くらやみ
それ以降、モモはあまりわたしの部屋に来なくなった。
弟に関わるようになって、“自分の部屋に閉じこもる”時間が少なくなったからだろう。両親の言いつけか、自分の意思か、あるいはわたしの言葉を真に受けてか、モモはよく弟と遊んでいるようだった。
「あんまり話してくれないの。恥ずかしがり屋なのかなあ」
たまにわたしの部屋に来ても、モモの話題は弟に関するものばかりだった。
「お人形遊びに誘ってみたけどあんまり好きじゃないみたい。どんな遊びなら喜んでくれるんだろう」
「男の子なら、外遊びが好きなんじゃないかな?」
「ううん……」
後から知ったことだが、モモは弟と外遊びすることを禁じられていた。なんでもその子はあまり身体が丈夫でなく、無理をすると病気になってしまう、と言われていたらしい――もっともな理由だ、しかし、本当にそれだけなのだろうか。モモの能力のせいもあるのではないか、と考えるのは穿ちすぎだろうか?
「おじさんの本を見せてあげられたらいいのにな」
あるときモモがそんなことを言った。
「どうして?」
「だって、おじさんのお話は面白いから、きっとあの子も喜んでくれると思うの」
「いや、だめだよ」
わたしは慌てて首を振る。
「本はお母さんから禁止されているんだろう? バレたらきっと、大目玉を食らうよ」
「そうかなあ」
モモは半ば拗ねたようにそっぽを向いた。なんだか心配になったわたしはそれ以来本棚の本がなくなっていないかチェックするようになった。モモのいたずらで、一番傷つく羽目になるのはモモ自身なのだ。幸い不安は当たらず、本が動かされた形跡はなかった。
モモが来る日、滞在している時間は徐々に減っていく。その方がいいのだとは思う。このままわたしを忘れる方がモモのために違いないとわかっている。
しかし――わたしは彼女を忘れるどころか、どんどん欲望を増していくようになっていた。
モモに触れたい。あの艶やかな髪や柔らかい頬に、あの華奢で愛らしい身体に触れ、抱きしめることができたら――そんなことばかり考えている自分にぞっとする。触る? こんな醜い手で!
いよいよ自分が本物の怪物になろうとしているのを感じる。このままでは次にモモに会ったとき、取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。寝床に入ると、風邪をこじらせて熱にうだる頭にモモの顔が浮かぶ。彼女はわたしではなく、家族と寄り添い、楽しそうにしている。気が狂いそうだ。なんでそこにおれはいない!
置いていかないでくれ。さんざ明かりを見せておいて、おれだけこの暗闇に置き去りにするつもりか。こんなのあんまりじゃないか、きみはおれにこんな思いをさせるために姿を見せてくれたのか! きみもわたしを置いていくんだ、兄さんのように。ぼくを暗くて狭い隅っこに追いやって、そうやって幸せになるつもりだろう!
