雪は白く腐りゆく
「人間をやめたい」
その台詞は、今やすっかり私の口癖になっていた。
入側縁に置かれた火鉢に覆いかぶさるようにしながら、庭に積もった雪をぼんやりと眺めていると、炭がパチンと小さく音を立てた。
「じゃあ、センセは死んでしまいたいのですか?」
すると、鼻にかかった甘えるような声音が、冷たい空気の間を縫うようにして響く。私は火箸で爆ぜた炭を均しながら、その声の主へと視線を上げた。
「いや。死にたいというのとは違うよ」
いつの間にかやって来ていたシロへ、私は何度も独りで反芻してきた理由を説明してやる。
「すべてをご破算にするという意味では、死はとても魅力的だ。きっと私は死に憧れているのだと思う」
私は火鉢に鉄網を乗せると、続いて湧水の入った鉄瓶を火にかけた。
「けれど、憧れるのと同時に、私は死を怖れている。死んだらどうなるのかなんて、死んだ者にしかわからないからね。死後が平安であるだなんてことは、誰も保証してくれない」
湯呑みを二つ並べて、急須に茶葉をたっぷりと入れる。寒い時には渋味が強い方が私の好みだ。
「だから、私は人間をやめることで、死とは違う終わりを手に入れたいんだ」
火鉢の上では、すぐに鉄瓶の口から湯気が昇りはじめた。
「終わりのわからない苦痛に耐え続けることが、どれだけ辛いことかなんて、想像するまでもないことだからね」
私は湯を一旦湯呑みに注いで温度を下げてると、ゆっくり急須へ移し替えた。
「センセにとって、人間であり続けることは苦痛なのですか?」
シロは睫毛の長い大きな瞳で私の顔を覗き込みながら、からかうように尋ねてきた。
「人間であるということは、本質的に苦痛でしかないのだよ。誰であろうと」
「センセは可哀想ですね」
「そうでもないさ」
十分に茶葉を蒸らしてから、丁寧に湯呑みへとお茶を注いでいく。黄金色をした最後の一雫が水面へ滴り落ちて波紋が広がる。
「どうぞ」
「ありがとうございます。センセの淹れてくださるお茶が一番美味しい」
シロはそう言って柔らかく微笑むと、少し腰を浮かせて座り直した。あらためて揃えられた脚先は足袋も履いておらず、寒々しいまでの素足だった。
「シロ。それでは寒くないのかい?」
そう言ってシロの脚へと視線をやると、メリンスの着物の裾から、新雪を想わせる幻想的な白さを湛えた足首と、形の良い脹脛が見えた。
その瞬間、とうに眠らせたはずの苦い衝動が、私の胸の奥で強く脈打つのを感じた。
若い頃の私は、それなりの年齢になれば情欲も次第に衰え、心安らかな日々が来るのだと何の根拠もなく考えていた。でも、それは間違いだった。むしろ歳を取るほどに事態は悪化をしていく。身体の衰えに逆らうかのように煩悩は身の内を暴れまわり、出口のない迷路をあてもなく盲目的に突き進む。そこに終わりなどないのだ。
そんな苦悩から私は早く解放されたかったはずなのに、これが死ぬまで続くのだと想像すると、凍りつくような怖気が背筋を這い上がってくる。
それなのに。
それなのに私は、シロの透けるように白い脚から目を逸らすことができなかった。それは妖しく輝く宵月のように、狂おしく艶めかしい肢体。私に纏わりつき、離してなどくれない、遠くいつか見た過去の残滓。
私が目を離せないことを十分に理解しているシロは、座ったまま脚をゆっくりと伸ばしてくる。シロの脚が私へ近づくにつれて、着物の裾は少しずつ捲れあがり、肉付きの良い滑らかな太腿までが露わになっていく。
そして彼女の脚先は、次第に胡座をかいた私の股の間へと静かに分け入ってくる。とてもつめたく冷え切ったシロの脚先は、私の腐敗した腑へ突き立てられる氷柱のようで、それはおそろしく、心地がよかった。
「こうすれば温かいですから。大丈夫ですよ。センセ」
シロは春の陽に咲く、桜の花びらのような唇で薄く笑うと、つま先を私の下腹部へと押し込んできた。
その瞬間、私は我に返る。
「シロ。せっかくのお茶が冷めてしまうから早くおあがり。どれ。この雪景色にあったお茶請けを何か持ってきてあげよう」
私は逃げるように腰をあげると、彼女へ一瞥もくれずに台所へと向かった。
無様に暴れる胸の鼓動をやり過ごしながら、誤魔化すように台所の戸棚を覗いてみると、練り切りの寒椿が咲いていた。
シロはもう帰ってしまったかもしれない。そう思いながら菓子器を手に縁側へ戻ってみると、彼女は居住まいを正して雪の降り積もる庭を静かに眺めていた。そんなシロの横顔は冴えざえとして美しく、そして、溢れ落ちるような若さに満ちていた。
私が立ち止まったまま呆けたようにシロを見つめていると、その視線に気付いた彼女が柔らかく微笑む。
「雪に咲く椿の赤……とても綺麗。でも、すごく寂しい」
彼女は立ち上がって硝子戸を開けると、凍えた空気へ向かって「はぁっ」と息を吐きかけた。淡い唇から吐き出された煙のような白い息は、まるで彼女の魂であるかのように一瞬だけその場を漂い、未練も残さずに消えてしまった。
気がつくと、私は眠っていたようだった。最近では、昔のように遅くまで起きていられない事が増えてきている。茶托に乗せた湯呑みは二つとも空いており、寒椿も綺麗になくなっていた。
シロは帰ってしまったらしい。彼女はいつもそうだった。知らぬ間にこの家へ上がり込んできて、そして、知らぬ間に消えている。
そんな彼女へ、以前、尋ねたことがある。
