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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

狂い葩ーー恋死には乙女を狂わすーー

作者: 朱辻灰里


 由貴子ゆきこ杏子きょうこに殺されたのは、百合のはな咲く頃だった。

 誰かにナイフでつきたてられたわけではない。由貴子が自ら命を絶ったのだ。

 表向きは自殺。しかし由貴子自身の中に死ぬ理由など、閉ざされた学園の中でシスターや牧師、警察は見つけることができなかった。

 殺されたというのはおかしいかもしれない。けれど理由は杏子にあったと白英学園の少女たちは確信していた。だから少女たちの間では、杏子が由貴子を殺したと信じられていた。


 由貴子は百合の塔から、グレーの制服のワンピースをはためかせて、身を投げた。

 全身打撲骨折。花壇のブロックの角に頭をぶつけていなければ、由貴子は生きていたかもしれない。ぐにゃりと白百合に抱かれた由貴子は力無く身をまかせている。


 ミサのおこなわれる日曜日、次々に集まる少女たちに屍体は囲まれた。同心円に集まり、声のない悲鳴を上げて唇を震わした。悲劇の塑像動かすようにシスターたちは由貴子から必死で少女たちを引き離そうとしていた。


 杏子も人垣の間から由貴子の顔を見ていた。そしてゆっくりと遠ざかる。


 この死が、私がもたらしたものだとするなら、由貴子に与えた罰だと杏子は思った。


(でも、本当に死ぬなんて、どこまで腹立たしい)


「いなくなればいい」「死ねばいい」と思っていた。

 由貴子にも直接そう告げたのだから、手を下さなくても杏子が由貴子を殺した。そう思われるのは無理もないのかもしれない。

 少女たちが杏子に向ける不審な目。まるで杏子が突き落としたとでも言うような。

 けれど、もしそうなら、私は納得なんてできないと杏子は思った。


(私ならこうはしない)


 命をなくして血の気の引いた白磁の頬、朝日に冴え冴えと光る品のいい筋の通った鼻、少し微笑んだ柔らかそうな唇からは赤い筋がつたっている。橙色の花粉をねっとり肌に絡ませ、由貴子は白百合の褥に埋もれて死んでいた。白い花弁に散った血さえも優美で……いかにも由貴子らしい、由貴子のための棺だった。


(これは私の願いじゃない。私が殺したんじゃない。私の願いなら……

もっと、汚れて、穢れて、逝かせてあげたわ)


     †


 杏子の通う白英学園は生徒の親たちの莫大な寄付金で建てられた息女を閉じこめる白い檻だった。港を臨む山の上にあり、ロープウェイを使って展望台からさらに坂道をひたすら登るか、バス停も近くにないので車で山道を登ってくる以外、学園への交通路はない。一番近い人の住む場所といえば会社の厚生施設や自然の家が数キロおきに点在しているだけだった。

 ドライブウェイの緑の中で白く優美な曲線を描いた扉がさずけられた側道があればそれが、白英学園の正門だ。守衛に許可を得てそこをくぐり、三百メートルほど舗装された道を行かなくては校舎にはたどり着けない。

 訪問者が白英学園の中へ入れない以上に、少女たちは卒業するまでほとんど外へ出ることが許されなかった。ロマネスク調にデコレイトされた白百合寮、ゴシックの傾向が強めの白薔薇寮に振り分けられ、どちらの寮も二人部屋で、助け合いが旨とされていた。


 白百合寮の三階の南側に杏子の部屋はあった。由貴子が死んで五十日目。

 杏子は一人で部屋を占有している。煩わしい由貴子のいない寮生活は安穏とするだろうとおもっていた。けれどいまだに杏子はすっきりしない。

 梅雨の湿った寝苦しさに杏子は寝返りを打った。カーテンを閉め忘れた窓から透明な朝日が杏子のベットにまで射し込んできて、瞼に明るさを感じ、杏子は目を覚ました。そして自分のいつもの部屋にうんざりした。


 向かいにある空っぽのベッドと机。その上に飾られた百合。

 由貴子の気配は全くなくならない。

 一ヶ月半という時が流れたのに、杏子は由貴子がいないという感じがしないのは、杏子の中の由貴子の存在の大きさと、学園の少女たちにおいても由貴子が膠着した存在だったためだ。この学園には由貴子がいなくてはならないのだと学院にいる全ての人が思っていた。


