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まぼろしにゆめを

 うつ伏せで泥の中に埋もれていると、こここそが自分にふさわしい場所だと再確認できる。光や温もりなど求めるべきでなく、暗闇を這いずり、汚泥を啜りながら生きていけばいいのだ。

 泥は冷たく、わたしの持つ熱を少しずつ吸い取っていく。不愉快だったが、つい先程まで自由に動き回れていたはずの身が、今の段になってちっとも動かない。それでいいのかもしれない、と思う。このまま永遠に、泥漬けになっているのがお似合いだろう。

「きゃあああああああ!」

 どこかで悲鳴がした。どこの誰だろう、モモの声ではない。

「どうしたの!?」

「人が倒れてるの、そこに……!」

「あれ、()()()じゃない!?」

「救急車呼んで! 旦那様にも連絡を――」

 ばたばたうるさく駆け回る足音。そういえば、いつのまにかすっかり雨が止んでいる。まぶたに透ける外界は、少し明るくなっているように思えた。

 少しして、けたたましいサイレンの音が聞こえてきた。




 雨の中で転び、気を失って、運悪く朝まで見つけられずに倒れていた――周囲の人間はわたしの身に起こったことをそんな風に解釈したらしい。

 わたしは病院の個室に運び込まれ、あっという間に患者に仕立て上げられた。看護師はさすが手馴れたもので、目を覚まして混乱するわたしに優しい微笑みで現況を説明する。

「点滴だなんて、ずいぶん大げさなんですね。風邪をひいてるだけなのに……」

「そのことなんですが……」

 看護師は困ったように眉をひそめ(それでもわたしの醜さが見えていないかのような笑顔なのだが)、歯切れの悪い口調で言った。

「あとで、医師から説明があります。ご家族はもうご存知なのですが……おひとりで訊きますか?」

 医師はいやに真剣な顔でわたしの病室を訪れた。ベッドの上から動けないわたしの顔を、パイプ椅子に座りながら重々しく見つめる。

「あの、いったいなんでしょうか……」

「大変、申し上げにくいことですが」

 医師が言うことには、わたしの身体の中で悪性のものが、取り返しのつかないほどたくさん根を張っているそうだった。

 医学の知識はないが、この手のものは一度あちこちに転移してしまうと手術や薬でもどうにもならなくなってしまうらしい。さながら花壇に芽生えた雑草のように、土壌となる肉体の栄養を無尽蔵に吸い取り、とめどなく増殖していくのだという。わたしの場合、風邪を引いたり、身体を冷やしたりで生命力を弱らせていたのも悪かった。もはやわたし自身が必要としている栄養の大半は病の繁殖に使われてしまっている状態だった。

「治るものでは、ないのですか」

「治療をすれば、ある程度余命を長引かせることは可能です。しかし、今の状態では副作用による苦痛が疾患の苦痛を上回ることになりかねない」

 痛みを感じながら足掻くか、楽に死ぬ準備をしておくか選べ、ということらしい。

 わたしは楽に死なせてくれるよう頼んだ。

「まさか、こんなことになるなんてな」

 その日の午後になって、兄が見舞いにやってきた。会社はどうしたのか訊ねると、わたしの入院手続きのため休みを取ったと言う。申し訳ないことをしてしまった。

「すみません。あなたには、迷惑をかけてばかりだ」

「……いいんだ。おまえは、しょうがないからな」

 普段は必要以上に丁寧にまとめている髪を乱れさせ、兄はひどく疲れているようだった。思えばわたしは生まれてこのかた、兄に迷惑をかけなかった日が一日たりともなかったかもしれない。幼少期、兄に拒絶されたあの日。あの残酷な嘲笑は、“わたしの兄”である彼にも向けられていたはずだ。いったいどんな気分で、友達の嘲る声を聞いていたのだろう。

 あるいはモモと同じような感情を抱いた日もあったのだろうか。そんな考えに至り、わたしの胸になんとも言い難い感情が渦巻いた。

「それで、これからどうするんだ。こっちに戻るのか?」

「……いえ」

 医師にも確認された。病状がここまで悪化し、治療が意味をなさないとなると、病院にいるより自宅でゆっくりその時を待つことを望む患者も多いという。しかしわたしにとっての自宅とはあの離れで、薄暗い寝床に過ぎないのだ。兄や家政婦にこれ以上負担をかけても仕方がない。

