2.ベンノと出会う
「おい! ドリス、どこへ行っていた。ずっと探していたんだぞ」
ドリスの顔を見るなり、兄が怒り出した。彼女を一人にして友人との時間を優先したことに負い目を感じていたので、彼はそれを胡麻化したかったのかもしれない。
「お兄様、ごめんなさい。人がいっぱいでちょっと疲れたから外に出ていたの。でも、お兄様だって酷いわよね。私を放っておいてお友達と遊戯室に行ってしまうなんて」
斜め上に目線を外したドリスが拗ねたようにそう言うと、
「そ、それは悪かった。ドリスなら一人でも大丈夫だと思ってしまったんだ。本当にごめんな」
兄は素直に謝った。
三年前もこのように思いを伝えればよかったとドリスは感じた。あの時はいきなり兄に怒鳴られたことが我慢できなくて、返事もせずその場を離れてしまった。そのため、ヴェイセルはドリスが家族に愛されていない令嬢で、深い仲になっても相談もできないだろうと判断したのだ。その考えは間違っていない。ドリスはヴェイセルとのことを家族にも相談していなかった。それは家族に心配をかけたくなかったという理由だが、ヴェイセルにとっては同じことだ。まるでゲームのように無垢な少女を落として純潔を奪っても、今まで大事に至ることはなかった。
「本当に馬鹿だわ」
ドリスのその呟きは、ヴェイセルのような男を信じた愚かな自分に向けられたものだ。
「だから謝っているだろうが。それに、カードゲームで少し儲けたんだぞ。明日にでも買い物に連れて行ってやるから。髪飾りでも買ってやろう」
しかし、兄は自分に向かっての言葉だと勘違いしたようだ。
「うちは貧乏なのに、カードゲームなんかして、負けたらどうするつもりだったの?」
「そんな大した金額は賭けていないさ。あいつらもそんなに金を持っていないし。小遣いの範囲だ」
兄は下級文官として働いているので、上級職に比べると微々たるものだが、いくばくかの給金を得ていた。彼の仲間も下位貴族なので、それほど裕福ではない。
「それならいいけれど。それでは明日楽しみにしておきます」
「あまり高価なものは無理だからな」
「わかっているわ」
ようやくドリスは屈託なく笑うことができた。
ドリスが兄と話をしていると、周囲が俄かに騒めきだした。ドリスが振り向いてみると王太子が近づいてきている。美しく着飾った令嬢たちが彼の周りを取り囲み、小鳥がさえずるように切れ目なく話しかけていた。その一団の後ろから硬い表情のセシーリアがついてきている。
王太子は一瞬ドリスを見て微笑んだが、すぐに令嬢たちを引き連れて去って行く。
三年前は王太子が参加していたことに全く気づかなかった。それ程ドリスに余裕がなかったのだ。ドレスをみっともないと笑われて、外へ出て泣き、慰めてくれたヴェイセルに夢中になっていた。
「セシーリア様をこんなに近くで見たのは初めてだ。本当に綺麗な女性だな」
兄が見惚れたように去って行くセシーリアに目線を合わせていた。
身分が高いというだけで王太子の婚約者に選ばれ、将来の王妃となることが決まっているセシーリア。そして、彼女が産む王子が次代の王とになるのだ。かつてのドリスはそのことが我慢ならなかった。身分という自分ではどうしようもないことで、正式な妃と妾とに選別されてしまう。ドリスが王太子の子どもを産んでも実子とは認められない。
ドリスはそんな不満をセシーリアにぶつけるしかなかった。しかし、セシーリアはドリスの嫌味に何も反論せず、凍りついたような冷たい笑みを浮かべるだけだった。それをドリスは馬鹿にされたと思い益々怒りを募らせていたのだ。
『でも、諦めていたのかもしれない。だから何も言わなかった』
夫の愛人を認めなければならないような結婚は、あまり幸せではないとドリスはやっと気がついた。王家の男性は複数の公妾を持つことが許されている。王妃と雖もそのことを拒否はできないのだ。
あれほど憎いと思っていたセシーリアのことを哀れだとドリスは感じた。最高の身分と美しさを持っていても、幸せになるとは限らないのだとしみじみと思う。
なぜここにいるのかはドリスにもわからない。しかし、せっかくヴェイセルに騙される前に時が巻き戻ったのだ。今度は王太子の愛人などではなく、普通の幸せを目指そうとドリスは決めた。平凡でもいいから誠実な男の妻になれば、一生安定した生活が送ることができる。
王太子から流行のドレスや宝石を贈られたドリスは、きらびやかな舞踏会で主役となることができた。かつてドリスを虐めていた令嬢たちは、王太子の不興を恐れた親の手で無理やり嫁がせられたり修道院へ送られたりした。年の離れた男の後妻になったグランフェルト伯爵令嬢もその一人である。
彼女たちを見返してやりたい一心で王太子に近づいたドリスの思惑は成功した。もう気が済んだとドリスは思った。
「ベンノ! あっちに美味しそうなお菓子が置いてあるの。早く行きましょう」
突然聞き覚えのある名前が耳に飛び込んできたので、ドリスは驚いてそちらの方を見た。
ドリスの記憶より少し若いベンノが、赤い髪の少女に腕を引っ張られるようにして歩いて行く。その少女のことをドリスは知っていた。自分を殺したフレデリクの妹でベンノの婚約者でもあるブリットだ。
「ブリット、落ち着いて。お菓子は逃げないからね」
少し呆れたようにしながらも、ベンノはブリットに腕を引かれて素直について行く。
「だって、王宮の菓子職人が作った菓子なのよ。絶対に食べたいじゃない」
そう言ってブリットは無邪気に笑った。
ブリットの笑顔を見ていると、ドリスの胸の中に黒い靄がかかっていくようだった。
確かに今のドリスの体は純潔だ。しかし、心は汚れ切っていると自分でもわかっている。
何人もの男を誘惑して、大きな舞踏会へと連れて行ってもらった。そうして出会った王太子を落とした時は、あのセシーリアにさえ勝つことができたとドリスはこれ以上ないほどの満足感を覚えたものだ。しかし、結局は体が目当ての公妾にしかなることができなかった。それは娼婦と変わらないとドリスは思う。
『ベンノだけだった』
ドリスが誘った男のほとんどは彼女の体が目当てだったが、ベンノだけは結婚するためにブリットとの婚約を破棄してしまった。それまで指一本触れず、婚約破棄後は本当にドリスに求婚したのだ。もちろんドリスはその求婚を断った。当時は継ぐ爵位を持たないベンノに魅力を感じなかったのだ。
爵位を持っていないが、ベンノは上級文官なので、ドリスの兄とは段違いの給金を得ている。今よりはずっと豊かに暮らせるはずだとドリスは考えた。