18.イェルドの選択
右腕を失ったイェルドは実家のリンデゴード子爵家に帰って療養をしていた。騎士団に席は残っているものの、イェルドは騎士を辞めるつもりでいる。しかし、継ぐ家もなく、文官として生きていけるほどの才覚もない。
ひたすら剣の腕を磨いてきた武骨な男は、理想の騎士という目標を失い、無為に毎日を過ごしていた。
家族はそんなイェルドを心配していたが、今はとにかく傷を癒すことが優先だと思い静観していた。
「イェルド。大変だ! 騎士団長殿が我が家にやってきた」
そんなある日、次兄のボルイェがイェルドの部屋に飛び込んできた。ぼんやりとベッドに横になっていたイェルドは慌てて身を起こす。
「団長が? なぜ?」
「イェルドに話があるって。応接室で待ってもらっているけど、そこまで行けるか?」
「ああ、大丈夫だ。家の中くらいは歩けるさ」
暇があれば体を鍛えていたイェルドなので、ベッドを降りて少し歩いただけで筋力がかなり落ちたのがわかった。元に戻すのには時間がかかると焦ったが、騎士を辞めるのだから今更鍛えても無駄だと気がつき、イェルドは騎士への未練を払い落とすように小さく頭を振った。
「急にやってきて悪かったな。体はどうだ?」
イェルドが応接室に現れたので、ソファにゆったりと座っていた騎士団長が席を立った。
かつて英雄と呼ばれた男は、年を重ねても見事な肉体を誇っている。イェルドの目標となる騎士だった。イェルドの眼差しには羨望と諦念がこもっている。
「団長、わざわざ我が家においでいただきありがとうございます。どうぞ、椅子に掛けてください。ご心配をおかけしましたが、体の方も順調に回復しております」
イェルドは団長に騎士を辞めると伝えるつもりだった。しかし、団長がわざわざ家までやってきたのは、解雇の通達かもしれないと思い、団長の話を聞くことにした。解雇された方が未練を残さず辞められそうだと、イェルドは団長の言葉を待つ。
「それは良かった。本日訪問したのは、セシーリア嬢襲撃事件が解決した知らせと、個人的に頼みがあるからだ。まずはセシーリア嬢の襲撃についてだが、犯人が特定できた。王太子殿下と仲が良かったアデラ嬢の父親、グランフェルト伯爵の仕業だったのだ。セシーリア嬢の純潔を奪えば殿下との婚約が破棄され、アデラ嬢が王太子妃になることができると考えたらしい。本当に愚かなことだ。アデラ嬢が妃に選ばれた時には、宰相に後ろ盾を頼むつもりでいたらしいが、宰相はそれを否定しているので、それ以上追及はできなかった」
宰相には娘がおらず、縁戚からも王太子妃が出せなかったことを悔やんでいたのを団長は知っている。これ以上カルネウス公爵の力を増さないために、王太子に愛人を当てがおうとしていたことも。
セシーリア襲撃には宰相も関わっていた可能性があると騎士団長は考えているが、王太子が臣下に下ることで事件の終息を望んだので、これ以上の追及は諦めるしかなかった。
「グランフェルト伯爵が?」
イェルドは絶句する。自分の娘を王太子妃にするために他の女性を襲うなど、騎士のイェルドには想像もつかないことだった。
「グランフェルト伯爵は爵位を剥奪され、今は牢に幽閉されている。アデラ嬢は結婚して逃げ切ったが、王太子殿下は臣下に下ることになった」
近衛騎士に叙勲されて三年。イェルドはずっと王太子の護衛騎士を務めてきた。王太子は王家と宰相家、筆頭公爵家の勢力争いに翻弄された犠牲者かもしれないとイェルドは思う。
「本当に馬鹿なことをしでかしたものだ。セシーリア嬢とブリットの噂を流したのもアデラ嬢とその取り巻きだった。おまけに王太子殿下が興味を持ったというだけで、フェーホルム男爵家のドリス嬢まで襲撃させたのだからな」
騎士団長としては事件が解決して喜ばしいが、ブリットとフレデリクの父親としては複雑な思いであった。娘のブリットは暴漢に純潔を奪われたと噂され、長男のフレデリクは責任を取らせて勘当せざるを得なかった。
イェルドにも団長の胸中が痛いほどに伝わり、何も言葉にできず俯いていた。
