くうそうとげんじつ
実際わたしに出来ることといったら物語を作ることだけだった。
モモの両親に会って真摯に説得すれば、あるいは状況も変わっただろうか。いや――わたしの姿を見てまともに話をしてくれる人間なんてめったにいはしない。兄は言うまでもなく、兄の細君もきっと、姿を見るだけで軽蔑し、口を利こうとは思ってくれないだろう。そも、わたしは兄から接近禁止を言い渡されている。もうあれからずいぶん経ったとはいえ、兄の逆鱗に触れる勇気はわたしにはない。
わたしが行動した結果、モモとのささやかな時間を過ごすことも奪われ、放逐されて二度と彼女に会えなくなってしまったら――そんな考えが頭をよぎり、結局何も行動に移すことができなかった。
わたしの物語でモモが少しでも喜んでくれるのなら。彼女にとっての幸せのひとつになるのなら。そう言い聞かせ、わたしは逃げるように物語の制作に打ち込んだ。
永遠に続く物語。
その昔、自らの孤独で惨めな人生を慰めるため、死の間際まで物語を紡ぎ続けた男がいたという。荒唐無稽で奇天烈ながら、その物語は世界のありとあらゆる物語よりも長大だった。彼は読者も批評家も必要とせず、ただひたすら心の赴くままに、自らの祈りと願いを込めて書き続けた。もし彼の命がもっと長いものであったなら、きっと彼のためだけの“王国”は永遠に続いていたのだろう。
彼のことを知ったとき、深い畏敬を感じるとともに、「わたしは決して彼のようにはなれない」と嫉妬と絶望を覚えたものだ。わたしは物語に執着する一方で、現実世界から決別することができず、いつしか空想することすら忘れ穴倉に閉じこもるだけの日々を送っていた。わたしには永遠を創り、それを信じ続ける想像力は持っていなかった。
だが、わたしはモモのために永遠の王国を創らなければならない。
「おじさん、お話できた?」
「うぅひゃああああ!」
ノートに一心不乱に文字を書き連ねていると、突然後ろからモモが肩越しにそれを覗き込んできた。わたしは驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになる。
「もう、おじさんったらほんとに驚くのが得意ね!」
「きみは驚かせが上手だ。いきなりどうしたんだい?」
その日のモモはキャラクターがプリントされたシャツにフリルのついたキュロットスカートを穿いていた。彼女が楽しげに身体を揺らすたび、フリルが風に吹かれた花のように揺れ、彼女お気に入りのシャンプーのスミレの香りが振り撒かれる。艶やかな黒髪に映えるすべすべとした頬の赤み。かの白雪姫もこんな姿をしていたのだろうか? 彼女の顔を間近で見ると、心臓が狂ったように早くなるのを感じる。
ああ、なんて可愛らしいのだろう。
「おじさん、今日はいつもより熱心に書いてるから。そろそろできたのかなって。……違った?」
モモの推測は半分ほど当たっていた。ここ最近は調子が良く、「これなら、いよいよモモに見せられるものが作れるかもしれない」という確信がわたしの中で生まれていた。まだ本書きではなくプロットの段階だったが、わたしは思い切ってモモに見せることにした。
「読んでいいの!?」
ノートを手渡すと、モモは飛び上がって(本当に“飛び上がれる”のだ、彼女の場合)ノートを掴み、ていねいな手つきでページをめくり始めた。わたしは無性にどきどきして、彼女に知られないよう固唾を呑んだ。
「……あたしね、離れに住んでるのはきっと魔法使いだと思ってたの」
ノートをじっと見つめたまま、モモが言った。
「あたしみたいに魔法が使えるから、狭いところに閉じ込められてひとりぼっちでいるんだって思ってた。……あたし当たってた!」
モモは興奮したように叫び、ノートを掴んだまま軽やかに飛び跳ねた。わたしはほっとしたような、さらに心臓が暴れまわっているような不思議な気持ちで彼女を見つめた。
「すごい、すごいすごい! 素敵、こんなに面白いお話読んでいいの!? 夢みたい!」
「気に入って……もらえたのかな」
「このお話、まだまだずっと続くんだよね!? おじさん、あたしよりずっとずっとすごい魔法が使えるのね! やった、やったあ!」
空中をウサギのように跳ね回り、モモはしばらく歓声を上げ続けた。ああ、良かった――受け入れてもらえたらしい。ひと安心すると同時に、わたしの中で暴れていた心臓がぎゅうっと潰れるような錯覚に陥った。
なにが魔法使いであるものか。わたしに魔法が使えたら、きみをもっともっと幸せにすることができるのに。空想の世界で紛らわせるのではなく、現実世界での幸福を、欲しいだけきみに与えられるのに。