「そうか。まあ、その方がいい。今、うちは少しごたついているからな。こっちの方が落ち着いて休んでいられるだろう」

「……あの、ところで」

 かねてからの疑問を、わたしはようやく口にすることができた。

「あの子は……――――さんは、どうなったんですか」

 言ってから『しまった』と思う。兄の娘のことを知らないはずのわたしが、モモの名を知っているとなれば不信に思われる。どう誤魔化したら良いものか、と焦るわたしをよそに、兄は困ったように顔をしかめた。

「……なんの話だ?」

「え……」

「おまえの知り合いか? その、――――という奴は」

「あの、だから、あなたの娘の」

「何か、勘違いしているんじゃないか?」

 兄は呆れた口調ではっきりと断言した。

 自分には娘などいない、と。



 悪い冗談か、体面を気にする兄が嘘を吐いているのだと思った。しつこく確認するわたしに呆れ果てた兄が翌日持ってきた戸籍謄本を見るまでは。

 ない。兄の妻やつい先日引き取った“あの子”の名は載っているのに、肝心の彼女の名前が――まるで、最初から存在していなかったかのように。

 パニックに陥ったわたしを、兄は『病気によるショックで記憶が混濁している』と判断した。もういい、変なことは考えるな、ゆっくり休め――そう言い残し、それっきり、兄が見舞いに来ることはなかった。

 何が起きているのだろう。モモが消えた? そもそも、そんな少女は実在していなかった? ……そんな馬鹿な。わたしの今までの日々が、孤独で気を病んだがための白昼夢だったというのか。あの声が、眼差しが、笑顔が、光が――全部幻だったと?

 そんなことがあってたまるか。

 あるいは、これも彼女の魔法によるものなのか。彼女はあの日、彼女の望みだけが存在を許される世界へ行ってしまった。ドロシーやアリス、浦島太郎のように家に帰ることを望まなかった。旅行(トリップ)ではなく移住することを選んだのだ。荷作りの際、不要な家財を処分するように、こちらの世界に置いてきた沢山の厄介事を魔法によって片付けてしまったのではないか。

 根拠のない推測である。むしろ、わたしが『そうであってほしい』と必死で縋り付く浅はかな希望以外のなんであろうか。何しろ彼女のことを覚えているのはわたしひとりきりで、それを証明づける確たる証拠は存在していないのだ。わたしの気が違っていないと言い切れる自信は、今のわたしにはない。

 異変はそれだけにとどまらなかった。寝台に寝転がり、点滴を吸い取るだけの日々の中、せめて彼女との日々を思い返そうとし――彼女の名前を思い出せなくなっていることに気が付いた。少なくとも“モモ”ではなかった。もっと愛らしく、チャーミングで、彼女にぴったりの名前であったはずなのだ。何度も呼び、焦がれたあの名が、喉元から出てこない。名前だけではない、声や顔も、少しずつおぼろげになっていく感覚があった。

 このままわたしも、彼女のことを忘れてしまうのか。

 こうして筆を執ったのも、実を言うとそれが理由であった。思い出して書き留めておけば、彼女のことを記憶にとどめておけると思いたかった。もうあといくら保つのか、下手をすれば数日もないかもしれないような余命を、たったひとりきりで過ごすなんてとても耐えられない。あの日々が永遠に戻ってこないことはわかっていても。

 彼女の存在が現実か、それとも幻か。どちらであっても、今となっては些細なことである。わたしという生き物の長い闇の中の生に、彼女というまばゆい光がほんのわずかの時間でも存在してくれたということが、わたしにとっての真実なのだ。だから、記したい。刻みたい。祈りたい。彼女という人を。彼女がくれた温もりを。彼女にしてしまった仕打ちを。わたしが生きた証として。

 さて、これがわたしの罪、祈りのすべてである。もはや書くべきことは何もない。まだあるかもしれないが、それは多分既に記憶から取りこぼしてしまっている。あとはもう、この世界からいなくなってしまった彼女の幸せを願いながら、天井を見つめて時を待つのみである。

 しかし、看護師に用意してしまったノートとペンがひどく余ってしまった。もう書くことはないのだが、わたしが死んだあと、新品同然の筆記具がそのまま処分されてしまうのはなんだか忍びない。まだ時間があることだし、もう少し、何か書いてみようか。

 ――そういえば、彼女との約束をすっかり忘れていた。書きかけのあのノートは、まだ離れにあるだろうか。何を書くつもりだったかはすっかり忘れてしまったが、どうせなのだ、また一から考えてみよう。

 タイトルは既に決まっている。あのオルゴールのメロディ、あれの曲名をやっと思い出せた。きっとあれがぴったりだと思う。

 トロイメライ。

 わたしという汚泥から、誰よりすてきなきみにおとぎ話を贈ろう。

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