2章第56話 時間との勝負
エリーは暗闇から浮かび上がるような感覚で目が覚めた。同時に全身を貫くような痛みが走ると
「いぎひっ!?」
と変な声を出してしまう。
「目ガ覚めた?」
同時に耳に入ってくる女の声。顔を覗き込むようにしてくる視線は暗く不気味であった。
(あー、ずっと目が覚めなきゃよかったのに)
ぼんやりとそう思う中、左腕を捻られると、薄ぼんやりとした意識が無理矢理覚醒させられる。
「あっ、いいいいっっ!」
痛いとすら、まともに言えない。ただただ、全身がきしむように痛くて、それだけでまた意識が吹っ飛びそうだ。しかしそれでも失神する事ができない。激痛で覚醒と失神が繰り返され、目の前がチカチカしてくる。
「可愛く歪ム顔が見えなくて、残念だワ」
嘆きの乙女=アデリナがウフフと笑う。何がウフフだ、性根の悪い、とエリーは思う。お前が散々、頭を岩に叩きつけたから、額がぱっくりと割れて顔面血だらけなんだろうが。マジで頭蓋骨砕けたんじゃないかってくらいにぶつけられたせいで、髪の毛まで真っ赤に染まってんじゃねぇか。
「マだ目が死んデないわね」
はああ?何言ってんだ、こいつ。死んでるよ、ほら、もう死んだ魚の目みたいになってるって。いでででででっ!!左腕を吊り上げるな!しかも反対側に捻りながら吊り上げたら………
「いぎゃあああああああああああああ!!!!」
ぶちぶちというか、ぼきぼきというか、異音を鳴り響かせて左腕が無理矢理伸ばされる。自重で肩に負荷がかかれば、何かやばい感じに皮の下で骨が動いている。どうなってんだ、私の肩。もうぐちゃぐちゃだな。治癒魔法でも治るの、これ………?イヴェットさんの月魔法が大僧侶クラスの力を持っている事を祈るしかない。
ぶんっ!!
今度はそのまま放り投げられると、10mくらいすっ飛んだ挙句に近くの岩壁に激突させられた。思くそ、背中から叩きつけられると、一瞬、呼吸が止まる。
「かっ……はっ……」
口から空気が漏れる。そして岩壁の欠片と共に、今度は地面に盛大に叩きつけられた。壁に地面に忙しいなぁ、もう。これ以上、痛めつけても、もう何も反応できんぞ。そんな私に嘆きの乙女はゆっくりと近付いてくると、手を振り上げて………
ざくっ………
尖ってナイフ状になった石を、こちらもまぁ、ズタズタの右足の太ももに、思いっきり突き立てた。しかもそのまま、ぐりぐりと回転させながら奥まで突っ込んでくる。最初何が起きたか分からなかった私だったが、次第に痛覚と一緒に事実を把握すると、もう何も反応できんぞ、と思ったのを簡単に反故にして絶叫を上げた。
「あらアラ、まだ元気じゃないノ」
楽しそうに右足をえぐってくる嘆きの乙女。いい性格してんな、こいつ。血が噴水のように吹き出して、のたうち回る私の足を、ザックザックと切り刻むというか、穴だらけにしていく。
うーん、マジでこれ、死ぬかも知れん。
◇◇◇
「もう少しシンプルな話だと思っていたのだがな」
生徒会室で報告書を読んでいるのはクリフォード・オデュッセイア。皇太子にして生徒会長を務める金髪の美男子である。
報告書を共に目を通していたのは婚約者であり、生徒会副会長を務めるノエリア・ウィッシャート。こちらも漆黒の髪と瞳、陶磁器のような肌を持つ美女であった。
その二人の表情が暗いのは、間違いなく報告書の内容であろう。苦い味が二人の口内に広がっていくのを否定できない。
「騎士団一番隊を大きくし、権力を一極に集めんと欲したハーマン・タルコットが、一番隊隊長であるイザーク・バッハシュタインの心の隙を突いて取り入る事に成功。その後は利害の一致した財務省長官セヴラン・ルアールらと結託しながら、他の騎士団の力を徐々に削ぎつつ、合法的に一番隊の力を強めていく……」
それがハーマンの描いていた青写真だった。その策は見事に的中し、一番隊の勢力はもはや他の騎士団と比べ物にならないほど大きくなった。
唯一、抵抗できるのは当初から力を競い合っていた二番隊だけだったが、その二番隊も魔獣の洞窟での事件に端を発した一連の騒ぎによって付け入る隙を見せた。そのパワーゲームに巻き込まれる形でエリーは見殺しにされそうになったり、必要な支援や情報が受けられないままに洞窟深部への調査を余儀なくされていた。
ハーマンにとっての誤算はエリーが聖なる力を宿していた事と、彼女と犬猿の仲だと目されていたノエリアの義弟のアーノルドが思ったよりも救出に積極的に絡んで事態を解決に導いてしまった事だろう。その誤算がなければ、今頃二番隊はエリーどころか入隊間もない騎士や学生たちの多くを犠牲にした咎を問われていたに違いない。
「イザーク隊長は、まだ心にわだかまりを抱いていたのですね……」
