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きょうだい

 翌日、わたしは激しい雨音で目を覚ました。

 結局床でそのまま眠り込んでしまったためか、起き上がると全身がひしひしと痛んだ。おまけに身体を冷やしてしまったようで、寒気がするのに身体が変に熱っぽい。玄関先にはいつも通り蚊帳が被せられた朝食が置かれていたが、さっぱり食欲が湧かず、数口しか食べられなかった。

 それにしても、ひどく長い雨である。正午を過ぎてもざあざあ降り続け、まるで止む気配がない。嵐が来ているのだろうか? そういえば、モモが病院に行っていた日もこんな雨が降っていた。思い出すと、なんだか嫌な気分になった。

 モモはどうしているだろう? 両親との団らんを楽しんでいるだろうか? たった一日会えなくなるたびに心をかき乱される自分の醜い幼さが嫌になる。現実から目を背け、空想の世界に浸るのがわたしの特技であったはずなのに。

 ならば、事実をしっかり捉えろと自分を叱りつける。モモがわたしに好意的に接してくれるのは、わたしがたまたま本を沢山持っていたり、童話を書いていたからであるだけなのだ。それ以外に理由があるというのか? なのに何をのぼせ上がったのか、醜男に妙な感情を持たれていると知ったら彼女はどう思うだろう。不気味がり、怖がり、さっさと縁を切ろうとするはずだ。だからこんないやらしい気持ちなど早く忘れてしまうべきなのに――気がつくと彼女のことばかり考えてしまう。

 情けない。身体ばかりか、心まで不具に出来上がってしまった。

 いっそこのまま彼女が来なくなれば、それが一番お互いのためになるのではあるまいか。夕方近くなっても一向に上がらない雨を見ながらそんなことばかり考える。廊下に座り込んで外をぼうっと眺めていると、門から敷地内に車が入ってくるのが見えた。黒の外国車、兄の愛車であるように見える。兄が、帰ってきたのか。

 わたしはふと、自分がなんだかひどい悪事を考えているような気分になって、途端に兄を見るのが恐ろしくてたまらなくなった。誰に見られているわけでもないのに、足を忍ばせてこそこそ自室へ戻る。考えてみれば、わたしの感情が兄に露見したら、普通であればその場で絞め殺されてもおかしくないようなものである。

 普通であれば。普通であったなら、どんなに良かっただろうか。

 その日の夜、数年ぶりに離れの内線電話が鳴った。おっかなびっくり受話器を取ると、半ば忘れかけていた兄の声が聴こえてきた。

『久しぶりだな』

 二、三ほどそれらしい挨拶を交わす。といっても、わたしは相変わらずの引きこもりだし、兄と話すなんて久々だからまともに口など利けやしない。唸るように頷いて兄の話を聞き流し、やっとのことで用件を訊ねる。

 なんの用ですか。何か良いことか、悪いことでもありましたか。

 兄はらしくもなく言葉を濁し、しばらくはっきりと結論を言おうとしなかった。しびれを切らし、勇気を振り絞ってもう一度聞くと、兄は深い溜め息をついて、ぼそぼそと聞き取りづらい声で言った。

『子どもを引き取った。もしかしておまえのところに行くかもしれないが、決して姿を見せるなよ』

 わたしがその言葉の意味を理解する前に、兄は通話を切ってしまった。

 外ではついに雷鳴が響き始めた。時が経てば経つほどひどくなるばかりで一向に好転する気配がない。

 わたしは半ば放心しながら怠い身体をよたよた引きずり、寝台の上に横たわった。天気のせいか、風邪のせいか、今日は嫌な気分がつきまとって晴れない。こういう日は早く寝てしまうに限る、と意識を遠くに投げ捨てる。

 呑気なものだった。何もかも過ぎ去った今になって自分の間抜けさを思い知る。そのとき、モモの家に何が起きていたのか、ほんの少しでも気を回せばわかろうものなのに。

 せめて、今降っている雨粒がすべて彼女の涙でできていると気づいていれば――彼女の心模様を汲み取れていれば、きっともう少しましな結末が訪れていたかもしれなかったのだ。



「弟ができたの」

 二日ぶりに来たモモは、あまり元気がない様子だった。いつものように床には座らず、もじもじと足を絡めてうつむいている。

「お、おとうと?」

 わたしは面食らって思わず手を止めた。聞き返すと、モモはこくんと言葉なく頷く。聞き間違いではないはずなのに、わたしにはさっぱり意味が分からなかった。

 もちろん、いくらわたしでも子どもがキャベツ畑から生えてきたりするようなものではないことくらい知っている。子どもができるということは、その、つまり……相応の“男女関係”が発生した結果に授かるものだろう。しかし、モモの両親はつい最近までほとんど顔を合わせていなかったはずではないか。それが一朝一夕で急に子どもが授かるまでに行くものだろうか? それこそ、畑から採ってくるようなものでなければ。