モモが姿を現さなくなって二週間経っていた。風邪はまだ治らない。身体を動かそうとすると、内臓や筋肉が軋んで痛む。億劫だ、でもペンを握らなければ。お話を書いていれば、またモモが来てくれるかもしれない。
ノートを広げ、続きを綴ろうとして、今まで溢れんばかりにあったはずの物語が、自分の中からすっかり無くなっていることに気づく。
わたしは今、何を祈っているのだろう。
身体が思い。全身が痛む。すっかり拗らせてしまったようで、もうひと月は経とうというのに未だに治るきざしがない。
医者にかかったほうがいいのかもしれないが……病院は嫌いだ。幼い頃からまるで良い思い出がない。それに、このところ起き上がって歩くのにも息を切らしてしまって、とてもじゃないが外を出る気にはならなかった。
炊きたての白米や、焼き上がった魚の香ばしい匂いが不思議なほど不愉快に感じられて、食欲もさっぱり失せてしまった。健康になるには食べなくてはと口に含んでみるが、胸に何か詰まっているようでなかなか飲み込むことができない。結局ほとんどを残してしまうので、食事は粥と汁物だけにしてもらうことにした。朝餉をちびちび時間をかけて喉に流し込んでいると、気づけば正午を通り越してしまっている。
モモは来ない。いつの間にか、すっかり音沙汰がなくなってしまった。まるで彼女の存在自体幻だったかのようだ。机には書きかけで放り出されたノートが広げられたままだ。続きを書かなければ、と思うのだが、体力も、気力も、何よりも想像力も、何もかもがわたしの中から失われている。誰も読まない物語を作ってなんになるというのだろう。
モモに会いたい。
膳を下げに廊下をのっそり歩いていると、庭から楽しげな声がするのに気が付いた。窓から遠く、大人と子どもの影が見える、すらっと足の長い大人のほうは、多分、わたしの兄だ。
子どものほうは……モモより一回りほど小さく見える。目を凝らすと、その子が日本人離れした特徴を持っていることがわかった。異国の血が混じっているのだろうか? そういえばモモは“弟”のことを変わった容姿をしていると言っていたか。
ああ――じゃあ、あれは親子なのか。
キャッチボールをしているようだった。父親のほうが子どもに向かってボールを投げているのだが、子どもは幼いせいか上手くキャッチできず取り落として転がしてしまう。落ち込んでいる子どもに対し、父親は「大丈夫だ、もう一回やってみろ」「その調子だ」なんて声をかけている。男の子は負けじとボールを拾い上げ、一生懸命にボールを投げる……。
「ああ、いいな」
ふと、そんな言葉が唇から漏れ出た。いい? 何がだろう――まさかわたしは、羨ましがっているのか。あんなふうに遊んでもらえたことなんて、わたしにはほとんどなかったから。
男の子が投げたボールが父親のグローブに収まった。男の子がぴょんぴょん跳ねて喜んでいる。父親は男の子の頭をぐしゃぐしゃと撫でて褒めている。良い親子なのだろうと思う。あれが兄でなければ――子どもの出自を知らなければ、きっと心から祝福できた。そういえば、モモはどうしているのだろう? 母親の姿も見えない。
モモは今、家庭内でどんな風に過ごしているのだろう。わたしはここでようやく、その考えに思い至った。
突然何もかもが恐ろしくなった。わたしは呑気に何をやっていたのだ。こんな状況に置かれて、彼女が苦しんでいないはずがないのに。自己憐憫に夢中になるばかりで、彼女のことなんてまるで考えていなかった! ずっと姿を現していないのも、彼女の身に何か起こったからではないのか。だとしたら……彼女は今……
思わず玄関に飛び出しかけて、はっと我に返る。そうだとして、わたしに何ができるというのだろう。彼女を連れだして、両親を無事説得して、この離れにずっとかくまうことができたとしても、それは彼女のためになるのか? 何もできない、何も持たない、ただ家族の情けによって生き延びているだけのわたしが、彼女をどう守っていけるというのか。どころか、わたし自身が彼女に害を及ぼしかねないというのに。
玄関に膳を下げ置くと、わたしは部屋に戻って意味もなく机に向かった。わたしにできることなどない。できるとすれば、いつかまたわたしの部屋を訪れるかもしれないモモにお話を見せたり、大人ぶって慰めの言葉を口にすることだけだ。
せめてわたしが、モモを救える大人であったらよかったのに。
