2-37 行為のお誘い
テシーの家は集合住宅の二階だった。
若干ふらふらしている彼女を支えながら階段を上がったレイは代わりに鍵を開けて部屋に入る。
テシーは室内に入ると一目散にベッドに飛び込んだ。そしてここ数日感じていた疑問を口にする。
「貴方の目的は何?」
急に現れ、抱くわけでなく大金を渡してくる男。それだけでなく、厄介な客に絡まれた時は助けてくれる。
テシーには彼の意図は全く読み取れなかった。
レイは部屋の隅にある椅子に近寄ると、上に乗っている衣服をどけて腰かける。
少し早いかもしれないが、ここで言ってもいいかもしれない──レイは口を開いた。
「金が欲しいんだろ?」
「そうね」
「仕事をしないか?」
その言葉にテシーの目に警戒心が宿る。
「もしかして、同業者の引き抜きだったの?」
テシーは違う縄張りの元締めが街娼を引き抜く事があるのは知っていたし、それがトラブルの元になるという事も知っていた。彼女はそれならば御免だ、と答える。
レイはそれを否定するように首を振る。
「男と寝る仕事じゃない」
街娼に寝る以外の仕事を頼むなど明らかにおかしいとテシーは警戒心を強める。
「ヤバイ仕事じゃないでしょうね」
「別に法に反する訳じゃない。そうだな……騎士関係の仕事だ」
「もしかしてあなた騎士なの!?」
レイの騎士という言葉にテシーは驚いてベッドから上体を起こすと彼の姿を上から下まで眺める。
しかし彼女には彼の出で立ちが騎士には見えなかった。だが騎士という言葉が出た以上、また別の警戒心が彼女の中に芽生えた。
売春は非合法なのだ。今まで捕まっていないのも、騎士にお目こぼしされているからに他ならない。
レイはまたも首を振って否定するとタバコに火をつける。
「俺は騎士じゃない」
「だったらなんで──」
「何の冗談か、騎士の仕事に関わる事になってな……それで協力者を探してるんだ」
テシーは彼の要求を突っぱねた。
「残念だけど協力はできないわ。元締めに知れたら何をされるか──」
レイは手を上げて彼女の言葉を止める。
「報酬ははずむぞ。そうだな……まず前金で騎士一年分の給料を渡そう」
報酬の額に大きく目を見開いたテシーは「冗談でしょ」と呟く。信じられないといった顔をした彼女にレイは続けた。
「仕事が終わればもう一年分渡そう」
テシーは手元に入ってくるであろう騎士の二年分の給料と自分の日頃の稼ぎを比較する。
比べるも無く騎士の給料の方が多い。こんな仕事からもすぐに足を洗える額だ。彼女は心が揺らいだ。
「もちろん騎士関係の仕事だからな、至って合法な仕事さ」
とりあえず話だけでも聞こう、とテシーは身を乗り出した。
「それで……どんな事をするの?」
レイはそれには答えなかった。
「明日も街に立つのか?」
暫く考えた彼女は「立たないわ」と答える。レイは頷いて言った。
「明日前金を持ってくる。仕事を受けるかどうかはそれから決めて欲しい」
「べ、別にいいけど……」
テシーはレイが何をさせようとしているか分からなかったが、これまでの金払いを見るにきっと報酬の額も嘘ではないのだろうと思った。
もし元締めに知れたら──そんな危惧はすでに彼女の脳内で解決していた。それなりの金があれば、面倒になる前に逃げてしまえばいいのだ、と。
あまりにもうまい話だ。警戒する必要はあるが、当面は今の上古湯を楽しもう、そう思った彼女は部屋を出て行こうとするレイを呼び止めた。
ドアの前で振り返ったレイの目には彼女がドレスを脱ぐ姿が入ってきた。
衣擦れの音を殆どさせずに裸体になった彼女は背後からの月明かりで照らされている。
元バレエダンサー志望というだけあって彼女の体は引き締まっていた。当時よりは脂肪がついているのだろうが、つんと張り出した乳房に引き締まった腰、手入れのされている下半身は男の劣情を誘うのに十分だろう。
