レースの日傘とチヨコレイト
「清さん」と二階の花魁の部屋から顔を出す箔を見つけ、次の瞬間箔が一気に外へ身を乗り出し、飛んだのを覚えてます。あの時私は、箔を見上げて、どうしようかひとしきり悩み、落ちてくる体を眺めました。幼子のような体は、肩が広がり、足は伸び、髪は結い上げ、大きくなっていました。私が受け止めた時、ずしりとくる体重に足腰が力を入れていることに気づき、以前との違いに愕然としました。あの丸くなった猫は、立派な黒々しい艶のある豹のような眼差しで私を見つめてくるのです。二秒、三秒と待ち、私は彼女をおろしました。私の腰ぐらいしかなかった彼女の背は私の肩まで伸びていました。唇も色づき、朱をひいていました。そうして手に持っていた白レースの洋傘を開きました。
「清さんからいただいた傘、大切に使いんす」
朝焼けの下、小雛花魁が白のレースの傘を差し、禿たちが遊んでいるのを眺めている光景を思いだしました。吉原にも朝日が差します。陽のやわらかい日差しを受けて、小雛も禿の箔も、目を細めていました。白く透けた肌に、ふんわりとした彼女たちの甘い香りがふわふわと広がっていました。温もりを肌に受けて、陽の光の粒が輪郭にとどまっていました。瞬きをすると、まつ毛の先の陽の光が飛び散り、笑みをゆっくり浮かばせ、私の名を呼ぶのです。
「清さん」と。
箔は同じように傘を広げて、雲一つない青い炎天下のもとで彼女は立っていました。青に際立つ彼女の白さははっきりとしており、私の眼に焼け付きました。白昼夢を思わせるような彼女の肌に私の体表はざわめきました。レースの洋傘は彼女の零れそうな雪肌にふさわしく、この世のものでないものに思えました。数言語るごとに、ふわふわとレースが揺れていました。
私が欲しかったのはこれだったのです。
ほしかったものが、手に入った時、人はどういう顔をしているのでしょうか。小雛花魁はいつもよりもあくどい顔をしていましたし、箔はいつも通りの無邪気な笑みを見せていました。楼主は、安心したようにほっと溜息をつきます。私は、息をのんで、知らぬ間に固まってしまいました。そのときになって、やっと自身の欲に気づかされました。内心から燃え滾る炎にたじろいでいました。それは白くちろちろと女の舌のように私を誘惑しているのです。箔が私を呼んでいるのに気づいて現世に留まったのですが、気づいたときには遅く、私の欲は燃え進んでおり、消火が追い付きませんでした。
「チヨコレイトを買ってきたんだが、箔も食べるか」と、言って、また箔に喜んでもらおうとしていました。
「清さんはハイカラでありんすね」
箔の言った言葉、小雛花魁、楼主、男衆、長柄傘の重さ、なくなったときの喪失感、今にして思えば、その頃合いからでしょうか。私は、次第に周囲のものをはっきりと知覚していきました。縁側で食べるチヨコレイトも、その欠片が箔の口まわりについていたことも、そうした小さなことですら、気がかりになるようになりました。白い肌に細長いガラスのような硬い欠片がのっかているのを見ると、すぐにつまみあげ放り投げます。重苦しい夏の空気も、蝉の音も、汗だくの私の額も、ぬぐうには多すぎて、どうしようもありませんでした。
こうした心音が早く私にそなわっていれば、小雛花魁の間男のままであれたのかもしれません。終わったことをどうこう言うつもりもありませんが。
私は、あの子の、箔のなんであるべきだったのでしょうか。私自身、当時の状況を、今になっても偶に思い返すのですが全く思いつかないのです。心の音というのはうるさいものです。私の本音すら見えなくする。溶けたチヨコレイトを頬張る箔を見つめ、これから箔がどうなるのかも何度も繰り返し頭の中で言い聞かせるのですが、何度となく欲が邪魔をします。欲とは悪魔のようなものです。それにとりつかれた私は、きっとあの世で地獄へと神様に裁かれるに違いありません。ですが、箔はどうでしょうか。この子は、理不尽に売られてここにきて、どうしようもなく地獄に落ちます。それはあんまりではありませんか。