 由貴子は花好きだった。学園中に花が溢れているのに、寮まで花を飾ることはないだろうと、嫌がる杏子に気を遣いながらも花瓶に花を絶やすことはなかった。由貴子が亡くなってからも、崇拝者たちが花を杏子の部屋に持ち込んだ。


いまでも熱狂的に由貴子をしたっている玲子は部屋に白百合を手向けにくる。


「純潔・威厳・無垢」そんな白百合の花言葉が一番似合う由貴子を白百合の君と崇めていたのが玲子だ。玲子は報復として、これを続けているのだと杏子は思う。

 毎朝、ノックされ、市松人形のような容姿で眦を上げて、からくり人形のように水をかえたり、枯れた葉や咲きかけた百合の花粉嚢を剪りとってゆく。匂いのきつさとその粘っこさを由貴子が嫌ったからだ。

 あるべき橙の花粉嚢がない奇形の清らかさ。それは由貴子自身のようだと杏子は思う。

 背中合わせに置かれた机の瑠璃の切子に挿されていた。それほどど匂いは無いはずなのに、部屋の中にずしりと存在を感じさせている。

 昼柔らかなクリーム色。夜は冴え冴えとした青い色。今、新しい光に照らされた百合は純白に装っている。

 朝の百合が杏子は嫌いだ。由貴子の微笑みは丁度こんな感じだったからだ。諭すような、あやすような上から見下したような微笑み。そこに寸分の悪意も宿していないような慈悲の笑み。その笑みを向けられるだけで、居たたまれなくなった。


(殺したのは私。あなたはもういないんだから)


 気を奮い立たせるように杏子はベッドから身をおこした。朝の百合に背を向けて窓を開け、晴れ渡った透明な朝の青空と緑を感じる。張りつめた気持ちが少し穏やかになった。

 少しベッドの中に長くいすぎたようだ。見渡せば、百合で囲まれた寮と向かいにある薔薇で囲まれた寮から少女たちが登校していく。各寮の風紀委員たちが、服装の乱れを整えたり、ちょっとした改造を見咎めたりしていた。

 空々しさに、杏子は目を逸らした。


 杏子は先日まで授業を免除されていた。ショックの大きさを考慮されたためだ。そして不穏な噂のために。


 由貴子が死んでからの登校は学園中に植えられた花々がまだ由貴子が生きているのではないかと錯覚させた。

 けれど校庭や教室の少女たちの不躾で不審な目は彼女が死んだことを杏子にわからせた。


(いなくなればいいと思うだけで、私が由貴子を殺したなら、こんな学校なくなればいい)


 今日も学校に行く気がしなかった。百合のある部屋に一人いるのも苦痛だったが、学校の権威と家柄に縛り付けられたお嬢様の噂に付き合わされるのはもっと苦痛だったからだ。


――杏子さん。


 高潔でたえず緊張に震えたような由貴子の声を聞いたような気がした。善意のかたまりの優しい励ましの声。

 杏子は鼻で笑って、振り返り周囲を見回した。けれどそこにはだれもいるはずがなく、花瓶に挿された百合の葩が微かに揺れているだけだった。


(ばかばかしい。いつまであの子に縛られてるのかしら)


「杏子さん」


 再びはっきりと聞こえる声にびくりとした再び振り向くとノックがして、現実に引き戻される。


「もう由貴子様が亡くなったからってお目こぼしはして下さいませんよ」

 玲子だろうと杏子はノックを無視し続けた。やがて諦めたのか、音は止み、ドアを開けると玲子はまだドアの目の前にたっていた。襟の詰まったブレザーを少しの乱れもなく纏って、すっくとたっている。


「ほっといて」


 玲子は感情のこもらない冷たい目で杏子を見ていた。あなたのせいで由貴子は死んだのだとその目は語っていた。


 ドアを閉めようとすると、両手でそれを止めて言う。


「わたくしが由貴子様のかわりに白百合寮の風紀委員になったんですから。杏子さんのこと、放っておけませんわ。早く着替えて下さい」


 相手を従わせる命令口調、この学園で風紀委員に従わずに生活していくことはできない。寮での生活のすべてをしきり、逆らうことは自由を削ることになるのだ。ドアを持つ手を弛めると、すっと部屋に入ってくる。


