3.宰相の誘い
裕福なノルデンソン伯爵家の次男で上級文官。ベンノに関してドリスが知っているのはそれだけだった。
あまり社交的でない彼は社交界の行事にあまり顔を出さない。今夜の舞踏会にベンノが参加していたのは、婚約者のブリットが社交界にデビューするので彼女のエスコートをするためだ。
菓子を見てはしゃぐブリットの様子を見て、ドリスも会場の壁際に用意されている軽食や菓子を堪能することにした。
あまりにも不思議な体験をしたので、甘いものを口にすることで気を紛らわせたかったのかもしれない。ドリスが経験した三年の記憶は、夢だと思うには鮮明過ぎた。しかし、真実だと言い切ることもできない。死んだと思ったら三年前に時が巻き戻っていたなんてどう考えてもあり得ない。
ドリスはまるで自棄食いのように菓子へと手を伸ばす。さすがに王宮の菓子職人が精根込めて作った菓子だけあってとても美味だった。
「ブリット嬢はまだ十四歳らしいが、ドリスはもう十六歳だろう。少しは遠慮した方が良くないか」
着飾った令嬢たちが蔑みの眼差しをドリスに向けていることに気がついた兄は、恥ずかしくなり彼女を止めようとする。
「だって、このように美味しいものは家では食べることができないのよ」
かつて『娼婦』呼ばわりされて貶められた経験もあるドリスにとって、陰口をたたくような女たちに食い意地が張っていると思われても傷つくことなどなかった。
三年の間にこんなにも強くなってしまったのかと、ドリスは思わず笑みを漏らす。兄は少し呆れながらも黙ってしまった。そして、彼も菓子を一つ手に取る。余裕のない家庭では甘い菓子などそうそう口にでないのは真実だ。
「彼女もデビューだったから、豪華なドレスを着ていたのね」
夜も更けて、兄と一緒に古びた馬車に乗り込んだドリスは、ブリットの姿を思い起こしていた。ブリットは小柄で可愛らしい容姿のせいか年齢よりも幼く見えた。ベンノとの仲もまるで兄弟のようだったと感じる。
「他の令嬢のドレスが羨ましかったのか?」
服装にそれほど興味がない兄でも、ドリスの着ているドレスが流行遅れであることは知っている。もっと着飾らせてやりたいと思うが、作るのに手間暇のかかるドレスは驚くほど高価であり、流行のドレスなどとても仕立てられなかった。
「いいえ。お父様が贈ってくれたこのドレスはとても素敵だもの」
三年前のドリスはみすぼらしくて恥ずかしいと感じた。しかし、三年経った今、父が苦労して手に入れてくれたドレスは、体目当てに贈られたドレスと比べ物にならないほどに価値があると思うようになっていた。
「そうか。それは良かったな」
兄はほっとしたように笑った。ドリスを一人にしてしまった間に、グランフェルト伯爵令嬢たちにドレスを馬鹿にされていたことを彼は知らない。知っていれば笑うことはできなかったかもしれない。
馬車に揺られながら、ドリスは今後のことを考えていた。とにかく王太子には絶対に近づかないと決めた。二度とフレデリクに殺されたくはない。強い殺意を抱いた大きな騎士に剣を突きつけられた時は、思い出すのも嫌なほどの恐怖を感じた。生きることを諦めるしかなかったのだ。
だから、ドリスはベンノをブリットから奪ってやりたい。
妹が婚約者に捨てられることになれば、フレデリクは悲しい思いをするだろう。殺された恨みを晴らすにはあまりにもささやかだが、少しは気が晴れるはずだとドリスは感じた。
ブリットには恨みはないが、彼女にとっても、軽く誘惑しただけで婚約を破棄するようなベンノと結婚するより、他の誠実な男を探した方が幸せになるのではないかと、ドリスは自らに言い訳をしていた。
ベンノを誘惑すると決めたものの、ドリスは彼と知り合う機会がないまま、気がつけば一年の月日が経っていた。
きらびやかに着飾った令嬢たちに馬鹿にされながら、ドリスは父親が贈ってくれたドレスを着て数回だけ舞踏会に参加したが、ベンノの姿を見かけることは一度もなかったのだ。
今夜の舞踏会にもベンノは参加していなかった。ドリスは諦めて菓子でも食べようと壁際に行くと、見知らぬ若い男が近寄ってくる。
「貴女と話したいことがあるので、休憩室までご一緒してもらえないだろうか」
みすぼらしいドリスの身なりを見て、ドレスや宝石を贈れば遊び相手になると考えるヴェイセルのような男は多いらしく、彼女は何度かこのような誘いを受けていた。
「私はそのような女ではありませんので」
ドリスは不快そうな顔を作り、男の申し出を断ろうとした。女漁りをするような愚かな男であっても、社交界に身を置く身分ではあるので、それ以上迫ってくることはないとドリスは思ったが、若い男は首を横に振る。
「いや、話があるのは私ではない。私は貴女をお連れするように頼まれただけだ。貴女の身を危険にさらすようなことは絶対にないと約束しよう。とにかく話だけでも聞いてもらえないか? 貴女にとっても悪い話ではないと思う」
怪しすぎるとドリスもわかっていた。それでも、ベンノにも会えず、貧しい生活からも抜け出せない現状に焦っていた彼女は、その男について行くことにした。
ドリスを休憩室に案内すると、その男は部屋を出て行ってしまった。ドリスが部屋を見まわしても誰もいない。不思議に思っていると、
「君に提案があって来てもらった。立ち話も何だから座ったらどうだ」
中年の男の声が聞こえてきた。部屋の奥に衝立があり、その向こうに男はいるらしい。身分を明かしたくないのだろうが、ドリスにはその声に聞き覚えがあった。『王太子の公妾にしてやる』と恩着せがましく言った宰相の声に違いない。
宰相が男爵の娘に何用だと訝しく思ったが、ドリスは宰相の勧めに従って部屋の中央に置かれたソファに座ることにした。
「さるお方と付き合ってみないか? 正規の妻になることは無理だが、その方に気に入られると、一生豊かな暮らしができるぞ。君のような身分の娘では絶対に経験できないような贅沢だ。しかも、日陰の身ではない。妻になる女も含め皆に認められるのだ。悪い話ではないだろう?」
ドリスは、宰相の提案というのが王太子の公妾になることに違いないと気がついた。たとえ誰に認められたとしても、愛人には違いない。しかも、他の男と結婚しなければならないのだ。
「申し訳ございませんが、想う方がいますので、彼を裏切るような真似はできません」
ドリスは情熱的な想いをベンノに抱いているわけではないが、それでも、彼の妻になりたいとの想いに嘘はなかった。そして、かつてのように婚約を破棄してくれるのなら、無垢なままベンノに嫁ぎたいとも思う。
「それは残念だな。あの方は君の容姿を気に入ると思ったのだが。好きな男がいるのなら仕方がない。今夜のことは忘れてほしい」
宰相はそれ以上ドリスを誘うことをせず、黙って壁を二回叩いた。隣の部屋には男が待機していたらしく、すぐにドアが開く。
ドリスは軽く礼をして、休憩室を後にする。とにかく、はぐれてしまった兄を探して早く家に帰りたかった。