1.三年前に逆戻り
ドリスは確かに死んだ。あの赤毛の大きな騎士が失敗するはずはない。明確な殺意をもってフレデリクはドリスの喉に剣を突き立てたのだから。
だが、ドリスはこうして生きている。
目を瞬かせながら彼女は辺りを見回した。そこは見知った場所だった。
陽はすっかり落ちているが、王宮内のダンスホールに隣接しているテラスガーデンは、所々に篝火が設置されているのでそれほど暗くはない。
気がつくと、ドリスは隅に置かれた椅子に座っていた。悲しいことがあったらしく、大粒の涙が頬を伝い落ちている。
彼女が身にまとっているのは、あまり豊かではない父が苦労して用意した流行遅れの少し古びた淡い黄色のドレスだった。それでも、初めてドレスを着たドリスは、お姫様になったように感じてとても浮かれていたのを覚えている。
ドリスがこのドレスを着たのは十六歳の社交界デビューの夜だけである。それは三年も前の十六歳の時だったはずだと、ドリスは何度も自分の着ているドレスを確認した。
しかし、何度見てもそのドレスは父が用意してくれたものに間違いない。
社交界デビューの夜、ドリスは兄のエスコートで会場までやって来たが、兄は早々に友人と遊戯室に行ってしまい一人になってしまった。
何もかもが物珍しくて、きらびやかな会場をきょろきょろと見回していたドリスは、すぐに蔑みの眼差しに気がついた。色とりどりの豪華なドレスをまとった令嬢の一群が、聞こえるようにドリスの装いや動作を馬鹿にしているのだ。その中心にいるのはグランフェルト伯爵令嬢だった。
頬を伝う涙の理由はわかったドリスだが、なぜここにいるのか全く理解できずかなり混乱していた。そんな彼女に一人の男が近づく。
「お嬢さん、泣いているのかい? 誰かに虐められたのだろうか?」
心配そうにそう訊いてくるこの男をドリスはよく知っている。デビューの夜、父が贈ってくれた自慢のドレスがみすぼらしいと陰口を叩かれて、悔しくて泣いていたドリスを優しく慰めて、ドレスを贈るので次の夜会にエスコートさせてほしいと誘ってきた男だ。
伯爵令息のその男は約束通り可愛くて豪華なドレスを贈った。ドリスはその美しいドレスに有頂天になり、いつか彼の妻になれることを夢見たのだった。
何という馬鹿な女だったのだろうと、自分のことながらドリスは呆れてしまう。この男の目的はドリスの純潔だったのに。このような見え透いた手口に引っ掛かってしまったのだ。
「少し疲れて休んでいただけです。もう、会場に戻りますから」
この男の顔を見ていると、自分の愚かさを突きつけられているようでドリスは再び泣きそうになる。だから、今すぐにでも逃げ出したかった。
「それなら会場までエスコートするよ。僕の名はヴェイセル。よろしくね」
ヴェイセルはすんなりとは諦めようとせず、ドリスに向かって手を差し出した。
「いいえ、あのドアから入ればもう会場ですから、一人で大丈夫です」
ドリスはテラスの反対側の端にある大きなドアを指差した。その指を目で追ったヴェイセルは、一瞬で彼女に視線を戻し笑顔を見せた。
「途中に暗い場所があるので危険だ。遠慮しなくていいからね。さあ、僕の手を取って」
篝火が消えかけているのか、確かに暗い場所があるが、見えているドアまで歩くだけで、危険があるとも思えない。暗闇よりこの男の方が余程危険だとドリスは警戒する。
「本当に一人で大丈夫ですから。会場には兄も待っていますので」
三年前、ドリスがヴェイセルに連れられて会場に戻ると、心配して探していた兄が彼女を叱りつけたのだった。
自分を放っておいて友人と遊戯室に行っていたことを棚に上げて、ドリスを叱った兄のことが許せず、彼女は兄を無視してヴェイセルの馬車で家まで送ってもらうことにした。そこで翌月の夜会に一緒に行く約束をしたのだった。
あの時、兄と一緒に帰っていれば、ドリスは十九歳で処刑されるようなことはなかったのかもしれない。
「そう警戒しなくても大丈夫だよ。君はこのような場所に慣れていないんだね。そこが初々しくて可愛いけれどね」
「いいえ、本当に一人で戻れますから」
ドリスはさっさとその場を立ち去ろうとしたが、ヴェイセルが手を伸ばしてきた。そして、ドリスが手を振り払うより早く、彼女の細い手首を掴まれてしまった。
「さあ、早く行こう。エスコートのお礼にダンスを一曲踊ってね」
「お願いです。放してください!」
「何をしている!」
ドリスがヴェイセルから逃げようともがいていると、咎めるような大きな声が聞こえてきた。
思わずそちらを見るドリス。
「ひっ!」
彼女の口から思わず悲鳴が漏れ出た。ヴェイセルを睨んでいる赤毛の男は、騎士服を着たフレデリクだったのだ。
ドリスがフレデリクに殺されたのはつい先ほどのことだ。少なくともドリスはそう感じている。恐れるなという方が無理があるだろう。
「このお嬢さんが泣いていたので、一人のするのも忍びなく、会場まで送って差し上げようとしただけだ。騎士が来たのなら安心だ。それでは後は頼むよ。騎士殿」
フレデリクが怖くて震えているドリスを、ヴェイセルはあっさりと見捨てた。そして、一人で会場に戻っていく。
「あの男には色々と悪い噂がある。近づかない方がいい」
大柄なため女性や子どもに怖がられる自覚があるフレデリクは、ドリスの反応があまりに過剰だったので声をかけるのを躊躇ったが、毎年無垢なデビュタントに狙いを定めて誘惑するとの噂が絶えないヴェイセルのことは伝えておかなくてはと口を開いた。
「わ、わかっています。ヴェイセルさんには近づきませんから」
蒼白な顔で今にも倒れそうなドリスの様子に、フレデリクは困ってしまいそれ以上何も言えなくなってしまった。
「どうかしたのか?」
そこに現れたのは、黒髪の大柄な騎士イェルドだった。
「ひっ!」
再びドリスが悲鳴を上げる。ドリスが嘘をついたため、フレデリクがイェルドの右腕を斬り落とす事態になってしまった。あの凄惨な拷問からもそれほどの時は経っていない。
「俺たちは会場の護衛だぞ。こんな可愛らしいデビュタントを怖がらせてどうする」
イェルドは呆れたようにフレデリクを見た。フレデリクはその言葉に納得がいかなかったのか、憮然とイェルドを見つめ返す。
「いや、怖がらせているのは俺だけではない。このお嬢さんは、おまえのことも恐れているぞ」
「俺は何も言っていないからな。おまえ、無意識に脅したのではないか?」
「そんなことはしない! ヴェイセルがこのお嬢さんを連れて行こうとしていたから、警告しておかなければと思って」
「またあいつか? 本当に懲りない奴だ」
「それでは失礼いたします」
小さな声でそう声をかけたドリスは、フレデリクとイェルドが話をしている隙に震える脚を強制的に動かしてなんとかその場を後にした。しかし、後からフレデリクがついてくる。
大きな彼の体はそれだけで威圧感があった。しかし、ドリスは振り向かずに前を向いてようやくドアまでたどり着く。
すると、フレデリクが黙ってドアを開けた。金輪際大柄な騎士とはかかわりになりたくないと思いながら、ドリスは慌てて会場の中へと消えていく。