わたしとかのじょ
わたしの職業は童話作家だった。
もう随分に作品を発表していないし、増版しないほど売れていなかったらしいので、もはや過去形である。
というよりも、わたしは世間一般的に言って、ほとんど労働らしいことをしたことがない。体を壊す以前から、こうして実家の離れに引きこもって細々と文章を書くだけの日々を送っていた。
体が悪かったのか、心が悪かったのかはわからない。義務教育を修了して以降いつのまにかそういう生活になっていた。家族もわたしの顔を見に来ようとはしなかったし、母屋にわたしが姿を表すと機嫌が悪くなるのを隠そうともしていなかった。家族にとってのわたしは地中の虫のようなもので、見えなければ気にも留めないが、顔を出すと不愉快になって殺してしまいたくなるような、そのような存在だったらしい。
「おまえのような子は、昔は育つ前に間引いてしまうか、ここよりも酷い地下に永久に閉じ込めておくものだったのだから、おまえはとっても恵まれた生まれだよ」
最後に祖母に会ったときにそんな風に言われた。思えば祖父母が亡くなったときすらわたしには知らされず、後になって兄から教えてもらったものだった。その兄も所帯を持ってからはめっきりわたしと口を利いてくれなくなった。
かくして変身せずして寄生虫となったわたしは、暇つぶしに物語のようなものを書き散らす暮らしをしていた。そのうちふとなんとなしに出版社に送ってみたものが幸運にも編集者の目に留まり、出版するに至ったのである。
昔からおとぎ話の類ばかりを好んで読んでいたため、自分で書く文章も自然にそれらに寄ったものになっていた。わたしの空想癖を満たすのにおとぎ話はうってつけだった。夜な夜な布団を頭から被っては、豆の木を登って巨人の国を覗いたり、子豚と一緒にレンガの家を建てるようなことばかりを考えていた。
幼いわたしがとりわけ好んだのは、異世界や空想の国を冒険する物語だった。不思議の国。ネバーランド。オズ。ファンタージエン。竜宮城。あるいは舌切り雀やおむすびころりんに出てくる、スズメやネズミがもてなすお宿。人の世ならざる異界に酷く心を惹かれたことをよく覚えている。
わたしがいずれかの物語の主人公であれば、きっとそこから帰ることはなかっただろう。愚か者、ごうつくばりのばか者と言われても、絶対に元の世界には戻らないに違いない。
わたしを見下し、罵って追い払おうとする『人間』がいる世界より、酷いところはないはずなのだから。
わたしの心が中学校を卒業した子どもから成長することはなかったが、しかし世間の時間はあっという間に過ぎていく。
ふと気づけば祖父母が亡くなり、両親も老い、兄は妻帯者となって一家の大黒柱となっていた。わたしだけが一向に虫であるまま、周りはどんどん変わっていってしまった。
「おまえはもうしょうがない。今更追い出すつもりはないし、死ぬまでは面倒を見てやれる。だが、俺の家族に会うな。まかり間違って話でもしてみろ、おまえの家はなくなると思え」
そう語った兄にとっては、わたしは既に兄の家族ではないようだった。むべなるかな。ろくに働きもせず、食い扶持と敷地を食い潰すだけの引きこもりである。兄夫妻が実家で暮らすようになってからはわたしは母屋に顔を出すのをやめた。
いつまでこんな日々が続くのだろう。わたしが死ぬまでか。あるいは何かの間違いで兄が先に命を落とし、いよいよ厄介がった遺族に離れから追い出されるまでか。その頃には時間の感覚というものをすっかりなくしてしまったわたしは、いつか確実に来るだろう将来を、なんの実感もなく想像するのみであった。
いや、本来であれば、その可能性を考えるに至った時点でさっさと首を括っているべきだったのだ。
いつからか母屋が騒がしくなった。兄夫妻に子どもが生まれたらしい。兄の言いつけを守っていたので、どんな容貌かを知る機会はなかったが、家政婦達が噂するにはおてんばな女の子であるらしい。わたしも昔は兄と一緒に庭を駆けていたものだ、と外から聞こえる賑やかな笑い声にノスタルジーに浸る。
しかしそんな歓声はある日ぱったりと聞こえなくなった。
何かがあったようだった。さすがに箝口令があったか、家政婦達もその件について噂しようとはしなかった。兄夫妻の娘――姪の身に良からぬことがあったのでは、と想像することはできたが、確認するすべはない。姪についてわたしから兄に話をするなんて、わざわざ逆鱗に触れに行くようなものだ。わたしを歓迎するのは不気味なまでの静寂だけである。
それからまたしばらくして、今度はわたしの身に異変が起こった。