 わたしがぽかんとしたまま二の句が継げずにいると、モモがぼそぼそとした声で続きを話す。

「えっとね、今まで弟じゃなかったんだけど、今度から弟になるの。あたしの三つ下でね、変わった見た目の男の子」

「ど、どういうことだい?」

()()()()()って、ふつう同じお父さんとお母さんに生まれてくるでしょ? でも、その子違うの。ママの子どもじゃなくて、でもパパの子どもなのは本当だから、その子はあたしの弟なんだって」

 モモの話で、わたしはようやく昨日の兄の電話のことを思い出した。『子どもを引き取った』――確かそんなふうに言っていたか。そのときは熱で頭がぼうっとしていたし、モモのことで頭がいっぱいだったからわからなかったが、モモの言葉とすり合わせるとやっと理解できるような気がしてきた。

 いや、待て――つまりそれは、どういうことなのだ?

 かつて、わたしのとっての兄は、憧れとか、目標とか、規範とか、そういう存在の人だった。兄はわたしとは違い、背はまっすぐ伸びていたし、手足も左右きちんと同じ長さで、顔に瘤なんかない。勉強も運動もいつも一等で、たくさんの人と友達で……兄はわたしにないものをすべて持っていた。

 幼い頃はいつか自分も兄のような人間になれるのだと思っていた。年を経るごとにそんなことは絶対に起こりえないこと、兄と自分とはまるで別の生き物であることを思い知った。兄はいつも「変なことをするな、隅っこにいろ」とわたしに言いつけていた。わたしにできるのは、“普通の人間”である兄の邪魔をしないように、こうして引きこもっていることだけだった。

 結局、今になっても“普通”がどういうものであるかはわからないが、最低限“常識”と呼べるものは学んできたつもりだ。だから――兄がしたであろう行為が信じられなかったのだ。

 まさか兄は、不貞と呼ばれるべき行いをしてしまっていたというのか?

「どうしたらいいのかな」

 依然口を利けないままでいるわたしにモモが言う。どう、とは?

「あたし、今までひとりっ子だったから、『弟』にどういうふうにしたらいいかわからないの。ママに聞いても、ママはずっと怒ってて、喋ってくれないし……。おじさん、パパの弟なんでしょ? こういうとき、どうしたらいいかわかる?」

 今こうして回想してみれば、モモの戸惑いは当然だった。

 モモの弟――家政婦たちの噂を聞くに、いわゆる(めかけ)の子だ。七年前、彼女の能力が家庭に混乱を及ぼしていた頃、あるいはその後に、兄は外で別の女性と関係を持ってしまったのだ。おそらく今まではその子は兄の愛人の家で育っていたのだろうが、愛人の身に何かのっぴきならない事情が起こり、兄の家のほうに引き取られることになったようだ。この間の外出も、きっとそれを話し合うための場だったのかもしれない。

 大人の都合は良いとして、それに振り回される子どもはたまったものではない。いきなり知らない子を連れてきて、『今日からきょうだいになりなさい』と言われても納得できるわけがないだろう。それに、モモの家庭はその当時非常にきわどい場面にあるようだった。自分がわがままを言ったらすべてが崩壊してしまうかもしれない――そんな状況に置かれた子どもはいったいどのように振る舞えば良いのだろう?

 しかし、そのときのわたしはそんな単純なことにすら思い至らなかったのだ。

 混乱の真っただ中だった。兄のしたことがまるで理解できず、モモの悩みの本質がどこにあるかなど考えすらもしなかった。真っ白になった頭で、モモが答えを待っているのに気づき、失望されないよう必死で“正しそうな答え”を考える。

「……優しく、してあげたほうがいい」

「どうして?」

「きっとその子も困っているよ。きょうだいになるのなら、一緒に遊んだり仲良くしてあげたほうがいいと思うよ。家族に冷たくされるのは悲しいことだから」

 そのときわたしの胸には子どもの頃の思い出が蘇っていた。兄が庭で友達と遊んでいて、自分もそれに混ざろうと近づいて行った。すると、兄は怒ってわたしを突き飛ばし、「向こうへ行け」と怒鳴りつけた。兄の友達はわたしを見て笑ったり、変なものを見るような顔をしていた。

 モモの表情は思い出せない。考えに夢中で、どうして彼女の顔を見ようとしなかったのだろう。

「……わかった」

 そう言って、モモはにっこり笑った。

「あたし、頑張る! 頑張って、“おねえさん”になるね!」

 きっと、このときからわたしは彼女の加害者になっていたのだ。

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