6.ベンノは溺れるような恋がしたい
ドリスの仕事は茶を淹れることだけではない。出張費や必要経費の精算書の確認も行っていて、最近間違いが少なくなったと財務局から地理局が褒められる事態になっている。それほど今まで間違いが多かったのだ。
「土地の広さの計算はできるのに、ただの足し算が間違っているのはどういうことかとかしら?」
間違いだらけの出張費の精算書を前にして、ドリスは思わず兄に文句を言った。
あまりに複雑な土地の計算はベンノを頼っているが、それほどでもなければ地理局の局員が計算して地図を作っているのだ。その計算はかなり難しく、ドリスは理解できないが、出張費の清算は足し算だけで事足りる。ドリスでも楽に計算できるのに、なぜ兄がこのような間違いだらけのまま書類を提出するのか彼女には理解できない。
「計算が簡単すぎて……、いや、悪かった。ちゃんと点検してくれてありがとう」
兄は言い訳をしようとしたが、ドリスに冷たい目で見られていることに気がつき、慌てて礼を言った。
「はぁ」
ドリスは大きなため息をついたが、本気で嫌がっているわけではない。
家で父親の書類作成を手伝っても無給だったのが、地理局では給金がもらえるのだ。それに、局長にも局員にも頼りにされていることがとてもうれしい。
ドリスがそれなりに充実した毎日を送っていると、あっという間に勤め始めて一年が経っていた。
身分は地理局付きの次女のままなので、現地調査に赴くことはないが、少しずつ難しい計算の検算を任されるようになり、地理局の局員の一員として扱われるようになり、仕事にもやりがいを感じていた。
天文局にも茶を淹れに行くドリスは、ベンノとほぼ毎日顔を合わせている。しかし、巻き戻る前にように誘惑することができないでいた。
社交界デビューした日に知り合ったヴェイセルに騙され、兄とも不仲になり、両親にも合わす顔がないと相談できない関係になっていたかつてのドリスは、男性は成り上がるための道具でしかなかった。だからこそ気軽に誘えたのだ。
貧乏な男爵の娘にとって、ベンノが優良な結婚相手だとドリスはわかっているが、彼に決めてしまうことに迷いがある。ベンノが嫌いなのではない。どちらかというと好ましいと思っている。しかし、フレデリクへの復讐心やアデラへの対抗心のために彼を誘惑することに躊躇いを感じるのだ。
『今更善良ぶっても仕方ないのに』
ドリスは自分でもその躊躇いの意味を理解できない。
かつてはこの世界を恨み、すべてを壊してやりたいと思っていた。騙したヴェイセルや虐めたアデラだけではなく、常に正論を吐きドリスを諫めようとするイェルドや公爵令嬢で何の苦労も知らないであろうセシーリアも。そして、自分自身さえも壊したかったのだ。
しかし、今はこのささやかな生活を壊されるのが怖いとドリスは感じている。
「ドリスさん、仕事が終わった後で少し話ができないかな?」
そんなある日の午後、茶を配っていたドリスはベンノから誘われた。最近ベンノが気落ちしているように感じて心配していたドリスはもちろん快諾する。相談を受けるなど柄ではないと思うものの、濃く生き抜いた三年間の記憶があので、何かしら彼の手助けができるのではないかと彼女は考えた。
ドリスの勤務時間に合わせてベンノは早めに仕事を終えたので、まだ陽は高い。二人が勤務する官舎は王宮の外れにあり、官舎を出て少し歩くと花々が咲き誇る見事な花壇があった。ベンノはそこへとドリスを誘う。
時が巻き戻ってから、このようにベンノと二人きりになったのは初めてなので、ドリスは少し緊張していた。
ゆっくりと歩くベンノとドリス。あたりには人影はない。
「ブリットとの婚約を解消しようと思うんだ」
つぶやくようにベンノはそんなことを口にした。
「なぜ?」
驚いたドリスは詰問するような声になってしまった。ドリスはベンノを誘惑していない。少なくとも彼女はそう思っていた。侍女として茶を淹れ、少し言葉を交わす。それも、ほとんどが仕事のことだった。
太陽や月が移動するのは、空が動いているのではなくて、球体の地面が回転していること。日食は月が陽を隠すから起こること。月食は自分の住む球体の影になっていること。ドリスはそんなことを知っていた。
空を観測して天体の動きを計算すればそんなことがわかるのだと、ベンノが教えてくれたのだ。
理解できないことも多かったが、ドリスはベンノと話をするのが楽しかった。しかし、それだけだ。侍女としての領分を逸脱していない。
「十日ほど前、ブリットをエスコートして舞踏会へ行ったのだけどね。ブリットが久しぶりに親しい友人と会って、僕と離れて壁際に行ってしまったんだ。しばらくして迎えに行っても、ブリットは会話に夢中になっていて、僕は近くで彼女たちの話を黙って聞いていた。彼女の友人たちはまだ婚約していなくて、結婚したい男性の話になっていた。すると、ブリットまでが『逞しくて黒髪の人がいい』と言い出して」
ベンノはそこで言葉を切った。ベンノの髪の毛は白に近い灰色で、体つきも文官らしく華奢だった。
「そ、それは……、ただの憧れで他意はないのでは? 気にするほどのことでもないと思うのですが」
年より幼く感じたブリットなので、素直にそんなことを言ってしまったのだろうとドリスは思う。
「問題はね、それを聞いて、僕は少し寂しいと感じたけれど、ブリットが理想の相手に出会えたらいいなと思ってしまったことなんだ。それは、完全に兄が妹に抱く感情だ。それに、その思いは彼女も同じみたいだ。僕がそばにいることに気づいた友人たちは気まずそうな顔をしていたけれど、ブリットはちょっと照れたように笑っているだけだった。彼女も僕のことを兄のように感じているに違いない」
「でも、それだけで婚約を解消だなんて」
時間が巻き戻る前は、ベンノが婚約を破棄したと聞いても何も感じなかったドリスだが、今は違う。一年以上も同僚として付き合ってきた相手だ。ベンノには幸せになってほしいと思うくらいの仲間意識は持っていた。
「僕は燃え上がるような恋がしたい。情熱に身を任せて恋に溺れてみたいんだ。もちろん、結婚後に恋愛する者がいるのは知っているけれど、そんなの不実じゃないか? だから、僕はきちんと婚約を解消してから恋愛したい。ねえ、ドリスさん、無事婚約解消できたら、僕と結婚を前提に付き合ってもらえないだろうか? 継ぐ爵位はないけれど、仕事はこのままだし、家も建ててもらった。子どもが生まれても、ノルデンソン一族となるので食い逸れるようなことはない。君を不幸にしたりしないと誓うよ」
ブリットと結婚すれば子爵となることができるのに、婚約を解消して本当に後悔しないのかとか、実家は貧乏な男爵家だから、持参金もほとんど用意できないとか、ドリスは様々なことを伝えたいと思ったが、なぜか言葉にできないでいた。
ドリスも溺れるような恋がしたいと思ってしまったのだ。
「はい」
気がつくと、ドリスは頷いていた。