おはなしのつづきを
『ナナシのぼうけん』。わたしの作品のタイトルだ。
名前を持たない猫、通称『ナナシ』が、名前をつけてもらうために『名づけの神様』がおわすというはるか果ての国を目指して旅をする。その途中、貧しい子どもや悪者に捕まった姫君、沢山の困った人達を助けていく、というのがおおまかな筋だ。
なにぶん処女作だ。今からすれば粗く稚拙で、読み返すと恥ずかしくなるばかりである。世間もそれを見抜いたのだろう、本はさっぱり売れず、気づけば既に絶版になっていた。わたし自身も書いたことすら忘れ、本棚の隅にしまいこんでしまっていた。
しかしモモは、この哀れな物語を愛してくれたのだ。
「シエラ姫は猫さんに助けられたあと、どこに行ったの?」
『ナナシのぼうけん』を読み終わったモモはわたしに矢継ぎ早に質問した。
「だって、今まで住んでた国には悪いお妃がいるから戻れないでしょ? いったいどうしたの?」
「え、ええと……」
考えていなかった、とは言えない。そんなことを言えばモモはがっかりしてしまうだろう。物語の作り手は、読者を失望させてはいけないのだ。
「他に捕まって奴隷にされた人達の中に、遠い国の王子様がいたんだ。ふたりは仲良くなって、一緒に王子様の国を目指して旅をするんだ」
「それってどんな国? 砂漠の国? 雪の国? 南のとても暑い国?」
「う、うーん……」
「腹ペコドラゴンはどうなったの? ベジタリアンの巨人は? どろぼうキツネは?」
モモはわたしが考えすらしなかった疑問を次々口にする。モモは毎日のようにわたしの部屋に来ては、物語の感想をわたしにぶつける。人慣れしていないわたしにとっては嵐のような目まぐるしさだったが、ああ、とても楽しい日々だった。
「どろぼうキツネは可哀想なお姫様を憐れんで、助けてあげようと思ったんだ」
「いったいどうやって?」
「お姫様の姿に化けて隣の国の王子様のところに行ったんだ。キツネはふたりのキューピッドになろうとしたんだよ」
「それで、どうなったの!? それからそれから!?」
「ところがね……あと一歩のところで失敗してしまうんだ。お城の晩餐会でワインを飲んだキツネは、酔っ払ってお姫様の変身を解いてしまったんだ。お城の人達はびっくり仰天。あのキツネはなんだ、早く捕まえろ!」
「ええーっ!?」
モモのために、使っていなかったノートを引っ張り出してそこに新しく物語を綴っていく。腹ペコドラゴンは一年中沢山の果物が採れる夢の島を探して旅立った。ベジタリアンの巨人は空に繋がる大きなはしごを作り、作物がいっぱい取れるよう太陽を照らしたり雨を降らせるようになった。わたしの中から物語が次々溢れ出す。モモからせがまれるたび、新たな物語が限りなく生まれてくるのだ。書けば書くほど、空想が産声を上げてわたしの手を急かす。
「おじさん、続きを話して! 今日はタカの親子の話が聞きたい!」
いつしかモモはわたしの本ではなく、わたしの口から語られる『お話の続き』を目当てに離れに訪れるようになっていた。わたしも生まれたての物語とお茶菓子をせっせと揃え、彼女が決まって訪れる昼下がりから夕方までの時間を今か今かと待ちわびていた。
ああ、とても楽しかったのだ。本来考えるべきであった疑問に気づかないふりをして、自ら愚かに、モモとの時間を怠惰に享楽的に過ごし続けてしまうほど。
まだ十歳の子どもが、学校から帰ってきても友達と遊ばず、部屋でずうっと勉強のために閉じこもっているなんてこと――それを彼女の両親が見過ごしているということが、本来どれだけおかしな状況であるのか。
よりにもよってわたしのような醜い不具者をまるで唯一の遊び相手のように接していることの意味を、未だこの段になってもわたしは考えていなかったのだ。
そんな日々がひと月ほど続いただろうか。その頃からだんだんと、モモはわたしに憂鬱そうな表情を見せるようになっていた。
「それから大熊は毎日魚を獲って、おばあさんの家を訪ねました。おばあさんはその魚と畑で採れた野菜で料理を作り、大熊と一緒に食べました。ふたりはいつまでもいつまでも仲良く暮らしましたとさ……」
はあ、とモモの口から溜め息が漏れる。お話がつまらなかったのだろうか。わたしは内心慌てた。