「シロ。お前さんはここへよくやって来るが、いったい何処から来ているのだい?」
「そんなことをお知りになられても、意味なんてありませんよ」
シロはそんな私の問いを、歯牙にも掛けない様子で受け流す。
「そもそもお前さんは誰なのだ?私の知っている家の者なのか?」
シロが真面目に答えるとは思わなかったが、その顔色は見ておきたかった。
「真実が欲しいだなんて、まるで子どもみたいですよ、センセ」
しかし、シロは涼しい顔をしたまま、それこそ駄々っ子を諭すかのようにそんなことを言う。そして、お茶請けの金平糖を細い指で摘み上げると、小さな口へと軽く放り込んだ。そんな彼女の仕草は何だかとてもあどけなく感じられて、私はもうそれ以上を尋ねることはしなかった。
そんなことを思い出しながら、硝子戸の向こうへと視線をやると、雪は変わらず深々と降り続いていた。今年の冬は本当によく雪が降る。
正義とはある種の暴力であり、それを翳せば、必ず他の誰かが追い詰められる。己が正義が、万人にとって正しいとは限らない。
センセはそう仰っていました。
そんな正義を振りかざしたことのあるセンセは、己の非力さと矛盾を是とした世の中の欺瞞に失望し、すべてを諦めてしまいました。来る日も来る日も背中を丸めて、あの入側縁から外の世界を遠く眺めているのです。
諦念と無欲。
それがセンセの選んだ装いですが、限りなく本心に近い部分では、違う想いが燻っていることを私は知っていました。
可哀想なセンセ。
自分の思うとおりに行動しないだなんて、いったい誰に対する遠慮なのでしょうか。
本当に可哀想なセンセ。
だから、私が慰めて差し上げようとするのに、いつもセンセはするりとこの手から逃げてしまう。本当に困ったお人です。
でも、私は知っているのです。センセが本当は心の奥底では、それを期待しているということを。
どうしたって私たちにはわかってしまうのです。その瞳に。その吐息に。その指先に。すべては込められているのです。だって、捨てることはできませんし、逃れることもできないのですから。
本当に楽になる方法は捨てることではありません。皆さん、よく誤解をなされていますが、それは違うのです。
本当に楽になりたいのであれば、すべてを受け入れてしまうことです。あらゆる物事を、感情を、過去も未来をも、すべてを呑み込んでしまうのです。
一度腹に収めてしまえば、些細なことは気にならなくなるものです。
おや、ご存知ありませんでしたか?
手脚を伸ばして温まりたいという衝動から、私はこの雪の中を湯屋へと出向いた。すると、ご同輩はそれなりにいるようで、湯気の向こうには存外に人の姿がちらほらとあった。
中へ入って手早くひと通り洗うと、たっぷりの湯へ身体を沈めながら、手脚を思う存分に伸ばしてやる。寒さに縮こまった全身がゆっくりと弛緩していくのが感じられた。
私は大きく息を吐くと、わずかばかりの幸福感が身に湧いていることに気付く。人の一生とは、こうした小さな刹那の喜びを掻き集めなければ、形すら保っていられないものなのだと、あらためて思う。それは喜ばしいものなのか、悲しむべきものなのか、その捉え方で日々の生活は色味を変えていく。
しかし、理屈ではわかっていても、実感として信じることができないのが人間の業というものであろう。私も人間をやっている以上、その業からは逃れることができずにいる。湯屋の壁に描かれた壮大な富士が、決して実物以上にはなれないのと同じように、描くだけでは空想が本物になることはない。
全身がたっぷりと温まると、私は掛け湯をして浴室を後にした。そして、誰もいない脱衣所に鎮座している扇風機を独占すると、汗が引くまでの間、硝子戸の向こうで降り続ける雪を眺めていた。
肌を撫でていく、ひんやりとした風と、上気して火照る身体。舞い散る綿毛のような雪と、高く響く浴室の音。小さく脱衣所に流れるラジオの天気予報が、明日の降雪を淡々と伝えていた。
身体が熱を失わないうちに着替えて外へと出ると、来るときに付けたはずの足跡はすっかり雪に覆われてしまい、あたり一面、銀箔を塗り直したかのようだった。そんな積りたての柔らかな雪を踏み締めながら、私は自宅への道のりを歩きはじめる。
するとしばらくして、前の角から人が現れて私と同じ方向へ歩きはじめた。それは羽織姿に傘をさした女だったが、遠目でも、その後ろ姿には見覚えがあった。
「シロ」
私は少し声を張って、前を行く背中へ呼びかけてみたが、降り積もる雪に音が吸い込まれてしまい、彼女へは届いていないようだった。
女はそのままゆっくりと、しかし、確かな足取りで雪の中を苦もなく歩いていく。
私は少し歩みを速めると、彼女の後をついていった。私の屋敷へ来るつもりなのだろうか。そういえば、シロを外で見かけるのは初めてかもしれない。
そんなことを考えていると、女はひとつ先の角を急に曲がっていった。屋敷はまだ先だ。そもそも方向が違う。そこを曲がったら、いったい何処へ着くのだろうか。
私は俄然興味が湧いてきて、彼女の後に続いて角を曲がってみた。すると、女が次の角を曲がって行く後ろ姿が、一瞬ちらりと見えた。見失ってしまわぬように、私は更に足を速めて次の角へと急ぐ。