「由貴子様のように、わたくしはやさしくありませんわよ」


 呆然と見つめる杏子の前で、玲子は百合の葩を愛おしむように微かな笑みをたたえながら花瓶の水をかえ、しおれた花をとって屑籠に捨てた。


「あなたも退学という不名誉だけは得たくないでしょ。あなたがよくても、お家の方が許されないでしょうしね。はやく支度をして下さい。待ってますから」



 肩までで切りそろえられたストレートヘアが襟に揺れるのを見つめながら、杏子は玲子の後をついて校舎に向かった。玲子は守衛室にふわりとした上品な会釈して、


「欠席者、中等部三名、高等部二名です。サインよろしくお願いします」

 と出欠ボードを差し出す。

 玲子ぐらい仮面のすげかえがはっきりしていたなら、由貴子のことを憎んだりしなかったと杏子は思った。

「早く、行きますわよ」

 トーンの違った声で玲子はそう告げ、杏子に向けられた目がすっと眇められる。


 足早に獅子の噴水を抜けて、正面の階段に向かった。シンメトリーの建築正面ファサードの柱頭のガーゴイルたちが威嚇する。


(私だってこんなところ願い下げ)


 けれど、玄関の精緻な格天井と香油の香りに、杏子はいつも口をつぐんでしまう。

 正面がカテドラル、左が中等部、右が高等部。玄関でわかれ、アーチの回廊がつづいている。回廊から見える中庭は綺麗な芝を白百合が囲んでいる。


 ここで由貴子は死んだ。花粉を湛えた百合が嗤うように揺れている。芳香が押し寄せて、うつむいた。柱の陰影を踏みしめながら杏子は回廊を通りぬける。教育舎の階段を上り終え、教室に着いたときには荘厳な魔法にかかったように背筋が伸び、この学園に屈服させられたように生気が抜けた。


「授業が済んだら、迎えに来ますから」


 杏子が精力を削ぎ取られたのとは反対に玲子は力を得たようにはっきりと命令した。

 何も答えず唇を噛みしめながらF組の扉に手をかけ、握りしめる。背を向けると引き留めるように玲子は言った。


「今日こそ、カテドラルに御一緒していただきますわ」

 杏子は玲子の声から耳を塞ぐように扉を閉めた。




 教壇にはすでにシスターエレジアがいて、厳しく冷たい目線で杏子を見ていた。この学園に長年いればこうなるのかというような修道女の顔だ。少女たちも良き生徒の仮面をかぶり、姿勢を正して席に座している。


「遅れて、申し訳ありません」


 教壇にむかって、頭を下げて少女たちに加わる。

 少女たちの視線が突き刺さる。杏子は無視をして教壇の方を見つめる。


「生きているあなたちには成すべきことがあります。主に与えられた命を、自らの手で絶つことは許されない。主に背くことです。理由がなんであれ、ユキコは己の欲を優先させた。彼女の罪が許されるよう、もう一度祈りましょう。そして……」


 シスターエレジアは杏子をまっすぐ透き通った目を向けて、言った。


「私たちの成すべきことを行わなければなりません」

(妄言だわ。由貴子のためじゃない。私のためでもない)


――主よ、永久とわの安息を彼にあたえたまえ。

絶えざる光を彼の上に照らしたまえ。

彼が安らかに憩わんことを

アーメン。


「アーメン」

 目を閉じて十字をきり、少女たちは唱和する。

(私も、良い面の皮)


 クラス全員が杏子を責める鎮魂の祈祷を共に口にする自分を杏子はあざ笑った。


 杏子はゆっくり目をひらく。教室はまだ祈りの余韻に静まっていた。ゆっくり教壇を見るとシスターが瞬きもせずに見つめていた。その顔は青磁のように青く、目は膜を張ったように白かった。

 乾いた色のない唇が何か、口ずさんでいる。シスターの目線がカッと杏子の目を射抜いたとき、その言葉が教室を震わせた。



――罪は、贖われなければ、ならない。

 つぐない、なさい。


「つぐないなさい」

 少女たちは杏子を見つめ、詰め寄り唱和する。

(いったい、何!)

