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5.ベンノの仕事

 兄が務めているのは地理局。国内の様々なところへ出かけ、測量して地図を完成させる部局だ。危険を伴う地方への出張も多く、上位の貴族子弟のほとんどは希望しない。そのため、局員の多くは下位貴族やその子弟で占められていて、女性は皆無だった。そんな理由で、ドリスはとても歓迎された。身なりこそ地味だが、王太子に気に入られるほどの美貌を誇る女性が見学にやって来たのだから当然だ。


 三人の下働きと料理人を一人しか雇っていないフェーホルム男爵家では、茶を淹れるは母親やドリスの役目だ。そのため、侍女の経験はないドリスだったが美味い茶を淹れることができた。

 しばらく見学していたドリスだが、茶器が用意されていることに気がつき、十人ほどの局員に茶を淹れて配る。

「美味いな。普段と同じ茶葉とはとても思えない」

 子爵位を持つ局長がそう言うと、その場に居合わせた局員が一斉に頷いた。地図の作製を担い、土地の広さによる税や使用料を決定する地理局は国にとって重要な部署であり、貴族以外の立ち入りを禁止しているが、局員に高位貴族はいないためか、予算があるのに地理局付き侍女の希望者がいない状態だ。


「ドリスちゃんがここの侍女になってくれると嬉しいけどな」

「本当だ。そうなれば、毎日出勤が楽しみだ」

「そうだよな。あの殺伐とした騎士団にもたくさんの侍女がいて、休憩室では茶を淹れてくれるらしいのに、うちには一人も侍女がいないなんて、変だよな」

 局員たちがそんなことを話しているが、どうせ侍女になるのならば、高位貴族の多い部局か、本宮に勤めたいと思うだろうことは彼らもわかっていた。


「ドリスさん、地理局の侍女になることを考えてもらえないだろうか?」

 中年の局長も癒しが欲しいと思い、期待しないないながらもドリスを誘ってみた。

「えっ? 本当によろしいのですか?」

 フェーホルム男爵領は領地とは名ばかりの狭い土地で、殆どが森で人も住んでいない。森から採れる薪や茸を売ったお金と兄の給金が主な収入で、男爵家を維持するのがやっとの状態だ。もし、ドリスも給金が得られるのならば、それはとても魅力的だと彼女は思った。

 王族に会う可能性のある本宮やフレデリクのいる騎士団などより、王宮敷地の外れにあるこの官舎に勤める方が面倒なことにならない。それに、女性が他にいないというのも良い。ドリスは舞踏会での陰口の叩き合いにうんざりしていた。毎日そんなことに巻き込まれたくはない。

 何より、ベンノと親しくなれる可能性がある。


「ハンネスもいいだろう?」

 ドリスが嫌がっていないようなので、局長は兄に確認した。

「そうですね。いいかもしれません」

 兄も頷いた。わずかでも家の収入が増えるのは良いことだし、ドリスが淹れた茶が美味いのも事実なので、仕事中に飲めるのは悪くない。

 こうして、ドリスは地理局の見習い侍女となることが決まった。

「ウォー」

「やったぜ!」

 局員たちが大げさに喜んでいると、ドアが開いた。


「失礼します」

 そう言って入って来たのはベンノだった。脇に分厚い本を抱えている。

「おお。ベンノ殿。わざわざご足労願って済まない。ドリスさん、ベンノ殿にも茶を淹れてくれるか」

 ベンノを自ら出迎えた局長は、少し誇らしげにしながらドリスを振り返って頼んだ。

「はい。わかりました」

 ドリスは元気に返事をして、湯を沸かすために給湯室へと向かう。

「地理局に侍女が入ったのですか? 天文局にもいないのに」

 ベンノは驚いてドリスを見た。


 天文局も地理局と同じような状況だった。暦や種の撒き時を決定する天文局はとても重要な部署で、貴族のみが立ち入れるが、ノルデンソン一族のベンノには既に婚約者がおり、他の局員は低位貴族の者たちなので、若い貴族女性は近寄らないのだ。


「さすがに美味しいですね」

 伯爵家に住んでいるベンノはもっと良い茶を飲んでいるだろうに、ドリスの淹れた茶を褒めた。彼女はちょっと嬉しかった。



 ベンノが持ち込んだ分厚い本には、どのページにもびっしりと数字が書き込まれていた。時折その本を確認しながら、ベンノは凄い速さで白紙に数字を書いていく。その真剣な様子を見て、ドリスは不覚にも格好良いと感じてしまう。時間が巻き戻る前に知り合った時は、少しぼうっとした変な男としか思わなかったに。

 真っ白い紙が数枚小さな数字で埋め尽くされた頃、ベンノは満足そうに微笑みながらペンを止めた。

「さすがです。ベンノ殿。こんな複雑な計算をこの短時間で終わらせてしまうなんて。本当に凄い」

 兄が感心したように頷いた。そんな称賛は聞き飽きているのか、ベンノは軽く笑っただけで聞き流している。そんな冷静さもちょっと素敵だとドリスは思った。


「そうだ。ドリスさん、天文局の茶も淹れてもらえないか? ベンノ殿をこうして借りたお礼になればと思う」

 局長がいいことを思いついたというように、握った右手を左の掌に打ち付ける。

「それはいい考えですね。うちの局員も喜ぶよ」

 ベンノが肯定したので、すんなりと決まってしまった。



 天体観測を担当する局員の多くは夜に勤務するので、天文局には五人しかいなかった。茶を淹れ終えたドリスは、ベンノの近くに座る。

「どうしてそんなに早く計算ができるのですか?」

 ドリスの質問は純粋な好奇心からだった。もちろん、フレデリクへの憎しみは消えておらず、アデラに負けたくない気持ちもあるので、ベンノと知り合いになり、ブリットとの婚約を破棄させ、彼の妻になるという打算は持っている。しかし、純粋にベンノのことを知りたいという気持ちの方が勝っていた。


「足し算と掛け算は知っているかい?」

 穏やかにベンノは聞いた。ドリスとの会話は嫌ではないらしい。

「ええ、私だって貴族女性の端くれですから」

 四則演算や文字の読み書きは貴族の嗜みである。それに加えて、給金の高い執事や家令を雇えない男爵家では、様々な書類作成も家族で行わなくてはならず、それらは必須技術でもあった。もちろん家庭教師など雇えないので、ドリスは父や兄から文字や計算を教えられた。

「掛け算は足し算に比べてとても大変だろう? でもね、掛け算を足し算に変換する方法があるんだ。その時、この表を使う。その他にも、角度から測ることができなかった辺の長さを計算する時はこっちの表が必要なんだ」

 ノルデンソン一族の秘術だと聞いていたのに、ベンノが分厚い本を開いて見せたことにドリスが驚く。


「私が見てもいいのですか?」

 今更駄目だと言われても、既に見てしまい忘れることもできないと思いながらもドリスはそう訊いた。

「歴代のノルデンソン家の人々が計算した結果を記した貴重な資料だから貸すことができないし、複製も許せないけれど、これを見ただけで覚えられるのなら、別に使ってもいいと思うよ」

 そう言いながら、ベンノは別の頁を開いた。そこには表ではなく、たくさんの数字が書かれている。

「この数字は何ですか?」

「これは円の直径と円周の長さの比だ。円に外接する多角形と内接する多角形の辺の長さを計算するんだ。円周はその間にあるだろう?」

「そ、そうなのですか?」

 ドリスはなぜそんな計算をするのか理解できないが、ノルデンソン一族の秘術というには、それほど隠されていないということはわかった。

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