勢いよく曲がってみると、また見切れるように消えていく女の姿が少しだけ視界に入る。それはまるで付かず離れずの絶妙な間を測っているかのような塩梅で、そこには彼女の意図が感じられるような、そんな気すらしてきた。
私はどんどん進んでいく。彼女へと確実に近づいている。そんな確信を深めながら、幾つ目かの角を曲がると、突然、目の前に無機質な板塀が現れた。
行き止まりだった。
女は何処にも見当たらない。そんなはずはない。途中、他に道はなかったのだ。いったい何処へ行くというのだ。
振り返ってみると、雪道には私と彼女の足跡がしっかりと残っている。しかし、その足跡は、この角を曲がったところでぷっつりと途絶えていた。私は慌ててあたりを見回してみるが、あるのはただ、降り積もった雪ばかりで、ここに誰かがいたという痕跡すら見つけることはできなかった。
私は狐につままれたような心持ちで暫し呆然としていたが、ふと、ここが何処だかわからないということに気がついた。
こんな所へは一度も来たことがない。再び来た道を振り返ってみると、もう雪が私と彼女の足跡を覆い隠そうとしていた。さっきよりも雪の勢いが増しているようだ。私は失望を感じながら、来た道を戻って行く。
そして最初の角を曲がった所で私は自分の眼を疑った。ほんの数分だったはずなのに、既に誰の足跡もなくなっていたのだ。
何処をどう歩いたのか、自分でもさっぱりわからなくなった頃、私はようやく自宅へとたどり着いた。
せっかく湯を浴びて来たのにも関わらず、私の身体からは珠のような汗が噴き出していた。肩で息をしながら玄関の引き戸を開けると、部屋の中からほんの僅かだが、薄っすらと暖かい空気が流れてきた。
火鉢も炬燵も火を落として出かけたはずなので、屋敷の中は冷え切っていなければならない。私が訝しく思いながら廊下を進んでいくと、入側縁で火鉢にあたるシロの姿に出くわした。
「あらセンセ。おかえりなさいませ」
私の顔を見上げながら、シロは暢気にそう言って微笑んだ。
「シロ。おまえは先程、千人町の辺りを歩いてはいなかったか?」
後ろ姿だけだったとはいえ、私がシロを見間違えるとは思えなかった。煙のように突然消えたカラクリを聞き出してやろうと、私は勢い込んで尋ねてみる。しかし、
「千人町? 嫌ですよセンセ。誰とお間違えですか? 私はあの辺りへは今日は行っておりませんよ」
シロはそんな私の勢いを軽く往なすかのように、さらりとそれを否定した。
「いや、確かにいたはずだ。そうだ、羽織を見せてくれ。そうすればわかる」
「羽織なら、ほらそこに」
シロが視線で指し示した方向を見ると、そこへ羽織が掛けてあった。しかし、
「これは……」
その羽織は私が先ほど見かけた女の物とは別の柄をしていた。
「羽織がどうかなさいましたか? センセ」
シロが薄い笑みを唇に浮かべて目を細める。だから言ったでしょう?そんな言葉を今にも言い出しそうな、挑発的な気配を漂わせる。
「いや、なんでもない……」
では、あれはシロではなかったのだろうか。人は姿形の他にも、その所作や纏う空気など、様々な特徴を持っているものだ。そうした特徴を捉えたからこそ、私は先ほどの人物がシロだと確信したのであり、他人の空似や見間違いなどとは到底思えなかった。
「着替えてくるよ……」
私はシロから視線を逸らすと、腑に落ちない心持ちで自室へと向かい、汗と雪とで不快に湿った服を手早く着替えた。
それから縁側へと戻ってくると、シロが慣れた手つきでお茶を淹れていた。
「センセはよっぽど私の事ばかりお考えになられているのね」
シロはくすりと笑いながら、満更でもなさそうな表情をみせてくる。
「いや、あれは間違いなくおまえだと思ったんだがな……」
首を傾げながら座布団へと腰を下ろすと、シロが茶を差し出してきた。
「そんなに私のことを想ってくださっているだなんて、なんだかとても嬉しいですわ」
「しつこいようだが、本当に千人町へは行っていないのだね?」
鬼の首でも獲ったかのように喜色を隠さないシロの態度に、どうしても自分の非を認めたくない私は、つい食い下がってしまう。
「えぇ、本当に」
クスクスと笑いを堪えるシロの表情が、私に羞恥の感情を湧き起こさせる。
「センセ。お顔が赤くなってらっしゃいますけど、どうかされましたか?」
意地の悪いことを訊いてくる。私は無言のまま袂から煙草を取り出すと、手荒な動作で火を付けて、その煙を深く身体の中心へと吸い込んだ。そして、大きく息を吐き出しながら、宙空へと視線を彷徨わせる。仄かな温もりの広がる室内を、紫煙がゆっくりと絡み合うように揺蕩っていた。
あんまりからかうのも考えものだと頭ではわかっていても、そんな顔をされてしまうと、そう簡単にはやめられなくなります。もう少し、その照れるような歯噛みするような顔を眺めていたいと思ってしまう私は、底意地の悪い女なのかもしれません。
あの羽織の裏地をご覧になったら、センセはどんな顔をなさるのでしょう。謀ったと私を詰るでしょうか。むっつりと拗ねて黙り込んでしまうでしょうか。でも、どんな反応であったとしても、私は十分に楽しむことができそうです。
勿論、センセが後をついて来ていたことは知っておりました。いえ、と言うよりも、わざわざセンセの前へ出るように間を選んだのですから。
だって私が訪ねて行ったのに、呑気に湯屋へと行ってしまっているだなんて、あんまりじゃありませんか。このぐらいのおいたは許されて然るべきでしょう。
