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14.物事は繰り返される

 セシーリアとブリットが暴漢に襲われ、セシーリアが修道院へ入ってしまった。そのことは王宮の片隅に勤めているドリスでも知っていた。それほどまでに王宮勤務の侍女の間で噂になっているのだ。

 時間が巻き戻る前と同じようにセシーリアが修道院へ行ってしまったことに、ドリスは漠然とした不安を覚えていた。

 そして、仕事終わりにいつもの庭でベンノと散歩していた時に、その不安は決定的となる。


「先日の舞踏会の夜にセシーリア様とブリットさんが襲われたのは知っているだろう? フレデリクはその責任を追及されて勘当されてしまったんだ。今は平民の騎士として王都守護の任に就いているらしい。それに、同じく近衛騎士のイェルドさんは、その時に負った怪我がもとで右腕を切除しなければならなくなった。腕を切り取ったのはフレデリクだって。友人だと言っていたのにとても辛かったと思うんだ。ブリットさんだってとても怖かったよね。可哀そうに」

 一見ベンノはいつもと変わらず淡々としているように見えた。しかし、彼の声は微かに震えていて、眉が下がっている。ドリスはベンノがフレデリクとブリットのことを心配しているのだと感じる。しかし、彼女にはベンノを慰めるような余裕などなかった。

「そ、そんな……」

 時が巻き戻るという不思議な体験をしたが、王太子に関わらなければフレデリクに殺されるようなことにはならないと、ドリスはどこか楽観していた。ベンノが婚約を解消したのは前と同じだが、その他は違うはずだと思っていたのだ。それなのに、以前と全く同じことが起こっていく。


 ドリスが殺された日まであと半月ほどしかない。

 またフレデリクが殺しにやってくるのではないかと思うと、ドリスはとても怖かった。


「ごめんね。こんなに震えて可哀そうに。腕を切るなんて女性にする話ではないよね。でも、怖がらなくても大丈夫だよ。イェルドさんは無事だから、安心して」

 真っ青な顔で震えているドリスの手を握って、ベンノは必至で彼女を安心させようとしていた。

 その手がとても暖かい。この暖かさを失いたくないとドリスは思う。


 かつて、ドリスは自分も含めた全てのものを壊したいと思った。誰を壊しても罪悪感などなかった。セシーリアもイェルドもただ憎かった。

 フレデリクが剣を向けた時も、ドリスは賭けに負けたのだとぼんやりと思っただけだ。痛みへの恐怖はあったが、この世から消え去ることへの恐怖はなかった。罪悪感も後悔も覚えることなく、彼女は死を迎えたのだった。


『だから時が巻き戻ったの? 大切なものを与えて、それが壊される痛みを味わわせるために』

 神は何と残酷なのだろうとドリスは感じた。ただの死では許してくれないのかと。

 書類の間違いが減った。茶が美味しい。そんな些細なことで感謝される侍女の仕事が好きだ。少し変わっているし、とても淡々としているけれど、目を輝かせながら空や星のことを語るベンノも大好きだった。

 失いたくない。この小さな幸せを失うのがドリスは何よりも怖かった。

 今のドリスには、かつてのフレデリクやカルネウス公爵が自分に向ける憎しみの意味を理解できた。だからこそ、とても怖い。何もしていないはずのこの世界にも、彼らの憎しみが滲みこんでくるような恐怖を感じるのだ。



「本当にごめんね。すごく怖かったよね。あのね、贈り物があるんだ。だから、機嫌を直して」

 ベンノは鞄から本を取り出してドリスに差し出す。本を受け取ったドリスはパラパラと頁をめくってみた。どの頁にも数字がびっしりと書き込まれている。ベンノが計算に使っている本よりはかなり薄いが、中身は同じようなものだった。

「これは?」

 不思議に思ったドリスはベンノを見上げた。優しい目がドリスを見つめている。この穏やかな眼差しが好ましいと彼女は思う。

「僕たちが計算に使う表だよ。よく使う分だけの抜粋だから僕のよりかなり薄いけどね。これの使い方も教えてあげる。地理局で使う計算くらいならできるようになるからね。これはノルデンソン一族の知識の一部だ。受け取ってくれるかな?」

 この本はベンノの誇りの一部であり、ドリスをノルデンソン一族の迎え入れるとの意思表示でもあった。


 ドリスは不安を隠して笑みを見せる。ベンノにとって計算の知識は何よりも大切なものだと知っている。まるで、彼の一部を渡されたようだとドリスは感じていた。


 それから毎日二時間ほど、ドリスはベンノから計算方法を教わった。地理局の局長は業務としてそれを認めた。たとえ一部であったとしても、ノルデンソン一族の計算知識を得ることは、地理局にとってとても有益なことだ。王宮に勤める文官のほとんどは男性だが、稀に女性も働いている。彼女たちの多くはノルデンソン一族の女性たちだ。もし、ドリスが計算技術を習得することができれば、中級文官となることも夢ではない。そうすれば彼女は兄より高給取りとなる。

 

「ほら、この角度でこことここの長さが決まるだろう? この表の角度を選べば、長さがわかるようになっているんだ」

 図形を描きながら一心に説明するベンノ。ドリスもまた真剣に聞いている。不安は心の中に渦巻いていたが、計算に集中することで不安を忘れることができるような気がしていた。

 今まで経験のなかった計算方法はやはり難しかった。しかし、恐怖や罪悪感に苛まれているより、計算に没頭する方が楽だとドリスは感じる。だからこそ、家にでも暇があれば予習や復習に勤しんだ。

 ベンノもドリスに教えることは楽しかった。彼女は思った以上に優秀な生徒だったのだ。



 そんな充実した日々はあっという間に過ぎていき、かつてドリスが殺された日がやってくる。その日はドリスもベンノも仕事が休みだった。

「今度の休みに王都へ遊びに行かないか? 小さい劇場なのだけどね、フレデリクの両親の逸話を扱った劇がかかっているんだ。一緒に観に行かないか? それから有名な喫茶店でお茶を飲もう。お菓子も美味しいらしいよ。最近元気がないだろう? 気分転換になると思うんだ」

 ベンノからそう誘われた時、ドリスは少し迷ったが頷くことにした。家に閉じこもっていても安全とは限らない。何か不思議な力で、時が巻き戻る前と同じようなことが起こっている。何もしていないドリスをフレデリクが殺しにやって来るとは思えないが、それでも、命を落とすことになるかもしれない。

 それならば、ベンノと一緒にいた方が気が紛れるし、思い出を作ることができると彼女は考えた。



 国立劇場のように立派ではない。座席は簡素な椅子を並べただけだし、小道具もほとんどなく、大道具のバルコニーも板で作ったとわかる出来だった。ドレスも貴族が着るものにしては簡素すぎる。それでも、父親を亡くし叔父に虐げられた公爵令嬢が、国を救った英雄に助け出される物語は、ドリスを大いに興奮させた。

 余裕のない男爵家で育ったドリスにとって、平民の中産階級向けの劇場であっても観劇は贅沢であった。

 初めて観た劇に(なぞら)え、名門ノルデンソン一族出身の特殊な計算技術を持つベンノが、不幸な境遇から助け出してくれる英雄にようにドリスは感じていた。

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