15.ドリス襲撃
王太子と付き合っていた時はもっと贅を尽くした菓子を食べていた。それなのに、ベンノと向かい合って食べるケーキは今まで経験した中で一番美味しいとドリスは感じていた。
繁華街の外れにある喫茶店は、木の実や干し果物をふんだんに使った素朴なケーキが美味しいと有名で、女性客でたいそう賑わっていた。
中には恋人らしい二人連れもいて、話に夢中で周りのことなど気にしていない。
『私たちもあんな風に見えているのかしら』
そう思うと、ドリスの真っ赤に色づいた唇の端が楽しそうに持ち上がる。
「こうして計算してみると、複利は怖いだろう? あっという間に借金が膨れてしまう。高利貸しの中には、十日複利で計算するところもあるんだ」
「本当ね。見る見る借金が増えていくわ。気をつけないと」
ドリスの父親であるフェーホルム男爵は豊かではないが、借金をしてまで見栄を張るような男ではない。ドリスが社交界デビューする時も、古着のドレスを譲ってもらったくらいだ。それが少し恥ずかしいと感じていたドリスだが、こうして計算してみると、本当に借金をしないで良かったと思う。自分のせいで借金がかさみ家や爵位まで手離さなければならなかったかもしれない。
「でね、1日複利、1時間複利と間隔を短くしていって、瞬間的な複利にするとどうなると思う?」
「すごい大きな数字になるわよね。もう計算できないくらい?」
「そうでもないんだ。数字は収束するんだよ」
たとえ二人の会話が数学の講義のようだったとしても、ドリスはとても楽しいと感じていた。
「もう暗くなってきた。ドリスと一緒だととても楽しいから、時間が経つのがとても速いよね。いい加減帰らないと君の父上や兄上に怒られてしまう。残念だけど、もう帰ろうか?」
必死で計算していたドリスが顔を上げて窓の外を見ると、本当に暗くなっているので驚いた。ベンノが言うように時間が経つのが異常に早い。
「そうね、もう帰らないと怒られてしまうわ」
婚約しているとはいえ、二人はまだ夫婦ではない。遅くなれば父母や兄に心配をかけるだろうとドリスは思い、時が巻き戻る以前は、とても親不孝なことをしていたのだとやっと気がついた。
フレデリクに殺された時も、ドリスは家族のことなど思い出しもしなかった。しかし、公開されなかったとはいえ娘が処刑されるようなことをしでかしたのだ。家族に何の咎もなかったとは思えない。貧しいが誠実に生きてきたフェーホルム男爵家を破滅に導いたと、ドリスは今更ながら怖くなった。
「フェーホルム男爵殿はそんなに怖い方なのだろうか? 顔が真っ青だよ」
娘をこんな時間まで連れ回したベンノのことを許さず、フェーホルム男爵から婚約破棄を言い渡されるかもしれないと、ベンノも顔を青くなった。
「父はとても優しい人です。安心して」
ちょっと気が弱くて野心もなく、ただ小さな領地の森から採れる薪や茸を売った代金だけで男爵家を維持しているような男だ。怒ってもたかが知れている。
「そうなのか? 安心したよ。とにかく、僕も一緒に謝るから」
ベンノはほっとしたように微笑んだ。それを見たドリスも一緒に笑う。
二人が喫茶店を出ると、一番星が輝き始めていた。家が密集して建っている繁華街周辺は窓から漏れるランプの灯で明るいが、貴族の居住地は館が疎らなので暗さが増す。ドリスの家は貴族の住む地域の外れにあり、中央公園に面しているので更に暗い。
「父が家を用意してくれたんだ。ドリスさんの家の近くだよ。結婚後に住む家なので、今度一緒に見に行こうね。僕の乳母が侍女としてついてきてくれることになっているんだ。妊娠中に未亡人になってしまって困っているところを乳母として雇い入れたので、父にとても恩義を感じているから、君にも良くしてくれるはずだよ」
爵位を継がないベンノだが、ノルデンソン一族なので貴族居住区に住むことが許されている。ドリスの家がある下級貴族が済む地域に、ノルデンソン伯爵は家を建てた。その家はドリスの実家より大きいくらいだ。