 少女たちは立ち上がり、杏子の首に手を掛けた。


「あなたが殺したのね」

「おかわいそうに」

「恥知らず」


 助けを求めるように教壇を仰ぐと、シスターエレジアはロザリオをかかげて睨んでいた。


「悪魔よ、去れ」


 杏子は立ち上がり杏子は扉にむかう。


「私は殺してない」


 たまらず杏子は叫んでいた。


(狂ってる)


 教室を出ようと立ち上がったとき、



 椅子を引く音が静寂の中に、響いていた。



 手を胸の前に組み、祈りを捧げていた少女たちはいっせいに杏子を見てざわめいた。


(今のなによ)


 シスターエレジアも先ほどの形相が嘘のように取り澄ましたいつもの彼女だった。


「――すみません」


 蚊の鳴くような謝罪はざわめきに掻き消され、愕然とした杏子だけが取り残されていた。


「みなさん、静かに。杏子あなたも座って」


 机を睨み、杏子は脱力して身を椅子にあずけた。

「キョウコ、こちらを見なさい」


 杏子が顔を上げると、シスターエレジアが今まで見たことのないやさしい微笑みを湛えていた。


(由貴子みたい)


「だれも、あなたが殺したなんて言ってませんよ。自分を責めてはいけません」


 声は甘ったるく鼓膜に絡みつき、杏子の肌を粟立たせた。


(私は殺してないわ。勝手に死んだのよ)


「寮に帰って休みますか?」

「いえ、申し訳ありません」


 杏子はすぐに断った。このまま帰って、少女たちがさえずる噂話を少しも耳に入れずに、まるでほんとに由貴子を殺したから杏子が狂態を見せたにちがいないと、いない間に決めつけられるのは嫌だったからだ。


 唇を噛みしめながら杏子は自分に言い聞かせた。


(私は悪くない)


 少し開いた窓から風がすうっととおって、百合の香が鼻腔を突いた。


――あなたは悪くないわ


 風の音のような微かな声が杏子の耳を慰めるように響かせた。


 膝に乗せた手を、杏子は震わせた。


(あなたがそれを言うの、由貴子)



 時間を追うごとに、帰っていればと杏子は後悔した。思った以上に少女たちの視線は厳しく、誰とも目を合わすことができなかった。

 合わせば「つぐなえ」と頭に響いた。悪意は膨れあがって杏子を取り巻いていた。そして優しく薫る百合の香。


 授業を聞く余裕は削り取られ、午後の数学にいたってはノートを開き、教科書を見つめるのが精一杯だった。

 黒板にさらさらと図形と数式を書き連ねていくのをどうにか書き写そうとしたができない。下を向いてばかりの杏子をフィリオ神父が指した。


「この問題をやってみなさい」

 萎える足でバランスをとりながら、教壇に上がる。粉にまみれたチョークを指先でふるった。掴んだチョークがねっとりと指に絡んだ気がして、杏子は取り落としてしまう。

「すいません」

 欠けたチョークを拾い上げるとその粉が手のひらで橙に変わり、溢れた。

 びくっとしてまわりを見回すと、フィリオ神父も少女たちも不思議そうに見ていた。


(見ているのは私だけ。私の罪悪感?)


 唾を飲み込んで杏子は黒板にむかう。


 問1 神の樹の果実は如何にしてイブの手に渡ったか。次の三角形を用いて証明せよ。

 点Aは父、Bは子、Cは聖霊とする。


(夢をみている。でなければ、私はここから由貴子を奪った罰として、狂人として排除されようとしているのかもしれない)


 私は正常なはずだと杏子は思った。


 黒板の脇にいたフィリオ神父が、すぐ後ろにいて、杏子の橙の指を見つめていた。顔を近づけ、チョークのついた手で、杏子の額に十字を書く。



「悔い改めなさい」


(幻覚)


 チョークを握りしめて、杏子は目を閉じた。


――杏子さんは悪くないわ。

――杏子さんは悪くないわ。


 百合の香と慰める由貴子の声。


(これは幻聴)