ひどく奇妙な夢を見た。
わたしは子どもになって、離れではない、懐かしき母屋で暮らしていた。昔を思い出しているのかと思ったが、兄はいなかったし、父母の顔は記憶のそれとは違っている。
どういうわけだか毎日毎日、ずっと部屋の中に閉じこもっていた。本当は外に遊びに行きたいけれど、頻繁に母が部屋を覗きに来るから抜け出す隙がない。母は、放っておくとわたしが悪さをしでかすと思っているようで、何度も何度も部屋に来ては「良い子にしているか」「変なことをしていないか」と問いただすのだ。そんなに心配しなくても何もしやしないのに。ずっと言いつけ通りに“良い子”にしているのに。いくら言っても、母は信じてくれずに疑りの目で睨んでくるのだ。わたしはそんな母の眼差しが嫌でたまらなかった。
ひとりっきりはつまらない。部屋の中には遊び飽きたおもちゃと勉強道具しかない。本を読もうとすると怒られるし、最近は“弟”と遊ぶのも許してもらえなくなってしまった。手もちゃんと洗ったし、お姉さんらしく優しくしようとしているのに、弟に近づくとそれが悪いことのように叱られる。「おまえは部屋にいなさい」。いったい、何がいけないのだろう? 理由がわからず、胸がきゅうっとする。
大丈夫。良い子でいれば、きっとわかってもらえる。
退屈しのぎにおもちゃ箱をひっくり返すと、今よりずっと小さい頃に誕生日プレゼントでもらったオルゴールが出てきた。しばらく触っていなかったが、ぜんまいを回すときれいな音で鳴り始めた。なんという曲だったっけ。でも、すごくすてきなメロディだ。楽しくなって何度もぜんまいを巻いてはオルゴールを鳴らしていると、ばたばたという足音と共に母が部屋に飛び込んできた。
「何してるの!」
何もしてない、オルゴールで遊んでいただけ――そう言っているのに母はまるで聞く耳を持たない。わたしの手からオルゴールを取り上げて足音荒く出て行ってしまった。
どうして? 何がいけないの? ……しばらくして、そのオルゴールは父からもらったものだと思いだした。
勉強もおもちゃもうんざりだ。何をしていても母に叱られる。ベッドに寝転んでぼうっと時間が過ぎるのを待つ。遊びに行きたいな、あの人に会いたいな――あの人のお話をまた聞きに行きたい。うとうと、空想と夢の狭間で浮遊しかけていると、外から賑やかな声が聴こえてきた。庭で誰か遊んでる。目を閉じると、父と弟がボール遊びをしているのが見えた。
どうして?
すごく楽しそうだ。でも、あたしは一度もそんなことしてもらったことない。何をしてても怒られるし、悪い子は遊んじゃいけないって。なんであたしはいけないの? なんであの子はいいの? あの子のせいでママはずっと怒ってる。あの子だって悪い子だ。ずるい。ずるい。あたしだって、あたしだって――――なんで、あのこばっかり。
どうして。
気が付くと、あたしは玄関に立っていた。庭から戻ってきたふたりが突然現れたあたしにぎょっとしている。あたしは聞いた。どうして? なんであたしはいけないの? どうしてその子はいいの? パパは答えない。あの子はなんだか怖がって、パパにぎゅっとしがみついている。パパはあんたのものじゃないのに。あたしから勝手に取ったくせに!
どうして、どうして、どうして!
胸の中で潰れていたものが急速に膨らんでいく。手を触れていないのに壁や天井がぐわんぐわん揺れている。あの子がボールを大事そうに抱えているのが気に食わなくて、壊れちゃえ、と願うとまるで風船のように弾けてぼろぼろになった。あの子が泣き出す。パパが何か言っているけどよく聞こえない。
床なんて邪魔だ。扉なんかなくなっちゃえばいい。あれもこれも、全部消えてしまえばいい――こんなのあるから、あたしはここに閉じ込められなきゃいけないんだから! 身体中にうんと力を込めていると、後ろから名前を呼ばれた。振り向くと、真っ青な顔のママがいた。
「何をしてるの――」
その顔を見て、自分が何かとんでもないことをしていることに気が付いた。身体から急に力が抜けていく。ママが震える足取りで近づいてくる。違う、違うの、これはね――
「なんで、あなたはそうなの」
ぱん、と頬を叩かれた。ママの声と手は、ひどく冷たい。
「あなたなんて、生まれなければ良かったのに」
どうして。
――そしてわたしは、ひどくうるさい雨の音で目を覚ました。