はじめてのやくそく
翌日になるとわたしの心はすっかり罪悪感に染まっていた。
十歳かそこらの子どもに対してなんて口の利き方をしてしまったのか。どうあれ悪気なんてなかっただろうに、話もまるで聞かずに出て行かせようとするなんて。なんてことをしてしまったのだろう、可哀想に、ああ、申し訳ない。
一方で肝心要の疑問である『いったいどのような手段でわたしの部屋に出没したのか』は、考えないふりをして。
しかし冷静になったところで何かできるわけでもなく、昨日のように猿芝居を打つこともせず自室で悶々と時を過ごしていた。
遅い昼餉を食べ終え、ああ、そろそろ洗濯物を取り込まねばなるまいなと思いながら床でごろりと転がっていると、玄関から奇妙な音が聞こえてきた。
あれはなんの音だったか。久しぶりすぎてなかなか思い出せない。確かあれは、飾りのように付けられた呼び鈴が鳴る音ではなかったか。外れくじを引いた家政婦しか訪れない我が離れで呼び鈴が鳴らされることは滅多にない。来客か? このわたしに。床から起き上がり、のっそりと玄関に向かう。
だが、扉を開けてもそこに人影はなかった。おかしい、空耳であったかと踵を返そうとすると、背後から声がした。
「こんにちは、おじさん。昨日はごめんなさい」
振り返らずともわかる。あの少女の声だ! だが、いつのまに、いかにして。昨日と同じ疑問が胸に去来する。
「き、きき、ききみは……」
「今日はね、これを返しにきたの。昨日間違って持って帰っちゃったから。ねえ、このお話すごく面白いね。本屋さんで見たことないけど、もしかしておじさんが作ったの?」
硬直するわたしに対し、モモは昨日と変わらずにこにことわたしに笑いかけ、胸に抱いていたハードカバーの書籍を差し出した。
書いたことも忘れて本棚の隅で埃を被せたままでいた、わたしの著作であった。
「本を読まない子ども」と言った警句は、それこそわたしが子どもの頃からあった。しかし今にして思えば、それは子ども自身の問題ではなく親の責任であろうと思う。
モモはわたしへの挨拶もそこそこにわたしの部屋に駆けだし、昨日と同じように床に座って本を読み始めた。ほんの数分前までわたしがごろ寝していた床だと思うと途端に申し訳なくなり、モモに座布団を差し出した。お気に召さなかったのか、それは本の置き場として使われたが。
「こんなに読んでいい本がいっぱいあるところは初めて!」
と、モモは『なぜここに来たか』に対する彼女なりの答えを示した。
「ママは全然お話の本を買ってくれないの。そんなの読んだら馬鹿になるって言って、勉強の本ばっかり。図書館とか本屋さんに行くだけでも怒るの。おじさんの家にこんなに本があるって知ってたら、もっとずっと前から来たのに!」
モモの母親――兄の細君は『本を読ませない母親』であるらしかった。それが教育的に見て正しいものであるか否かの判断はわたしにはできないが、少なくともモモはこうして反発している。子どもは禁忌こそ目を輝かせて犯そうとするものだ。
目の前の少女がどうやら兄の子であること、ここ最近の怪現象の犯人は彼女らしいことをようやく悟り、夢中になって本を読み耽るモモを見ながらわたしはどうしたものかと悩んでいた。このことが兄や細君に知れればわたしはどうなろうか。彼女の方から押しかけて来た、と主張しようが納得してもらえはしないだろう。わたしが唸り声をあげていると、モモはページをめくる手を止めこちらを見た。
「おじさん、どうしたの? またあたし、おじさんにめいわくなことしちゃった?」
「い、いい、いや、そういうことじゃ、なくてだね」
「……もしかしてパパとママのこと?」
詳細は知らされていないだろうが、わたしがこの家でどういった立場にあるのか、モモもうっすら察しているようだった。わたしが返事に窮していると、「だいじょうぶ」と明るい笑顔をわたしに向けた。
「あたしがここにいるなんて絶対わからないよ。お部屋で真面目にお勉強してるはずって思ってる」
「い、いや、でもだね」
「見てて!」
そう言ってモモは本を置いて立ち上がり、スキップでもするようにぴょんと飛び上がった。その瞬間、彼女の姿はその場から消え去った。わたしは思わず狼狽の声をあげた。
「こっち、こっち!」
モモの声は部屋の外からする。慌てて出ると、廊下の中程に立ったモモがいかにも得意げに手を振っていた。
「すごいでしょう? わたし、魔法が使えるの!」