それと、センセが随分と気になさっているカラクリとやらについては、教えて差し上げるようなことはいたしません。それはいつか気付くものですから。
人に教えられて理解できるものなど、この世にはございません。苦しみ、血を流し、のたうち回った末に、ようやっと自分のものにできるのです。安易に答えにたどり着こうとしてはなりません。生きている間は、近道などございませんので。
あぁ、ゆらゆらとたなびく紫煙のなんと儚いこと。この刹那を、私はいつか失ってしまうのかと思うと、いつだって胸が苦しくなるのです。
雪の弱まるのを見計らって、煙草を買いがてら近所にある馴染みの蕎麦屋へと顔を出す。店内ではそれなりの人数の客が、各々蕎麦を手繰り、肴をつついては酒を呑んでいた。
こう寒いと、温かい蕎麦と熱燗が至高の贅沢になるものだ。私も先客たちに習い店主へと注文を告げる。しばらく塩気の効いた白菜の漬物を頬張りながら熱燗を舐めていると、熱々の湯気を立ち昇らせた鴨蕎麦がやってきた。
待ってましたとばかりに早速丼を持ち上げて汁を一口啜る。節の香る豊かな出汁と、甘みの強い鴨の脂が渾然一体となった旨味が口中に広がっていく。
たかが一杯の蕎麦に、気を抜くと刹那の幸福感が込み上げてくる。些細な出来事では到底満たされることのない底の抜けた空っぽの器。それが私のはずだった。
どんなに幸福という水を継ぎ足していっても、意識の暗闇が勝手に底を抜いてしまう。まるで水が溜まっては困るかのように幸福を目の敵にし、忌み嫌い、直視せず認めない。私の望む世界というものは、同時に、私にとっては実現しては困る世界なのだろう。
大いなる矛盾を自分で創り出し、その矛盾に踠き苦しむ。人生は悲劇なのかと思っていたが、その実、滑稽な喜劇だったという訳だ。
ぐい呑みを一気に呷る。急に酒が辛く感じられてきた。臓腑に滲みわたる温かさが、私の身体を蝕むように広がっていく。もっと酒が必要だった。私は追加の注文を店の奥へと向けて大声で告げた。その瞬間、店に居た他の客たちから不快そうな視線が向けられてきたが、私はそんなことには構わなかった。
どのぐらい呑んだのか、気がつくと私は家の前にいた。店を出る前あたりから、ここまでの記憶がない。玄関の引き戸を開けて、ふらつきながらも中へと入っていくが、頭はガンガンと激しく痛み、もう今すぐにでも横になりたかった。今日は寝床の布団を上げずにいたので、奥の間へ行きさえすればそれでいいはずだった。
しかし、襖を開けてみると、私の眼には上掛けからはみ出した白い腕が映っていた。
枕の横へ回り込んでみる。案の定、シロだった。
どういう経緯があったのかはわからないが、シロが私の布団に潜って眠っていた。
しかし、こうして無防備に晒されている彼女の寝顔は、なんだかとてもあどけなく、艶麗とでも言えそうな、いつもの危うさみたいなものがそこには見られなかった。
年相応の、と思って、私は彼女の年齢を知らないことに気が付いた。いままでにこの話題が出てきたことはなかっただろうか。どうにもよく思い出せなかった。
シロがあまりにも気持ちよさそうに眠っているので、私は他に寝る場所を探さねばならなかった。寝具はシロが使っているものしか用意がないので、私は仕方なく炬燵で半纏を被って寝ることにした。風邪をひかなければいいのだが。
次に気がつくと、いつの間にかシロが私の懐へ入り込んで、丸くなりながら寝息を立てていた。それはまるで気ままな猫のようだ。
時間を確かめようと首を巡らすと、窓硝子の向こうに降り落ちる、羽毛のような雪の華が見えた。空はただ暗く、夕暮れがとっくに過ぎてしまったことを教えてくる。
私はため息を吐くと、懐で蹲るシロへあらためて視線をやった。そして、眼前にある彼女の髪へと指を梳き入れる。
その水底のように深く蒼みがかった黒髪は、艶のある光沢を帯びて美しく、さらりと溢れるように流れていく。
そして、寝相を変えるのかシロが身じろぎをすると、彼女の匂いがふわりと立ち昇ってきた。初夏の果実のような、まだ青さの残る甘い香り。
それは私の胸を騒つかせる遠い昔の記憶。心を殺す普段の私の言い訳を、一瞬にして意味のないものへと変えてしまう、残酷で獰猛な欲望。他人の肉を貪り、己の血肉を喰い破る。
私は未だにこんなことをやっている。もう終わりにしたいはずなのに。
私はシロの背中に回していた右手を、ゆっくり下へと滑らせていく。熱く柔らかい彼女の曲線を掌に感じながら、私は身の内に湧き上がる興奮に息を詰まらせた。
彼女の肌の匂いが、湿り気を帯びた微かな吐息が、私の理性と辛うじて残った最後の尊厳を侵食していく。
わかっていたのだ。認めてしまえば、楽になれると。
センセがご自分から来られないことは知っていましたし、こちらから行けば逃げてしまわれるばかりなので、意地を張らず観念できるよう、それなりの状況を用意いたしました。
はてさて、センセはわたしの見立てどおり、とても素直でいらっしゃる。すべてを丸ごと飲み込んでくださりました。わたしにしては少し時間がかかってしまいましたが、進捗があったことは僥倖と言えるでしょう。
開き直ったセンセはとても情熱的にわたしを求めてきました。なので、わたしはセンセが欲しがるものを、少しも与えてあげませんでした。