本棚である。わたしの持つ唯一と言っていい財産である書籍が知らぬ間に失くなっていたり、かといえば箪笥や手洗い場といったわけのわからぬ所に移動していたり、棚の並びが滅茶苦茶に入れ替えられたりといった現象が毎日のように起きた。
離れの鍵はわたしと兄しか持っていないから、いたずら心を働かせた家政婦の仕業とは思えない。そも、家政婦達もわたしを不気味がって、離れの入り口に食事を置いてはわたしが姿を現さないうちに逃げていく。むろん兄もありえない。
盗られるような金品は持っていないし、本棚以外をいじられた様子はないから、悪意のある犯人ではなかろうと思う。しかし、ただただ不気味だ。正体不明の何者かが寝室を闊歩しているかもしれないと思うと、いくらわたしとて落ち着いてはいられない。そこで、一計を案じることにした。
離れには玄関口の他に、庭に面した勝手口がある。玄関からいかにも外出したように見せかけて、勝手口からこっそり戻り闖入者の来訪を待つのである。闖入者がどこからどのように入ってくるにしろ、どれかの入り口から来るに決まっている。
そんなわけで勝手口から戻って物陰に息を潜めた。子どもの頃にやっていた、かくれんぼや探偵ごっこを思い出し自然と胸が高鳴る。
しかし――いくら待てども扉が開く様子はない。わたしの猿芝居を早々に見抜いて、今日は侵入を諦めたのだろうか。ほっとしたような、がっかりしたような微妙な気分で、窓から差す夕焼けを見ながら自室へ戻る。
そして、そこに愛らしい少女の姿を見つけたのだった。
「あれ、おじさんもう帰ってきていたの? 扉の音がしなくて気づかなかったわ」
広げていた本をぱたんと閉じ、少女は床から立ち上がる。広がっていたスカートがふわ、と揺れ、ありもしない風を錯覚させた。
「こんにちは。初めまして。遊びに来たの、お菓子を出してくれる?」
姪は――彼女は花のように笑った。
彼女のことは、仮にモモと呼ぼう。
可愛らしい少女だった。顔や体のあちこちが瘤で変形したわたしとは似ても似つかない。親族としての贔屓目を抜いても間違いなく愛らしい姿をしていた。
モモは呆然とするわたしの顔をまじまじと見つめ、いかにも感心したように言った。
「おじさんって本当にぶさいくね! なんでパパがおじさんを嫌ってるのかわかった!」
ぐうの音も出ない事実である。子どもはよくこうやって、大人ならば慎むような言葉も平気で投げかけてしまう。
見知らぬ人の家に忍び入り、あまつさえその主人と対面しながらまるで物怖じしないモモに対し、わたしはそれこそ見ず知らずの場所に放り出されたように混乱していた。
思えば、現実に人と顔を合わせたのは何年ぶりだろうか? 外を出歩く時ですらわたしの周りからは自然と人が離れていく。こうして目を合わせて、快活に声をかけられたことなんていつ以来だろう。まして、その相手が自分よりはるか下のあどけない少女だなんて。ああ、わたしはいったいどうするべきであったのか。
「き、き、き、きみは、だれだ!」
腰を抜かして尻餅をつきかけながら後ずさりし、確かそんな風に問いただした。きょとんとするモモに、わたしははたしてどんな顔をしていただろう。
「ど、どこからきた! なんでここに! か、帰ってくれ、早く出て行ってくれ!」
「おじさん、あたしお腹空いたの。おやつちょうだい?」
「う、うわああああああああああああっ!」
文字通り這々の体でわたしは自室から逃げ出す。おかしな話であろう。三十路も半ばを過ぎている男が、女児を相手に我を忘れて恐慌するなんて。しかし、わたしにとって『人間』とは、それほどに恐ろしい生き物であった。
ひいひいと息を荒げて勝手口の前まで戻る。これではわたしの方が侵入者のようである。床に這い蹲り、脂汗をぽたぽた垂らしながら、ようやくわたしは我に返る。
あの少女は何者だ? なぜ、わたしの部屋にいる? 何が目的だ? ……いや、いや、そんなことよりも。
彼女はいったいどこからどうやって入ってきたのだ。玄関も勝手口も使わず、窓の無い密室であるわたしの部屋に。
わたしはおそるおそる自室へ戻った。彼女のことは恐ろしくてたまらなかったが、それよりも疑問とそれを暴きたい好奇心が勝った。ぎしぎしと軋む板張りの廊下をぎこちなく歩き、そうっと自室を覗き込む。
だが、どういうわけか彼女は忽然と姿を消していた。机の下や本棚の陰、押し入れの中などに隠れたわけでもなく、ましてどこの入り口からも出て行った様子などあるはずもなく。
ただ、床に散らばった本の上に、花の形に折った折り紙だけを残して。
『びっくりさせてごめんなさい』
折り紙にはそんな文言と、微かにスミレの匂いが刻まれていた。