4.王太子の恋人
仕事で十日ほど家を留守にしていた兄が無事帰ってきた。出張先でドリスへの土産を買ってきた彼は、早く喜ぶ顔が見たくて、旅装も解かずに彼女の部屋を訪れた。
兄が差し出したのは青色のリボンだった。高価なものではないが、ドリスはその新しいリボンをとても気に入った。
「お兄様、ありがとうございます。とてもかわいいわ」
「気に入ってくれて良かった。ドリスの髪の色に似合うと思ったんだ」
下級文官はかなりの低給である。若い娘が喜ぶような宝飾品は買えず、兄は雑貨屋で手ごろな価格のリボンを手に入れてきた。ドリスは価格ではなく、その兄の気持ちが嬉しかった。以前はあまり仲が良くない兄妹だったが、時間が巻き戻ったデビューの夜以来上手くいっているとドリスは感じていた。
「ところで、お兄様はノルデンソン伯爵家のベンノ様をご存じないですよね」
ドリスは全く期待していなかったが、一応兄に聞いてみた。ベンノは上級文官で兄は下級文官。部署も違うので交流があるとは思えない。
「ベンノ殿なら一緒に仕事をしたこともあるので、よく知っているよ」
「なぜ?」
ドリスは思わず疑問の言葉を口にする。
兄は王家直轄地を管理している部署の測量見習いである。そのため、文官とはいえ家を空けることが多い。
一方、ベンノは天体を調べて暦を作っているような部署に所属していると聞いていた。
「ドリスはノルデンソン一族のことを知らないのか? 彼らは一族に伝わる秘術を使って、瞬く間に複雑な計算をしてしまうんだぞ。その一族の中でもベンノ殿はとても優秀でね。僕たちが土地を測量した結果から、彼にその広さを計算してもらうのだけど、僕たちなら一か月以上はかかるところを、ベンノ殿は一日で計算を終えてしまう」
「そうなの?」
あのベンノがそんなに優秀だとは、ドリスは俄かには信じられない。かなり変な奴だったとの印象しかないのだ。
「ドリス殿は普段ちょっとぼんやりとしているけどね」
やはりそうなのだとドリスは安心した。
「そんなすごい人なら、一度お会いしたいわ」
嫡男とはいえ、男爵家の兄が伯爵家のベンノと親しくしているはずはないと思ったが、本当にベンノに会うことができれば幸運くらいの思いで頼んでみた。
「明日、ベンノ殿に会う予定だから、紹介はできるけどね。でも、彼には婚約者がいるから、期待してはいけないよ。彼は次男だから継ぐ爵位を持たないけれど、卓越した計算能力があるので、上級文官として裕福な生活が保障されている。しかも、生まれた子どももノルデンソン一族となるので、文官として安定した生活が見込めるから、女性にとって魅力的な結婚相手だよね。だから騎士団長が早々に娘の婿として囲い込んだ」
それはいいことを聞いたとドリスは微笑んだ。ベンノの兄が伯爵位を継いだ後も、上級文官の職は約束されているらしい。ベンノ自身の能力で得たのならば、ブリットと婚約破棄をしても職を失うこともなさそうだし、子どもが何人生まれても安心だ。一生こんな貧乏暮らしをしなくてもいいに違いない。
「会ってお話をしたいだけなの。だって、とても面白そうな方じゃない?」
会うことさえできれば、ベンノはかつてのように振り向いてくれるはずだとドリスは考えていた。
「それでは、明日一緒に王宮へ行こうか? 僕が入ることができる場所は限られているので、それほど楽しくはないと思うけれどね」
兄がそう言ってくれたので、ドリスは満面の笑みで頷いた。
翌朝、古びたフェーホルム男爵家の馬車に乗って、ドリスは兄と一緒に王宮へとやってきた。
門を通り過ぎ、駐車場所で止まった馬車から外の出たドリスは、馬鹿にするようにこちらを見ている女性に気がついた。グランフェルト伯爵令嬢のアデラで、一年以上前のデビューの夜、ドレスがみすぼらしいとドリスを蔑んだ者たちの中心的な人物だ。
「まあ、フェーホルム男爵令嬢ではありませんか? 相変わらず個性的なものを身に着けていらっしゃる。そのリボンは絹ではなくて木綿なのですね。とても庶民的で、わたくしには似合いそうにもありませんわね」
いつもに増して嫌味な女だとドリスは思ったが、年の離れた男の後添いにされたことを思い出し、どうにか笑顔を作る。
「グランフェルト伯爵令嬢のアデラ様、ごきげんよう。このリボンは兄が私に似合うとお土産に買ってきてくれたものですので、私にとっては宝物なのですよ」
「そうですのね。お優しいお兄様ですこと」
アデラは侮蔑の表情を浮かべたまま兄を一瞥し、興味を失ったのかそのまま去っていった。
「グランフェルト伯爵令嬢って、最近王太子殿下と仲が良いらしいんだ。今日も殿下に会いに来たのかな? ベンノ殿は天文や数学を殿下に教えているので、殿下と一緒にいることが多い。彼女とも親しいかもな。ドリスも気をつけろよ。彼女を怒らせると不味いことになる」
兄の言葉にドリスは驚く。ドリスのものだったはずの王太子の恋人という立場は、アデラに取って代わられたらしい。
セシーリアが王太子の寵愛を一身に受けることになると、カルネウス公爵に権力が集まりすぎると考えた宰相がアデラを王太子にあてがったのか、それとも、王太子自らアデラを選んだのかは知らないが、とにかく、彼女の機嫌を損ねないようにしないと、フェーホルム男爵家にまで類が及んでしまうとドリスは警戒した。かつて、ドリスをいじめた令嬢を潰していったように、アデラも王太子の威光を笠に着て、同じことをするかもしれない。
アデラに近寄らないほうが安全だとドリスは考えたが、ベンノをアデラに奪われるのだけは我慢できない。
「お兄様、早くベンノ様に会いたいわ」
ドリスとアデラの間に流れていた不穏な雰囲気を感じ取り、心配そうにしている兄を急がせ、ドリスは文官たちが勤務する棟へと急いだ。