――わたくしが勝手に死んだんですから。


(私はあなたを殺したわよ)


 杏子は毒づくように心の中で叫んだ。

「分かりません。解けません」

 瞼を開くと円と直角三角形が交差した単純な三平方の定理の問題が目の前にあった。

 杏子はチョークをおいて、席に戻る。

 フィリオ神父の講釈が遠くに聞こえた。

 もしかしたら、私狂っているかもしれないと杏子は嗤った。



 祭祀でカテドラルに立つ由貴子はすべての生徒たちの憧れで、まるで聖人みたいに扱われていた。

「由貴子様」と少女たちは後輩であれ先輩あれそう呼んだ。誰に強制されたわけでなく、他の生徒の親以上に多額の寄付を親が納めているわけでもなかった。由貴子に少女たちは「徳」を感じていたのだ。由貴子はすべての感情を大きく振れさすことがなく、さざ波のように柔和な微笑みを絶えずまとっていた。


 由貴子が死んだその前の日の夕暮れ。黄金色に光った中庭の百合の中に、彼女に似合わぬ動揺した彼女がいた。


「わたくしあなたみたいに生きれたらと思いますわ」


 何を言っているのかと杏子は思った。そして、意趣返しだと思った。

 久しぶりに街へ下りる研修の日のレクリエーションを決める会議、少女たちは黙って由貴子の提案を待っていた。さもそれが当然であるかのように。


「孤児院での奉仕」それが由貴子の提案だった。

 杏子は呆れ果ててしまった。学園で寮で数々の綺麗事を聞いてきた杏子だったが腹立たしさが爆発した。


「レクリエーションが奉仕ですか?由貴子サマ。傲慢じゃありません?」


 教室の空気が凍った。責められるのは杏子。けれど苛立ちを止めることはできなかった。


 由貴子は動じなかった。


「そうですわね。杏子さんの言うとおりかもしれません」


 少女たちがざわつく。


「そんなことありませんわ。由貴子様はご立派です」

「そうですわ。杏子さんは何か良い案でもありますの?」


 非難、非難、非難。


 杏子はシニカルに嗤って「ご自由に」と手をあげた。

 由貴子は変わらない。杏子の言葉にも傷ついたり、損なわれたりしないと思っていた。


「朝のことなら、お気になさらずに。由貴子様は正しいですわよ」


「そうやって、あなたはいつも、わたくしを突き放すのですね。あなたの言うことはいつも、驚かされますけど、本当という気がします」


 言葉を切りながら誠実に話しかける由貴子がうざったくなる。


(この人は目の前にいる全員が、自分に従わなければ不足なのだ)


「何も考えてないわよ、私。ただ、嫌いなの」


 青くなりながら、由貴子は杏子の肩を掴んで、言った。


「わたくし、あなたが好きですわ」

(この人、拒絶されたことがないのね)


 杏子は痛めつけたい気分になってなじった。


「あんたなんか、私はすべて嫌い。息もすいたくない。笑顔で飾って、何を思ってるの。ただ、目を逸らしているだけよ。

 聖女ぶった嫌な女。柱頭に飾られたマリア様。慈悲を与えて、笑っておられるだけ。誰もがあんたを信じるなんて思ってるの?

 好きだと?受け入れると?バカにしないで。

 他の誰が崇拝しようと、私はあなたが大嫌いだわ」


 肩に触れてた由貴子の指先が震えて、力無くおろされる。


「私が好き?どんなふうに?それは証明できるの?誓えるの?」


 由貴子が嫌いな百合のおしべを手にとって、ねっとりとした花粉を人差し指にからめると由貴子の額に橙の十字を書いた。


接吻キスしたいぐらい?」


 由貴子の顎をとり、放心した唇に杏子は口づける。唇を舌で押すと、おずおずと由貴子は舌を出してきた。


「あなたに似合わず背徳的ね。由貴子サマ。ホントに私が好きだったんだ。キスぐらいさせてあげるわよ。なんならセックスだってね。さあ、聖書に手を置いて。私はふしだらな女だと言ってごらんなさい。言えないなら私を裏切ったことになる。私の『好き』が欲しいんでしょ」