その時のセンセの眼に浮かんだあの色といったら……。それはあまりにも甘美で、思わず身震いするほどでした。
裏切られて傷付き、困惑と恥辱に苦しみ身悶えする。そんな自身の不甲斐なさを、浅ましさを、まざまざと見せつけられて、あの方は心の底から思い知ったことでしょう。
ご自分がいかに醜悪かを。
あぁ、センセはなんと愛おしいのでしょう。
頭はぼうっとして、視界はゆらゆらと陽炎でも見るかのようにぼやけている。そして、意識は波のように寄せては引いてを繰り返す。
だが、そんな状態でもはっきりと思い出すことができた。あの愉悦に満ちた彼女の瞳を。果たして、あれはあんな女であっただろうか。私が彼女について知っていることなど、本当は最初から何もなかったのだ。
それどころか、私は自分という人間についてすら、何もわかってはいなかった。今の私は邪な欲望を成就させることに取り憑かれた、ただの肉塊にすぎない。
一度認めてしまえば元に戻ることはできないというのに、シロは私を弄ぶように煽っただけで、決してそれ以上を許さなかった。
「そういったことを、センセは否定されていませんでしたか?」
柔らかなその身体を弄る私の手を捕まえると、シロは侮蔑するように眼を細めながらそう言った。
「再びこの身に戻ってきてしまった。どうしようもないんだ。それに、これはお前の望んだことじゃないか。なぜ今になってそんなことを言うんだ」
「センセ、それは誤解ですよ。わたしはそのようなことは望んでおりません。わたしはセンセのあらゆる欲望に抗う、高潔なお姿を尊敬してやまないのです。己の独りよがりな情欲になど決して身を落とすことのない、鋼のような魂の在り方を見届けたいのです」
シロは甘く湿った吐息を洩らしながら、屹立した私をゆっくりと撫でる。そして最後に付け加えた。
「そして信じたいのです。人間というものの正しさを」
そんな物があるはずもない。シロはありもしない物を望んでいるのだ。人間にそんな物を望むことは罪だと言ってもいいだろう。
ありもしない正しさに、どれだけの人間が期待し、苦しんできたと思っているのだろうか。
当然、私にだってそんな正しさなどあるわけがないし、私自身が一度もそれを望んだことがないとでも思っているのだろうか。
身の内に渦巻く怒りと劣情が、大蛇のように大きく太く蜷局を巻いていく。しかし、それとは反対に、屹立していた私は、まるで口実を見つけでもしたかのように萎えていってしまう。
「センセ。そんなお顔をなさらないでください。そういう時もありますから。大丈夫ですよ。私はちゃんと存じております」
心の底から慈しむように発せられる、鈍痛にも似たシロの言葉。いったい、私はどんな顔をしていたというのだろうか。
シロは柔らかくなってしまったことを確かめるように、いつまでも指先でそれを撫で回していた。
そして、私は朦朧とした意識の中で、自分が酷く熱に冒されている事を理解した。
高熱による奇行と記憶の混濁。センセは先日の出来事を、そういうことにされたようです。
それは仕方のないことでございます。そうでもしなければ、きっと私の眼を見ることもできないでしょうから。
センセからあの日のことを口にすることはありませんでしたし、私からも特に何も申し上げませんでした。
ですが、私たちの関係は以前のものから変質いたしました。まず、センセは明らかに欲望を持て余すようになりました。絶えず熱を帯びた視線を私へと向け、落ち着かなげに忙しく煙草をお呑みになります。
これまでにも、一瞬だけその瞳に欲望の色を浮かべて私を見ることはありましたが、こうも絶えず熱心に情欲を向けられるようになると、なにか私自身が変わったかのような錯覚に陥るものです。
なので、私は以前よりも襟元をきっちりと揃え、帯が緩むことのないように細かく気を使いました。いまは肌をあまり見せない方が効果的というものです。
私の姿を認めた時、センセの期待が萎んでいくその様は、私にこの上ない悦びをもたらしてくれます。
その身の内に抱えきれないほどの欲望が満ちた時、センセはどうなってしまうのでしょう。
それを考えると、私は音もなく静かに濡れていくのです。
シロが何かを言ってくることがあれば、あの日のことはよく覚えていないと言うつもりでいた。しかし、彼女がその話題に触れてくることはなかった。
私は言い訳をする機会を失してしまっていた。それは想像以上に落ち着かないものであり、どうにか伝えようと何度か彼女の名を呼んではみても、最後にはみっともなく言葉を呑み込んでしまうばかりだった。
そして、それよりも問題なことがあった。屋敷にシロがやって来ると、反射作用のように見窄らしい欲望が頭をもたげてくるようになった。
無意識のうちに私は彼女の首筋や胸元、豊かに流れていく曲線に眼を奪われている。あれほど口の中で呟いていた言い訳は、どうやっても喉の奥から出てきてはくれない。
あの日以来、シロは私を警戒しているようだった。緩い断絶とでもいうような、見えざる薄い膜が我々の間には張られている。
そして私は、あの日のようにまた拒絶をされたらと思うと、どんなに欲望に突き上げられても、膜の向こうへ手を伸ばすことができなかった。
私は怖くなってしまったのだ。拒絶される。ただそれだけのことが。シロは私の眼に欲望と怖れの色を認めると、一瞬だけ口許に笑みを浮かべてみせる。