自身の体に視線を向けている黒い瞳に彼女は言った。
「これだけ払ったんだから一回ぐらいヤっておかない?」
テシーは自分の行動と言葉に驚いた。彼女は怪しい話を持ち掛けていた男を信頼し始めていたのだ。
客との間に私情を持ち込むな──それが娼婦の鉄則である。
その事は彼女もよく理解していた。しかし彼の瞳──闇よりも深い黒の瞳で見つめられ、話しかけられると思わず彼を信用してしまう。
レイはそんな彼女に微笑みかけると言った。
「やめておこう」
その言葉にテシーは落胆した。ここまでして抱こうとしない男はいなかった。それは彼女の女としてのプライドを気付付けたし、自分がとても惨めに思えてしまう。
別れの挨拶をしてドアから出て行った部屋で彼女はベッドに腰をおろし天井をおあぐ様に見つめる。
しかし唐突にドアが開かれ、出て行ったレイが顔を覗かせた。
「お誘いは全部終わった後に受けるよ」
そう言って片目を閉じたレイにテシーは笑う。
「しょうがないわね。待っててあげる」
レイはそんな呆れたような声を聞きながら今度は本当に彼女の部屋から出て行った。
レイは彼女の部屋を出た後、首尾は上々だとばかりに薄く霧がかかった夜の空気を胸いっぱいに吸いこんだ、
冷えた空気を全身で感じたレイは冷めてきている酔いをどうしようかと悩む。
体感では夜はだいぶ深い──飲みなおそうと決めたレイはハリティのいる酒場に向かって歩き始めた。
酒場から光が漏れていたため、まだ営業中だということが分かったレイはドアを押して中に入る。
酒場にはまたしても客が誰一人いなかった。前回と違うのは、テーブルやカウンターにはグラスや皿が乱雑に放置されている事。
しまった、とレイは思った。店じまいの時間か──帰ろうかとしたレイをカウンターの奥から顔を出したハリティが呼び止めた。
「あら、こんな時間に飲みに来たの?」
「まぁな……もう店を閉めるのか?」
「一杯ぐらいならいいわよ」
ハリティの言葉に甘え、カウンターに座ったレイに彼女が聞いた。
「飲んできたの?」
「そうだ、よく分かったな」
彼女は鼻をくんくんと動かして「鼻が利くのよ」と言った彼女にレイは注文する。
「取り敢えず──いつものを頼むよ」
「いつもの?」
「酔えるやつ」
ハリティは笑って答えた。
「アルコールが入ってればなんでも良いのね」
「その通り」
彼女は慣れた動作で昨日と同じ酒をレイに振舞う。
「一人で店を回してるのか?」
ハリティはカウンターの上に散乱する食器類を片付けながら答える。
「いいえ、もう一人いるけど……今日はお休み。店長もいるけど基本的に厨房から出て来ないわね」
レイはカウンターの奥にある厨房に人の気配を感じて「ふぅん」と頷いた。
店の散らかりようを見ると、先ほどまでは満員だったはずだ。かなり忙しかっただろうにハリティはその事をおくびにも出さない。
彼女は感心しているレイに聞いた。
「それで──娼婦でも買ったの?」
その質問にレイは目を丸くした。
「なぜだ?」
誤魔化したレイにハリティは当然と言った顔をした。
「娼婦がつけているような香水の匂いがしたから」
「分かるのか?」
ハリティははまた鼻をくんくんと動かした。
「言ったでしょ、鼻が利くのよ」
その答えにレイは「恐れ入った」とおどける。
「だが買っちゃいない」
「ほんとに?」
なおも怪しむ彼女にレイは堂々と言った。
「こっちに来てから俺の体は清いままさ」
「なにそれ」と笑った彼女を横目にレイはグラスの中身を飲み干す。
そしてハリティに礼を告げると硬貨を置いて店を出た。
先程より濃くなっている霧の中でレイはポツリと呟いた。
「それに……餌に手を出す奴は三流だ」