けれど――わたしにできるのは、たったこれっぽっちのことだけなのだ。
その日のモモは、ちょっと妙なくらいに上機嫌だった
「おじさん、見て見て!」
いよいよプロットの大詰めに取り掛かっていたわたしに、何かを握りしめた手を突き出してくる。花びらが虹のように色づいた、美しい花だった。
「虹の花! 『ナナシ』に出てくるのと同じでしょ?」
「へえ、きれいだね。どこで見つけてきたんだい?」
「ううん。、あたしが作ったの。見てて!」
そう言って、モモは空いていたほうの手に「うーん」となにやら力を込めている。少ししてモモの手が光ったかと思うと、いつのまにかそこにもう一輪虹の花が現れていた。
「えへへ、どう?」
「すごいな……! 新しい魔法が使えるようになったのか」
モモが作りだした花は本物の切り花とまったく見分けがつかない。どこかに咲いていた花をその場で摘んできたかのようにみずみずしかった。
「もっと色々作れるよ! ほら!」
モモの両手から様々なものが飛び出していく。生きた小鳥、蝶、クッキーにイチゴのショートケーキ、きらきらした宝石、小さな木馬……飛んできた花びらが鼻にまとわりつき、わたしは思わずくしゃみをした。
「おじさんのお話読んでたら、もっともっと魔法が使いたくなったの! 今ならあたし、遊園地だって作れちゃう!」
「そんなに大きいものを作ったら離れが潰れてしまうよ」
モモの魔法はやがて煙のように跡形もなく消えていく。楽しそうに一人遊びをするモモをよそに、わたしは以前抱いた危惧を再び思い出した。
モモの力が強くなっているのだろうか。本当に『遊園地だって作りだせる』のなら、そんな力は飛行や瞬間移動とは比べ物にならない。ひとりの人間が使うにはあまりに大きすぎるのではないか。ただでさえ、両親に疎まれているような才能がこのまま成長していったら、その後モモははたして人間でいられるのか……。
「……おじさん、どうしたの?」
ふと、モモが不安げにわたしを見つめている。いつのまにか表情がこわばっていたらしい。なんでもないよ、とわたしは唇を吊り上げた。だとしても、わたしだけはモモの味方でいなければならない。そう自分に言い聞かせる。
「それにしても、今日はずいぶんご機嫌だね。何か良いことがあったかい?」
「えへへ、あのね――」
モモはよくぞ聞いてくれたとばかりに満面の笑みで、心から嬉しそうに言う。
「明日、パパと会えるの!ママとパパと三人で、一緒にご飯を食べに行くの!」
やはり、モモが必要としているのは“そういうもの”なのだ。
廊下の窓から、楽しそうに庭をスキップしているモモとそれをたしなめる母親らしき影が見えた。実感はないけれど、こういう光景が“家族”なのであろうと思う。
だからそこに、わたしが割って入れるような余地など微塵もありはしない。
良い進展があったのか。兄夫妻が本来あるべきように仲睦まじくなるのなら、それに越したことはない。そして、モモが普通の子どものようにふたりに愛されるのならば、それ以上はないだろう。
だというのに、わたしはなぜ嘆いている? おこがましくも彼女の『一番』になれると思っていたのか。あるいはモモが二親から永遠に愛されない、不幸な子であり続けることを願っていたのか?
あさましい。醜悪の極致である。
このまま上手くいくと良い。おとぎ話や、醜い小男のことなど忘れ、両親と手を繋ぐことこそ幸せであると確認してくれればいい。きっとそれこそが彼女の本当の幸せだ。モモと母親が門から出ていく。離れにひとり残され、曇った窓に映るわたしの姿の、ああなんとおぞましいことか!
瘤が突き出して変形し、奇妙に湾曲した背中。両足の長さが合わず、片方の足を重りのように引きずっている。手は木の枝を適当に括り付けてこしらえたような形だ。顔ときたら、目は魚のように膨れ上がっているし、鼻は頬の瘤と見分けがつかない。唇は薄すぎて杭のような前歯を隠せていない。人々が思う醜さをすべて掻き集めたものがこの姿だ。こんな卑しい見てくれで、よくも彼女の前にいられたものだ。傲慢、無恥、思い上がりもはなはだしい。
まして――彼女を愛そうだなんて、いったいどれほどの厚かましさであったか。
順調に出来上がっていたはずの物語が、瞬間、まるで意味のない落書きのように思えてきた。部屋に戻ったわたしはノートを閉じ、床にもぞもぞと寝転がった。どうせ今日は彼女も来ないのだ。わたしは手足を縮こまらせ、死骸のように目を瞑る。
彼女の幸せを心から願うことができないことがなにより惨めであった。
その日の夜は、久々のざあざあ降りの雨になった。