その微笑は、私の心を芯から凍らせるのと同時に、抗いがたい蠱惑的な魅力を多分に含んでいた。
私はもう、進むことも戻ることもできず、ただ、悶々とする他はなかった。
そんなある日、雪道を煙草屋から帰ってくると、屋敷の前でシロが男と立ち話をしていた。
雪曇りの空色と傘に隠れて、はっきりと顔を見ることはできなかったが、それは女の様に綺麗な顔立ちをした若い男だった。
男が何事かを口にすると、シロはコロコロと明るい表情をしながら笑う。その顔は、私の前では見せたことのない種類のものだった。
胸がざわりと波立っているのがわかる。
私はみっともなく嫉妬をしているのだろうか。
客観的に見てみれば、あの青年の方がシロの相手としては適切であろう。二人並んで睦まじく語らう姿は、何の違和感も感じさせない。
反対に、私とシロが並んで歩けば、おそらく、大半の人は親娘だと思うことだろう。私は自分がそこに引け目を感じている事にいまさら気付かされた。
私は薄汚れた情欲でもって彼女を眺めている。しかし、それはとうの昔に彼女に見透かされ、今はいいように嬲られるままだ。
あの青年はどうなのだろうか。シロとは寝たことがあるのだろうか。あの温かく柔らかい身体を抱きしめ、透けるように白く滑らかな肌へ指を這わせたのだろうか。その立ち昇る淫靡な匂いを嗅ぎ、纏わりつく卑猥な粘液に身を沈めたのだろうか。
いますぐに彼の胸ぐらを掴み、罵声を浴びせかけながら、それを問いただしたい衝動に駆られる。でも、きっとそんなこと出来はしないだろう。
私はこうして息を殺して、物陰から二人を見つめるしかない。彼らの間ではどんなことがやり取りされているのだろうか。私には知りようがない。
自宅の玄関先なのだ。堂々と歩いて行って、軽く挨拶してやればいい。それだけの話のはずだ。しかし、あの二人に姿を見られることは、とてつもない恥辱のように感じられる。
シロは彼に私の事を話しているのだろうか。だとしたら、どのように言っているのだろうか。
あぁ、私はもう、こうした煩わしい心の動きとは無縁になっていたはずなのに、いったいどうしたという事だろう。これではまるで、呑めぬ酒に悪酔いをする浅慮な若者のようではないか。
しかし、現実に私が重ねてきた年月を考えれば、この感情は悍ましさ以外の何物でもない。わかっている。私はもう恋慕の情に陶酔できるほど若くはない。自分自身でも気持ちが悪いのだ。
それはあまりにもグロテスクで、切り開いた臓物のように生々しく脈を打つ。そして、いつそこから腐臭が漂ってくるのか、私は恐怖に怯えながら、それでいて、どういう訳か期待をしていたりする。
私は本当に自分という人間の事がわからない。いや、正確に言うのであれば、私は誰のこともわからない。わかりなどしないのだ。
センセがもう少しで戻ってくることはわかっていました。なので、ちょうど通りかかったシンさんを捕まえておいたのです。
シンさんは、とある商家の旦那様が囲ってらっしゃる男妾だけあって、見た目の整った綺麗なお方です。わたしたちは似たところがあるようで、街中で顔を合わせれば、必ずと言っていいほど長話になるのでした。
ですが、今日は小降りとはいえ雪の降る屋外です。そう長くは話せないでしょう。なので、そういった意味では、ちょうどいいお相手でした。
わたしはシンさんと近況を伝え合いながら、チラリと曲がり角へと視線を向けます。あくまで自然に、様子を窺う素振りにならぬように。
すると、やはりセンセはもうお戻りになられていました。あの板塀の向こうに、センセの羽織が引っ込んで行くところが見えました。わたしとシンさんに気が付いたのでしょう。
そうとわかれば、あとは見せて差し上げるだけです。わたしは努めて明るく、楽しげにシンさんと言葉を交わしていきます。
そして、いつもより多く笑い、ひとつひとつの仕草も大きく大袈裟に演じていきます。きっとセンセは目を離すことも、逸らすこともできないはずです。
見れば傷付くのに、見ずにはいられない。そこに見出せるのは己の惨めな姿だけだというのに。憐れで可哀想なセンセ。なんとも愛おしいセンセ。
だからわたしは最後にシンさんへもたれ掛かってみせました。シンさんは人の心の機微をわきまえた方ですから、わたしを柔らかく受け止めると、静かに抱きしめてくださいました。
この場面を見た穏やかざるセンセの心中を想うと、わたしの身の内には止め処なく、何度も震えの波が湧き起こるのです。
辺りを一回りして来るか、このまま一部始終を見ているのか、決めかねてまんじりとしていると、男がシロから身体を離して別れを告げる仕草を見せる。
どうやら二人で屋敷へ入るようなことはないらしい。私は安堵に胸をなで下ろすのと同時に、どこか期待が外れたような心持ちを覚えて、空恐ろしくなった。
自分はここまで堕落してしまったのかと。
到底、認めることなどできはしない。できはしないはずなのに、諦念にも似た感情がその蟠りを許してしまう。なんと悍ましいことか。私は屋敷の中へと入っていくシロの姿を眺めながら、己の心持ちに嫌悪感が湧き上がってくるのをぐっと堪えた。
そして、自分が無性に煙草を吸いたいと思っていることに気がついた。私は袂へ手を入れると、煙草を取り出して火を付けた。吐き出す煙の先に雪の積もった自宅が見える。
シロはあの中で何を思うのだろうか。