わたしが瞠目のあまり沈黙していると、モモは急に不安げな様子になってわたしの顔をまじまじと見つめてくる。ああ、そうか、褒めてほしいのか。驚きによって乱れた思考のまま、一番最初に浮かんだ言葉を口にした。
「ああ、本当にすごい。素晴らしいよ」
その答えに満足したのか、モモは顔を綻ばせた。
ESP。あるいはサイキック。モモはどうやら、そういう類の非凡な才能を持っているようだった。
わたしに褒められて気を良くしたのか、モモは得意げに次から次へと『特技』を見せてくれた。
「見て! こんなこともできるの!」
水の中を泳いでいるかのようにモモの身体が宙に浮かぶ。感心の声を上げると、今度はわたしが座っている椅子まで浮き上がった。
「うわ、うわわあ、下ろしてくれぇ!」
椅子から落ちそうになりながら頼み込むと、わたしの身体だけが木の葉のように床に柔らかく着地した。椅子は他の家具と一緒に空中でダンスパーティーをしている。モモはさながら家具の嵐の中で踊る人魚だ。
「き、きみがすごいことはよくわかったよ。全部元に戻しておくれ。ほら、お菓子をあげよう」
「ほんとう!?」
くるくる回っている戸棚の中の羊羹を指差すと、モモは目を輝かせて動きを止めた。宙を待っていた家具達もゆっくり下降し、元の位置に収まっていく。落ち着きを取り戻した自室にわたしは安堵のため息をついた。
なるほど、これだけの力があれば、玄関から出入りせずにわたしの部屋に入ってくることも、そしてぱっと消え去ることも造作もなかろう。そのまま自分の部屋に戻り、あたかもずっと勉強していたように装うこともできるだろうし、もしかしたら地球の裏側にすらその身一つで行けるのかもしれない。
大したものだ、と思うとともに、あまりに常軌を逸した才能に恐ろしさを感じたのも事実だった。まるで神様のような力を持つこの少女にはできないことなどないのではないか。今は思いつかずとも、悪い友達に唆されたり、悪どい大人に利用されて犯罪に手を染めてしまいはしないか。それに、モモの両親は彼女の才能についてどう考えているのだろう? 自分の子どもがこんな力を扱えるだなんて知って、心穏やかでいられるのだろうか。
「ああ、楽しかった!」
羊羹を五切れ食べ終えたモモは上機嫌そうに言った。気づけば開かずの小窓から西日が差し込んでいる。子どもが遊ぶには遅い時間だ。
「おじさん、遊んでくれてありがとう! こんなに楽しかったのは久しぶり!」
遊んだというよりも終始翻弄され、『遊ばれていた』印象だったが、モモにとっては充実した時間だったのなら何よりであろうか。
「ねえ、また遊びに来てもいい?」
と、モモは再びあの不安げな顔を見せて言ってくる。
「き、来ても、楽しいことはほとんどないよ。ここにあるのは、本だけだ」
「それでいいの! 家よりずっと楽しいもん。それに、だって……」
モモはわたしの著作を名残惜しげに撫でている。栞の代わりか、花の折り紙がページの中に挟んであった。
「……このお話、まだ読み終わってないから。続き、読みに来ていい?」
恐縮してしまうが、モモはわたしの著作をいたく気に入ってくれたようだった。なんだったらきみにあげよう、そのまま持って帰ってくれと言うと、モモは首を振る。
「それはだめ。ママに見つかったら叱られちゃう。ここにいればママには見つからないし、いいでしょ?」
断るべきだったのだ。そんな子どもの浅知恵、すぐにバレてご破算になるだろうと。
言い訳はいくらでも浮かぶ。単純に子どもが落ち込む顔は見たくなかった。叔父ぶって、可愛い姪っ子のわがままを聞こうだなんて思いもした。初めて対面した自作の読者に褒められて、のぼせ上がっていたことも否定できない。
いや、何よりも――初めてだったのだ。わたしのこの醜い容貌を見て、カエルのように耳障りな声を聞いて、顔を背けずに相手してもらったことなんて。まるで人間のように扱ってもらえるなんて。わたしは虫ではなく人であったのだと、久々に思い出せたのだ。
「あ、ああ――きみが望むなら、いつだって。もっと美味しいお菓子を揃えて、待っているから」
「――ありがとう!」
モモは嬉しくてたまらないように飛び跳ねると、そのまま姿を消してしまった。家に戻ったのだろう。彼女がいなくなっても、彼女が漂わせていたスミレの香りはなかなか消えなかった。
自分がどれだけ愚かな選択をしてしまったかも気づかず、わたしはしばらく、その香りに酔いしれていた。