2-44 殺人鬼の訪問
日が落ちた路地で男はダレスバッグを片手に馬から降りた。
いつもより重いそれを片手に、会見場から尾けて把握しておいた一件の集合住宅に入る。
娼婦たちが住んでいる事を把握していた男は漂う娼婦の匂いに怒りを募らせる。
下劣な売女と見下す相手の住む環境にわざわざ足を踏み入れるのは男にとって屈辱であった。
しかし馬鹿にされることはそれ以上に屈辱だった。
会見で知った風な口でこき下ろしたあの女の顔を思い返すとはらわたが煮えくり返る。
「殺してやるぞ売女」
そう呟いた男は周辺を一度見まわし、人がいないことを確認する。
ここらは低所得者向けの安い賃貸ばかりだ。それも主な対象は娼婦たち。
ならばこの時間帯は住人はほとんどいないはずだ、と男はあたりをつけていた。
夜のこの時間は娼婦の仕事時間のはず、と男は階段を上がり、彼女の部屋の前に立つ。
ドアの前に立った彼はポケットから瓶を取り出す。
セックスの前の準備をしている時、男は神に感謝していた。
普段は神を恨んだ、淫らな母の元に生を受けた事、何より自分の性があまりにも冒涜的である事。
だが氷魔法は他の属性と違い、人の拘束に適している。
人を拘束すれば、殺しがスムーズにいく。
父方の属性が遺伝してくれてよかった、と男は常々思っていた。そしてその点についてのみ神に感謝していた。
ダレスバッグを下ろし、魔法陣を展開した手を後ろに隠してノックをする。
しばらくしてドアが開かれるとテシーが顔を出した。
「レイ? 遅かったじゃ──」
男は彼女の顔に瓶の中の水をかけ、すぐに魔法陣を展開した手を向け呟く。
「glacies」
テシーが悲鳴を上げる前に彼女の顔に掛けられた水が瞬間的に凍結する。
上下の唇が張り付き、くぐもった声を上げた彼女を男は力いっぱい殴りつける。
彼女が倒れ込んだ隙に男はダレスバッグから球体上のものを取り出す。
手に持つとぶよぶよと形を変えるそれは動物の腸に水を詰めたもの──水風船であった。
氷魔法は水が無くとも問題なく使用できる。しかし水があればその威力は何倍にも底上げすることが出来る。
魔力から水を生成して氷を生み出すより、すでにある水を凍らせる方がずっと効率的だからだ。
男は水風船を倒れ込んだテシーの横に投げる。破裂音と共に部屋中に水が飛び散った。
彼女は突如現れた男の行動に混乱する頭で必死に考えた。
そして逃げる事を選択する。
一目散にドアへと駆けた彼女の髪を掴み、男は水たまりのできた床に引き倒す。
水たまりの上で暴れる彼女を抑えつけていた男の目の前に水が一滴落ちてきた。
不思議に思い天井を見上げると、そこにはしみが出来ており、水が垂れてきている。上の階の住人が床に水でも零したのだろう──男は深く考えず、呪文を紡いだ。
「glacies」
一瞬にして部屋中の水が凍結し、水たまりに背をつけていたテシーの体は氷で床に磔になる。
男は彼女が身動きできないことを確認すると、落ち着いた足取りでドアを閉めに戻る。
そして振り返って言った。
「待たせたねママ」
レイはベッドに寝転がりながら床の水たまりを見つめ、その時を待つ。
罠を張り、獲物が来るのをじっと待つその感覚に懐かしいものを憶える。
元の世界にいた自分も似たようなことをしていたのだろうか──そんなことを考えているレイをよそにエンディは胸当て、肩当てと順に装着していった。
そんな彼女の胸中にはまだ葛藤が渦巻いている。
このまま待ってていいのか。レイが教えてくれないならば、今すぐこの部屋を飛び出し、一つ一つ部屋を回って探すべきではないのか
そもそも彼女の顔すらよく知らない。それにもしそんなところを犯人に見られたらどうなるか、とも危惧した。
こちらは犯人の顔も把握していないのだ。彼女を襲う前に逃げられでもしたらまさに水の泡だ。
葛藤はしていたが、エンディはこの方法が間違っている事は理解していた。
人の命を餌に殺人犯を捕まえるなど決して許される事ではない。
「なぜ私を連れてきたんだ?」
険のある口調でエンディは聞いた。
レイは鬱陶しそうに言った。
「俺だって連れてきたくなかったさ。だがクワトロに会見する交換条件にお嬢さんを連れてけって言われたんでな。あの男には半端な嘘は通じないだろうし仕方なくだ」
「そうなのか……」
やはりクワトロにどのような考えがあるのか分からない、とエンディは籠手を嵌めながら終了した会話の後の気まずい沈黙に耐えられなくなり再度口を開いた。
「それで……いつ突入するんだ」
「まだだ。それと犯人の確保は任せたぞ」
唐突にそう言われエンディは「あ、あぁ」と答える。そして一抹の不安を覚える。
まずはテシーの安全の確保が第一だ、しかし犯人を殺さなければ彼女を救えなかったら──そんなエンディの不安を見抜いたかのようにレイは言った。
「犯人は殺すなよ。聞きたいことがある」
「それは、分かっているが……」
エンディは「勝手な奴だ」と呟いた。平気で人を殺す癖に、他人には殺すなと注文を付ける。それも自分についての情報を持っているかもしれないから殺すな、という事なのだろう。当の本人は寝転がってそんな不満は知らないといった風に床のコップを見つめている。
エンディはまたも沈黙が支配する空気に耐えられなくなり思わず口が滑る。
「なぁ……君は人を殺すことが──」
そこまで言って慌てて口を閉じた彼女をレイは怪訝な目で見つめる。
レイは今回戦う気はなかった。自分が戦わなくとも、このお嬢さんは強い。恐らくこの犯人に後れを取ることも無いだろう。
なによりこのお嬢さんはまだ誰も殺していない。そして殺しに恐怖を抱いている。犯人を間違って殺してしまう可能性は低いだろう。
どうしようもない場合のみ自分が戦えばいい。
「すこし黙っててくれお嬢さん。集中してるんだ」
「あ、あぁ……」
レイは水を眺めたまま動かない。黙っててくれと言われたエンディは大人しく床に三角座りをしている。
そこから一時間が経過した。しかしレイは未だ動く気配すらない。エンディの緊張と焦燥感が高まる。こうしている間にもテシーが襲われているかもしれない。
エンディはレイに何かを聞こうとしたが定期切な言葉が思い浮かばなかった。
それからさらに十五分が経過した時、レイが見ている水たまりに変化があった。
床の水たまりが凍ったのだ。レイはそれを確認するとベッドから立ち上がると言った。
「行くぞお嬢さん」
レイの台詞にエンディは伏せていた顔を上げた。