雪の冷たさに足先の感覚が麻痺しはじめていたが、私はそこからしばらく動くことができなかった。
普段は訪問客の応対などしませんのに、今日は蟲が知らせたとでも言いましょうか、とても嫌な感触があったので玄関の戸を開けてみました。
やはり世の中というものは、好き勝手に生きることを何人にも許さないのでしょう。そこに立っていたのは、ニヤニヤとした薄笑いを頰に貼り付けた、身なりの良い男装の女でした。
私はこれが誰なのかを知っています。人は誰しもが、鉄の枷をその脚に嵌められて、先の見えない道程を彷徨い歩いているのです。そう、彼女は私に嵌められた鉄の枷。この様な私にも、世界は苦痛を与えることを忘れたりはしません。
「やぁ、シロ。久しぶり」
男装の女は軽薄な陽気さの混じる声音で、そう挨拶を述べる。
あぁ、これです。これは彼女の声に間違いありません。
「春ならまだ当分は来ないでしょう。いえ、ここに来るかどうかも怪しいものです。姉さん」
私はその鋭利な刃物じみた光を湛える彼女の眼を真っ直ぐに見つめ返しながら、努めて冷淡に応じます。
「はて、そうかな。私はもうすぐだと思うのだけれど。こんなにも匂いがするからね」
言って彼女は鼻をすんすんと鳴らしてみせます。
私は無言のまま、彼女を見つめる眼を眇めました。
「まぁ、いいか。シロ、お前もわかっているとは思うが、独り占めはいけないことだよ。それは大罪だからね。許されないことだ」
彼女は真っ赤な唇から、ぬらぬらとした舌先を少しだけ見せると、ニヤリと下卑た笑みを浮かべます。
あぁ、この恥ずかしい生き物が、血を分けた実の姉であるという事実が、私にどれだけの苦しみを齎していることか。
そんな苦々しい想いに、思わず唇を噛んだ瞬間、私は唐突に、そして猛烈にいまセンセに触れたくなっていることに気がつきました。
センセのその体におもいきり抱きつき、その立ち昇る欲望に湿った匂いを、胸が破裂するほどに吸い込みたくなったのです。
すると、眼前の彼女がその笑みを更に深めます。
「ほら。やっぱり春は近いじゃないか」
私は今日ほどこの姉を恨めしく思ったことはありませんでした。
小雪の舞う鼠色を引きつめた仄暗い空の下。小走りに煙草屋から戻って玄関の戸を引くと、そこに外套姿の山高帽を被った小柄な男の背中があった。更にその向こうには、見たことのないシロの渋面があった。
「シロ、お客さんかい?」
私はそうシロへ問いかけて、訪問者を牽制してみる。外気よりも凍てついたこの空気から、自分が何やら只ならぬ事態に遭遇したのであろうことは容易に察することができた。
「センセ、」
シロが言葉を漏らすのと同時に、男がゆっくりと振り返る。
「妹がお世話になっております、センセ」
そう言って私を見上げてきたその顔は、南方を思わせる褐色の肌をした綺麗な女のものだった。
「えぇっと……」
あまりの意外性に私が言葉を詰まらせていると、シロがため息混じりに呟いた。
「私の姉で、クロといいます。姉は礼節を弁えない下品な女でございますので、センセにご不快な思いをさせるに違いありません。構わずに中へお入りください」
頗る機嫌の悪いシロが口を尖らせてそう言うものの、自分としては言われるままに捨て置くわけにはいかない。
「まぁまぁ、どんな事情があるのかは知らないけれども、姉御に向かってその様な物言いは褒められたものではないだろう」
言ってシロを見やってから、その姉へと視線を移すと、クロと紹介された女は不敵とも妖艶とも形容しがたい笑みをゆっくりと浮かべた。
「話のわかる男性は嫌いではありません。愚妹も、もう少し柔らかいものの捉え方ができるといいのですが」
そんな彼女の全身をさり気なく一瞥する。その瞬間、私の胸中に沸き起こってきた感情は、なんとも滑稽で愚かしいものだった。
彼女のことを性的に値踏みして、爛れた情欲の断片を勝手に見出す。そして、彼女の笑みは自分に向けられた好意であり、彼女は自分に気がある、少なくともその可能性はあると、都合のよい解釈を平気で行って憚らない。
側から見れば気持ち悪いことこの上ないのだが、当の本人はそのことにまったく矛盾を感じていない。そんなことはあるわけがないと知っているはずなのに、その瞬間に違和感を覚えることがない。それはとても怖ろしいことなのだ。
こんなことからは抜け出したかったはずなのに、日増しに深みへとはまっていく。そして、それらを理解してもなお、私はクロと呼ばれた女の、凛とした美しい顔から目が離せなかった。
「寒いところせっかくいらしたのですから、中でお茶でもいかがですか」
疾しい心中を見透かされてはならぬと、誤魔化すようにそう促してみると、シロが眉を顰めるのがわかった。
「せっかくです。馳走になるとしましょう」
クロはチラリと妹を見てから、おもむろに山高帽と外套を脱ぎはじめる。すると、下から出てきた三つ揃い姿の身体は、秘された女らしさをかえって如実に主張していた。
それは倒錯した妄念を嫌でも掻き立ててくる暴力とも呼べそうなものだった。そして、露わになったその滑らかな首すじへ、帽子の中で纏められていた藍よりも深い光沢を湛えた美しい黒髪が、はらりと静かに流れていく。
そんな私の心中など見透かしているのだろう。クロは軽蔑するかのように薄い笑みを口元に浮かべながら、私を無言で見つめてくる。
