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19.二度目の婚約解消

 イェルドとブリットが婚約した。そんな噂を侍女仲間から聞いたドリスは、やはり時が巻き戻り前と同じになっていくのだと、諦めにも似た感情を抱いてしまった。

 ドリスが処刑される直前に、フレデリクの身分を剥奪し、その妹のブリットとイェルドを結婚させると、カルネウス公爵が得意げにドリスに語っていた。フレデリクはドリスに(たぶら)かされて、イェルドを拷問してセシーリアに罪を着せようとしたと公爵は思いこんでいるようだった。

 惚れた演技もろくにできなかったので、フレデリクが側にいたのは監視のためだとドリスは気がついていたが、王宮勤めの侍女たちは彼が取り巻きだと本気で思っていたようだ。公爵は騎士に不信を抱き、侍女たちの証言を集めたのだからそう信じても無理はない。


『言い訳もしないなんて、本当に馬鹿な男』

 フレデリクがイェルドを拷問したのは、セシーリアを助けるためだった。もちろん、ドリスはそのことを公爵には伝えていない。

 セシーリアが何も語らず修道院へ入ってしまったので、ドリスがフレデリクを庇っても公爵は信じようとしなかっただろう。却って心証が悪くなったかもしれない。だから、ドリスのせいではない。


 それでも、セシーリアとイェルドが通じていて、イェルドに襲われたと嘘をついたため、全く関係のないブリットが望まない結婚を強要されたことに、ドリスは今更ながら罪悪感を覚えていた。


 しかし、真実を告げて、あのまま王太子の公妾になっていれば幸せだったかと自らに問うても、ドリスは素直に頷くことができないでいた。

 ドリスは王太子を愛してはいた。しかし、同じくらい憎んでもいたのも事実だった。甘く愛を語るその口で、公妾になるためには他の男と結婚しなければならないとドリスに伝えたのだから。王太子はセシーリアとの婚約を破棄するつもりなど微塵もなかった。


『私だけを愛してほしかった。ただ幸せになりたかった』

 ベンノと婚約できたことでそれが叶うとドリスは思っていた。しかし、多くの人を不幸にした彼女が幸せになることなど許されることではなかった。



 ベンノが頭を打ってから一か月ほど経った頃、ノルデンソン伯爵家からの使いとして、グンナルがフェーホルム男爵家を訪ねてきた。その日は休日だったので、ドリスはそのまま迎えの馬車に乗り、ベンノと結婚した後に住むはずだった新居へと向かう。

 ベンノに会える喜びと、自分のことを忘れたままなのではないかととの不安がドリスの胸を圧し潰しそうだったが、フェーホルム男爵家と同じ下級貴族が住まう地域にある新居には思い悩む間もなく着いてしまった。


 グンナルはドリスを応接室に案内する。そこにはベンノが待っていて、ドリスにソファを勧めた。グンナルも応接室に入って邪魔にならないように壁際に立つ。

「ドリスさん、わざわざ来てもらってごめんね」

 真新しいソファに座っているベンノは元気そうだった。その姿に安心したドリスだったが、微妙に他人行儀なところが気になった。以前は『ドリス』と呼び捨てにしていたはずだ。

「そんなこと言わないで。私はベンノに会うことができて嬉しいのよ」

 不安を隠しドリスは精一杯の笑顔を見せる。しかし、ベンノは笑みを返すことはなかった。


「本当にごめん。頑張って記憶を探ったけれど、ドリスさんを思い出すことができなかった。それに、計算方法も忘れてしまって、計算しようとすると頭が割れそうなほど痛むんだ。だから、僕はノルデンソン一族の名を捨て、平民になろうと思う」

 血よりも計算能力を重んじるといわれているノルデンソン一族だ。その力を失ったベンノは、一族から抜け平民として生きていこうと考えた。幸い文字は覚えているし、法律にも詳しい。代書や代読などをすれば生きていくくらいはできるだろう。