「楽しみね」
平凡だけど穏やかな暮らしが待っている。今のドリスはそれが幸せだと感じていた。
「暗いから手を繋ごう。転ぶと危ないから」
ベンノは柔らかい手を差し出した。ドリスがその手を握る。
「星がとても綺麗だね。見慣れているはずなのに、いつもより輝いて見えるんだ」
天文局には天体の観測を専門にしている局員がいる。ベンノは計算を専門としているので、業務としての観測はしていない。それでも、天体が好きなので空を見上げることが多かった。
「本当に綺麗ね」
ドリスも星空を見つめて歩いていた。そうしていると、このままベンノと結婚して穏やかな時が過ぎていくのだろうと思えてくる。
時間が巻き戻る前、フレデリクに殺された時間は地下の牢に囚われていたのでわからない。しかし、もう過ぎたのではないかとドリスは思う。
道が段々と狭くなり、道端には花壇ではなく街路樹が植えられている寂れた場所にやってきた。ドリスの家が近づいてきたのだ。
二人とももっと遠ければいいのにと思いながら、ゆっくりと歩いていた。
突然木影から人が飛び出してきた。それは剣を抜いたフレデリクだった。ドリスが驚いていると、剣を振り上げながらフレデリクが迫ってくる。彼女は動くこともできず、呆然とフレデリクを見ていた。
『何もしていないに、フレデリクが殺しに来るなんて』
時が巻き戻る前と同じになろうとする不思議な力が働いているのだと、ドリスは絶望した。
前と違うのはドリスが死にたくないと思ったことだけだ。イェルドの苦しみも、フレデリクの嘆きも理解できた。セシーリアにも謝りたい。後悔だってしている。
だから殺さないでと叫びたいのに、ドリスは声も出せない。
「ドリス、危ない!」
ベンノが叫んだと思うと、どんと大きな音がした。
驚いて振り返ろうとしたドリスをフレデリクが抱え込んだ。ドリスの真上で金属音が響き渡る。
剣を抜いた騎士がもう一人現れた。
「殺すな! 捕まえて尋問するんだ」
その声はフレデリクだ。
「わかっているって」
気軽に答えたのは平民の騎士だった。最初は突然やってきた貴族出身のフレデリクに反発していた平民出身の騎士たちだが、不満を口にすることもなく平民と同じような生活をし、真摯に剣の訓練に励むフレデリクをいつしか仲間として認めていた。そんな騎士の一人がセシーリア襲撃事件の捜査に協力していたのだ。
ドリスを片手で抱えて守りながら、フレデリクは暴漢たちと戦っていた。平民の騎士も強い。
何が起こったのかドリスが理解する前に、四人の暴漢は地面に伸びてしまっていた。
「フェーホルム男爵令嬢、怪我はないか?」
フレデリクがそう聞きながらドリスの腰から腕を外した。ドリスが薄暗い中目を凝らしてみると、五人の男が倒れている。四人は見知らぬ男だったが、一人はベンノだ。
「ベンノ!」
ドリスは慌ててベンノの側に行き、ドレスが汚れるのも構わず座り込んだ。
「ベンノ! 目を覚まして。お願い!」
「動かしては駄目だ! ベンノは君を助けようとして暴漢に近づいたが、押されて仰向けに倒れて頭を打ってしまったようだ。頭から血は出ていないし、心臓も動いている。もちろん斬られてもいない。大丈夫だから」
ベンノを揺すって起こそうとしたドリスをフレデリクが止めた。しかし、大丈夫だと言われても、ピクリとも動かないベンノを見て、ドリスは安心などできるはずもない。
「私なんかを助けずに、ベンノを助けなさいよ! この国にとってどちらが重要かなんて、誰にでもわかることでしょう? 馬鹿じゃないの! 騎士のくせに」
半狂乱で自分を責めているドリスを、フレデリクは不思議そうに見ている。
ドリスは婚約者がいるベンノを誘惑し、更に王太子にまで色目を使うような女だとフレデリクは考えていた。自己的なドリスが、自分よりベンノを優先しろと言うとは思わなかったのだ。