「どうしたんだい? 今のお話が退屈だったかな?」
「ううん、違うの。とっても面白かった。でも……今日のお話も終わっちゃったから」
モモの憂いの理由を、わたしはなかなか理解できなかった。
「あ、ああ……今のお話は、あれでおしまいだ。めでたしめでたしだよ」
「いつもそう。どこの、どんなお話でも、みんな『めでたしめでたし』で終わっちゃう。シンデレラも白雪姫も、赤ずきんちゃんもヘンゼルとグレーテルも。みんな幸せになるのはいいの、だけど……終わっちゃうのはつまらないもん」
モモは『ナナシのぼうけん』の本を開いてみせた。最後のページ、お話の終わりにはこう書かれている――「みんながしあわせになったので、このおはなしはおしまいです」。
「あたしね、『ナナシのぼうけん』をずっと読んでたかったの。ナナシが名前をもらったあとも、お話が続けばいいのにって。いつまでもページが続いて、めくってもめくっても、ずうっとお話が読めたら――――ずうっとお話の中にいられたらって」
ああ――わたしにも覚えがある感情だ。
読書は別世界への没入だ。物語に熱中している間、わたしは完全に世界から切り離され、文字と文字、行間から物語の世界に入り込む。現実に何が起ころうと、本来の自分が何者であろうと、綴られた文章から想像力を働かせている間だけはわたしは自由でいられた。
もちろん、そんな時間は永遠には続かない。だんだんと残りのページが少なくなっていき、物語は佳境から終結へと向かっていく。ああ、終わらないでくれ。もう少しだけこの時間を続けていたいんだ。だが、ページを繰る手は止められず、いつも最後には本を閉じざるを得ないのだ。
世界に星の数ほど物語はあれど、きっとそれに例外はない。
「永遠に続く物語か」
「えいえん? ……永遠、それなの!」
わたしの呟きに、モモは我が意を得たりとばかりに頷いた。
「ねえ、おじさん、終わらないお話ってないの? ずっとずっと、永遠に続くお話があれば、きっと幸せだよ。ずっとお話を読んで、ずっと楽しくいられて、嫌なことも絶対にないの。それって素敵でしょ?」
夢のような話だ。そんなものがあれば、わたしもきっと永遠にそれに浸っているだろう。それこそ、死ぬまで。だが、現実、そんなわけにはいかないのだ。
「それは難しいよ。だって、そんなお話を作れるのは神様くらいだよ。ずっとってことは、お話を作る人は毎日毎夜、他のことを全然せずにお話を作り続けなきゃいけないんだから。病気になったり、どうしても外せない用事ができてしまったら書けなくなる。永遠は、人間には難しいんだ」
「うーん……」
「きみだってずっとお話を読んでいたら、美味しいお菓子を食べたり、遊んだり、他の楽しいことができなくなるんじゃないかな?」
できる限りモモにわかるよう、やさしく言ったつもりだった。しかし彼女は納得できないのか、唇を尖らせている。
「……おじさんにもできないの?」
「えっ?」
「おじさん、いつも新しくお話を考えてきてくれるから。おじさんになら永遠のお話が作れると思ったのに」
わたしは言葉を失ってしまった。モモを失望させてしまったことに――モモに『期待』してもらっていたことにだ。
今まで一度だって、誰かにそんな風に、何かを望まれていたことなんてなかったのに。初めてそうしてくれた少女を、わたしは落胆させてしまったのだろうか。
「……本当に難しいんだよ、永遠は」
やっとのことでわたしは言葉を絞り出した。
「お話がずっと続くにはね、そのお話を望んでくれる人が必要なんだ。いつまでもいつまでも、そのお話を読み続けてくれる人が。誰かに望まれないと、お話は生きてはいられないんだ」
「あたし、おじさんのお話ならずっと読む。おじさんのお話大好きだもん。ねえ、お願い」
モモの瞳は眩しかった。密閉された暗闇に、突然現れた光のようだった。世間の人はこれを『希望』とか『信頼』だなんて呼んでいるのだろうか。わたしにとっては生まれて初めて浴びる光で、だから、絶対に取り零したくないと思ってしまった。自分の目が既に潰れかけていることになんて気づきもせず。
作ろう、彼女のためだけのおとぎ話を。