ノエリアが悲しそうに視線を落とす。彼女はイザークがアデリナとハロルドを失った遭難事件の経緯と顛末に忸怩たる想いを抱いているのを察し、立ち直るのに尽力した事がある。だが、まだ十分ではなかった事を知り、己の力不足を痛感させられていた。あの豪放磊落な言動が戻った事に安心し、心の奥底に眠る悲しみの感情に気が付いていなかったのは己の不明を恥じるばかりである。
「あまり自分を責めないでくれ。気が付かなかったのは私も一緒だ。そもそも彼の心中に気が付いたのは、こうした事態に陥って調査を進めたからだ」
もし魔獣の洞窟での騒ぎがなければ未だにイザークの心中に思いを馳せる事もなく、ハーマンの跋扈を許していたかも知れない。そうなれば二番隊の勢力は維持されたとして、他の隊の勢力は削られていき、目論み通り、一番隊の力はいよいよ確固たるものとなり、取り返しが付かない事態になっていた可能性もある。いや、二番隊とて魔獣の洞窟以外にもあの手この手で勢いを削られていなかったとは言い切れない。魔獣の洞窟に限らず、訓練場やら何やら、至る所でエリーたちが暴れてくれたおかげで、ここまで調査と推理の材料が揃ったのだ。
それでも推測するには手札が足りなかっただろうに、よくもまぁ、ラルスはあの少ない情報からここまで導き出せたものだ。
「気に病むのは後にしよう。今はラルスの報告書を下に事態の解決を目指す」
「ええ。魔獣の洞窟に関するレポートでは、エリーさんが最も危険だと……」
「アデリナ・パラッシュの生い立ちや最期から、似たような境遇であるエリー・フォレストに執着する可能性が高い。皮肉なものだよ。魔獣の洞窟を攻略する為にに最も不可欠な人間が、最も悪意を向けられるなんて」
「………そうね。もしかしてそれすらも、見越していて…」
「どうかな。だが最悪の事態を防ぐために、救助を出せた。あとは………彼女たちの力を信じるしかない」
そのエリーは洞窟の奥深くで瀕死の重体になっている事をまだ二人は知らない。もはや時間との勝負になっているのだが、それでもノエリアは確信した声で言い切った。
「大丈夫。あの子がいるもの」
「…………だね」
ノエリアは断言し、クリフォードは肯定した。二人が思い描いたのは、赤毛の美丈夫。ノエリアにとっては頼もしい義弟にして、自分が知る限り最も優秀で高潔な騎士。………ん、最近は高潔とはおよそ言い難い報告をたくさん受けている気がする。おかしい。つい1年前は、あんなにも義姉さん、義姉さんと私の周囲をくるくると付いてきてくれたのに。近頃と来たら、エリーさんと淫らで爛れた生活を送っているようだ。しかも洞窟から上がってきた報告の中には、エリーさんがアーノルドに、こう、なんか、手で、シュッシュッと得意なアレを心を込めて奉仕をしてあげているらしい。ある時は二人で失神するまで事を成していたとも聞く。しかも堂々と皆の前で悪びれもせずに白状したというのだから、もうあの可愛かったアーノルドはいなくなったしまったのだろう。思春期の男子はそういう事に興味があると聞くが、少しやり過ぎな気がする。
……クリフォードはそんなノエリアの思案顔を見て、少し心配そうに声をかけた。
「アーノルドに任せよう。私も彼の気持ちは分かる」
そう、クリフォードには分かる。大事な人を護りたいという気持ちが。今もクリフォードには、目の前にいる女性を護りたいという気持ちが湧いてくるが、きっとアーノルドも同じはずだ。彼には自覚がまだ芽生えていないようだが、エリーに対する気持ちは自分のそれと近しいのではないか……などと、思っていると、ノエリアが目をぱちくりさせてクリフォードを見返してきた。
「………それは、男として、ですか?」
「男? ん、まぁ、そうなるかな」
「男として………!ク、クリフォード様も……」
ノエリアが驚愕したように言うと、顔を真っ赤にしてわなわなと震え出した。おかしい。明らかに動揺をしている。そんな変な事を言ったつもりはないのに。
「やはり………若さ………性欲……」
明らかに何か間違えた単語をぶつぶつと呟いているノエリア。「んん~~~~」とクリフォードが笑顔を貼り付けたまま、首を傾げつつも冷汗をかいていると、ノエリアは意を決してクリフォードへ高らかに宣言をした。
「クリフォード様」
「なんだい?」
「操は守らなくてはいけませんが、手でなら……手でなら、私とて何とか!」
「何の話!?」
「て……手でご満足できないのでしたら、ど、どうにか胸とか……!?」
「だから何の話ぃ!?」
「それでもご満足できない……と………やはりこの程度では、青い欲望は止められないのですね……!?」
「待った。絶対に私たちは考えていた事が違う」
「もっとすごい事を考えていた……!?」
「話を聞いて」
この後、二人が思い描いていた事を照らし合わせて誤解が解消された一方、我に返ったノエリアが羞恥のあまり卒倒したのは、それから1時間後の事であった。