その冷たい眼差しは、私に羞恥心を呼び起こさせるとともに、淡い快楽の予感をもたらしてくる。
私はもう末期なのだろう。何の末期なのかと問われると、明確に答えられはしないが、強いて言うなれば、人としての終わりを感じはじめていた。
もはや、これは人とは呼べぬだろう。いや、呼んではならない気がする。
その後、クロとは世間話や姉妹の子供の頃の話などをし、何事もなく初対面は終了した。
しかし、何事もなくと言ったが、それは表面上のことであり、私の心中は穏やかではなかった。
人としての終わりを自覚した私は、もう誰に憚る必要もなかった。そのことに気がついてしまったのだ。
私のクロを見る眼が、シロを見る眼が、あからさまに変わったことなど、二人とも直ぐに気付いたであろう。
理性のタガは、簡単に外れてしまいそうだった。しかし、抵抗する必要などないと思いながらも、その時はどうにか踏み留まった。
自分がこれ程までに恥知らずとは知らなかった。これ程までに飢えていたとは知らなかった。
あるのはただ鋭敏すぎるほどの感覚だけで、あとには何も残されていない。
湿り気を帯びた滑るような肌の柔らかさと、噎せ返るほどに濃密な情欲の匂い。
そのすべてを余すことなく飲み込み、それでもなお、求めて止むことのない底知れぬ渇き。それが私だった。
どんなに言い繕うとも、もはやそこに正しさなどなかった。すべては無駄なのだ。今の私には、なんの躊躇いも罪悪感もないのだから。
こうして両の眼を見開いていても、私には何も見えてなどいない。ただ、待っている。それが遠く内側からやって来るのを待っているだけ。
湧き上がるように、膨らみ破裂するように、それはもうすぐやって来る。
あぁ、この暗く濡れそぼった感動と、肉を食い破るように絡みつく喜びを、いったいどうすれば味わい尽くせるのだろうか。もう一滴たりとも逃したくはない。
この刹那を閉じ込めておけるのならば、私は悪魔にこの魂を売り渡すことも厭わないだろう。
あぁ、なんと美味いのだろう。お前はなんと美味いのだ。
それで私を満たしておくれ。
息もできぬほどに流し込んでおくれ。
彼女をこれ程までに憎く思ったことがあったでしょうか。センセの瞳を覗き込まずとも、何があったのかは察して余りあるというもの。
これまでわたしが時間をかけて積み重ねてきたすべてが、無残にも水泡に帰してしまいました。彼女の大して意味を成さない悪ふざけのために。
あぁ、彼女へ注ぎ込まれた鬱積し爛れた欲望は、どれほどの甘露であったことでしょう。それを思うと悔しさのあまり、知らず奥歯を力いっぱい噛み締めてしまいます。
しかし、センセに対するわたしの興味は、子供の飽いた紙風船のように、くしゃくしゃに萎んでしまいました。
心残りがないと言えば嘘になりますが、わたしが生き永らえる分だけを頂戴したら、お暇することにしましょう。
理想を手に入れるということは取りも直さず、他の一切を諦めるという事と同義なようです。どんな力を手に入れたところで、その原理原則からは逃れられないのだと、奇しくもわたし自身で証明してしまいました。
生命である以上、その営みは常に取捨選択です。どんな瞬間においても、選択を迫られるのです。そして、選択しなかった物を、選択できなかった物を、どうしたって忘れることなどできぬのです。
そして、ありえたかも知れない今日に想いを馳せて、夜毎布団の中で憂うのです。
センセも人間をお辞めになったところで、その苦しみから解放されはしないということに、早くお気づきになるべきでしょう。
生きている限り、何事かに心煩わされるのです。
この世界には、はじめから安寧などありはしないのですから。
眼が覚めると暗闇だった。灯りひとつない黒い闇。
遠くから雪が深々と降り積もる気配だけが伝わってくる。さっきまでシロがいたような気がしたのだが、どこにも温もりを感じられなかった。部屋は冷気に満ちている。
こうしていれば、きっとそのうち睡魔が訪れることだろう。寝返りを打ちながら、このまま明日など来なければいいと、ため息混じりに呟いてみる。
煩わしいすべてを考えることなく、深い眠りに身を任せたい。次に眼を覚ませば、きっとよくなっている。何もかもが変わっているはず。
気がつくと、そんな根拠も意味もない希望に縋っている自分がいた。
正直に告白すれば、諦念など仮面に過ぎない。しかし、そいつを自分にも被って見せなくては、続けてこれなかったのだ。そんな私を憐れに思うだろうか。
しかし、それが真実なのだ。
シロはもうやってはこないだろう。そんな確信めいた予感がある。すべてを彼女は持っていったのだ。私自身がすべてを彼女へ注いだのだから、至極当然の結末と言えよう。
「人間を辞めたい」
それだけが、今の私に残った最後の望みだ。
しかし、その言葉の意味するところは、もはや以前とは異なっているということに、私自身とっくに気が付いている。もう、我が身で春を感じることはないのだ。
だが、自分で終わらせることはできない。そんな勇気も度胸もありはしない。
かと言って、半端に生き残りたくはないのだ。簡単に苦痛なく終わってくれることを、只々願うばかりだ。
様々な感情が入り乱れる混濁した重油のような意識の中、私は再びゆっくりと瞳を閉じる。
もう十分なのではないか。
そして、もう眼を覚まさないで済むようにと、私は神へ祈ることにした。