「イェルドには本当に感謝している。君が身を挺して助けてくれなければ、ブリットは今頃生きていないかもしれない。だが、そのせいで君は右腕を失ってしまった。本当に申し訳ない」
騎士団長は部下であるイェルドに謝意を表した。ブリットが暴漢を挑発しために斬られそうになったことを騎士団長は本人から聞いている。本当に危機一髪だった。たとえ醜聞に塗れることになっても、ブリットが生きていてくれたことが何よりも嬉しいと団長は思う。しかし、右腕を失ったイェルドのことを思うと、素直に喜ぶことはできない。
「いえ。お嬢様を助けることができたことは、騎士として誇りに思います。団長に謝っていただくことなど何もありません」
たとえ騎士を辞めることになっても、身の危険にさらされていた女性を助けることができたことは、イェルドの騎士としての記憶に刻まれるだろう。
「そう言ってくれて有難い。実は、ブリットと結婚してくれと頼もうと思ってな。君ならブリットが暴漢に何もされていないと知っているし、噂がどうあれ妻としてブリットに問題はないだろう? それに、ブリットと結婚すれば子爵位を君に譲るつもりだ。領主としてブリットを支えてもらえないだろうか?」
イェルドが少しでもブリットを責めるようなことを言えば、この話はなかったことにしようと団長は考えていた。しかし、誇りだと言ってくれたのだ。イェルドならブリットを幸せにしてくれるのではないかと望みをかけた。
「し、しかし、お嬢様の気持ちを無視して、け、結婚など」
あまりに想定外の話に、イェルドは動揺を隠せない。
元からブリットのことを明るくて可愛らしい女性だと好ましく思っていたが、怪我をした時、ずっとイェルドを励ましていた健気な姿に心奪われていた。
片腕を失った後も、ブリットが自分で作った焼き菓子を差し入れてくれとても嬉しかった。彼女に会うために激痛に耐えることができたのだ。イェルドがこうして生きているのはブリットのおかげだった。彼女の笑顔にどれだけ癒されたか計り知れない。
それでも右腕を失ってしまったイェルドには、絶対に手に入れることが叶わない女性だと思っていた。
「こう言っては失礼だが、娘も結婚は難しいが、そのような体になった君も同じだろう? 妻と爵位が手に入るのだから、君にとっても悪い話ではないと思うが」
「それはわかっています。しかし、お嬢様は?」
右腕を失ったイェルドは結婚を諦めていた。それが想いを捧げるブリットと結婚できるのだ。しかも、彼女の生活を保障できる爵位付きだ。イェルドはあまりにも自分に都合が良いと感じている。
「ベンノ君と婚約を解消する時、娘は情熱的な恋をしたいと言っていた。だから、自由に恋愛をさせ、娘が選んだ男との結婚を許すつもりだった。しかし、今の状況ではそんなことはとても無理だ。私はブリットをひどい噂から守ってやりたい。これ以上娘を傷つけたくないのだ。情熱的に愛を語れと君に無理な注文をつけるつもりはない。ただ、娘を愛しんでやってもらえないだろうか? お願いだ」
「わかりました」
団長の熱意に負け、イェルドは了承の返事をしてしまった。そして、すぐに後悔する。
もちろんイェルドにはブリットと結婚することに異議などあろうはずもない。しかし、片腕の男と結婚することはブリットにとって辛いことではないだろうか? そうであるのならば、イェルドもまだ辛いと感じる。
「恩に着る。これで、ブリットはもう社交界で辛い思いをすることはない。早々に結婚式を挙げ、二人で領地へ行けばいい。小さいが風光明媚な良い所だ。領民も素朴な者たちだと聞いている。すぐに新しい領主を受け入れてくれるだろう」
今の状態が辛いのならば、イェルドもブリットを救い出したいと思う。そして、ブリットの望みを叶えるのがイェルドの役目だと感じた。
ブリットの純潔と領地を守り抜き、ブリットが情熱的な恋愛をしたいと感じる相手が現れた時、その男に引き渡す。それがどんなに辛いことであろうとも、やりきらなければとイェルドは決意していた。