17.ベンノは覚えていない
「ベンノ! 大丈夫なの!」
騎士団駐屯地に着いたドリスが慌てて医務室へ行くと、ベッドに座っていたベンノが顔を上げた。戸惑ったような彼の表情にドリスは違和感を覚えたが、それでも座ることができるほどベンノが回復したことに安心する。
「君がドリスさんだよね。せっかく来てくれたのに、ごめんね。君のことを何も覚えていなくて、思い出そうとすると、すごく頭が痛むんだ」
ベンノは弱々しくそう告げると、俯いてしまった。
ベンノの無事を確かめてほっとしたドリスは、思わぬ言葉に目を見開く。
「あの……」
ドリスはベンノの言うことが理解できなかった。彼が自分のことを忘れたと認めたくなかったのかもしれない。
「ブリットと婚約を解消したのは覚えているんだ。でも、その理由がわからない。考えようとすると頭が割れそうになる。本当にごめんね。昨夜は怖い思いをしたのに、フレデリクに自分より僕を優先して助けよと言ってくれたんだってね。今日の朝フレデリクがやってきて、君のことを誤解していたと謝っていた。彼はずっと君に騙されていると僕に助言していたらしい。それも覚えていないのだけどね」
黙っていると不安になるからか、ベンノはいつになく多弁だった。しかし、あまりに驚きすぎてドリスは返事ができない。
「ドリス様、私はベンノ様の乳兄弟でノルデンソン伯爵家の家令をしておりますグンナルと申します。ベンノ様にはこれから新居で療養していただくことになっております。貴女のことを考えると頭痛がするとおっしゃるので、私どもから連絡するまでベンノ様にはお会いにならないでください。よろしくお願いいたします」
『私は婚約者なのよ!』
ドリスはそう叫びたかった。しかし、家令の眼差しはとても冷たく、反論など絶対に許さないと言わんばかりであった。
父親であるノルデンソン伯爵はベンノとドリスの婚約を認めたが、乳兄弟であるグンナルは納得していない。ブリットと結婚すれば騎士団長の持つ子爵位を継ぐことが決まっていた。ドリスは確かに美人だが、爵位を捨ててまで選ぶほどの女性だとも思えなかったのだ。
もちろん、ベンノが望めばグンナルはドリスにも誠心誠意仕えるつもりではいた。しかし、ドリスの記憶を失ったベンノを彼女に近づけたくない。
「ベンノ、ごめんなさい。貴方は私を助けようとして怪我をしてしまったの。私のせいなのよ」
『だから、看病をさせてほしい』とドリスは続けようとしたが、
「違う! 悪いのはドリスさんを襲った暴漢だよ。君のせいじゃない。新居には乳母もグンナルもついてくてくれるから何も心配しなくて大丈夫だ。しばらくゆっくりさせてもらおうと思う」
その言葉はベンノの優しさだとわかっている。それでも、ドリスは絆が消えてしまいそうな頼りなさを感じていた。
結局、ドリスはそのまま医務室を後にした。
それからペータルはドリスを小さな部屋へと連れて行く。そこには二人の騎士がいて、昨夜のことを聞かれたが、ドリスはほとんど答えることができなかった。
フレデリクが剣を抜いて迫ってきたので、驚いていると抱えられてしまった。そして、気がつけばベンノと暴漢が倒れていたのだ。ドリスはそれくらいしか答えることができない。
ドリスはもっと厳しく尋問されるのではないかと怯えていたが、騎士たちはそれ以上聞くことはしなかった。
「暴漢に貴女を襲えと命じた者は判明しております。陛下の捕縛命令も出て、既に拘束していますので、貴女が再度襲われる心配はないと思います。安心してください」
話は終わったので椅子から立ち上がろうとしたドリスに、笑顔の騎士がそう告げた。
「私が狙われたのですか? なぜ?」
たまたま自分が襲われたのではないのかとドリスは驚く。時が巻き戻る前ならともかく、今は殺されるほどのことはしていない。ブリットとベンノの婚約解消も円満に進んだと聞いている。それに、ブリットやその家族が犯人ならば、騎士団がこんなに明るいはずはない。
「貴女を襲うように命じたのはグランフェルト伯爵家の使用人でした。そして、セシーリア嬢襲撃を命じたのも彼に間違いないようです。このことはすぐに社交界で噂になるでしょうね」
「グランフェルト伯爵?」
それはアデラの父親だとすぐに気がついたが、ドリスはやはり襲われた理由がわからない。アデラには何度も嫌味を言われが反論さえしていなかった。
時が巻き戻る前は、王太子の威光を笠に着てグランフェルト伯爵を脅し、アデラを父親と同年代のレーンバリ子爵の後妻にしたが、まさか、そのせいだろうかとドリスは不安になる。
「王太子殿下がドリスさんに興味をお持ちのようだった。だから、兄は貴女が襲われるかもしれないと見張っていたんだ。御免ね。もっと早く捕まえることができれば、貴女にこんな怖い思いをさせずに済んだのに。それに、ベンノさんだって、記憶を失うこともなかった」
セシーリアの馬車に同乗していたペータルは、彼女と姉を守ることができなかったことをずっと悔やんでいた。せめて護衛としてやってきた騎士が着ていた隊服が偽物だと気がついていれば、セシーリアが修道院へ入ることも、ブリットがひどい噂の的になることもなかったはずだ。
『今回はほとんど顔を合わせていないのに、なぜ王太子が私に興味を持ったのだろうか?』
これも以前と同じようになろうとする不思議な力のせいだろうかと、ドリスは益々不安になった。
何もしないでいると不安になるだけだからと、翌日から地理局に出勤したドリスは、連日のように他局の侍女から噂を聞かされることになる。
「伯爵は使用人が勝手にやったと言い張っていたらしいけれど、グランフェルト伯爵家は取り潰しになるらしいのよ。セシーリア様を襲ったのだから当然よね。でも、アデラはその前に年の離れたレーンバリ子爵の後妻に収まって逃げ切ったのですって。好色で有名な方だから、幸せとは言い難いと思うけれどね」
「王太子殿下の命令を無視して、護衛の変更を騎士に伝えなかったエーギルとナータンは毒杯を飲んだらしいわよ」
「カルネウス公爵の後ろ盾を失った王太子殿下が臣籍降下されて公爵になったって。新しい王太子には優秀だと評判の第二王子が立つらしいの。これで我が国も安泰だわ」
全て時が巻き戻る前と同じことが起こっている。違うのはドリスが生きていることと、ベンノがノルデンソン家から勘当されていないことだけ。
『ベンノは何もしていないから、勘当などされるはずはない』
そう思うものの、ドリスは不安が拭い去れないでいた。
「ここだけの話だけど、前の王太子殿下はセシーリア様の襲撃を知っていて、優秀な護衛であるフレデリク様をセシーリア様の護衛から外したらしいのよ。アデラのような性格の悪い女に惑わされて、婚約者であるセシーリア様を襲う手助けをするなんてね。本当にあの方が王にならなくて良かったわ」
ドリスが給湯室へお湯をもらいに行くと、侍女たちがそんな噂をしていた。しかし、それは絶対に違うとドリスは思っていた。
王太子はドリスを愛しながらも、セシーリアの愛も欲していた。かつて、王太子がイェルドに対してあれほどの拷問を行うようにフレデリクに命じたのは、セシーリアとイェルドが通じているとドリスが嘘をついたからだと彼女は思っている。無意識かもしれないが、イェルドに嫉妬していたのだ。セシーリアがイェルドを庇う度に王太子は激怒していた。
「馬鹿な人」
かつて愛した王太子のことをドリスはそう思うしかなかった。