 由貴子は震えて杏子を突き放した。


「やっぱりね。あなたは神様には逆らえないわ」


「誓うことに意味があるの?あなたは……わたくしなんて好きではないのでしょう」


「由貴子様とは思えない打算的なお言葉ね。愛に、好きに意味があるかしら。

そうね、あなたが死んだら、一生忘れないでいてあげるわ」


 百合の葩が群青に色づいたころ、由貴子は今まで見たことのない歪んだ微笑みを杏子に向けて、百合の塔に向かったのだ。





 由貴子が死んだ前の日に、杏子も何か、狂わされたのかもしれない。


(だって本当に、死ぬなんて思わなかったわ。 綺麗事ばかり言って、これだから嫌いだっていうのよ)


 教室の中で、もう誰も杏子に声をかけなかった。授業が映像のようにながれ、カーテンコールのように少女たちが席を立ち始めた。


「……杏子さん。杏子さん」


 玲子が目の前にいるのを見たとき、また幻を見ているのかと杏子は思った。

「いきましょう」

 逆らう気力もなく、学園に朝来たときと同じように杏子は玲子についていった。


 回廊を抜け、玄関に向かう。カテドラルの扉を開くと香油の香りが鼻を突いた。椅子が並べられた中央の身廊を薄暗い中、祭壇の奥の光に導かれるように足を進めていく。祭壇にに対したとき玲子が振り返った。


 どこともなく、また百合の香が流れ込み、ひときわ強く充満していた。


「杏子さん、懺悔なさいよ。高慢なあなたが、一ヶ月以上も休んで。今日の醜態もききましたわ」


「私、悪くないのよ」


――そう、あなたは悪くない。


「いいえ、私が殺したのよ」


――私が勝手に死んだのよ。


「何を言ってるの?杏子さん」

 玲子が遠くで何か言っているのを杏子は微かに聞いた。


「私が殺したの」


「どれだけ責めてあげようかと思いましたけど、あなたも悲しいのね。どれだけ悔いているのかも、今のあなたを見てわかりました。牧師様に言っておきますので、存分に悔いてください。主は許して下さる。由貴子様もお優しい方でしたし、必ず許して下さるわ」


 玲子は杏子を残して、去っていく。


――大好き。わたくしあなたが好きですわ。

――あなたに、この愛を注ぐわ。


「幽霊でも幻でも嫌な女。幽霊らしく恨み言でも言ったらどうよ」


――あなたが好きなだけ。キスさせてくれるって言ったわね。


 百合の花弁のしっとりとした甘い刺激が杏子の唇を包んだ。


――あなたがどう思おうとね。あなたの言うとおり。あなたは正しかった。


――わたくしはあなたを一生見守り続ける。


    †


 百合の葩のうえに、杏子はいた。

 由貴子と同じように百合を押しつぶし、あたたかい土のうえに横たわっていた。けれど、死んではいない。寝息をたて、胸が微かに動いている。


 少女たちの悲鳴が杏子の耳に届いた。

 透明な朝日の力を借りて、杏子は目を開く。


 百合の花壇の、由貴子が死んだその場所に、杏子は横たわっている自分を認識した。

 遠巻きの少女たちの瞳は杏子に集められている。


(私も死んだのだろうか)


 口の中が苦さと噎せ返るような百合の香りに杏子は胸がむかついた。


「きゃぁ」

 少女たちは、目を剥いて後じさる。


 まじまじと杏子を見つめる少女たちの瞳は、心配や驚きではなく、畏怖だった。


 杏子は手で口を拭った、橙の花粉が手にねっとりついていた。


 わき上がる吐き気に両手で口を覆った。大きく嘔吐えづいて、指の間からこぼれ落ちる吐瀉物を杏子は、見た。

 百合の葯と融けた花粉の胃液が、こってりと粘りを持って指に絡みついていた。


 橙に、輝き、土にしたたったものが、あらたな吐き気をもよおさせた。胃の中の残留感はいくら吐いてもなくならない。


 唇を震わし、涙を迸らせ、杏子は慟哭した。


「……消えてよ。由貴子!」


 天を仰ぐ杏子に聖母のような微笑みを湛えた由貴子の幻影が、再び杏子に接吻キスした。



                ―了―


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