「そ、そんな馬鹿な!」

 ベンノが平民になるようなことにはならないとドリスは思っていた。しかし、それは甘い考えだったようだ。まるで一点に落ちていくように物事が動いていく。


「それでね、婚約を解消してもらいたいんだ。平民になる僕には君を幸せにできないと思うから」

『平民なんて関係ない! 私はベンノと結婚したいの!』

 ドリスはそう叫びたかった。

 たとえ夫が平民であったとしても、一代だけは貴族として王宮に勤めることが可能なので、贅沢さえしなければドリスがベンノとの生活を支えることができる。

 この新居のように立派な家でなくてもいい。ベンノと一緒ならば、小さな家でささやかな暮らしでも十分に幸せだとドリスは感じていた。


 それでも、ドリスは声を出すことができなかった。些細な違いはあるが、全てが時が巻き戻る前の状態に収束していっている。違うのはドリスが生きていることだけ。

 もしベンノと一緒にいると、彼を巻き込んでしまうのではないかとドリスは怖かった。

 

 多くの人の幸せを奪ってしまったドリスなので、幸せになることなど許されるはずがない。

 ベンノが自分のせいで不幸になること、それが今のドリスにとって一番辛い。もし、ここでベンノの手を取れば、ドリスへの罰として、ベンノを失うことになるのではないかとの悪い予感が頭から離れない。

 

「婚約解消に了承してもらえるかな?」

 ベンノの求めに応じるようにドリスは小さく頷く。もうベンノと関係なくなるのだと思うと涙が出そうになり、そのまま俯いていた。


「君に渡した計算の本なのだけど、父と相談したところ、そのまま使ってもいいと許可をもらったよ。王宮で仕事に使うのも自由だし、人に教えることも止めないって。あれはノルデンソン一族が使う計算のごく一部だからね。自由に活用してもらって構わないとのことだ」

「そ、そんなことできません! 本はお返しします」

 ベンノが計算方法を忘れてしまったのに、彼に教えてもらった自分だけ恩恵に浴することなどできないとドリスは慌てて否定した。


「父がね、僕の教えた計算をドリスさんが使えば、僕が生きた証になると言うんだ。本当に計算中心で驚くけれど。それがノルデンソン一族だからね」

 呆れたように言うベンノは、やはり寂しそうだった。ベンノはノルデンソン一族であることに誇りを持っていた。

「ありがとうございます。ノルデンソン伯爵閣下が許してくださるのなら、有効に使わせていただきます」

 ドリスがそう言うと、安心したのか初めてベンノが笑った。


「それじゃ、ドリスさん、元気でね。正式な婚約解消は、父からフェーホルム男爵閣下に話してもらうようにするよ」

「わかりました。ベンノさんもお元気で。さようなら」

 流れ出ようとする涙をこらえて、ドリスは笑顔で挨拶を交わした。その胸には後悔が押し寄せてくるが、これでいいのだと自らに言い聞かせる。

 それから、ドリスは応接室を後にしたが、ベンノは席を立つことなくその場に残った。



 玄関までドリスを送ってきたベンノの乳兄弟であるグンナルは、不機嫌を隠そうともしていなかった。

「貴女は本当にベンノ様のことを愛しているようだとフレデリク様がおっしゃっておりましたが、こんなにあっさりと婚約解消を受け入れるのですから、それは疑わしいですね。ベンノ様の地位や高給に惹かれていただけではないのですか?」

 ドリスには反論できなかった。今はベンノを慕う気持ちに嘘はないと自信をもって言えるが、最初は打算的にベンノに近づこうとしたのだから。


「グンナル! お止めなさい。ドリス様、申し訳ございません。息子が失礼なことを申しました。お許しください」

 一緒に玄関までドリスを見送りに来ていたグンナルの母親が慌てて息子を止めた。

「し、しかし、母さん。婚約解消をこのようにすんなり受け入れるなんて、ベンノ様を愛しているとはとても思えないではないですか!」

「自分のことを何も覚えていない相手と結婚するのは、とても辛いことでしょう? 一方的な愛情だけでは幸せな家庭なんて築けないのよ。ドリス様だって、こんな決断をするのは辛かったはずよ」

 そんな言葉を聞いて、ベンノが自分を覚えていないのだとドリスはやっと受け入れた。

 そして、涙が一筋頬を伝う。


 一旦流れ出た涙を止めることは難しく、ドリスは泣き続けていた。

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