を要求する変態だ。嘆きの乙女(バンシー)に堕ちたとて、ここまで堕落したつもりはない。

私は勝たなくてはいけない。この魔獣の洞窟に生息する魔獣たち、私の【歌】によく応えてくれたモノどもの屍の先が、変態の凱歌であって良いはずがない。魂が汚されるくらいなら、淫蕩な騎士の性的欲求の捌け口になるくらいならば、ここで我らは玉砕して果てるべきではないだろうか。

周囲で怯んでいた魔獣たちが、私と同じ意思を示す。


【世界の為に、この変態を倒さなくてはならない】


その通りだ。我ら魔に属するモノとて誇りや意地、矜持がある。我らの棲むこの世界を護らなくてはならない。これまでいがみ合い、こたびの協調とて半ば無理矢理、不承不承に成立していた異種族たちが同じ意思で立ち上がり、騎士の前に居並ぶ。

戦いを前に、私は鬨の声を上げる。


『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!』


洞窟が揺れ、戦いの鐘が鳴る。


騎士が剣を構え直し、好戦的な瞳を向けてくる。戦意が充満し、誰もが咆哮を上げた。


―― だが私はまだ気が付いていなかった。

この場に、誰よりも凄まじい戦意を抱く者が私たちの他にいた事を。


◇◇◇


(凄まじい)


アーノルドは思わず呟いた。

異種族の魔物が居並び、嘆きの乙女(バンシー)を中心に戦闘態勢を取る。その光景は壮観ですらあった。一糸乱れぬ統率は、魔物たちの意思統一が成されている証左であった。


(やるな、嘆きの乙女(バンシー)。見事な統率力だ)


アーノルドは、知性のある魔物が、かくも厄介な存在である事を痛感する。強い敵意と同時に、意思を感じる。護るべきものがあるという強い意思を。


『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!』


嘆きの乙女(バンシー)の咆哮を嚆矢として、魔獣たちが雄たけびを上げていく。洞窟が揺れ、戦意が充満していく。アーノルドは経験上、ここで気圧される事が死へ直結する事を十分に熟知している。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


裂帛の気合を放ち、剣が燃え上がる。若干、噛みあわない闘志が燃え盛る中、両者の緊張がまさに臨界点へ達する瞬間だった。


「ア゛あ゛ア゛ア゛ア゛亜゛あ゛阿゛あ゛あ゛あ゛唖゛!!!!!」


切り裂くような咆哮が響き渡る。それは怒りの塊、憤怒の溶岩ともいうべき、魂の叫びであった。


「「!?」」


アーノルドと嘆きの乙女(バンシー)が同時に目を見開き、とある少女へ視線を向ける。咆哮の主、エリー・フォレストへ。


「ぬ゛ぐがああああああああ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」


再び吠えるエリー。アーノルドと嘆きの乙女(バンシー)は思う。


((凄まじい))


アーノルドは感嘆し、感情を揺さぶられた。


(エリーの奴、やる気じゃねぇか)


ともすれば、逃げ出しそうになる状況で、半死半生の身体を奮い立たせて叫ぶ。凄まじい気合だ。これは俺も負けていられないな、と。


そして嘆きの乙女(バンシー)は恐怖に怯んだ。


(あの娘、血の涙を流している)


凄まじい敵意をぶつけられる。以前、自分がぶつけた敵意・殺意を塗りつぶさんばかりの圧倒的な憤怒の感情。先ほど雌のような顔で惚気ていた腑抜けな姿はどこにもない。血涙を隠そうともせずに唸り声を上げる姿は、まさに(けだもの)。もしかして自分は謀られたのだろうか。ずっとこの牙を隠し持っていたのか。ああ、油断ならない。平気で自分を投げ出せるような精神をもった娘だ。まだ何を企てているのか知れたものではない。怯む心を立て直しながら、嘆きの乙女(バンシー)は身構えた。


そしてエリーは想う。血の涙を流しながら、痛切に想う。


(ざっけんなあああああああああ!!!もう少しだったのに、もう少しだったのに、この野郎!!)


声なき声で叫んだ。


(もうアーノルドさんがあそこまで空気を読むことはねぇぞ!!二度とないかも!!それを!!あんなギリギリで邪魔しやがって!!千載一遇のチャンスがあああああ!!)


足が痛くて地団駄こそ踏めないが、代わりに思いっきり睨みつける。その怒りの視線はアーノルドにも向けられた。


(アーノルドさんもアーノルドさんだよ!!ヘタれてんじゃねぇよ!!もうちっとだったじゃん!影を払いのけた後、続けてくれても良かったじゃん!!それをなんだ、もうすでに私の事なんて頭にねぇだろ!嘆きの乙女(バンシー)とのタイマンに心躍ってんじゃねぇかよ!許すまじ!!この場にいる全員、許すまじ!!)


エリーは再び絶叫する。その様子は某汎用人型決戦兵器。ここにいる誰よりもド迫力の叫び声は大気を震わせ、髪の毛を逆立たせながらこの場の全てをを呪い倒す。その迫力に背中を押されたアーノルドが「俺も負けてられないぜ」と笑顔で親指を立てると、ますますエリーは猛り狂った。


(てめ゛ぇえ゛え゛ええええあああああ!!)


というエリーの声は、きっと彼には届いていない。

そしてこの場にいる、三人の知性ある者たちが互いに戦闘態勢を整えて対峙し合う。


「覚悟しな、嘆きの乙女(バンシー)!!」


「お前たチは、倒さなくてハいけない存在だ」


「ヴぶぁあああアアアあああ!!!」


約一名、あまり知性を感じさせない叫びをあげる中、剣と魔法と影がぶつかり合う。


―― こうして最後の戦いは、あまり劇的でもない形でズルズルと幕を開けたのである。


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